忍ぶれば花なりて


1 〜不忍(しのばず)のくノ一〜

『さあ、今日のライブのウィナー(勝者)は……』
 アナウンスが聴衆の耳に届いた刹那、水を打ったように静まり返るライブ会場。それは皆が熱を失ったからではなく、続く言葉を待つための姿勢である。
 願うところへ、光が照らさんことを祈りながら。
『―――彼女たちだァー!!』
 司会者が高らかに手を掲げると同時に、勝者のもとに差し込まれるスポットライト。
 時を同じくして、響き渡る叫声。聴衆の無理に押し込めてあった熱が、一時に解き放たれた瞬間のことだ。
「よぉーしっ!」
 ステージの袖には喜びを表しながらも熱狂している風体ではなく、むしろ安堵の色を全面に浮かべている背広姿の男が、まず一人。
「やりましたね!」
 そして傍らには、彼より一層興奮しながら彼より率直に喜びを表している、一人の女性―場にはおよそ似付かわしくないような、地味な事務服に身を包んだ―が、佇んでいる。
 そこはステージ上に立っている彼女たち―アイドルという在り方をしている―に関係するものしか、立ち入ることを許されない……聖域と言ってもいいような場所である。
 この二人は無論、アイドルではない。
 ただ、そこに居合わせる資格を持ち合わせた、関係者というだけだ。
 彼女たち―アイドル―がステージに居る間は、ただ、さぶらう(・・・・)だけの。
 しかしてライブ対決が勝利に終わったこの瞬間に、総ては報われる。救われると言い換えてもいい。
 その栄誉に与れるのはアイドルと、自分たちしか居ないのだから。
 そこに彼女たちが存在することの一助となれたのならば、それでいい。
『サムライの幸福』
 たしか、そんな意味合いで使われていたはずである。
 今の彼の胸中は、そんな風合いのもので満たされている。
「そして、おめでとうございますプロデューサーさん! 今回のお仕事は大成功ですよ!」
 先程の事務員然とした人物は、彼のことをこの様に呼んだ。
 そう、彼は今、ステージ上にいるアイドルたちのプロデューサーである。
「彼女たちの努力と、ちひろさんのサポートがあったからこその結果ですよ。こちらこそ、ありがとうございます」
 千川ちひろ。
 アシスタントという肩書きではあるが、アイドルのスカウトからレッスンの手配、またイベントのセッティングなど多岐に渡る業務を恙なく取りさばく、まさにプロダクションの要石とでも呼ぶべき存在の人物である。プロデューサーがプロデュース業に集中できるのは、ひとえにこの人物の支えがあればこそ……だったりする。
 アイドルを最大限に輝かせるという目的のためには一切の妥協をしないため、時としてプロデューサーには悪鬼羅刹の如きものとその姿を見紛われたりすることもあるのだが、そこはそれ。
 こうしてアイドルたちのことで共に喜べる、志を同じくした者という側面には、なんら変わる所はないのである。いつでも、どこでも。
「それにしてもこの京都でのライブも、随分と盛り上がりましたね」
「原宿や渋谷でやってた頃に比べたらお客さんも大分入るようになりましたし、知名度が上がってきたのを実感しますねぇ」
「埼玉、大阪と渡り歩いてのここ京都でしたけど、どうやら正しかったみたいですね」
「それはファンと、彼女たちの笑顔が証明してくれると思います」
「はい! それじゃあプロデューサーさん、彼女たちを出迎えてあげてくださいね!」
「分かってますよ。おー……?」
 引き上げてきた彼女たちの前に進み出ようとするプロデューサーと、その背中を押すちひろ。
 勝ったにせよ負けたにせよ、ライブの後には付きものの光景だった。
 それは当然スタッフにも馴染みの光景で、特段どうということはない光景だった。
 ただ、この時は一つだけ違った。
「どうかしましたか?」
「いや、何となく……誰かの視線を感じるような?」
 どうにも気になって辺りを見回せば、見慣れたスタッフの顔ばかり。しかもそれぞれに仕事を抱えている彼らに、こちらを注視している気配は、まるで感じられない。
「気のせいですよ。それとも、人の目が気になるような秘密でもあるんですか?」
「悪徳記者に嗅ぎ回られるようなことは、何もないですよ。会場入りしてるって情報も聞いてませんし」
 弱り目に祟り目、敗北に悪徳記者という時代も今は昔。
 第一今日は勝ったのだから、付き纏われる謂われもない。昔と同じように彼が活動していたにせよ、だ。
「なら、気にすることは何もないですよ。それはもしかして、彼女たちからのじゃないんですか?」
 そういってちひろが目線を送った先には、ステージから降りてきた彼女たちの姿があった。
「後ろというか横というか……そんな方向だったような? ま、いいか。行ってきます。おーい……」
 手を振りながらアイドルたちに向かい合ったこの瞬間、その存在がかき消えた情報。
 それは実のところ、気のせいではなかった。
 熱視線を送る二つの瞳は、今もある。
 アイドルではなく、プロデューサーに視線を送る存在。
 プロデューサー以外に、その存在すら悟らせなかった逸材。
 その物語の始まりが、ここにあった。
 ライブが勝利を以てして終わった。この瞬間に。
「……ニンッ」
 誰の耳にも届いていない、微かな声と共に。
 そう、今は、まだ。



