はぴはぴ☆えぶりでぃ


1 〜毎日はえぶりでぃ〜

 古ぼけた風合いに年期を感じる、とあるビルの一角。
 入り口に掲げられた表札は、そこだけ古さを感じさせることなく佇んでいる。一年やそこらでは本体に釣り合うような風合いは醸し出せず、何となく浮いてる気がしなくもないところであった。
(転がる石に苔むさず、ってか)
 表札の風合いがこのビルと釣り合うまでに長居することは、果たしていいことなのか悪いことなのか。
 現状に満足しての安住であるなら、先は暗いかも知れなかった。芸能プロダクションの代表取締役社長兼プロデューサーという身分でありながら、延々と連年に渡ってこの雑居ビルに居続けること……それこそ先見性の無さやら手腕の不味さやらを雄弁に語る、物言わぬオブジェを戴くことと、果たして何が違うというのだろうか。
 つまり苔がむすまで居続けるのは、ことこの職業の性質を思えば、言うまでもなく失敗でしかないのだ。
 転がり続ける石は常に磨かれ、古びることがない。
 常に新しい物を求められつづける世界ならば、転がり続ける方が理に適う。
 新しい革袋と新しい葡萄酒を求め続けて、流離うのが似合いと言ったところか。
 スタート地点をゴールにする気はないと、改めて自らの心に誓う。
 いつしか日常の光景と化した、この景色に。
 ひとまず一年という時間を乗り切れたことに安堵の気持ちを感じずにはいられなかった、自分自身に言い聞かせながら……。



 昨年晴れて独立を果たした、小規模プロダクション。それがこの事務所の正体だ。
 四苦八苦しながらも幾人かのアイドルを世に送り出すことに成功し、一応経営は軌道に乗ったのだった。
 というわけで現状には概ね満足しているのだが、いや、満足しきっているが故に、先程のような思いに至ったのだ。現状に安住せぬよう、自らを戒めるために。
 取りも直さずそれは、安住したくなるような現状が、ここに完成しつつあるということに他ならなかった。
 余人が、如何に言おうと。



 事務所の扉のカギは、開いていた。いつもと何ら違うこと無く。
「おはようございます、プロデューサーさん!」
 千川ちひろ。彼女が先に出勤して開けていてくれることが、当然のようになっていた。無論彼女が出勤しない日は自分で開けねばならないのだが、彼女は滅多に休みを取らない。特にアイドルたちと……とが好きな子ということで、彼女自身納得ずくの勤務態勢なのだから、こちらとしては『ありがたい』の一語以外は何もないのだ。
 細かい事に気が利いて、仕事ぶりもマメ。
 社長として彼女を採用した直後に彼はこう思っていたが、それは今も大きく変わるところはない。問題があるとするなら、アイドルと……が好きすぎて、えげつない言動を見せることがあるくらいだった。
 その瞬間が訪れるまでは、本当に善良で有能な人なのだが。
「おはようございます、ちひろさん」
 そして今は嬉しいことに『その瞬間』に当てはまらない状態にある。
 おかげでプロデューサーは心の底から、綺麗で丁寧な挨拶をすることが出来たのだが。
 少々どころではない即物性だが、スイッチが入ったちひろの足下にも及ばない、それはそれは無害なものである。
 またその性格に、一定の信頼や敬意を抱いているのも事実である。流石に口にはしない(出来たものではない)が。
 プロデューサーから見てちひろの方が年下であるにも関わらず、呼び方が『さん』付け呼びなのは、およそそういった精神に起因してのものである。
「? 今日は何だか小難しそうな顔をしてますね?」
 プロデューサーの色々な思索が綯い交ぜになっていたのが、表情に出ていたようだった。
 なにも考えずに絵の具を混ぜていった結果のような表情……とでも表現すべきか。喜とか怒とかそういうシンプルな感情でない分、どうにも濁っているような感触。
「いやー、少しばかり考えごとをしながら来たもんで」
 彼は応接用のソファーに腰掛けながら、さらっと流すように告げた。
