1 〜砂糖菓子〜 その時、彼―プロデューサーはふと、学生時代に教師から聞いた話を思い出していた。 確か物理か何か……今となっては単に理系、もしくは理科で括ってしまえばいい系統……の授業の折の、雑談だったはずだ。記憶が確かならば。 その時習っていたことが何だったかは、今となっては思い出せない。およそテストを受ける習慣が身体から抜け去って行ったときに、同時に連れ去られてしまったのだろう。そこについての後悔はない。 忘れてしまったのだから、それだけのことだ。 では、今この瞬間、まさに唐突と言う他ないタイミングで思い出したこれは、果たして重要なことであっただろうか……と自問する。 答えはすぐに出た。 (……そんなはずはない) 学生生活を卒して幾星霜、ただの一度も思い出すことがなかった知識に、そんな比重の高い重要性があるはずはない。 それでも記憶が唐突にリンクすることで、些事であった遠い記憶は蘇った。 キーワードは『甘さ』。 そして、それはまぎれもなく『彼女』のキーワードでもある。 * カチカチカチカチカチ、ターンッ。 カチカチカチカチカチカチカチカチ、ターンッ。 パソコンのディスプレイを凝視しながら、キーを叩く。 画面に表示されているのは掲示板の類などではなく、業界標準の地位を固めて久しいワープロソフトの編集画面だ。 それは日本のどこにでもある、割と一般的なオフィスの一風景に違いなかった。そしてそこが芸能プロダクションの一室であることを考慮しても、その括りから逸脱することはない。 ……そこにいたのが、彼だけならば。 カチカチカチカチカチ、ぷにょ、ターンッ。 カチカチカチカチカチカチカチカチ、ふわっ、ターンッ。 利き腕があるものに触れる度に、動きが止まる。 眼はディスプレイを凝視しながらも、その瞬間、文字を追うことを止めている。 そんな一方的なつばぜり合いを繰り返しながら小一時間ほどキーボードと格闘を続けていたプロデューサーは、ついに観念……というか断念して、席を立った。 「うん、やっぱり無理なんで……離れてくれないかな?」 一人用のオフィスチェアを半分ずつ占有するような形で二人掛けしていたのだが、その光景はどうあっても一般のオフィスで見られるような代物ではない。 「なんでですか〜? これって、私のためのものなんですよね〜?」 ディスプレイを指差しながら、彼女がおっとりゆったりとした口調で尋ねる。 「そりゃもちろんそうだよ。俺がプロデューサーとして、君をアイドルにするために必要なものなんだから」 そんな彼女に正対している彼の表情には、僅かに苦み走ったシワが刻まれている。 理解してくれ……言葉に出来ない、したくない感情を滲ませて。 無論、彼女を嫌ってのことではない。 「だったらやっぱり、私はここで見ていてもいいと思うんですけど〜?」 そんな彼の栗島切れのポーズは、微塵も彼女には通らなかったようだった。その表情には一部の屈託も曇りもない。実に朗らかで穏やかなままで。 その大きさを、どうしても測りきれないほどに。 「近すぎてやりづらいんだ。腕が当たるし。君の言ってること事はもっともだけど……」 歯切れの悪い言葉を並べ立てる、苦しい展開。 拒絶が悪意や嫌悪感に基づくものではないとは知っておいてもらいたいがために、どうにも悪くなる歯切れ。 「私は気にしませんよ?」 それでも彼女は、用意した心の壁をあっさりと飛び越えてみせた。初めから、言葉のバリケードが機能していなかっただけかも知れないが。 「……俺が気にするんだ。気になるんだ」 それは最後の切り札とも言える、敢えて弱みを見せて追撃を断つ荒技。 敢えてツバメが人家の軒下に巣を作るように。『窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず』の計だ。 男が男であるが故の葛藤から生じる感情の処遇に、困っているからとは流石に言えはしない。 ここはプロデューサーが用意した、最大の妥協点だった。 「それじゃあ逆に気にならなくなるまで、くっついていたらどうでしょう〜?」 だがそれさえも、彼女は気にかけることはなかった。 コペルニクス的転換。 プロデューサーは彼女の提案を、そのように解釈した。 「へ?」 一直線。最短距離。根本的解決。 彼女が目指しているのは、そういことなのか。 「ほらほら、こうして……」 席を立ってプロデューサーの側に近づくや否や、腕を絡めて身体を寄せた。 隙間を潰すように、みっちりと。 「な、なっにっ?」 