 翌日早朝。
 アイドルたちが未だに布団の中で夢の世界に入り浸っている頃、プロデューサーは一人ホテルを抜け出して、街中へと出ていた。
 出で立ちはいつもと変わらず背広にネクタイ。細々としたものはすべてポケットの中という、どうという事も無いサラリーマンスタイルだ。
 ただ、手に握っているものを除いては。
 かんざし。そして、結わえてあった書き付け。
 その手の中だけが、タイムスリップでもしたのかと言うくらいに浮世離れしている。
 これこそが、彼が満足感に包まれた安眠を捨ててまで起き出し、街中を往く理由に他ならなかった。
 こんなものがホテルの部屋の隙間に差し込まれているのを見て、興味をそそられない理由がこの世に果たしてあるだろうか?
 少なくともこのプロデューサーには、存在しなかった。
 ひたすらに情熱家(パツシヨナブル)なアイドルに囲まれ続けている彼もまた、極まった情熱家に他ならない。
 興味や関心が湧いたモノに抗う性質など、端から持ち合わせてはいないのだ。
『明朝卯の刻 太秦(うずまさ)にてお待ち申し上げております あやめ』
 字にも名前にも見覚えはなかった。
 思い当たるところが全くない人物からの呼び出しという、現代にはおよそ有り得ないような謎(リドル)が満載のシチュエーション。
 これで滾らないほど、彼は枯れてはいないのだ。
 手の込んだイタズラというのであれば、それもまた上等。それほどのことを為れるだけの価値有りと見做されたとは言い張れるだろう。話の種にもなる。
 足取りは、込み上げてくる気持ちそのまま、軽やかに。



 書き付けにあった『太秦』。
 彼の知るところでは、そこでランドマーク的な役割を果たしうる場所は、ここしかなかった。
 太秦映画村。時代劇の撮影におけるメッカだ。
 やり口からして、ここの他にどこがあるのか。少なくとも、プロデューサーの記憶によって構成されている脳内データベースに、他に一致する物件はない。
 というわけで、何ら迷うことなく入り口までやってきたのだが……。
「うん、閉まってるな」
 ショックを受けたとか、そういった類の話ではない。
 撮影の仕事で訪れたのではないのだから、単なる一介のビジターという身分である。
 聳え立つ入場門を潜る資格を、有していないことなど先刻承知。
 だからこそ、彼は敢えて呟いたのだ。ここまでは予想の範疇であると、自分に言い聞かせるために。
 そして訪れるであろう、その瞬間を待ち受けたい―そんな想いで。



 気分はさながら、朝駆けで着陣した武者のようだった。
『神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬る』
 往年の時代劇のナレーションが、彼の頭の中を過ぎる。
 斬ることが武士の業なら、プロデューサーの業とは何か?
 ……考えるまでもなかった。
 ここに今あるのはおよそ、既に『業』のためであろう。
 何を憚る事も無い。
 そんな彼の前を、一陣の風が吹き抜ける。
 思わず目を瞑り、吹き抜けた後に目を擦る。
 彼女はそのとき、彼の眼前に存在した。
 いつからかは分からないが―少なくとも、この瞬間には。 