「お仕事のことですか? いま抱えている仕事は、どれもスケジュール通りに回っていますよ?」
 壁のホワイトボードを一瞥。彼女に抜かりはない。
「いや、そういった個々の仕事のことじゃなくて、もうちょっと漠然とした感じのことです」
「つまりそれは……もっと個性豊かな才能溢れるアイドルをスカウトしたい! そういうことですね!」
 彼の郷愁を帯びた目など眼中に無いのか、ちひろはきっぱりと断言した。
「違います。厳密には違いませんが、違います」
 迂闊に全面的に同意しようものなら、即座にアイドル集めに走るのだ。形振り構わず。
 一見するといいことのように思えるが、その『形振り』に一切構わなくあたりが大問題。
 本当に強引なスカウトに打って出るのだ、この千川ちひろという御仁は。
 そんな彼女のお陰で事務所のアイドルが揃ってきたことは確かなのだが、同時に色々と危うい局面を招いたりもしたのだ。それこそお金やら、命やら。
 比喩表現の域に留まらないそれは、正直味わいたい性質のものではない。命ある限り……二度とは。
「違いましたか……残念です……」
 俯いて、しょぼくれた泣き顔を見せるちひろ。
 しかし件のスイッチが入ったら取り返しが付かないので、やむを得ないところだ。そうそう長々と、見ていたい表情ではないことも確かなのだが。
「……それは、またの機会に」
 確かだったので、そそくさとフォロー。
 すると。
「約束ですからねっ! 信じますよ、その言葉! プロデューサーさん!?」
 彼女を彼女たらしめているのも、間違いなく彼であった。
 ちひろの目がらんらんと輝き、気炎が燃え上がる姿が窺えた。立ち直るのが速いのも、また一つ彼女の取り柄には違いなかった。
「まあ、追い追いってことで」
 プロデューサーは曖昧に笑って見せた。それは色々な絵の具を混ぜてあったところに、さらに別の色を加えた上で混ぜ返してしまったかのような表情だった。
「なんだかスッキリしない表情ですね。……分かりました」
 そう言って一旦給湯室に消え、そこから戻ってきたちひろの手には、見覚えのある小瓶が握られている。
 茶色の瓶に金色の星が流れている模様の、アレだ。
「疲れを取るには、これが一番ですよ!」
 スタミナドリンク。
 名前からして、疲れが取れそうな名前をしている。
 しかしだからこそ、問題がある。
「いや、別に疲れているわけじゃ……」
 疲労からテンションが下がっているわけではないので、飲んだところで何も変わらないのが確実なのだ。
 しかし今更だが、こういった代物が常時、冷蔵庫にたんまりと冷やされている環境というのは……正常なのだろうか? よくよく常飲しているプロデューサーとしてその正誤を判断することは、既に不可能ではあるのだが。
 結果として既に、頼っている身分なのだから。
 さておき今は、その時ではない。
「疲れている人は、みんなそう言うんですよ。自分では疲れていないって」
 ちひろは何故か笑顔で勧めてくるのだが、これは流石に拒否することに心が痛まない。
「いやいやいや」
 軽軽としたプロデューサーの拒絶を前に、ちひろの表情が変わる。
「それにですよ……プロデューサーさん?」
 強面というか、どことなく強気な面持ちだ。
「なんですか?」
 どうもスイッチを切り損ねていたらしいと思いながらも、一応耳は傾けておくプロデューサー。
「そんな状態で、耐えられるんですか? そろそろ来ますよ―彼女が」
 脅かしているのか心配しているのか、判断しかねる口調。
 しかし彼女は嘘は言っていない。まもなく事務所に『彼女』が現れるだろうということは、否定しようが無い事実だ。
「耐えるも何もないですよ。いつものことじゃないですか、あれは」
 ふと入り口のドアを見やった。
 あそこから彼女は入ってきたのだ。
『ドーン!』
 けたたましい音と共に、ドアをはじき飛ばしながら。
 そう、丁度こんな音だった……?
