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最終話「エピロ〜グ」
1999年8月9日00:00 アラスカ アップルゲイツ
けたたましくベルの音が寝静まった田舎町の静寂を破った。
この夜、不運にも当直勤務にあたってたデイヴィドは舌打ちをして机の上の受話器を取った。
「デイヴィドだ。」この時間はいつも極地救護センターの職員からと決まっている。
こないだのカードの負けをそろそろ精算せねばならないなと妙なことを思い出した。
近年にない異常冷夏の中、猛吹雪に見舞われたアップルゲイツ北西山間部の街、
ポリタンタウンにある診療所のデヴィド・スタコラスキー医師のもとに知らせが入ったのは8月9日に日付が変わろうとしていた時だった。
「ああ、デイヴィド?リックだ。助けてくれ…急患なんだ。」
意外なことに電話の主はユーコン川流域一帯を管轄するリック・スゥエンセン警備隊長だった。
「パトロール中にラムダブラの岩棚の麓で発見、遭難者らしい…東洋人…酷く衰弱している…軽い凍傷で、…意識は無いがまだ息がある」
無線機経由なのでブリザードのせいか会話が途切れに入ってきた、耳障りなノイズ混じりの中、遠くの仲間から報告が聞こえた。
「まって、・・・どうやら日本人らしい」スゥエンセンが繰り返した。
「ほぅ、そいつあ珍しいな」極寒地であるアップルゲイツでは無理な登山家や冒険家たちが遭難の危機に見舞われることはよくあることだった。
「…そちらに搬送するので…今から診てもらえないか?」
「ひょっとして、例の日本人観測隊じゃないか?その男」デイヴィドは急いでメモ用紙とペンの入ったトレイを引き寄せた。
「かもしらん、側にいた犬も二頭保護した。…だとしたら大変だ。他にも…遭難者がいるだろう」
スゥエンセンの声が遠くなったり近くなったりに聞こえた。

ものの15分ほど経っただろうか、表に重苦しいエンジンの響きが小さな平屋建ての診療所を揺らした。
コーヒーカップを置き、慌てて外套に袖を通すと、デイヴィドは乱暴にドアを開け、廊下を走った。
二重になったスチール製の重いドアを開けると、雪混じりの寒風が一気に吹き込んできて髪の毛にまとわりついた。
警備隊の車の暗い後部ハッチが開き、中からゆっくり担架が運び出されてきた。
深い雪に足を取られ蹌踉めきそうになりながら、隊員たちが近づいてきた。
「外傷は?」デイヴィドは近づいて行きながら、担架を運んでくる隊員に向かって叫んだ。
「見たかぎりはありません」すぐに簡潔な応えが返ってきた。
「瞳孔は正常ですが呼吸が弱く弱拍、心拍数も落ちています」あわてて隊員が付け加えた。
「発見した時には呼吸がほぼ止っておりました」
黙って頷くとデイヴィドは見知らぬ患者の青白い顔にかかった雪粉を払ってやった。
二条のヘッドライトが揺れながら敷地内に入ってきた。停止するやいなやスゥエンセンが飛びだしてきた。
「ひどいな今夜のこの天気は」大股でデイヴィドに近づくと、肩を叩いた。
思い出したようにスゥエンセンが振り返り、後から来た車に叫ぶ。
「ラムダブラの岩棚附近の捜索を続けてくれ、他にも生存者がいるかもしれない。ここらを徘徊している灰色熊には気を付けろよ」
隊員はキビキビとした返答し、スゥエンセンに尋ねた。「あの、犬はどうしましょう?」
「ああ、降ろしてやれ、それどころじゃないが診療所に連れてこい」スゥエンセンは承諾を求めるようにデエヴィドの顔を見ると、
彼は、仕方なかろうとばかりに笑って小さく頭を振った。
間もなく綱を引いて隊員が毛足の長い二頭のハスキー犬を連れてきた。
隊員が引っ張られながら患者の後を慕うように診療所のドアの向こうに吸い込まれていった。
「おい、待合室に繋いどいてくれ、診療室は駄目だ」
とって返して隊員がそれを報告すると小走りで車に乗り込み大きくUターンを試みた。

緩やかにヘッドライトが回頭していき、スゥエンセンの赤い髭面を浮き上がらせていった。
「やっぱり日本の極地観測隊の遭難らしい、一昨日から隊と連絡が取れないらしいんだ」
「随分変わったお客さんを連れてきたね」一度身震いをするとポケットに手を突っ込んだまま二人は担架の後を追って診療所に入った。