 くノ一。即ち、女の忍者。

 それ以上の呼び名をすんなり思いつけるほどのボキャブラリーは、彼の辞書にはない。学術的に近い言葉を並べ立てることはできるが、並べ立てるほどに眼前のイメージからは遠ざかってしまうことだろう。
 それほどまでに、彼女のスタイルは完成、完結したものだった。
 誰が見ても、違いようのない存在という意味に於いて。
 藍色を基調とした着物―時代劇のくノ一を強く意識した露出多めの―に、緋色の襟。
 帯には結わいた瓢箪。
 手甲に脛巾。
 平頭巾から転じたと思しき紫のマフラー。
 鞘に収められた忍者刀。
 飾り紐で丁寧に束ねられている頭髪。
 およそ劇場やアトラクションで見たならば興奮は言わずもがな、躊躇いなく拍手喝采を送りたくなる、『見覚えのある』くノ一ぶりである。
「ようこそおいでくださいました、プロデューサー殿」
 これが彼女の、第一声だった。
 どうやら手紙は間違いではないらしく、しかも彼のことを正しく『プロデューサー』と認識した上での行為だった。
 その反応にまずここまでの道程が無駄足にならなかったことを内心で喜び、かつ、眼前の少女のどこか浮世離れした佇まいをしげしげと眺めながら、ゆっくりと言葉を繋いでいく。
「やっぱりこの手紙は、君が?」
 手にしていた書き付けを見せると、彼女は大いに頷いた。
「左様でございます」
「どうやって?」
「失礼とは思いましたが、後をつけさせていただきました」
「どこから?」
「ライブ会場からです。ニンッ」
 片手で印らしきポーズを取り、かけ声と共に極める。
「何かずっと見られてるような気がしていたけど、もしかして……君だったのかな?」
「あやめの他には、誰もいなかったかと」
 会話の中に突如登場した、聞き慣れない単語。おそらくは固有名詞―人名。
「……あやめ?」
「……あっ!?」
 ついうっかり口を滑らせてしまったと言わんばかりに自らの口を塞ぐ仕草を見せた少女だったが、時既に遅しである。
「名前?」
「はい……。本来、口上と合わせて述べるつもりだったのですが。このあやめ、一生の不覚!」
 口惜しそうな表情を露わにした。改めて態度を繕うこともなく、再び名前を名乗ってまで。
 あやめ。
 どうやら、それが彼女の名前らしい。
「それであやめ……さんは、一体この私に何の用があって、あんなことを?」
 プロデューサーは単刀直入に、本題を尋ねた。
 極度の脱線を恐れての処置である。芝居がかった彼女に延々と付き合っていては、話しがどう転ぶか分からないと踏んだ結果である。まだ早朝であり人も少ないが、これから先はラッシュアワーに近づいていくばかり。余り悠長に構えてもいられないのだ。
「はっ!」
 彼女は大きく返事をすると、片膝立てで跪いた。そして背に刺していた忍者刀―その真贋はさておき―を地面に差し置く。
 それは貴人に対したときの礼であると同時に、速やかに次の動作に移ることが可能であると示す態度でもある。そして武器を差し置くことは、害意がないことを示す作法だ。
 全面的な恭順を言葉より先に態度で示した上で、彼女は告げる。
「プロデューサー殿! 願わくばこの浜口あやめを、幕下(ばくか)に加えてくださいませ! どうか……お願いいたします!!」
 深々と頭を下げた。
「プロデュースして欲しいってことで、いいんだよね?」
「はいっ! 一意専心、不惜身命の覚悟です!」
「それじゃあ、ちょっと聞いていいかな?」
「なんなりと」
「じゃあ一つ目。うちは芸能プロダクション……特にアイドルを売り込むのが仕事の中心なんだけど、それはわかってる?」
 扮装を見る限りでは、それこそ後ろに控えている施設のようなアトラクションの方が、似合っている気がしたのがプロデューサーの率直な見解であった。
「もちろんです! であればこそ、この身をプロデューサー殿に委ねたいと」
 しかし彼女の答えに、迷うところや淀むところは見当たらなかった。
 むしろ、強い信念さえ感じさせる歯切れの良さだ。
「OK。二つ目。どうしてその格好で?」
 いかに鷹揚な人物であれ、この現代にいきなりくノ一装束の少女が現れたらなら、その理由を問わずにはいられないことだろう。
 ここは、マッポーめいた世界観で回っている日本ではないのだから。
「くノ一は、あやめの憧れです。理想です。それをプロデューサー殿に分かって頂いたうえで、アイドルとして育てて頂けたら……と思いまして」
「なんでまた、くノ一が憧れに?」
「幼い頃から幼い頃から祖父と時代劇を見るのが日課だったもので……。わたくしも、あのように輝きたいのです! それに……今は時代劇が、多くはありませんから……」
 憧(しよう)憬(けい)を理想とするものにとって、看過しがたい現実。
「だから盛り上げたいんだな、時代劇を」
 そのために立ち上がろうという、高潔な決意。
「はいっ! しかしそのためには、どこかに仕えなければならないと考えておりました。そんなある日、テレビの歌番組を見ていたときのことです。あやめの眼に映ったのは、様々な仮装に身を包んだアイドルたちが、歌い踊っている姿でした……」
 そして知り得た、希望―というよりは野望といった方が正しい―を叶えられるかも知れない事務所の存在。
 プロデューサーは先のあやめの信念めいたものがここから生じていたことに、今更ながら得心した。確かに着ぐるみを着たアイドルが好き放題、縦横無尽に駆け巡っているような事務所は、そうそうあるものではない。
 思い当たれば、納得せざるを得ない理由であった。
「あー……確かにその子らはうちの事務所だわ。『個性や希望を活かしたプロデュースを』っていうのが基本方針だからね」
 無論、例外はある。何にでも。しかしそれは本人が意識していない・気付いていない輝きというのも、確実に存在する。それを顕在化させるための方便―手段としてだ。