 なぜ回想だというのに、これほどまでに鮮明な音で脳内再生できるのか。
 疑問に答えを出すより早く、彼女は姿を見せた。
「プロデューサーちゃーん!」
 ドッ、ドッ、ドッ、ダーン!
 助走、ホップ、ステップ、ジャンプ。
 覆い被さってくる大きな影。
 倒されたかと思えば、急に体が浮き上がる感覚。
 まるで……という文言を抜きにして、地に足がついていない浮遊感。
 これこそが、彼女流の挨拶。
 彼女―諸星きらりの。
「にょわーっ、おはようだにぃ☆」
 挨拶をしてくる口が、それこそ目と鼻の先にある。
 抱きすくめられて何をすることも出来ず、ただ、それに応えるプロデューサー。
「お、おはよう」
 昔―それこそ一年前は、息を吸うことも吐くこともままならず、ただ、気を失うまできらりの胸の中で抱かれていただけだった。
 外力によって『ノ』の字に反っていく背骨。肺を押さえ込むように巻き付き、圧していく両腕。
 出会った当日早々に締め落とされたことを、忘れられるはずはなかった。
 だいたい、その一度きりという話でも無かったのだから。
 しかし、今はあの時から数えて一年余り。
 今は、違う。
 プロデューサーは自信を持って、己が体に力を込めた。
 ブ……は付かないが、厚くなった胸板。太くなった腕と太腿。ツヤがありしっとりと張っている皮膚。
 レッスン十分、体調万全。
 十分に呼吸を出来る程度には、抗えている。
 これが一年という歳月を、彼女と過ごしたことで起し得た変化……進化であった。
 いざという時に、彼女を身体的にもサポートできるようにと努めた結果が、こうして目に見えている、実際に感じられているのだ。
 それは間違いなく、純粋な部類の喜びだ。
「プロデューサーちゃん、今日は楽しそうだにぃ☆」
 そんなプロデューサーの気持ちを汲んだのか、きらりが嬉しそうに笑いかける。
「このあいさつも、もう二年目だと思うと……どうしても嬉しくなってね」
 耐えられるようになってきたこと込みでの感想だ。
「そっかぁー……プロデューサーちゃんときらりが出会ってから、もうそんなになるんだねー」
 きらりの目の焦点が、目の前で結ばれなくなったのが分かった。
 目の前の二つの瞳は、どこか遠くを見ている。
「速いもんだね」
 だから彼はきらりの邪魔にならない程度の声で、相槌を打った。
「デビューもできたし、CDも出せたし、かわいいメイドさんにもなれたし……全部ぜーんぶ、プロデューサーちゃんと出会えたからなんだよにぃ☆」
 言葉と共に、きらりの腕が緩んだ。少しずつ、自重に摩擦力が負けてずり落ちていくプロデューサーの体。
(助かったっ)
 全身が弛緩した。
 着地の衝撃に備えて、足回りに神経を集中する。するのだが……。
(足がつかない?)
