Dancing Lagoon


1 〜Feverish〜

 彼女の目線の先には、一人の男が居た。
 悠々と、缶コーヒーを飲んでいる。
「……お、いたいた。ここまでは予想通り、っと」
 彼女の呟き―誰に向けたものでもない―は、微かに上擦っていた。
 緊張感と高揚感。どちらもあるが、どちらがより強いかなど、彼女自身には見当も付かない。
 とある晴れた日のこと。彼女がいる公園は、真冬かつ平日の真っ昼間ということもあり、人影はまばらである。大人にせよ子供にせよ、長居するには少々厳しい環境だからであろう。時間的な制約やら環境的な制約やらの、すべてを含んだうえで。
 彼女には、都合のいいことに。
 まばら……ぽつぽつと存在する人影に、彼女の意中の人がいる。
 普段は大勢のギャラリーをよしとする彼女だが、今日ばかりは話が違った。ギャラリーは、ただ一人だけでよいからだ。そう、意中の『彼』だけで。
 しかし『彼女』は『彼』と、面識があるわけではない。『彼女』が一方的に見知っているだけで、『彼』からすれば『彼女』は、知り合いとも顔見知りとも呼べない、全くの赤の他人なのである。
 そんな相手の前に飛び出して自分を売り込もうというのだから、緊張の一つや二つは抱えて当然と言うものだ。むしろ一つ二つで済んでいるのは、ストリートダンサーとしての揺るぎない自信が支えているからに他ならない。
 さておき、彼女の『意』とは、ただ一言で言い表せる。

 ―ただ、踊っていたい―

 意中の『彼』とは、それだけを考えている『彼女』の役に立ちそうな……あるいは為になるかもしれない……可能性を持っている男。
 実際の所どうなのかは、まだ分からない。
 彼女が知っているのは、その男が『プロデューサー』と呼ばれていることと、芸能プロダクションに出入りしていること、それだけなのだから。
 乾(けん)坤(こん)一(いつ)擲(てき)。賽は今、投げられる!
 夢というよりは、野心。
 情熱というよりは、熱病。
 趣味としているスケートボードに、自分の総てを乗せて。
 彼女―小松伊吹は滑り出した。
 男がコーヒーを飲み干すであろう、その前に。



 冬の澄んだ空気の中を、立ち上る湯気。
 プルタブを引き起こしたばかりの缶コーヒーは、まるで息をしているようだ。
「ふぅ」
 一口飲めば、その苦みと温かさとがノドを降りていくのが分かる。
 寒さの中にあって温かいものが身体に沁み入る感覚というのは、暖房の効いた部屋の中にあっては、味わえない。
 だからこのコーヒーは、取りも直さず格別な一杯なのだ。
「やっぱりデスクワークはガラじゃないな。こういう感じの方が性に合ってる」
 暑さ寒さの中をかけずり回り、たまに一服と称し小休止。
 アスリートほどではないが、アクティブに動き回る方が自分には向いている。そのように、『彼』は自分のことを評している。
 プロデューサー。
 それが、彼の今の肩書きだ。
 しかし入社したばかりの芸能プロダクション、これもまた立ち上げ直後で雑用が山のようにあり、未だに担当アイドルを抱えていなかった彼はさながら、事務員同然のデスクワークに拘束されざるを得なかったのである。
 同僚が次々とスカウト、もしくはアイドル志望者の確保により次々と本来業務―プロデュースを開始していく中にあって、なんとも名状しがたい気分になることが増えた。
 平たく言うと、事務所に居づらいのだ。無任所プロデューサーであるが故に。
 というわけで、休憩時間を事務所近くの公園で過ごすことが増えていた。
 今日もそんな代わり映えのしない、平穏な一日でしかなかった。
 ……缶コーヒーを飲み始めた、この時までは。



