芸夢のジカン


1 〜スタートボタン探して〜

 アイドル。
『偶像』という言葉を本義とする、今はその才能をもって世間の耳目を一身に集め、活動する存在を指す言葉である。
 歌という形で表される、歌唱力を武器とするもの。
 ダンスにという形で表される、表現力を武器とするもの。
 顔や容姿など、その外見的特徴を武器とするもの、等々。
 その才能の持つ意味は幅広く、奥深い。
 だからこそ、面白い。
 だからこそ、価値を持つ。

 ―そんな世界に挑む少女がここに、また一人―



「うーん……」
 手にしたエントリーシートとその応募者を交互に眺めながら、プロデューサーは唸っていた。
 目の前には応接用の椅子に座りつつ、携帯ゲーム機に興じている少女が居る。両端がやや丸みを帯びている、ピンクとイエローのツートンカラーのそれだ。
「よっ…いまだ、えいっ! …あー、やられちった。もう一回!」
 失敗という形で区切りがついたはずのミッションを、ものともせずコンティニュー。
 振り出しに戻る。
 そんなテロップを貼り付けたくなるほど、変わらない光景。
 自己PRを求めて十分余り、こんな光景が続くとは思ってもいなかったのだ。
 しかし少女の耳目は携帯ゲーム機に向けられていて、そんなプロデューサーの様子を気にする素振りもない。
(どうしたもんかな、この娘)
 なかなかの図太さだと感心する一方、この態度を由としていいものかという迷いから来る逡巡。
 彼が預かっている採用不採用の天秤は、ふらふらと動き続けて定まらない。
 この時点での評価には、芳しからぬ部分が間違いなく存在するのだ。それも仕方の無い態度だが。
 しかし、それでも、目が離せない。何故だかは分からないが。
 その『何故』という問いへの答えを探すために、彼は観察を続ける。
 その娘の、一挙一動を。



「ふぁ〜あ、よく頑張ったわーあたし」
 携帯ゲーム機を頭上高くに掲げながら、彼女は大きく息を吐いた。
 どうも本体のバッテリーが尽きるまで、連続してプレイしたことが『頑張った』の正体らしかった。
 伸びから戻って目を見開いたその瞬間、プロデューサーと目が会った。
 合わないわけがなかった。
 彼は彼女の眼前にまで、近づいていたのだから。
 目鼻の先まで近づいても、彼女は気付かなかったのだ。
「面白かったかい?」
 プロデューサーの目から見ても、血の気が引いたことが窺えた。声には出ていなかったが、そのまま『あーっ!』とでも叫んでいた方が自然な表情だったのだから。
「う、うん。ゲームはいつでも面白いのねっ」
 プレイ中とは打って変わって、ガチガチに固まりきった表情と言葉。
 思い出したのだろう。ここに自分が、何をしに来ていたのかを。
 アイドルになるべく、芸能プロダクションの戸を叩いたこと。
 その面接の場だったことを……。
「確かにそうだね。人目も憚らず打ち込みたくなるゲームって、あるんだよな……」
 プロデューサーの脳裏に、ゲームセンターで過ごした時間のことが蘇る。一枚のコインに命を賭け、人目を憚ることなく画面を食い入るように見つめ、耳目の総てを画面の一挙一動に集中し、自分と画面内のキャラクターとを一体とするように振る舞い続けた日々が。
 プロデューサー言葉に対してうんうんと頷く彼女の表情は、ゲーム中のように明るかった。
 表情と感情が明け透けに連動する娘なのだろう。