上擦った自身の声に、覆い隠し切れていない自身の動揺を思い知らされたプロデューサー。情けなく思う一方で、そのままの姿でありたいと思う気持ちが湧出するのを感じていた。 いや、こうなる可能性をある程度予見していたからこその、拒絶の意思表示ではなかったのか。 プロデューサーとして一線を引くことは、そういうことなのだと。 いかにも彼が、男であるにせよ。 いや、男であるからこその信念なのだが。 「こうしてしばらくくっついていれば、そのうち気にならなくなると思うんですよ〜?」 しかし彼女には、まるっきり通じている様子はなかった。 そして何よりも、柔らかい。どこもかしこも柔らかい。触れている総ての所から柔らかさが伝わってくる。放っておいたら、際限なく緩んでしまいそうなくらいに。 「ほらほら〜、こんなにプニョフワなんですよ〜私」 神経の総てがそちらに集中してしまう前に……焼きが回りきる前にと意を決して、プロデューサーが身体を捩る。 大きく絞られるタオルのようなものを想像しながら、右に、左に。 彼女は密着こそしていたものの、強く彼の身体を拘束しているわけではなかったため、なんとかワンアクションで解くことに成功した。 「ああん〜」 艶めかしい声を上げながら、弾かれてよろける彼女の身体。 手足を使って払いのけた訳ではないので勢い付いてはいないのだが、どことなくばつが悪い格好ではある。 「大人をからかうんじゃあないっ」 そんな些細な罪悪感を振り払いたいがために、少しドスを利かせた声を絞り出したつもりのプロデューサーだったのだが、ここまでやっても彼女にはまるっきり通じていない。 「からかってなんかないですよ〜、私と仲良くしてくださいよ〜プロデューサーさん。アイドルとプロデューサーの仲なのに〜、水臭いですってばぁ〜!」 そんな言葉と共に、再び元のように腕を絡ませようとする。 彼女の意図に気付いたプロデューサーはそうはさせじと、一歩ばかり退いた。 お互いに、相手の一挙手一投足を伺う状態。 それは正しく『お見合い』に他ならない。 「ふふふ〜」 「むむむ……」 見合って、見合って、待ったなし。 何かが始まろうとしていた、その瞬間。 「何をしているんですか、二人とも?」 不意に、見合いが終わった。二人して、声をかけてきた第三者の方に顔が向いたからだ。 天佑神助これにあり。 プロデューサーにはそこに現れた人物が、救世主に思えて仕方なかった。少なくとも、今この瞬間に関しては一部の疑いもなく、そう信じられた。 「ちひろさん! いいところに!」 やってきた人物―千川ちひろに対しての率直な感情だ。 この時点での……という前置きを含めてだが。 「私に急ぎの用事でも?」 大量の買い物袋を机の上に降ろしたちひろが、急ぎ足で二人に近づく。 彼女は諸用のついでに、買い出しに出ていたのだ。 「あーいや、そういう訳でもないんですが、何というかその……助かりました。存在自体が救いでした、あなたの……」 首を傾げるちひろに近づいて、プロデューサーは頭を下げた。 ちひろの帰還で彼が何かを護り遂せたことだけは、確かなのだから―彼にとっては。 「? おかしなプロデューサーさんですね……」 謂われのない謝意に戸惑いを見せるちひろに、件の彼女が言葉を投げかけた。 「本当に〜。アイドルとプロデューサーさんの仲なのに、私と仲良くしてくれないんですから〜」 とても、ニコニコとした表情で吐き出されたとは思えない内容の言葉に、のんびりとした口調。 そのちぐはぐぶりは先刻のプロデューサーの、ちひろ当人にとっては意味不明な謝意とどことなく似ていた。 「そう言ってる割りには、なんだか楽しそうね……菜帆ちゃん?」 海老原菜帆。 プロデューサーが最近スカウトしてきたばかりの、アイドル候補生。 それが、彼女の名前だ。 「だってまだ仲良くなってないってことは、これから仲良くなれるってことじゃないですか〜!」 言い切った。 彼女は何の臆面もなく、出会ってから間もない男に向けて。そして先程挨拶を済ませたばかりの、これまた同じく出会って間もない女に向かって。 この様に……たったの一口で。 「えっ!?」 同時に飛んできた、彼女からのウインク。 プロデューサーはこの瞬間にして初めて、垣間見た。 彼女の太さ大きさは、何も身体だけに限ったことではないと。 ここで彼の記憶は、冒頭のモノローグへと飛んだのだった……。 * 砂糖の数百倍の甘さを持つ人工甘味料・サッカリン。 適度な濃度に薄めたそれは甘いのだが、そのままの塊はなめたところで苦みしか感じられない。 