 中身が減る。しからば傾ける。
 ストローがない飲料なら、まずもってこうなる。
 当然の如くそれに伴いあごは上がり、首は伸びる。
 プロデューサーの目線が空を仰ぐほどになった、その瞬間。
 シャー……タンッ!
 耳に聞こえてきたのは何かの滑走音と、地面を叩く音。
 目線を水平に戻したときに見えたのは……人影。
 目深に被ったベースボールキャップ。
 その上から重ねるように被ったフード付きのパーカー。ベースのカラーはグリーン。
 見るからに機能性と動きやすさを重視していることが窺える、ワーカーライクなボトム。
 背丈は……170cmより少し低い程度だろうか。
 彼は思わず、しげしげと眺めてしまった。
 手にしていた缶に僅かに残っている、コーヒーのことなど忘れたかのように。
 実際直前まで堪能していたはずのコーヒーと休息など、最早、どうでもよくなってはいたが。
「アンタ、プロデューサー?」
 その形(なり)からはちょっと想像できないような、可愛らしい声だった。
「え? あ……ああ、最近出来たばっかりの、新しいプロダクションのね」
 プロデューサーは突然のことに驚き、しどろもどろになりながらも、彼女からの質問に答えた。
 上に、下に、右に、左にと動き回っていた眼球が、そろって音がした方向―彼女の口元に向けられる。
 全身像に気を取られて注意深く見ていなかったが、なかなかに整った顔立ち。それでいてあどけなさが漂っている、可愛らしい表情。
 そこまで気付いてから改めて見直すと、主張の強いボディであることに気が回る。
 パーカーのファスナーの隙間から覗く胸元は、どうしてどうしてボリューミー。
 思わず、満足げに頷いてしまわざるを得ないほどだ。
 そんなこちらの反応がお気に召したのか、彼女は言葉を継いだ。
「ふーん……悪くはないってカンジの反応だね。それじゃあさ、ちょっとアタシのダンス見てよ!」
 彼女の要求はストリートパフォーマンスの押し売り。しかし、直接金がどうのという話ではなさそうだ。流れからして。
「というと……君はつまり?」
 くいっとキャップのひさしを押し上げるようにして視界を開き、プロデューサーに目線を寄越す。
「アタシは活躍のフィールドが広がるんだったら、アイドルだって完璧にこなして見せるよ! だからアタシが通用するか、見てくれる?」
 飛び上がりたいほどに喜びたい衝動を押し殺して、無言で一度だけ頷いた。
 下手に口を開いたら、ダンスを見るまでもなく要求を受諾してしまいかねなかったからだ。彼女の要求、それ自体とは無関係に。
 まず、見極めなくては。
 飛びつかなかったのは、プロデューサーとしての矜持(きようじ)が半分、判断が半分ずつである。
「それじゃ、これお願いね」
 そう言って彼女が手渡してきたのは、携帯用音楽プレーヤーと小型の外部スピーカー。
 どうやらこれで音楽を流して欲しい、ということらしい。
「準備が出来たら、再生を押せばいい?」
「へへっ、いつでもいいよ!」
 身体一つあればいい。
 そんな自信のほどが、彼女の姿勢からは窺えた。
 問うのに必要なのは、言葉ではない。
「それじゃ……ミュージック、スタート!」
 音楽だ。