「……まぁさておき、面接の結果なんだけど」
 ゲームを始めた辺りから観察し続けて、確信する。
 今また一気に暗くなった表情が、その胸のうちを告げているようだ。
 ただ、プロデューサーを見つめている。
「うぅ…始まる前からゲームオーバーだよぉ…」
 目尻に涙を浮かべて。
「採用」
「ありがとうございました……って、え、ええっ!?」
 沈鬱なぼそぼそとした声が、途中からあからさまに上擦った。
「もう一回言おうか。採用だよ」
「あ、ありがとうございますっ! でも……いいの?」
「いやほら、最初に言ってたじゃない君(きみ)『あたしはガチのゲーマーなのね』ってさ。そのPRに嘘偽りがないのは分かったし。それに……」
 もったいぶって、叔母と言葉の間にタメを作る。
「それに?」
 そんなプロデューサーの振りに、身を乗り出すように答える。
 この瞬間、プロデューサーが一番待ち望んでいた反応(答え)だ。
「芸能界で成り上がっていくゲームで、勝てそうな気がするんだよ。君とならね。ああ、もうアイドル候補生として採用するんだから、君なんて他人行儀な言い方はしない方がいいかな。……三好紗南ちゃん。いや、これは砕けすぎか。紗南さんでいいかな?」
 三好紗南。それが彼女の名前だ。
「あたしのことは紗南でいいよ! えっと……」
 きょろきょろと辺りを見回すが、生憎とその辺りに求めている答えは転がってはいない。だから、己が口を以て告げるのだ。
 その有り様こそが、呼び名だと。
「プロデューサー、でいいよ」
「じゃあプロデューサーさんで! 年上だから!」
「それでいいよ。それじゃ……今後ともよろしく、紗南」
「ヘヘッ、今後ともよろしく、プロデューサーさん」
 がっちりと握手を交わす。
 小さく柔らかい手だが、指先は少しばかり固いようだった。
「なるほど、手も嘘を吐かないもんだな……」
 重ねた手から、コントローラーの面影が伝わってくるようだ。
「えっ、どういう意味?」
 掲げた看板に偽りなし。
 だからこそここからは、自分の責任の範疇でもある。
 それを生かすも殺すも、自分の手腕次第なのだと。
「大人になると分かる事もあるって事で。それより……どうだい?」
 握った手を放すと、背広の内ポケットに手を入れて、何かを取り出して見せた。
「プロデューサーさんもやってるんですか、それ!?」
 それは先程まで紗南が遊んでいた、多人数でのプレイが推奨されているアクションゲームだった。無論、ハードウェアも同一機種だ。
「忙しいからがっつりやり込めてはいないんだけどね。下手な自己紹介なんかよりこっちの方がお互いに、よくわかり合えるんじゃないかとね」
 キラキラと輝く瞳。
 その期待に満ちた眼差しが、答えの正しさを証明してくれている。
「ヤッター! ……ってそういえばあたしの、バッテリー切れちゃってる……」
 途端に曇る瞳。
 なんにせよ彼女は、ストレート。
 この事は胸に刻んでおこうと改めて思いながら、再度胸ポケットに手を入れる。
「はい。あと三十分から一時間くらいは動くと思うよ、それで」
 充電式の外部バッテリーチャージャーだ。
「これをここに刺して……と。せーの、スイッチオン!」
 輝く液晶のバックライト。
 立ち上がる携帯ゲーム機。
 それは、始まりの瞬間だった。
 ゲームだけではない。
 プロデューサーと、アイドルとしての時間も。
 今、ここから。