 だから、そのアイドルが持つ輝きを損なうような真似はしていないつもりである。
「あの瞬間『ここしかない』と、あやめは心に決めたのです。そして同じくテレビで先日のライブのことを知り居ても立ってもいられなくなり、このような方法で訴えるに至ったのです」
「なるほどね。それじゃあ最後に一つ、聞かせてよ。その、用意してあった口上ってのをさ」
 突然のプロデューサーからの注文、それも全く予期していなかった方向からのものを受け、あやめは先程とは打って変わって、狼狽えている。
「え? ええ。それでは……」
 それでも意を決し、深呼吸を一つ。
「わたくし伊賀忍者がお膝下にて生まれ育ちました、あやめと申します」
 そして、言葉が一つ。
 以上。
 どことなく固く、ぎこちなさが感じられる言い方だ。
「……これだけ?」
 そして、なんとなくだが物足りない。尺が足りない気がしてならない。
「んん、私としてはなかなか様になっていると思いますが……? 一番最初の挨拶として用意していた口上ですし、あまり長いのもどうかと思いまして」
 劇中でも何でもないのに、いきなり長くても面食らうか……彼女の説明もまた、もっともなことであった。
 サプライズ狙いは、この衣装だけで十分とも考えられよう。
「そうか……手紙を見せる前に、名乗って貰ったらよかったのか」
「求められる前に名乗るなど、忍び失格というものです。ニンッ」
 そもそも求められて素直に名乗るのもどうかとは思うが、確かに時代劇ならそんな流れだったかもしれない、
……という覚えはある。うろ覚えだが。
 いずれにせよ、そこに存在するのは様式美。
 そこから外れた物が今ひとつ美しく感じられないというのは、理解できない話ではない。
 またの名を、お約束。
「さっきの話している最中もだけど、全体的にちょっと固い感じがするかな。芝居掛かるのと、無闇に力を込めて固くなるのとは違うんだ。憶えておくといいよ」
「ど、努力いたす……あっ」
「まぁ、これから慣れてくれればいいよ。ゆっくりと……ね」
 プロデューサーは口角をゆるりと上げ、笑みを作って見せた。
「あっ、そ、それは……もしかして?」
 あやめの眼が、期待に輝く。
 プロデューサーの業、職をして為す。それ即ちプロデュース也。
 相手が神でも仏でも忍者でも、為すべきことはたったの一つしかない。
「アイドル候補生として採用するよ。たった今、この瞬間からね」
 初めからこれしかないのだから、彼には。
「あ、あ、ありがたき幸せに存じますっ!!」
 土下座と紛うばかりの、深々としたお辞儀。
「いいからいいから、ほら顔を上げて」
 宥めつつ急かす。傍から見たら凄すぎる絵面であろうことが疑いないためである。場所が場所で服装も服装だけに撮影か何かと思われる可能性はそれなりにあるが、万が一そこからはみ出した裁定を第三者に下された場合、少々どころではない厄介が舞い降ることだろう。
 君子は危うきに近寄らぬものである。故に、危うきは遠ざけねばならないのだ。
 今まさにプロデュースすることとなった、彼女のためにも。
「はいっ!」
「それじゃあ行こうか」
 通行人が増える前に。
 冷静さと情熱。どちらも持っていなければプロデューサーは勤まらない。
 情熱の仕事は、ひとまず終わったのだ。
 プロデューサーに促されたあやめは、忍者刀を背負い直し、立ち上がった。
「どちらまで? プロデューサー殿の宿舎ですか?」
「あやめさんのご両親の所さ。ご家族の方には、挨拶しておかないといけないからね」
「なるほど……確かに。かたじけない」
「それが勤めだからね。まず駅まで……って、そうだ、もう二つばかり聞いてもいいかい? プロデュースするしないって話しには関係ないからさっきは聞けなかったんだけど、どうしても気になる事があってね」
「あやめはもうプロデューサー殿に仕える身分です。遠慮なさらず聞いてください。どんなことでも」
「家から、その格好で来たの?」
「そんなことはありません。人目に付きますので」
「うん。そうか……そうだよな。もう一つ。いきなり目の前に現れたけど、あれはどうやったの?」
「目を瞑りたくなるような大風が吹くのを、物陰にて待っていたのです」
「そっか。で、もし風が吹かなかったらどうしてた?」
「…………………………………………………………………………………………ニンッ!」
 印を組み、理由らしきは語らない。
 すごい娘だ……色々な意味で。
「……………………………………………………………………………………………そうか」
「何ですその冷めた目は」
「多分これは生暖かいよ。そのうち分かる。じゃ、今度こそ行こうか」
 プロデューサーは冷めてなどいない。
 いかにも情熱的(パツシヨン)な子だと、心底得心していただけで。
「しばしお待ちください」
 そう言うとあやめは、深々と頭を下げた。プロデューサーにではない。
 太秦映画村に向けてだ。
 真摯。熱心。懸命。篤実。
 プロデューサーが彼女の態度から読み取れたのは、そういった類の意志や精神だった。
 迷いも曇りもない瞳。
 胸をぴんと張ったままに、折り目良く曲げられた腰。
 何かを誓っているかのような、りりしさを帯びた表情。
 その総てが一途に、一点に。
「……お待たせしました。それではいざ、参りましょう!」
 真摯さが少し抜け、その分朗らかさの宿った表情で彼女が言う。
 およそこちらの方が、普段着ではあるのだろう。
「案内頼むよ……っとと、その前に連絡入れとかないとな。ちひろさんに」
「ちひろ殿……確かプロデューサー殿の傍らに居た、あの女性ですか?」
「うん、そうだよ。誰にも言わずに出て来ちゃったからな。放っておいたら大騒ぎになっちゃうしね」