 彼女の動きが止まったのは、セットリストに組まれていた曲の再生が総て終わってからだった。ゆうに三十分は踊りっぱなしだったことになる。
「どう?」
 言葉ではなく、拍手でもって応じた。
 現在事務所に所属しているアイドルたちと比較して、勝るとも劣らぬ出来だった。何人かダンスを得意とするアイドルは存在するが、ストリートダンスの流れを汲むものではない。系統として手薄と言うことは、それだけで売り出していく武器になる。事務所の内にも、外にもだ。
 彼女は、得がたい逸材かも知れない。いや、そうに違いない。
「イェーイ! アタシ、ダンスには自信があるんだー。これなら、成功間違いなしかな?」
 同意する。彼女が売り込んできた点に関しては。
 だが、それだけで渡れるほどに、この世界は甘くない。
「ダンサーとしては、ね」
「……え?」
「確かにダンスは一級品だけど、歌は?」
「う、歌ぁ?」
「そう、歌」
 先程までの自信満々な態度はどこへやら、途端に言葉に詰まりだした。
「それって、やっぱなきゃダメぇ〜?」
 及び腰になった彼女に、淡々と言葉を返す。
「さっき君は自分で『アイドルだって完璧にこなして見せる』って言ってただろう? 完璧なアイドルって言うのは歌ってよし、踊ってよし、見栄えよしの、三拍子揃った者を言うんだ。で、自信の程は?」
 自分の言葉をそのまま返されるというのは、以外と厄介なものだったりする。
 彼女にしてみれば、圧倒的なダンスだけで決着(けり)を付けるつもりだったので、対処法も何もありはしない。
「ちょーっと……ないかなぁ……。あはは」
 目を逸らし、頬を指で掻いた。
 余裕の感じられない、乾いた笑い声と共に。
「君のダンスの腕前は確かに素晴らしい。でも長く、強くステージで輝いていたいなら、それだけじゃダメなんだ。過去に何人か『トップアイドル』と呼ばれる存在を見て来たけど、みんなさっきの三要素を高いレベルで持っていた。その中でどの要素が一番強いか、って点はそれぞれに違ったけど、丸々ダメって人は誰もいなくってね」
 トップアイドル。
 誰もが憧れ、羨望の眼差しで見つめる存在。
 その器であろうとするということは、そういうことなのだ。
「うん……」
 神妙な面持ちで、彼女はプロデューサーの話に耳を傾けている。
「だからもし君がアイドルとしてデビューしたいというのなら、もちろん歓迎するよ。でもそれは当然ダンサーじゃなくてアイドルとしてだから、いままでみたいに、いや、きっとそうなんだろうという憶測込みで申し訳ないんだけど……ダンスだけやりたいとか、そんな話は通らないし」
 彼女はその器たり得ると、既に彼は思っている。
 しかし今の彼女に……デビューすらしていない彼女に、同じように考えられては困るのだ。アイドルに求められることは多く、アイドルを目指す者も多い、この世界で。
 慢心は、いかなるポジティブな結果にも繋がらない。これは彼女が優れているが故に、刺しておかねばならない釘なのだ。先程の『バックダンサーとしては』という一見して挑発的な言辞は、すべてここに掛かっている。
「ん〜……」
 一層考え込んでいる彼女を前に、言葉を続ける。
「なにより事務所が掲げる目標が『目指せ! トップアイドル!』だからね。これだけは妥協できないんだ。アイドルとプロデューサーとで、目指さないといけない。それこそプライド以外の売り物になるものは、全部売りに出す位の覚悟でね。……って、ああヘンな意味のものは含んでないよ、当然、うん」
 問いたいのは、彼女の覚悟……だったのだが、要らぬことまで言ってしまったかもしれなかった。
「……」
 いよいよ黙り込んでしまった彼女を前にして、少し言いすぎたかもしれないと内心で思ったが、今更オブラートに包むべき中身は残っていない。何も。
 それくらい率直……いや、愚直な物言いだった。