 彼女―三好紗南が夢見て、探したスタートボタン。
 夢を叶えるためのゲームの、始まりを告げるもの。
 それが、プロデューサーと呼ばれた彼の役割。
 同じく、夢を見るものの。



2 〜マイクに向かって叫べ〜

 紗南をアイドル候補生として迎えて、一ヶ月後。
「紗南はどうですか?」
 プロデューサーはレッスン場を訪れ、トレーナーに尋ねた。
 いかに素質があろうとも、即そのままで通用するほど甘くはないこの世界で生きていくためには、それ相応の準備が必要なのだ。
 アイドルとして、その力を備えさせる作業―それがレッスン。
 一ヶ月間トレーナーに預けてレッスン漬けにすることで、その能力や資質を見極める。それが彼の、今まで通りの遣り方だった。
 無論、今回も違(たが)うことはない。
「集中力が凄いですね。ダンスやビジュアルのレッスンで特にそう感じますよ」
 面接で見立てた通りの結果に、にんまりと笑わずにはいられなかった。
「そうでしょうそうでしょう」
 結果に結びつく功績を挙げられなければ、プロデューサーという役職背負い続けることは出来ないのだから。
「……ただ、少しばかり問題が……」
 そんな自慢げな空気を漂わせ始めた彼に、トレーナーが冷や水そのものと言っていいような言葉を注ぎこむ。その刹那真顔に戻っては、そのまま黙り込むプロデューサー。
 これもいつものことだった。彼が担当してきたアイドルは、例外なく一癖も二癖も持っていた。だから彼女が例外と思うほど、彼は楽観主義者ではない。
 目を合わせて、無言でその先を促す。
「……おほん」
 咳払いのあと、トレーナーが言葉を繋ぐ。僅かだが、頬を紅潮させて。
「ボーカルレッスンが、あまり上手くいかなくてですね」
「もしかして、音痴ですか?」
「そういうわけではないんですが、えーっと、なんて言えばいいんですかね……最初のうちはいいんですけど、だんだんとズレが大きくなっていく……って感じなんです」
 そこまで深刻な口ぶりではないことに安堵するも、それだけに逆に何とも微妙な気分にさせられる。小魚のトゲがノドに刺さった感覚、とでも言うべきか。
「ふむ……」
「お時間があるようでしたら、見ていってくださると助かります。何か分かるかも知れませんから」
「分かりました。レッスンはいつも通りにお願いします、トレーナーさん」
「はいっ」
 張り切っていることが、声のハリからも伝わってくる。
「トレーナーさんがいつも一生懸命やってくれるから、私の仕事も上手く回ってくれるんですよ。感謝してます、本当に」
 捧げたのは、ささやかな謝辞。
「えっ!? い、いきなり何を言い出すんですか、プロデューサーさんってば!」
 プロデューサーの言葉を受けたトレーナーが唐突に、プロデューサーの背中をぺしぺしと叩き出す。頬の紅潮は、既に『僅か』という形容には収まらない程度には紅い。
 紅。いや、真っ赤だ。
「いや、日々の感謝を言葉にしただけでして」
『何を』と言われれば、それは感謝に決まっている。それを極力率直に告げただけなのだが。
「もうっ、そういうことを言うときは先にちゃんと言ってくださいっ」
 どうやら、何かが足りていないらしかった。
 そういう意味合いでは、彼女とさして変わらないのかも知れない。
 そんなことを考えた瞬間。
「おはようございまーす!」
 思い浮かべた『彼女』がやってきた。元からそういった時間帯を見計らって来たので、別段不思議なことではないのだが、割と絶妙なタイミングだ。
「おはよう、紗南」
 プロデューサーの姿を見つけた、紗南の目が輝く。
「あーっ、プロデューサーさぁん! もしかして今日は、あたしのレッスンに付き合ってくれるのっ?」
 駆け寄りながら尋ねてくるその姿は、ゲームセンターでプレイ予定の筐体が上手いこと空いているのを見つけたときのそれだった。
 即ち、脇目も振らずに一直線。
 がしっ、とプロデューサーの手を取ったのは、およそコインを投入する行為に等しい。
 ゲームが終わるまでは、ここは自分の場所なのだと主張するように。
「ああ。今までトレーナーさんに任せっきりだったからな」
「ヘヘッ……嬉しいなぁ。プロデューサーさんにはバシッといいとこ見せないとね! 目指せ、パーフェクトレッスン!」
 高らかな宣言に決めポーズのセットつきだ。大きく両手を広げてのアピール。
 恐らく、レッスンしたポーズの一つなのだろうが、サマになっている。
「その意気だ!」
 同じノリで、びしっと親指を立てて見せる(サムズアツプ)。
「あたしがレベルアップするとこ、見ててね」
 プロデューサーに、同じジェスチャーで返す。
「あー……おほん」
 そんな二人の世界に割って入ってきたのは今日二度目の、人に聞かせるための咳払い。
 その主はもちろん、トレーナーだ。
 蚊帳の外から、一気に内側に潜り込むためのアクションだ。
「あっ、トレーナーさん。今日もよろしくお願いしまーす!」
 奏功したのか、実にシームレスな流れで本筋に戻っていく。
「それじゃ準備が出来たらいつものセット、いきますよ?」
「あたしはオッケーだよっ」
 トレーナーと紗南の二人から遠ざかり、壁に背もたれる位置までプロデューサーは後退した。レッスンの邪魔をすることがないようにという、彼なりの心遣いだ。
 きっちり彼が二人の視界から消えたあたりで、BGMが流れ出す。
 そこから先は、彼の世界ではない。
 ただ、見つめるだけの時間。
 受け取れるのは、その結果だけなのだ。
 そう、任せた以上は。
 そして、信じた以上は。



 やがて、結果という形で示されるものに、答えなければならない。
 プロデューサーとは、そういうことだ。
 そして、そういうものだ。
「確かに、トレーナーさんが言っていた通りでしたね」
 レッスンを終えた二人に歩み寄りながら、プロデューサーは語る。
「でしょう?」
「どういうこと?」
 少々渋いことを言わねばならないことを、渋さと同じくらいに苦々しく重いながら口を開く。
「……紗南、ボーカルレッスンの時、何か別のこと考えてただろ?」
「えっ!? な、なんのことかなっ?」
 一瞬で逸れる目。引いていたはずの流れ出す汗。節々につかえのある言葉。
 推測と結論の間に齟齬はないようだ。
「そう、たとえば―ゲームのこととか」
「ギクッ!」
 口から漏れるそのままの擬音。
「そういえば先週事務所で『新作の予約してきたわー!』とか言ってたな……」
「ドキッ!!」
 ここまで表現があからさまだと、既に伏せる気は無いのではないかとさえ思えてくる。
「で、どうかな?」
「プロデューサーさんは、何でもお見通しなんだね……」
 事実をそれと認め陥落したのは、その直後のことだった。



