“A” Daybreaker


1 〜日没、のち日出〜

「いくらなんでも、無謀過ぎたか」
 橋の欄干にあごを乗せ、男は大きい溜息をついた。
 目線の先には、川。ゆるゆると流れている、一級河川と書かれた看板が掛かっている、大きな川だ。
 それは彼が立ち尽くしている、この橋の本来の存在意義そのものだった。
 川に隔てられた、岸と岸とを結ぶという役割において。
 彼の身体に時折、後方の車道を走り抜ける車のロードノイズを伝えることではない。断じて。
 川のさらに向こう側に沈んでいく夕日を前にして、ただ、黄昏れているこの男。
 彼は、ある意味で、この橋のようになろうとしている男だった。
 芸能界とアイドルとを結ぶ、プロデューサーという名の橋渡し役。
 それが、彼のありたい形だった。
 そして、いまだに結べない形であった。
 橋として渡すべき存在―アイドルを、見つけられなかったのだから。



『プロデューサー募集 未経験者可』
 求人広告の一文に、彼の目は釘付けになった。
 それは新しく立ち上がる芸能プロダクションが、プロデューサー候補者を募っているという話だった。
 華々しく輝くアイドルたちを支える存在になる、またとない絶好の機会。
 その瞬間、彼の魂は吸い寄せられたと言っても過言ではなかった。
 居ても立ってもいられなくなりすぐさま応募。事務所の返答は早く一両日中に面接となり、結果、仮採用ということになった。
 当分の間、社員としての地位を与えられたのだ。
 本採用の条件は、ただ一つ。
『指定期間内にアイドル候補生を一人、スカウトしてくること』
 ということであった。
 仮採用に際して身分が与えられたのは、そのための看板―名刺に困らないように、ということなのである。
 それだけがこの時点において、彼に与えられた唯一にして最大の『武器』であった。



 渡された『武器』に致命的な欠陥があることを知るまでに、そうそう時間は掛からなかった。
 なにをして欠陥かといえば、相手―即ち、アイドル候補生の器が登場して、初めて役に立つ武器である、ということだった。ツテも何もない素人同然の男がそれを用いる段階には、簡単に至るはずもない。結果、預けられた武器は覆いを被ったまま今に至る……という訳である。
 厳しいからこそ、ある種の試験として機能するのだろうが。
 彼に残された時間は、あと僅か。
 日が短い冬ということもあってか、気が急くばかりである。一日という時間の長さは変わらなくても、人の活動時間は変わるもの……日が短くなった分だけ、スカウトに使える時間もまた、短くなるからである。
 冬至を目前に控えた今日は、その意味に於いても限りなくワーストに近い日であることは疑いないのだ。彼にとって。
 川の向こうの水平線に、日が沈んでいくのが見えた。
 既に低く、低く、その万物を照らす姿を隠そうとしている太陽に、橋の上から手を延ばす。

『待ってくれ!』

 ただそれだけを、願いながら。
 いつしか橋の欄干から、身を乗り出すようにしてまで。
 それでも、日はまた沈み往くだけだった。



 足りないものは、なんなのか。
 熱意?
 知識?
 経験?
 人脈?
 あるいはそれが、運命とでもいうのか。
 縁(えにし)なきことを、もってして。 
 絶望的な回答しか用意できない自身に嫌気が差しつつも、どうすることも出来ない。
 現実を前に、心まで沈んでいく。
 心が折れようかという、まさにその瞬間のことだった。

 タッタッタッタッタッタタタタタタダダダダダダッ!

 聞こえてきたのは、足音。
 それも、駆け足。勢いを増しているのか、だんだんと音の威勢が良くなっているのが感じられた。
 しかし、どうということもないことだった。通り過ぎていく車の音と彼にとっては、なんら違いはないのだから。通り過ぎていく、人の音であろうことには。
 どうでもいい。
 一度でもそう思えば、人は振り向きもしないものだ。無論、彼も。
 だからこそ、彼は吹き飛んだのだ。
 本来ならば音が駆け抜けたであろう、次の瞬間に。
「てやぁ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
 聞こえたのは掛け声。いやさ、叫び声。
 およそ、女の子のものと考えられるくらいには、柔らかい気がした……声そのものは。
 しかし彼に、それを気にしている余裕は無かった。
 声が聞こえてきた瞬間、飛んでいたから。
 視野にある風景が流れたことで、その瞬間に初めて気付いたくらい、直前までの自分と切り離されていて、落ち着いていられるはずもないのだ。
 少し遅れて、衝撃がやってきた。
 身体に伝わったのは、地面と自分とを切り離した外力。
 その唐突ぶりは、暴君の天罰とでも呼ぶべきだろう。
 そのミスマッチぶりが、彼を一層の混乱に導いた。
「がっ!」
 この瞬間のすべては、叫び声を上げることが出来た時間、その間に行われた思索。
 今まで一度として見たことはないが、これの密度が濃ければ、走馬燈と呼び名される代物と化すのだろう。
 身体が地面を転がり、惰性が尽きて動きが止まると同時に、そんな感想が胸の奥を駆け抜けた。
「早まってはいけませんっ! 何があったかは分かりませんけど、人生……諦めちゃダメですっ!」
 頭を上げ、声のした方を仰ぎ見た。
 そこに立っていたのは、一人の小柄な少女。
 しかし夕日に照らされて仁王立ちしているその姿は、さながら燃えているかのように見えて、とにかく力強さに満ち溢れていた。
 