 平たく言うと、ぶっちゃけ過ぎたということ。誤解を招きかねないようなことも口にしてしまった。無論のこと、道義や法に照らしてイリーガルなものまで売り払わせるつもりは更々ない。
 彼が言いたかったのは、恐らく彼女自身も気付いていないであろう可愛げやらなにやら、魅力として見せられるものはなんだって使う、程度のことだったわけだが、果たして彼女には届いただろうか。
「じ、じゃあ、そういうことで。もしそのつもりになったら、いつでも……」
 推し量りきれない現状を前に、致命的な失敗を犯す前の引き上げを試みて、プロデューサーは話を打ち切ろうとした。
 彼女が得がたい実力の持ち主であると考えているのは、前述の通りである。成り行きで、妙に厳しい方向に話を通してしまったわけだが。
「やる」
 しかしそんな彼を逃がすまいとするように詰め寄りながら、彼女は言った。
 短いが、聞き取り間違いが起きえないよう、きっぱりと。
「……へ?」
 聞き違えたり、聞こえなかったりしたわけではない。
 彼女の反応が想定外だったので、白紙状態の解答を曝してしまっただけで。
「アタシ、やる。なるよ、トップアイドルにさ!」
 熱の籠もった目で、彼女は訴えかける。
 それが、気まぐれの類ではないと。
「こっちはもちろん大歓迎だけどさ、ボーカルレッスンとか、山ほどやることになるよ?それこそ君が、そこまで踊れるようになったようにね」
 彼女が見せた、先程の三十分のダンスは、三十分で完成したものではない。
 そこまで踊れるように、積み上げた成果が圧縮されてできたものである。
 それと同じだけの汗を流せるか? ……という質問なのである。
「それができるようになったらさ、大きいステージでアタシを、踊らせてくれるワケでしょ? それなら問題ないからさ!」
 彼女はそれさえ、ダンスの延長線上にあるものとして飲み込もうという。
 なるほど、それもひとつの考え方なのかも知れない。そう彼は得心した。
「もし君のボーカルの実力がダンスの実力のレベルで釣り合うようになるなら、用意してみせるよ。この公園より広いライブ会場と、それに見合う広さのステージを。約束する」
 彼の言葉が現実になるなら、ゆうに一万人は収容できる規模の会場となるだろう。
「約束だからね! あ、えーっと……?」
 ここまで会話を交わしておいて、お互いに名乗っていないことに気が付く。
「ああ、プロデューサーって風に呼び捨ててくれて構わないけど、そちらは?」
「アタシは伊吹。小松伊吹。こっちも呼び捨てでいいよ、プロデューサー」
「それじゃ伊吹、これからよろしく」
「こっちこそ、今後ともヨロシク! へへっ!」
 握手を交わす。
 それは志を確かめ合うかのような、同胞としての固い握手だ。
「それじゃプロデューサー、早く行こう! 立ち止まってなんていられないよ! 事務所ってこっちだったよね!?」
 手を握ったまま、勢いよく駆け出そうとする。
「ちょっと待て忘れ物! それと、この向きじゃ俺が走れない!」
 制止を掛けることができたのは、何メートルか引き摺られてからのことだった。
 そこにあった忘れ物とは、先程の先程の携帯用音楽プレーヤーセット。
 手は握手をした姿勢そのままなので、伊吹が前を向いて走る限り彼は後ろ向きに走る形になる。
「あ、いっけなーい。てへ」
 回収したプレーヤー類を無造作にポケットに突っ込むと。今度は左手―握手をした反対の手で、プロデューサーの右手―握手をした手を握り直した。
「うっし、それじゃ……レッツゴー!」
 そして、一目散に走り出す。
 彼が来た道―事務所へと続く道を。
(平穏よ、さらば!)
 右手に伊吹の左手、左手にコーヒーの缶(微妙に中身入り)。
 さして惜しくもない平穏を手放せたプロデューサーの胸は、高鳴っている。
 それこそ彼女―伊吹に負けず劣らず。