「じゃあつまり『見えない』から集中力が続かない……ってことか?」
「うん、どうしても途中で飽きてきちゃうのね、あたし」
 ダンスやビジュアルのレッスンで同じような現象が起きないのは、その反対でひとえに『目に見える』から、なのだそうだ。
 確かに目に見える形として表現されるこの二つに対し、ボーカルのレッスンにはそういった部分がない。
 いや、それをそういった感覚で捉えているアイドルもいることはいる。プロデューサーが知っているだけでも数人は。ただ、その全員がアイドル活動に携わる前の段階で、深く音楽的な活動に従事していた経験者だった。
 つまり素養があったり、下地が整っていたりしたということだ。
「今のままじゃ無理ゲー、ってか」
「うん……ゲームだったらね、いくらでもできるよ、あたし」
 ゲームになっていない。
 集中力が発揮できない、彼女らしい理由だ。
 いくらか脳内でゲームの形に置き換えることが出来たレッスンでの成果が目覚ましかった事を含めて考えると、あながち言い訳という話でもない。
 今の形のレッスンを彼女に押しつけたところで、成果は上げられないだろう。
「よし、今日はここまでだ」
 結論が出たのなら、決断に繋げるまでのこと。
 プロデューサーはあっさりと、レッスンの終了を決断してみせた。
「プロデューサーさぁん……あたし……」
 紗南は申し訳なさでいっぱいなのか、出会った日のように今にも泣きそうな顔を見せた。
「心配するな、紗南。どうにかしてみせるさ。それがプロデューサーの仕事だからな」
 彼女は出し惜しみや手抜きをしているわけではない。
 ただ、目的に届かない原因があるだけだ。
 だから、それを取り除こうというだけのこと。
 夢を夢のままで終わらせないために。
「それよりも、よくこの短期間であれだけダンスやポーズを決められるようになったな。凄いぞ。偉いぞ。……頑張ったな」
 言いながら、そっと頭を撫でる。
 正しく結果に表れた部分は、飾らずに褒めたいと思ったのだ。
「えっ……えへへ。そういうゲーム、いっぱいあるからねっ」
 氷がすーっと溶けて消えるように、強ばっていた表情が和らいでいく。
 そう、彼女はどんなに明るくても、まだ14歳。その上アイドルを志して上京してきた身の上だ。新しい生活に一変した生活環境。どんなに日々が楽しく充実していたとしても、そこに一遍の不安もない……なんてことがあるはずはない。
 まして、それを吹き飛ばしてしまいかねない失敗のあとに、それを意識しないことなど、どだい無理な話なのだ。
 だから、彼は認める。
 プロデューサーとして、紗南が成したことを。
 そこには意味も価値も、しっかりと存在しているということを。
 そして、彼は伝える。言葉で、そして態度で。
 それが今の彼女に払いうる、適正な対価だからだ。
 そんな二人に、声がした。
 今し方この場から打ち払ったはずの、何かに沈んだような声だ。
「ごめんなさいプロデューサーさん。お役に立てなくて……。姉さんたちなら、もっと上手く教えられていたと思うんです」
 それは今まで一貫して、紗南を指導していたトレーナーの声だった。
「とんでもない。トレーナーさんの指導が正しかったからこそ、少し見ただけで何が欠けていたが分かったんですから。それに……」
「それに、何ですか?」
「トレーナーさんの方が詳しかったら、担当のプロデューサーとして悔しいですから」
 意地と矜持の違いは、何処にあるのか?
 杳(よう)として知れないが、そのどちらかがプロデューサーの中にあるには違いないのだ。
 どちらに由来するかは不明だが、それは彼の本心だった。
 ―あるいは、『どちらも』だったか。