 確かに腕の締め付けは緩んだ。しかし、脇の下に回されたままの腕は、そのままの高さで維持されている。
 要するに、引っかかったままぶら下げられている形になっているのだ。
「きらり、挨拶は……もうお終いでいいんじゃないか?」
 暗に降ろして欲しいと告げてみるが、聞く素振りはない。
 それどころか、プロデューサーの頭が下腹部に―胸を通り越して―密着するように折り被さってくる始末だった。
 ダブルアームスープレックスの体勢。これがもし相撲なら、『五輪砕き』を取られて無条件で敗北……それぐらい生殺与奪をその手に握られてしまっていた。なぜか。なぜだか。
「今日はプロデューサーちゃんにぃ、特別な高い高いをしてあげゆ!」
 可愛らしい声で告げられる、無慈悲な通牒。
「えっ!?」
「せぇーのぉ! たかい、たかぁぁぁぁぁぁぁいぃぃぃぃぃ!!」
 勢いよく、その場でぐるぐると回り出す。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッ」
 声にならない叫び声。
 床と水平な高さを悠々と超え、爪先が斜め上を向く。
 成長していたのは、プロデューサーだけではなかったのだ。
 むしろ多くの伸びしろを残しているきらりが一層の成長を遂げたのは、自然の摂理に照らして当然のことと言えた。
(これが、パッション(情熱)の力か……甘かった)
 脱水機にかけられる洗濯物の気持ちに浸りながら、意識が遠のいていく時間を迎えてしったプロデューサーであった。
 その意志は、何ら顧みられることもないままに。



「……ごめんにぃ」
 プロデューサーが目を覚ましたときには、きらりの足を枕として、ソファーで伸びていた。
「いきなりは勘弁してくれないか。謝らなくてもいいからさ」
 申し訳なさそうな顔をされると、逆に悲しいものだ。男としては。色々と足りていなかった証拠を、目の前に突きつけられたのと変わらないのだから。
「次から気をつけりゅね、プロデューサーちゃん」
「そうしてくれると助かる。それにしても、あれだけ振り回されるとは思ってもみなかった。重さは杏の比じゃないのになぁ」
「杏ちゃんはカワイイし、Pちゃんもカワイかった。だからどっちも、きらりには同じだゆ」
 可愛いと思ったもの(物・者)を見つけたら一気呵成に猪突猛進、可愛がらずにはいられない性格。ほとんどそれは、性質と言ってもいいくらい、彼女の思考ルーチンと同化している。
 だから反省は真摯だが、感覚的に振り切れた場合の担保としては怪しいところだ。
 いずれにしても、まだまだ鍛える余地が残っていることだけは確かなようだった。過去への安住など、論外だ。
「杏と一緒、か。そこだけ聞くと何だか微妙な気分だわ」
「杏ちゃんはカワイイし、才能だってあるゆ?」
「やる気が壊滅的に無いけどな。……そういえば『あの部屋』は、どうなったんだ? 部屋の中にあった、あの小部屋は?」
 きらりの部屋に招かれた時に見かけた、ドアに掲げられた『ANZU』の表札。
 後々その部屋にきらりが杏を招いた(きらり談)ことと、その部屋から杏が脱出した(杏談)ことは知っているのだが。
「んーとねぇ……ヒミツひみつ、うきゃ☆」
 はぐらかされた。
 杏が引退宣言を撤回した今となっては、当面出番はないはずだが。
「現役のうちは、勘弁してやってくれよ?」
「きらり、Pちゃんのお仕事の邪魔はしないゆ」
 あの(・・)引退騒動以降、心を入れ替えたように……というとあからさまに言い過ぎなのだが、以前のサボり癖がなりを潜めて、専らアイドル活動に杏は邁進していた。それは間違いなく、きらりのおかげだった。
「本当に、色々あったなぁ、今まで」
 きらりの太腿の上に載せられたままの頭についている彼の瞳が、きらりの表情を捉えて、放さない。
「そうだにぃ……」
 それを見守っているきらりの瞳も、彼の表情を捉えて、放さない。
「そういえばこうやって見つめ合ったのも、一度や二度じゃなかったな」
「きらりはこれ、大好きだゆ? Pちゃん」
「そっか……俺もだ」
「えへへ、うれすぃ☆」
 それは同じ時を、同じように過ごしたもの同士でなければわからない感覚。
 言葉だけでは表せない、経験の共有が根底にある意識。
 それを今、確かめ合ったのだ。
「面白そうですね。せっかくですから、わたしにも教えて貰えませんか?」