プロデューサーが其の昔に聞いた話は、こんな内容だった。 彼女―海老原菜帆は、彼にとっては、まさにサッカリンだった。 物腰に甘さよりも、苦みばかりを感じてしまった。 その、強烈な甘さ故に―。 * 一見したところの彼女は、ただ、柔らかな女性だった。 そして実際、この感想は正しかった。 何も間違ってはいない。 しかし、それは彼女の総てではない。 この答えには、足りないものが多すぎる。 彼女の持つ『甘さ』を理解するにも、彼女に『苦み』を感じてしまった理由も、分かりはしないのだ。これだけでは。 砂糖菓子は砂糖のように、甘いだけの代物ではない。 少なくとも、彼女は。 2 〜土産もの〜 「はぁー……疲れた……」 プロデューサーはソファーにどっかりと腰を据えると、大きく息を吐き出した。 昼間身の上に起きた一連の出来事は、今後のプロデュースの多難さを予感させるのに、十分過ぎるインパクトを持っていたと言っていいだろう。 彼女の行動は正直な所、彼にとっては想定外だったのだ。 例えて言うならスーパーでレジに商品を持っていった所で、値札の数字が一桁多いことに気付いた……という感じの。 この瞬間の彼は、指一本動かしたくないほどの疲労を感じていた。 「随分とお疲れのようですね、プロデューサーさん? そんなときはコレですよ!」 すーっと横にやってきたちひろが持っていたものは、スタミナドリンク。 なんともありがたいことに、既に開封済みだ。 「……はぁ」 何度目かの溜息は、てんこもりの困憊感に満ちている。 「これを一本飲みさえすれば、プロデューサーさんの疲れもスッキリしますよ! ささ、ぐいっと一気にどうぞ!」 それを知った上でなお―知っているからこそか、より一層ちひろの勧めに力が籠もる。なぜこんなことを肌で感じなくてはならないのか? そもそも何故執拗に勧めてくるのか? そもそも、本当に彼女はこの事務所の純然たる事務員なのか? 謎は深く、闇は暗い。 しかしそんな彼の脳裏をかすめた思考も、精神的疲労の前には霞んでいくばかり。 つまるところ深追いする気力と知力を欠いた彼は、結局彼女の勧めるままに動いてしまうのだった……。 * 「どうですか? 効きましたか!?」 「まぁ、いつも通りって感じはしますよ」 ソファーに腰掛けたままとはいえ、上体を起こす気になる程度には気力が戻っていた。味覚から得られる情報というのは、どうにも大きいらしい。 いかにも効きそうな味をしたドリンクがノドを滑り落ちて胃の腑に収まっただけでも、気分的に大分違ってきたものだから。 それも含めて言えば、確かにドリンクに効能があったと言ってもいいだろう。 「それじゃあ、まだお仕事出来ますね!」 笑顔でちひろがプロデューサーに突きつけたのは、無慈悲にも彼に残業を求める通告だった。 「えぇ……って言われても、一体何をすれば? 今日の仕事は一通り片付けたつもりですが……」 菜帆をアイドル候補生として迎えるための諸準備が、今日の彼に与えられた仕事だった。事務所内で完結する手続きは既に終了し、残りは部外に対して行わなければならないものばかりで、日が落ちた今となっては進めようがないものばかりだった。 ちなみに当の菜帆本人は、女子寮に送られており、既にこの場には居ない。 プロデューサーが先程ソファーに腰掛けたのは、彼女を送り届けた後、会社に戻ってきた時のことだったのだ。 「私に彼女―菜帆ちゃんのことを、教える仕事が残ってますよ!」 その瞳は、ギラギラと燃えさかっている。 既にアフター5を超えたというのに、衰えない仕事への意欲。 執拗にスタミナドリンクを勧めてきたときと、変わらない気配。 いや、この二つが高い次元で結びついてこうなのか。 かつて二十四時間働けると豪語していたジャパニーズ/ビジネスマンの血脈が、ちひろには色濃く受け継がれているようだった。 さておき、その仕事に内容について納得していないプロデューサーが、抗議の声を上げた。 「それって、仕事……なんですか?」 躊躇いがちな小声だったのは、どんな理由が飛び出してくるか分からない警戒心からだ。猛反駁してやり込められたら、立つ瀬がない。 およそ敗れるにせよ、よりよい形で次に繋ぎたい。 下手を打った場合に、何をどんな条件で飲まされるか分からない相手だけに……。 「当然です! 私の仕事はプロデューサーさんと、アイドルのみなさんをサポートすることです。ですから私は、どんなことでも知っておかなきゃいけないと思うんです、アイドルに関することなら、そのすべてを!」 