「さて、大見得は切ったものの、どうするかね……俺」
 一人事務所の椅子に腰を掛けて、壁を見る。
 時計の針は、午後九時を回ったところだった。
 放っておいても、夜は更ける。
『どうにかしてみせる』と言ったはいいが、アテがあってのことではなかったのだ。そもそもどうにか出来る類のものであれば、もっと具体的に話をするものだ。サプライズ狙いでなければ。
 見切り発車。出たとこ勝負。明日は明日の風が吹く。
 決断には、そんな割り切りも必要なのだ。
 ただ、先送りにしても解決は出来ない。『どうにか』と言ったのだから、最低限何らかの形として示さなければならない。
 そう、任された以上は。
 信じてもらったからには―彼女たちに。
 時計の下、ホワイトボードに目をくれる。所狭しとアイドルたちの予定が書き連ねられていて、事務所の盛況ぶりがそこからも浮かび上がってくるようだった。
「この中に紗南を加えるには、どうしても避けては通れない……」
 だからこそ、何かを考えなければ。
 考える。思い出す。今までに送り出したアイドルたちのことを。
 その時の経験から、得られたこと。
 その時に、生起した出来事。
 記憶を紐解き、総浚いして、束ね直す。
 その中から浮かび上がってきた、一人の人物。
 ホワイトボードに書いてあるその人物の予定を確かめる―と、丁度仕事の谷間だった。
「……いける!」
 閃きが希望に変わる。この瞬間のこれは、本当にただの希望でしかないのだが、それでも嬉しいものは嬉しい。
 溺れる者は藁をもつかむと言うが、もし流れてきたものが藁などではなく浮き輪だったなら、掴む前から喜びを隠せはしないだろう。
 掴む瞬間まで、何も状況は変わりはしないのに。
 胸ポケットから携帯電話を取り出し、意中の人物に掛ける。
 数回の呼び出し音の後。
『もしもし、私だが……プロデューサーか?』
 携帯電話越しに聞こえてきたのは、歯切れのよい声だった。
「ああ、夜分遅くに済まない。悪いが少し、お願いしたいことがあるんだが……」
 この次の瞬間、彼は握りしめることができた。
 浮き輪よりも一層頼りになる、命綱を。



 翌日。
「おはようございまーす、プロデューサーさぁん!」
 昨日のことを引きずっている気配は微塵もなく、実に明瞭闊達な挨拶だった。
 この分なら、用意した答えを活かせない……ということはなさそうだ。
「おはよう紗南。今日も元気だな。感心感心」
「ヘヘッ、ゲームオーバーしたのは昨日のゲームだし、今日のゲームに引きずっててもしょうがないってカンジかな」
 どこまでも、ポジティブなゲーマー思考。
「ってワケで、今日もよろしくお願い。プロデューサーさんとトレーナーさんと……?」
 そこに紗南はもう一人、昨日はこの場に居なかった人物の姿を認めた。
「晶葉さん?」
 ロボットの作成を趣味とするアイドル池袋晶葉、その人だ。
「今日は私が紗南のレッスンをサポートしてやろう! なぁに遠慮はいらんぞ! プロデューサー……いやさ、助手の頼みだからな!!」
 そう大きくもない(それでも紗南と同じくらいはある)胸を、目一杯に張ってみせる。
 それはまさしく、希望のカタチだ。
「え、プロデューサーさんって……そうなの?」
『助手』という言葉が聞き捨てならなかったのか、疑問に思っていることを隠そうともしない。それは何か、信じられないものを見たときのような目だ。
「プロデューサーはアイドルが輝けるように助けるのが仕事だ。だから、そういう言い方でもおかしくはないさ。そうだろう晶葉?」
「うむ。世に才能を知らしめる助けになるという一点で、何ら変わるところはないな。ただ私の場合、アイドルとしてはプロデューサーだが、発明家としては助手の方がしっくり来る。そして昨日私が求められたのは、発明家としての才能だったからな!」
 そう言って晶葉は、手に持っていた何かを紗南に差し出した。
「これは……メガホン?」
 片手で持つ分にも苦労はしないであろう、小型のハンドメガホンだ。
「ふふっ、凄いんですよそれ」
 黙って成り行きを見ていたトレーナーが口を挟んだ。
 その満面の笑みが、このメガホンと思しきものの威力を物語っている。
 それを知らないのは、この場では紗南だけだ。
「さあ、これで遠慮なく叫んでみたまえ!」
 揺るぎなき自信。己と、己が業物への。
「え、えーと……」
 渡されたのはいいが、戸惑っている紗南にプロデューサーが告げる。
「そうだな……試しに大声で『にょわー☆』と叫ぶんだ。あの(・・)姿を思い浮かべながらな」
 遠慮の概念を砕く力。
 現実に存在する、遠慮の存在しないイメージを描き、それに追従させること。
 まずは、そこからだ。
 彼の言葉とは裏腹に真剣な眼差しを前にして、紗南は軽く頷いた。息を吸い込み、吸い込み、吸い込み……一気にマイク部に向けて叩き付ける。
「にょわー!!」

(続く)



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