 冬、それは春を待つ季節。
 そんな中の出会いは、一足早い春の訪れだった。
 芽吹くのは、しばらく先の話にせよ。



2 〜Climb〜

 パン、パン、パン、パン……。
 規則正しく響く、手拍子の音。
 ここはプロダクション所属のアイドルたちが、普段から利用しているレッスンスタジオ。
 今日も通常営業中だ。
「おお、キミか。様子でも見に来たのか」
 スタジオに入ったプロデューサーに声を掛けてきたのは青木聖。このスタジオに所属するトレーナーの一人であり、指導力に定評がある。
 通称・ベテトレ(さん)。ベテランのトレーナー、ということらしい。
 名前で呼ぼうとすると『アイドルじゃあるまいし……』と、よく分からないへその曲げ方をする。
 過去数度、だまし討ちのような形でステージに上げたプロデューサーがいるとは聞いているので、その辺りに理由があるのかも知れない。
 いずれにせよこれは、このタイミングで敢えて踏む必要は無い地雷である。
「ええ。手が空きましたので。で、どうですか?」
 スタジオ内で、ダンスレッスンに勤しんでいる一群に目を向けた。
 トレーナー(ベテトレの妹に当たるスタッフの一人)の手拍子に合わせて踊っている複数のアイドル候補生、そしてデビューを果たしたアイドルたち。
 その中に、伊吹もいる。
「見ての通りだ。リズム感もいいし身体も動かし慣れている。今この場にいる子たちの中ならダントツだ。事務所全体で考えても、それこそ答えは変わらないかも知れないな」
 目を細めている。
「でしょう?」
 彼女が世辞を言うような場面でもない。つまり、本音からしてそういうことだ。
「あれだけのものを、一体何処で捕まえてきたんだ?」
「公園にはトップアイドルの卵が転がってるって話、聞いたことありませんか?」
「まさか、あんなおとぎ話が……」
 プロデュースは、公園から始まる。
 この世界にいるトップアイドル数人が口にした、デビュー前の話。
 そこによく出てくるのが、『公園』なのである。
 ハトに餌をやっていたり、子猫をひっくり返していたり……必ずしもアイドル活動そのものと関係がありはしないのだが、よくよくエピソードで語られるところなのである。
「意外と示唆に富んでいていいもんですよ、おとぎ話」
「なるほど、憶えておこう。まぁあの通り、ダンスは既に一級品と言っていい。このまま送り出してもステージパフォーマンスは勤まるはずだ。だがな……」
 元より距離はそれなりに離れている。その上で手拍子やステップの音がしているのだから、普通の話し声程度なら届きはしない。
 それなのに、彼女は辺りを憚るような仕草を見せて、彼に耳を貸すように促した。
 つまり、どうあっても聞かれたくない、外に漏らしたくない話をしようというのだ。
「……ダンスが切れすぎて、釣り合いが取れる相手がいない。ソロならいいだろうが、多数になると、逆に見栄えが悪くなるきらいがな……。そしてボーカルに関しては正直言って、まだ素人の域を出ていないのが現状だ」
「……ボーカルについてはある程度、そういった話が出てくると覚悟はしてましたが、ダンスは……そうでしたか……」
「……ユニットを組んで売ることになると思うが、どういったコンセプトにするかをきっちり考えておいた方がいいぞ。ステージパフォーマンスがいくら映えても、CDじゃ実感はできないからな」
「……肝に銘じておきます」
 パン、パン、パンッ!
 一際高い音が、拍手一つ分響いた。
「はい、ここまで!」
 足を踏む音が止み、途端に雑然とした空気が流れる。
 呼吸に割り当てられていた時間が、そのまま雑談にすり替わったからだ。
 プロデューサーとベテトレの会話は、それを期として終了した。
「あ、プロデューサー!」
 レッスンを終えた伊吹が、駆け寄ってきた。
「今日も絶好調だな」
「どう? アタシのダンス、キレてるでしょ!」
「ああ、見せて貰ったが、ダンスに関しちゃ言う事なしだ」
「へへっ! そりゃ、ダンスばっかやってきたからね。そんなに簡単に追いつかれたりしないってさ!」
 誇らしげに胸を張る伊吹。
 その姿は、あの時公園で見た姿と変わらない。
 無論、それはいい。
「本当、ダンスに関しちゃな。ベテトレさんにいろいろ聞いたが、ボーカルはまだまだ改善の余地ありと聞いてるぞ?」
 打って変わって、苦言混じりの感想を述べる。
「……聞いちゃった、話?」
「伊吹が、俺には聴かせてくれないからな」
 まだ聞かせられるものじゃないから聞かせたくないと、頑なにボーカルレッスンへの同席を認めてくれないのだ。
 彼女が自他共に認める、ウィークポイントである。
「まだ、ちょっとね」
 ダンスと同じだけのレベルで、歌えなければならない。
 彼女の中ではそんな風にダンスへの自信が、逆転してボーカルへの不安に繋がっているかのように見えたのだ。
「それならあれだ、ここで歌って見せてくれないか。今のダンスに合わせる形でさ」
「えぇ、今のに歌も追加ぁ?」
 ぎょっとしたように、伊吹が訊ね返す。
「ここの所課題として出てる歌やダンスは、どれも事務所のライブでみんながやるものだ。できないことはないだろう?」
 何が為のダンスか。
 それは、ステージで披露するためのもの。
 ならば結局の所、歌もセットでついて回るというものだ。
「そりゃ、そうだけどさぁ〜」
 渋る彼女の、背中を押す。
 割と、力尽くで。
「今ここにいる、みんなでさ」
「え?」
「いいよな、みんな?」
 口々に、賛同する声が上がる。
「えっ? えっ?」
 その盛り上がっている周辺を見回しながら、一人呆気にとられ気味の伊吹に、重ねて告げる。
 そもそも伊吹としては自分のプロデューサーとマンツーマンで話していたつもりだったので、こんな転がし方をされるとは思っていなかったのだ。
「歌も一人の歌じゃないし、ダンスも一人のダンスじゃない。ステージってそういうものだからね。ソロなら話は別だけどさ」
 雑音は、聞こえない。誰の耳にも。
 直接自分の担当ではないとはいえ所属事務所のプロデューサーではあるのだから、みんなが聞き耳を立てようとするのは、それこそ自然な流れというものだ。
 その観点が、伊吹には欠けていたのである。
 長いこと一人で研鑽を積んできた弊害、と言ってもいいだろう。
「トレーナーさん、音楽の準備をお願いします。ベテトレさん、少し次のレッスンに時間がくい込んでしまいますが、構いませんかね」
「止める道理はないさ。私としても興味深いからな。おい」
「はい、姉さん、プロデューサーさん!」
 程なく、前奏が流れ出す。
 先程までレッスンをしていた立ち位置に、アイドルたちが戻っていく。
 無論、伊吹も。
 程なくしてステップと共に、繰り出される歌声。
 それは『アイドル・小松伊吹』が、本当の意味で誕生した瞬間だった。