正面から叩き付けられたのは、紛うことなき仕事への情熱。 確かに彼女が要求してくることは、突き詰めていくと『如何にしてアイドルたちにパフォーマンスを発揮させるか』に帰結する。プロデューサーの犠牲(?)が不可避なことなら、敢えてそれを避けるような提案はしないというだけだ。 それはまさしく、仕事の鬼とでも言うべき態度だ。 『彼女の働きなくして、この事務所は存在し得たか?』 この自問に対する答えが、彼女への評価の総てだ。 色々と思うところはあれども、そこは決して揺るがない。 ちひろに対する答えは決まった。あとは、その出し方だけだ。 「ちひろさん……お茶、入れて貰えますか?」 立ち上がって自分の机に向かいながら、背中で呼びかける。 その業務に資すると思われる、極めて有益かつ前向きな提案。 「はい?」 もっともちひろには、この時点では彼の真意は伝わっていない。 「彼女のことを語るなら、和菓子に合う濃いお茶が要ります、絶対に」 しかし彼は、からかっているわけでも適当に吹いているわけでもない。 「はぁ……?」 「これが俺と彼女との、最初の縁(えにし)なんですよ。冷静に考えたら」 そう言ってプロデューサーが机の下から取り出したのは、紙袋。 表面には、店の名前であろう文字が並んでいる。 「和菓子、ですか?」 「ええ。渋くて熱いお茶に良く合う、甘いヤツなんですよ。これからの話に負けず劣らず……ね」 思えば初めから彼女は、そうだった(・・・・・)かもしれない。プロデューサーの側に気付く暇がなかっただけで。 彼女は甘いのだ。ひたすらに。 * 「柳の下に二匹目のどじょうはいない、ってか。いや、順番的に三匹目といった方が正しいか?」 そもそも期待してもいなかった……とまで言ったら流石に言い過ぎかと思い、喉元まで出掛かった言葉をすんでの所でこらえた。初めから別段誰かに語っているわけでもない独り言。それに独り言にさえなっていない脳裏の独白を加えたところで、何に影響が出るわけでもないのだが。 盗聴器でもついていない限りは。 「……まさかね」 それを本気で疑うほどには、疑ってはいない。この時脳裏を過ぎっていた相手の名前は伏せるが。回想と言えども。 さておきプロデューサーはこの時、社命により熊本を訪れていた。 同僚のプロデューサーがスカウトした熊本出身者が大いに当たり順調にCDデビューを果たすに至ったことで、現地を訪れ第三の逸材を発掘せよ……というのがその内容だ。 流石の彼も、これにはほとほと困り果てた。 命令にはそれ以上の指示が、何もなかったからだ。 指示どころか、一片の情報さえ与えられてはいない状態での現地入り。ツテも土地勘も……とにかく何もない場所でのスカウト活動。 ―できるはずもなかった。 余りの手応えの無さに意気消沈したままベンチに座り込んで、どのくらいの時間が経っただろうか。時計などという文明の利器は、余りにも恐ろしい現実を突きつけてきそうなので、とても頼る気にはならない。少なくとも今は。 「はあ……」 遠くに目を遣ると、人集りが見えた。その中央には大きく黒い、熊をモチーフとして作成されたと思われる着ぐるみが居るのがわかった。 「……あれの観察レポートでも出して、お茶を濁すか」 日本有数の『ゆるキャラ』を実地に観察することで、今後のプロデュースに必要な要素を考える。 名前を売ってナンボの人気商売、というところを考えれば、『彼』は間違いなくSランクの売れっ子アイドルに違いなかった。 その存在は、強い地域性によって支えられているものではあるが。 「……よし!」 久しぶりに彼は、力強く立ち上がった。その手に、今回の仕事用にと持ってきたデジタルカメラを携えて。 本来想定していた要素ではなかったのだが、今更拘っている暇もなかった。 全くの手ぶらというわけには行かないのだ……この地に居ることが、あくまでも仕事である限りは。 * 「ふぅ……撮った撮った。流石の俺も撮り飽きた」 額の汗を手で拭うとまたしても誰に言うでもなく、独り言を吐いた。 今度は思い切り人混みの中―件の『ゆるキャラ』の思い切り近くだったのだが、そんなことを気にする素振りもなかった。 業務という建前を思い切りベンチに置き忘れ、写真撮影に没頭していたからである。ほとんど個人的な主観と感情とに突き動かされて、唯(ただ)々(ただ)満足あるのみという結果から生じた徒花。 それが先程の、彼の言葉の正体だ。 一仕事を終えて満足げに額の汗を拭った途端、満足感に包まれてご満悦だった。 