「ちひろさん!?」
 プロデューサーの意識からいつの間にか抜け落ちていたのだが、ここは紛れもなく事務所内であり、ちひろも在室していたままであった。
 今日の一部始終は、もれなくちひろの知るところである。
「後片付けの報酬という事で結構ですよ。わたしとしては、お金に換算してさし上げても構いませんけど?」
「両方とも突っぱねたら?」
「……試してみますか? わたしは構いませんけど」
 にっこりと笑ったまま、ちひろが突きつけてきた三択。三つ目の選択肢に至っては内容さえ定かではない。
 しかし先述の通り、彼女はスイッチが入ったらどこまでもやり抜くタイプの人だ。
「……話していいか、きらり?」
 自分のことだけに留まらないので、承諾を取ることにする。
 もしもきらりが難色を示したなら、そこは潔く責任を取る所存だ。
 男、そして、プロデューサーとして。
「きらりはオッケー! Pちゃんとの思い出、ちひろちゃんにも知って欲しいにぃ☆」
 きらりは予想に反して、思いの外ノリノリだった。
 退路はなくなった。迂回路もない。
「それじゃ……っと。その前に起き上がるから……」
 姿勢を正そうとしたプロデューサーを、ちひろが制する。
「ああ、そのままでいいですよプロデューサーさん。そのままの方が、甘いお話が聞けそうな気がしますから」
 どこまでも甘くない人だった。
 これから吐き出されるのは、自家中毒で虫歯になりそうな程甘い話だというのに。



 ありふれた日々の中に、一際光を放つ思い出がある。
 その輝きは夜空の星のように、遠くにあってなお美しい。
 絶える日もなく(えぶりでぃ)。 



2 〜めいど・いん・へぶん〜

「Pちゃん、こっちこっちー! 早く来るにぃ☆」
 大はしゃぎしながら、手を振るきらりの姿が見えた。
 大きくぶんぶんと左右に振られている手から、風切り音が聞こえてくる錯覚さえするほどの勢いだ。
 足早に近づきながら、どこかで見たような光景だと思ったものの、確たる答えを導き出せないプロデューサーの表情は、どこか険しげだ。
 意味もなく、シチュエーションにも合わないことだが。
「おはようきらり。今日も元気そうだな」
 セーラー服に身を包んだきらりに、片手を小さく挙げながら応えた。
 ちなみにおはようと言ってはいるものの、時間は既に午後4時を回っている。何時でも『おはよう』と交わす挨拶は、芸能界特有の慣習である。
「プロデューサーちゃん、にょわー☆ ……あれあれ、何だかお疲れかにぃ?」
 きらり独自の挨拶とも言える『にょわー』、今では事務所の誰もが違和感を持っていない。挨拶以外にもいろいろと多様な場面(シーン)で使っている言葉だが、かなりの利便性を有しているように思えた。時制を選ばず、それだけで喜怒哀楽を伝えられるくらいのそれを。
 きらり以外の、誰にも使いこなせないことだけが難点だったが。
「いや、そんなことはないんだが……?」
 午前中は丸々デスクワークに時間を割いていたので、身体に疲れらしい疲れは溜まっていない。
「さっききらりを見たときのPちゃん、こーんな顔してたにぃ」
 両手の指を目一杯使って、きらりは自分の顔を外側に押し広げ、変顔を作って見せた。
 突っ張った細目の、何だか胡散臭い表情に見えた。
「ああ、考えごとというか、ちょっと記憶を思い出そうとしてたんだ。さっきの手を振ってたきらりが何かに似てると思ったんだけど、それが何だか思い出せなくてなぁ。まあ多分、大したことじゃないだろう。思い出せないくらいだし」
 プロデューサーがそう言った途端に、きらりの表情が曇った。
「むうー、Pちゃんにとってはきらり、たいしたことないのかにぃ……?」
「きらりが……じゃなくて、その思い出せないことのほうだよ!?」
 思いの外にガン曇りされてしまい、慌ててフォローに入るプロデューサーだったが、今ひとつ効き目が薄いように見えた。
「Pちゃんは売れっ子Pちゃんだから、きらりより大事なものがいっぱいいっぱいあるんですにぃ……」
 きらりはこれ見よがしにいじけたオーラを放ち、足下のアスファルトをぐりぐりと爪先で弄り出す。やがて少しずつえぐれだしたアスファルトを前にして、時間の経過による解決を図るのは得策ではないと判断するに至った。
 公共財を破壊するアイドル現る!