 ホテルのチェックアウトの手続き。
 荷物の発送。
 同行したアイドルたちの引率。
 帰京後の女子寮の入居準備に転校手続きに関する根回し。
 彼女でなければ捌けない仕事ばかりだ。
 電話を取り出し、そそくさと電話を掛ける。
 電話帳の登録は『A千川ちひろ』で、Aはアシスタントの略だ。
 登録順でアイドルたちが揉めることがないようにという配慮と、一番連絡することが多い相手なのでこの形が結局、一番に実用的だったりするからだ。



 連絡終了。
「かたじけない」
 ちひろへの電話連絡が終わったところで、またあやめは頭を下げた。
 プロデューサー・太秦・プロデューサーで、三度目だ。
「大丈夫大丈夫。好きでやってる人だからね、あの人も。早く挨拶を済ませて顔を見せてください、それが一番のお土産です……って言ってたしね、今も」
 アイドルの不為になる事は絶対にしない。
 その一点においては完全な信頼を寄せることができる人物である。
 そのため何か不利益が生じた場合、そのシワをすべてプロデューサーに寄せることがあるのだが、それはそれでというものだ。
「さて、今度こそ参りましょう! いざ参るっ!」
 叫び終わると同時に、駆けていく。
「お〜い! ちょっと待ってくれぇ!」
「ニンニンッ!」
 あやめは気が乗っているのか填まり込んでいるのか、止まってくれる気配はない。
「仕方ないな……っしゃあっ!」
 疲れが微妙に残っている身体に鞭を入れるように気合いを込めると、プロデューサーも駆け出した。
 朝日の昇る街の中を、忍びを追って駆けていく。
 何となく燃えてくる辺りに、自分もまた情熱家(パツシヨン)なのだと今更ながらに思い知る。
 こうしてアイドルを追い回すのも、初めてのことではなかったのだから。
 選択はどこまでも付き纏うのだ。
 運命という名の看板を背負ってまで。



 成り行きを呼んだのは、強い意志。そして意志に基づいた行動。
 意志の力が必然としての結果を招き、実を結んだのだ。それは小さいが、確実なことである。
 その有り様がシノビ―くノ一らしかったかどうかは、敢えて語るところではないが。

 不忍(しのばず)のくノ一、ここに現る。

 話しとして確たる結果は、これである。これだけである。現時点では。

(続く)



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