診察台に乗せられた男の患者は、恐ろしく疲弊していた。遭難者を見慣れているデイヴィドでも一瞬戸惑いを見せた。
血の気が失せ痩せこけた青白い顔に額に貼り付いた短髪、呼吸のためにかすかに上下してる胸を除けば、
とてもこの男が生きているとは誰も思わないだろう。
「…こりゃぁ思ったよりひどいな、まるで氷のようだ」
犬たちも主人の危険な容体を察したのか待合室からクンクン鳴く声が聞こえてくる。
外套を急いで脱ぎ捨てながらディヴィドが口を開くまでにずいぶん時間がかかった。
スゥエンセンに手を借りて患者の凍てついた上半身の服を脱がせると、
小さく日の丸の縫い付けてある防寒ジャケットのポケットからビスケットの欠片がこぼれ落ちた。
今すぐにでも止りそうな心臓をマッサージし、酸素吸入を施した。
昇圧剤を注射しようとしたのだが凍てついた腕に奮闘を余儀なくされた。
血圧や心電図を見るための機械を取り付け、真剣な眼差しで患者の容体に復調の兆しが見えないかを探っていた。
懸命にマッサージを繰り返し、とにかく体温が戻るようにあらゆる方法を試みた。
凍傷は思ったより軽く、必要な処置をすべて施すと厳しい顔つきのまま先程の吹雪でボサボサになった髪をなでつけた。
部屋の片隅で腕組みをしたまま無表情のスゥエンセンは黙ってそれを見守っていた。
「うーん、仮死状態ってやつだな」沈黙をやぶってデイヴィドが呟いた。
スゥエンセンは眉を釣り上げて肩をすくめただけだった。
「それにしてもこんな状熊でよく生きていたな。アップルゲイツには連絡は?」デイヴィドは彼を見た。
「今、ヘリを要請しているところだ、しかしこの通りの天候じゃおそらく無理だな。飛びたがらないだろうよ」
スゥエンセンは診療室の窓辺に行き、吹雪に埋もれた裏庭を眺めた。
「いずれにせよ、ここには適当な設備が無い。君の方で搬送の支度をしてくれないか」デイヴィドはスゥエンセンを振り返った。
「もちろんだとも、こちらはいつでもいいぜ」外套を着込んだままのスゥエンセンは拳を胸元に挙げてみせる。
「出来るだけやってはみたが、本人が体力を回復してくれないと、ここでは手の施しようが無いな」
ガスヒーターの送風音だけが言葉重たげな室内に小刻みに響いていた。
スゥエンセンのポケットに入っていた無線機から着信を表すベル音が聞こえてきた。
大股で部屋を出るスゥエンセン、ドア越しにくぐもった声がすぐに残念そうな口調に変わっていった。
荒々しくドアが開いて赤髭の大男は、顔まで怒りで紅潮して赤くなっていた。
「まったく奴等は腰抜けばかり揃えやがって、給料泥棒め。もうしばらく様子を見させて欲しいとさ」
むくれた面持ちで戻ってくるとスゥエンセンは、どっかと椅子に腰を降ろすや矢継ぎ早に呪いの言葉を吐いた。
患者は相変わらず意識が戻らず、体温がやや回復しただけで依然として危険な状熊だった。
「かえって悪戯に動かさない方がいいかもしれないな」屈みこむようにして患者の容体を診ていたデイヴィドが顔を上げた。
「では、もう少し様子をみますか…」溜め息をついてスゥエンセンは、車で待機している隊員に診療所の中に来るように窓から指示した。
間もなく二名の隊員が雪を払ってやってきた、「連絡があるまで待機だ。待合室で犬の面倒見て静かにさせといてくれ」
心配なのだろうドアが開くと揃って犬が鳴き始める。
自分たちが救出した遭難者の容体が気になるのか診察台を覗き込みながら隊員の一人がスゥエンセンに尋ねた。
「あの、さきほどの人は大丈夫なのでしょうか?」
「ん?わからん。予断を許さない状熊だということは確かだ」
隊員は無言で敬礼をすると振り返りながらドアの向こうに消えていった。
スゥエンセンの無線機がまた音を立てた。無言で診察室を出ていくとしばらく戻ってこなかった。
ようやく返ってきたスゥエンセンの顔には嬉しそうな笑みが溢れているのが見て取れる。
「やったぞ!ヘリが飛ぶってよ、あと30分もすればくるだろう」スゥエンセンが親指を立てて笑った。
「ほぅ、そりゃ良かった」デイヴィドも思わす立ち上がった。
「だが、悪い知らせもある。今夜の捜索は打ちきりだそうだ。
遭難者には悪いがこの吹雪じゃ山間部は視界不良で捜索しても埒が明かんだろう」
「それは、まあ仕方がないな」この猛吹雪に晒されているかもしれない遭難者のことを思うを震えが来る思いだった。
ヘリが到着するのは早くともあと30分はかかる。
凍傷には急激な温度変化は禁物だ、デイヴィドは慎重に室温を設定し直していた。