「さて、帰るか」 仕事は終わったのだからと彼の中では完結していたのだ、この時点で。 本当の仕事が始まったのは、この後のことなのだが。 * 「帰るとなれば、アレ(・・)が必要だな」 町中をふらふらと練り歩き、たどり着いた場所―土産物屋。 この地域の名産品が数多並んでいるスポットだ。 「みんながみんな、さっきの写真だけで満足してくれるものでもないからなぁ」 『花より団子』的なマインドは、概ね齢を重ねるごとに顕著に出るものだ……と、プロデューサーは認識している。 幅広い年齢層を構成しているアイドルたち全体のことを考えると、どうしても必要なのだった、これもまた。 (さて、どうしたものか) 進み入った店内には、色々な商品が売られている。アクセサリー、置物、和菓子、洋菓子、特産物、ご当地スナック……etc。 回遊魚の如く、売り場をくるくると徘徊して、思う。 (いかん、わからん。迷った……) 道にではない。 売り場にでもない。 多種多様な商品を目の当たりにして、どれを買おうか決められなくなってしまったのだ。これまで足を運んだこともなく、そもそも来る予定もなかった土地だけに、何が定番でどれが変わり種なのかもわからない。 見比べるごとに迷いは深まる。よりよいものを追い求める探究心が、手に取った土産達を見る度に語りかけてくる。 『本当にそれでいいのか?』と。 さりとて限られた予算(ポケットマネー)、故に総てを買って帰る選択肢はない。 人目も憚らず―単純に頭の中から抜け落ちていただけだが―惑っていた、その時だった。 「あの〜……何かお探しですか?」 唐突に聞こえてきた、全く女の聞き覚えのない声に、プロデューサーが答えて曰く。 「アイドル」 きっぱりと言い切ったのだった。勢いよく、声の方に向き直りながら。 「……はい?」 「ですから、アイドルを探していると言っておる……って!?」 うっかり大声で叫びそうになったところ、そのまま叫んでしまった。 漏出した本音と本職の部分を、よくよく理解してもらいたかったが故の叫びだった。 余りにも分かっていない風の声色さえなければ、こうはならなかっただろう……というのは、彼の自己弁護に徹した後知恵的な述懐だ。 「……オホン。いや、ちょっと、土産物を探していましてね」 わざとらしく咳払いをしてから姿勢を正し、態度を取り繕ってみる。よしんば無駄であるにしても、誰に認められるものでもないとしても、彼にとっては必要なことだった。 心の平安のために。 しくじったところで、恥は掻き捨てとばかりに開き直るだけだが。 少し落ち着きを撮りも推したところでよくよく見ると、相手は若い女の子だった。一瞬店員かと思ったが、服装的にはどうみても違った。 緩めのワンピースに、インナーの薄手のシャツ。 胸元に名札はなく、代わりに引っ付いている缶パッチ。 ―彼女は一体、何者なのか? 「ん〜……『あいどる』っていうお土産は、聞いたことがないですね〜」 考え込むような仕草を見せた上で、答えを返してくれた。 どうやら店員でもないのに、こちらの質問に付き合ってくれるような気配だ。 「いや、そうではなくて……アイドルたちへのお土産を探しているんです」 どれだけ信じて貰えるかは分からないが、ともかくも本当のことを告げてみることにした。全く初対面の相手に訴えるには、どうしても胡散臭くなりがちなのがこの仕事(プロデユーサー)の厄介なところだ。 「そうなんですか〜? それは凄いですねぇ!」 あっさりと信用された。これはこれで不安だ。別の意味で。 「ええ、色々ありすぎて迷ってしまって……」 しかし好意に水を差すのもなんなので、そのまま続けることにする。 「おいしいものが色々ありますから、それもしょうがないですねぇ〜。でもそれなら、定番のお菓子でいいんじゃないですかね? 例えば〜」 そういって彼女は、むんずとプロデューサーの手を取って歩き出した。 「え? え?」 狼狽するプロデューサーを余所に、彼女はどんどん土産物売り場を進んでいく。 もしこれが逆の立場だったなら叫び声の一つや二つ、上げられてしまっても仕方のないような行為ではないだろうか? 「これなんかどうでしょう〜? 定番の和菓子なんですけど、オススメですよ〜」 捕まれていた手が、離された。 瞬間、彼が感じたのは『惜しい』という感情だった。それが彼女の何に向けての感情だったのかは、今でもはっきりとしない。 それでも確かに『惜しい』と思ったのだ。 今にして思えばこれが最初に彼女自身について、湧いた興味だったか。 (続く) |