「プロデューサー、ちょっと聞いてくれない?」
 レッスンが終わって、事務所への帰路についた二人。もうすぐという所で伊吹が袖を引き、道から逸れていく。
 寄りついたのはそう遠くではない、出会った公園。辺りに関係者がいないことを確かめてから、おもむろに口を開いたのだった。
「アタシ、アイドルの仕事、甘く見てた。ダンスには自信があった……ううん、いまでももちろん、自信はあるよ。でも、正直に言ってそれだけで、なんとかなる、かなー……なんて、思ってたんだ」
「うん」
「ここでプロデューサーに、あれだけ言われたのにね」
「確かに、そんなことを言ったような気がするな」
 トップアイドル。その理想像を、説いた覚えはある。
「みんな頑張ってる。うん。確かにダンスはアタシの方が上だけど、歌はアタシは全然、みんなの足下にも及んでないって」
「そうだな」
 彼女は、踊り続けてきた。
 しかし、歌ってはこなかった。
 積み重ねたダンスの技術が伊吹に嘘を吐かないように、積み重ねてこなかったボーカルの技術もまた、彼女に嘘は吐かなかった。
 それだけのことだ。
「でもアタシ、負けないよ! もしみんながアタシ並みにダンスをできるようなるならさ、アタシだってみんなみたいに歌えるようになるってことじゃない?」
 しかし、彼女は知っている。『積み重ねる』行為の意味を。
 自分がそうしてきたように、彼女たちがそうなるなら、逆もまた然り、と。
「理解してくれたか。俺があの日ここで言ったことは、そういうことだったんだよ」
「アタシも調子がいいからさ、ステージで踊ることばっか考えてて、あんまり深く考えてなかったんだ。ごめんねっ」
 調子は軽いが、それは確かに彼女の、彼女からの言葉だった。
 欲しかったのは、まさにそれだった。
「そういう所の面倒を見るのが、プロデューサーの仕事だからさ」
「うん! これからも、頼りにするから!」
「望むところさ!」
 手と手をガッチリ結び、力を込める。
 さながらアームレスリングのように、互いに引き寄せ合うように。
 そのまま二度、三度と上下に揺する。
 そこに生まれた何かを、確かめ合うかのように。



 ひとしきり終わって、今度こそ事務所に帰ろうという頃合いになった。
「それにしてもさ、プロデューサーはスゴいよね!」
「何がさ?」
 伊吹はプロデューサーの横に並んで歩きながら、思い出したように語り始めた。
「だってさ、アタシみたいなダンスしかとりえがないヤツを、こんなにやる気にさせちゃうんだから……もしかして、魔法遣いか何か?」
 自分の中に生まれた、新たな決意。
 それが余りにも不思議な……以前の自分には考えられないような、有り得ないものだったことに、驚きを感じての言葉だった。
「うーん……案外、そうかもな」
 彼女の突拍子もない言葉に、プロデューサーは相槌を打った。
「だよねー。だってアタシ、さっきまでと全然違うし」
「俺はさ、『シンデレラ』に出てくるような魔法遣いになりたいと思ってるんだ。なれるもんならね」
「へぇー……見かけによらず、ロマンチストなんだね」
「シンデレラは、魔法遣いなんていなくても綺麗だった。でも彼女が幸せを掴めたのは、その美しさだけのせいだけじゃない。カボチャの馬車、美しいドレス、ガラスの靴……そういったものの助けがあって、彼女の美しさが正しく理解されたからだとね」
「それじゃアタシは、プロデューサーにとって……?」
 何を気負うこともなく、言ってのけた。
「そりゃ勿論、シンデレラさ」
 刹那、伊吹の足が止まる。
「……っっ!!」
 それに気付かず三歩ほど歩いてしまい、伊吹と距離が空いてから振り返る。
「どうした?」
「な、なんでもな〜い! えいっ!」
 動揺を悟られまいとそのまま、背中に張り付いて押していく。
「お、おい?」
「いいからこのまま行こっ、事務所まで! ちゃんと前向いてて! 危ないから!」
「あ、ああ……??」
 突然のことに困惑しながらも、プロデューサーは言われた通りに歩みを進める。
 事務所まで、無言のまま。



 趣味はストリートダンス、スケボー、そして恋愛映画鑑賞。
 あのタイミングであの角度から心を打ち抜かれる事態など、予期できるはずもなかった。
 伊吹が取った行動はおそよ、そんな自分の心の内を悟られまいとする自衛手段。
 この日始まったのは、アイドルとしての小松伊吹だけではない。
 夢に見ていた夢。
 夢でしかなかった夢。
 それらが形を結びはじめた瞬間、彼女は動き出す。
 心に、あるがままに。

(続く)



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