「だけどこりゃえらい事になったよな」唐突にスゥエンセンが口を開いた。
「なにがどうしたって?」疲労困憊といったふうにデイヴィドは目を上げた。
「やっぱり日本の観測隊だったよ、隊員が身元を調べててバッグの中からこれを見つけた」
顎で診察台を示すとポケットから認識章を取りだして掲げた。
「残りの隊員はどうしてるんだろ」机に凭れるとデイヴィドは腕時計に目をやった。
「わからんが、どうみてもこの男一人と犬二頭じゃないだろ。ワシントンでは大わらわらしい」スゥエンセンは鼻を鳴らした。
「国際問題か、」それには興味が無さそうにデイヴィドは患者を見つめた。
定時計測を行なった結果、やはり患者の容体は依然思わしくなかった。
心臓が動いているのが不思議なくらい呼吸も弱く、血圧も脈拍も落ちている状熊だった。
敗血症を起こしていないのがせめてもの救いだった。
「ヘリが来るまではどうにもこうにも手の出しようが無いな」立ち上がると頭を振ってデイヴィドは呟いた。
疲れた目で患者を見ていたデイヴィドの脳裏を或る考えがよぎる。きっと今回の経緯をこの男が知っているに違いないと思った。
例えば、他の観測隊員はどこかに固まって難を逃れており、この男が救援隊を呼びに出たのかもしれない
あるいは、例えば事故や雪崩れなど不測の事態で散り散りになっていたとしても、場所のおおよその見当はつくだろう。
せめて意識だけでも戻ってくれれば、他の隊員の安否がわかるかもしれないと期待が膨らむ。
運び込まれてからどのくらい時間が経っただろうか、机の置き時計の針は間もなく午前三時を指そうとしていた。
また悲しげに犬たちの鳴く声が診察室まで聞こえてきた。
「きっとこの男の匂いがするんだろうね。さて、コーヒーでも淹れようか」そういってデイヴィドが立ち上がろうとした時、
何気なくふと目をやると真っ白だった患者の顔が少しだけ赤身を戻していた。 咄嗟に思わず患者の脈拍をとるデイヴィド、ほんの少しだけ脈が強くなったように感じられる。
身じろぎもせずに椅子に腕組みをしていたスゥエンンセンも、その様子をみて立ち上がった。
「回復したのか?」椅子を引き寄せて診察台の脇に腰を降ろした。
「いや、まだかなり厳しいと思う」そうデイヴィドが言おうとしたのだろう。
だがその時、診察台の患者の口が動いたような気がした。かすかな兆候に二人は色めきだった。
「シー、ちょっとまて、いま何か言わなかったかい?」デヴィッドは口に指を当ててスゥエンセンに黙るように示した。
酸素吸入機の透明なノズルの中で患者がまた魘されて、無意識のうちに何かを言おうとして口が動いた。
デイヴィドは患者の枕の位置を直し、ノズルを外して耳を澄ませた。
さっきよりも明瞭な声が聞こえてきた。
「どういうことだ?なんて言ってるんだ?」真面目な顔つきでデイヴィドは顔を上げた。
意識は戻っていないが譫言を必死で紡いでいるように思えた。悲惨な遭難事故だ、たとえどんな些細な情報でも欲しかった。
デイヴィドは患者の耳元で話しかけてみた。「何を見たんだ?極寒のこの大地で君はいったい何を見たんだ?」
再び患者が囁くほどの呻き声をあげた。今度はスゥエンンセンが尋ねて耳を近づけた。
「おい、あんたはどこから来て、どこに行ったんだ?そしてどこに居たんだ?教えてくれ頼む!」
しばらく聞き耳を立てていたスワンセンが思わず吹きだして、デイヴィドを振り返った。
「なにか聞こえたのか?彼は何て言っていた?リック」左手に持ったメモ用紙の束を突きだした。
「Oh yeah! cool, so cool って、なにかいい夢でも見ているんだろうよ。この男の単なる夢だよ」
デヴィッドの真剣な顔に遮られ慌てて声を潜めた。
「今はあまり無理しないほうがいいな、意識がいずれ戻るかもしれないし」血圧計に目をやり、また患者の容体が不安定になり顔を顰めた。
「もうすぐヘリが来るから頑張れ!」また呼吸が不規則にそして浅くなり非常に危険な状熊だった。
ミケくんは意識の暗黒の世界を彷徨い、幾度も寝言のように繰り返していた。遠くから皆の声が聞こえる。
立ち上がるとスゥエンセンは診察台に横たわるミケくんの真似をして微笑んだ。
「オ…ヤ…ク…ソ…ク…・・」
それがまるで聞こえでもしたのか満足気に微笑むと、
忘れもしない母の歌う子守歌に揺られるように、ミケくんはふたたび長く深い眠りに落ちていった…



どうもありがとう
一生を棒に振った指揮者


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