 一昔前なら悪徳記者が喜んで売り歩いたようなゴシップだろう。
「きらり、俺にもう一度、さっきのを見せてくれないか」
「……にょわ?」
「思い出してみせるからさ、絶対に。プロデューサーの名にかけて」
 ガッツポーズ。見せるべき場面であったかどうかわからないが、何となく勢いに任せて、身体が動くに任せた結果だ。
「そういうことならー、きらりも……がんばるゆ!」
 意気込んでガッツポーズを返すと、猛然とした勢いで身体を左右に振り出した。
 大きい手の動きに連られて、体ごとうねるように躍動している。
 ぶぉんぶぉんぶぉん……。
 間近で仰ぎ見るそれから感じたのは、涼やかな一陣の風。
(風切り音……錯覚じゃなかったんだな)
「きらり、思い出したよ」
 身体で感じたことで、呼び覚まされた記憶がある。
「なになにPちゃん、それってハピハピ?」
 ぐっと身を乗り出してきたきらりに告げるには、余りにも見劣りする……一言で言うとショボい話で申し訳ないと思いつつも、記憶のままに答えるしか、彼に道は残されていない。
「いやな、ついこの間、台風が来たときに事務所にいたんだけどさ、窓の外を見たら木がビュンビュン揺れてるわけよ。それを見て思わずさ『突風と共にアイドル現る!』なんて考えた訳よ。その時の木に似てたなー……なんてね」
 喋る側から苦しいと思ったが、今更黙り込む訳にもいかなかった、この苦しい胸の内。
 思い出せなかった理由があるとするならば、本当に些末なイベントだったことと、相手がきらりではなかったことだろう。
 こと自体がどうでもよかったのは、事実だ。
「にょにょにょ……にょわーっ!」
 だが、それが逆にきらりの逆鱗に触れた……ようだった。
「すまんきらり! だけど言った通りに、大したことじゃなかったろう!?」
 御託をスーパーの特売品のように並べたプロデューサーを、きらりはガッチリと抱きしめた……というより、組み止めた。
「きらりは木じゃないにぃ……プロデューサーちゃん」
「そらもちろん、そうよ。知ってる知ってる」
「Pちゃんにはー、もっともーっときらりのことを知って欲しいなー。たとえばー……やわらかましゅまろほっぺとか。だからね……うきゃ☆」
 全力で抱き寄せ、惹き付けられる。
 きらりの頬に押しつけられる、プロデューサーの頬。
 ぐりんぐりんとすり寄せてくる。
「くおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「にょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ☆」
 尊厳を損なわしめる公開処刑。
 温かさと柔らかさが、なぜだか厳しい代物に思えてくる。
 過ちと言うほどのことはなかったはずだ。
 しかし、正しさがあったかどうかはわからない。
 ただ、甘受しなければならない結果だけがあった。
 彼女―諸星きらりのプロデューサーとして。
 今日という日はおおよそそういう日なのだと、割り切ることでしかプロデューサーは救われ得ないのだった。



 さておきプロデューサーときらりが外で待ち合わせをしていたのには、当然の如く理由がある。
 先日大々的にCDデビューを果たしたきらりを、一層売り込むためのコラボレーション企画、名付けて『キューティーメイド作戦』。
 カフェでアイドルたちにメイドに扮してもらい、ファンと直に交流してもらおうという企画だ。企画だけを見るとやや安直かもしれないが、主軸にきらりを据えることでそういった懸念を排することが出来ると踏んでのことだ。
 きらり最大の身体的特徴、即ち身長。
 186cmもあるメイドなど、その手のカフェが林立している東京は秋葉原の電気街でも早々お目に掛かれるものではない。メディア受けのいい、一見しただけで意味が伝えられる話である。
 だがプロデューサーの狙いは、実はそれだけではない。
 むしろ余り売れていない―知られていないと言い換えてもいい―きらりの女の子らしい側面の売り込みに、主眼を置いていたりする。
 彼女は背が高いだけの、色物アイドルではないことを知らしめたいが故に。
 デビュー曲の『ましゅまろ☆キッス』を、これでもかと言わんばかりの甘ったるい曲としてオーダーしたのも、その一環である。
 彼女の特長を活かしつつ、きらりの希望に則った路線を進ませる。
 これがプロデューサーとしての、基本方針だからだ。
 というわけで企画をより密度の濃いものにするべく、実際のメイドカフェを見学に行くことと相成ったわけである。
 きらりと二人で。



「ねーねーPちゃん、メイドさんってなんでかわいいのかにぃ?」
 入ったメイドカフェで席に案内されたあと、対面に座ったきらりがプロデューサーに尋ねた。
 メイド服に身を包んだ店員を目で追いかけ回しながらの問いかけは真剣そのもの。生(なま)中(なか)な返事をすると、あとで大変なことになりそうな予感がした。
「うーん。そうだなぁ……フリフリとかキラキラとか色々あるけど、多分あれだな、アレ」
 そう言ってプロデューサーは、少し離れた所で接客している店員を見つめた。
「にょわ?」
 プロデューサーの目線の先にある姿を、きらりも確認した。
「よーく見るんだ」
「おっすおっす!」
 体育会系を思わせる威勢のいい返事。眦(まなじり)に焼き付けてやると言わんばかりに、きらりは凝視した。そんな彼女の目に飛び込んできたものは、客を相手に甲斐甲斐しく世話を焼いている、気品あるメイドの姿だった。
「もともとメイド服ってのは、汚れても構わない作業用の服なんだ」
「むほむほ」
「それってつまり、あなたのためなら汚れ仕事だってします、という意思表示なんだよ。その精神こそが、尊いメイドの精神だ」
「みゅんみゅん」
「誰かのために歌うアイドルが可愛いように、誰かのために尽くすメイドも可愛いということさ」
 それらしい理屈のオブラートに包んでみたが、果たしてどうだろうか。
 しばらく黙ったまま、目で追い続けていたきらりが、口を開いた。
「じゃあきらりんメイドさんはーいまよりー……かわいくなれゆ、かな?」
「なれるさ。あんな風にね」
 間髪入れずの即答だ。
 衒いもない。
 飾りもない。
 ただ、淡々とした返事だ。
 彼女にはその資質も資格もあると思っているからこそ、自信を持って言い切れる。
「うぇへへ☆ ありがとにぃ、Pちゃん」
「出来ないことなんてやらせない。出来ると信じているから任せるんだ。プロデュースは商売でもあるからな」
「きらりのお仕事がだめだめだとぉ、Pちゃんがごはん、たべられないからにぃ。それって、とってもスゴーいことかも」
「その通りだ。だから頼んだぞ、きらり」
 事実、アイドルなくしては、プロデューサーという存在はありえない。
 彼女たちをアイドルとして磨き輝かせ、その対価として賃金をもらい受け、日々の糧としているのだから、一分の誤謬もなくその通りなのだ。
 ともあれ、必要な問いには全て答えきったと考え、コップの水を口に運ぶ。
 何だかのどに渇きを覚える、シビアな現実を改めて確認したからだろう。
「Pちゃんのために、きらり、もっともっとがんばゆ! でもー、もしPちゃんがきらりのせいでごはん食べられなくなっちゃったらー……きらりPちゃんのこと、めんどー見ゆっ! だからぁ、だいじょーぶい☆」
「ぶへっ」
 口にしていたコップの水が、気管に入ってむせた。
「ありゃりゃっ!?」
「げほっげほっ……あーびっくりした」
「だいじょぶPちゃん?」
「あんまり大丈夫じゃないくらい、凄い事を言われた気がするんだが」
「きらりの言ったことって、そんなにヘンだったかにぃ?」
 きらりは気付いていなかった。自分の発した言葉が、どれだけの威力を持った爆弾だったのかを。
「い、いや。まぁアレだ、とりあえず全力で頑張ってくれ。俺も今のところ。プロデューサーとして働いていたいしな」
 後段の言葉がほとんどプロポーズのそれということに気付いていなかったようなので、プロデューサーは敢えて黙ったままでいることにした。
 認識された瞬間にもたらされる数々のイベントを回避するには、この方法しか思い浮かばなかったのだ。
 俗諺に曰く『仏放っとけ神構うな』とあることだし……と、一人勝手に得心しながら。

(続く)



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