 ―太陽に、手が届いた―

 それが彼の抱いた、偽らざる感想だった。
 それが彼女―日野茜と、彼との出会いの瞬間。
 まだ、何者でもない、プロデューサー候補生でしかない男の。



「大丈夫ですかっ!? お怪我はありませんか!? 救急車……いえ、ここは責任を取って、病院までおぶってダッシュで連れていくべきですかねっ!? 私が早とちりをしたばっかりにっ、こんな事になってしまうなんてっっ!!」
 目と鼻の先、喋ると吐息が掛かるくらいの距離まで近づいてから、彼女は一息で捲し立てた。
「い、いや、大丈夫だから。本当に」
 曰く、彼女が彼を突き飛ばしたのは、すぐにも川に飛び込んでしまいそうなくらいに、暗い表情を見せていたので、咄嗟の判断でそれを防ぐべくして、転ばせようとしてのことだったとか。ちなみに彼女は『こんなこと』と言っているが、派手にすっ転んでジャケットに埃が付いた程度で、怪我の類は全くない。
 というわけで『心配ご無用』と、先程から彼は繰り返しているのだが、一向に彼女の心配が収まる気配は見られない。
 まくし立て続ける、高いテンションも。
「ですがっ、後から後遺症が出ないとも限りませんっ! さっきのタックルは、会心の一撃でしたからっ!」
 小柄……身長150センチもない少女のタックルで、大の大人が数メートルもはじき飛ばされたのだ。なるほど、手応えが十分にあったのだろう。思わず相手の身体を心配したくなる程度には。
 もっとも心配のくだりは、いや、その前―そもそもタックルを仕掛けようと思った理由、
でもあるが、『目の前にいる相手を助けたい』という考え方が下敷きになっている。
 純粋にして無垢。
 一途にして直情径行。
 そんな性分が、浮き彫りになっているのだ。
 顔にも、声にも、態度にも。
 彼の心は、決まった。
 いや、既に決まっていた心情を、理屈で以て補強しただけだったかもしれない。
 太陽に手が届いたイメージが彼のうちに湧き出た、その瞬間に。
「後遺症なんて、そんな大げ……」
 言いかけた言葉を、咄嗟に飲み込む。
 それを天啓と呼ぶのは、恐らく天に礼を欠くことであろう。
 だがそれでも、それを用いない選択は、彼には存在しなかった。
 プロデューサーになりたいと願う意志、そのためにいま、ここにいるのだから。
 地を彷徨う亡者の前に、垂れてきた一本の蜘蛛の糸。
 彼は遠慮なく、それを手繰り寄せることにした。
 件の昔話でも、それ自体は罪でも、何でもなかったのだから。
 他者の追随を許さぬ狭量な態度こそが、かの男の罪であって。
「……いや、ちょっとはあるかもしれない」
「本当ですかっ!? それじゃあ、今すぐ病院へ行きましょうっ!」
「病院じゃあ、多分治せないと思うんだ」
「そんなにひどい大けがでしたかっ!? ああ、ど、どうすればっ!?」
 彼の言葉を真に受けて茜は頭を抱え、ぶんぶんと振り回している。それは彼女が真摯に悩み、かつ、その解決策を有していない現れと言えた。
 起点―怪我の程度について、理解を誤っているが故である。
 しかし真剣に思い悩んでくれるその姿には、裏も表もない。
 ただ、善良なだけの姿がある。
「えーと……茜ちゃん、で、いいんだよね?」
 ならば、人として応えねばならないであろう。すべては、その上に成り立つべきことだ。
 いかに彼女を知り得たきっかけ、それ自体―彼女の人の良さが、根本にあるにせよ。
「はいっ、そうです! 私は日野茜ですっ!」
「茜さんからは、こっちが死にそうに見えてた……んだよね?」
「はい! 何だかボーッとしてて、今にも川に飛び込んじゃうんじゃないかって思っちゃうくらいには、元気が見えなかったですねっ!」
 オブラートも何もあったものではない、瑞々しい言葉の数々。
 その刺激、まさに真夏の太陽級。
「……死ぬ気はなかったけど、元気がなかったのは本当。で、後遺症ってのはね、そっちの話なんだ」
 思わず太陽に手を伸ばしてしまった、ただ一つの理由。
「それはいけませんっ! 元気がなくちゃ、なんにもできません! おいしいごはんも、おいしくなくなっちゃいますっ!!」
 捜し物は、見つかった。
 だがまだ、それを手にしたわけではない。
 だからこそ、この瞬間が来たのだ。今、まさに。
「というわけで、このことによる後遺症を無くすために……」
 ついに抜かれた、伝家の宝刀。
 それは今の彼に与えられた、唯一無二の武器―名刺だ。
「……!? こ、こ、こ、これはっ!?」
 沈黙、のち、驚愕。
目を白黒させた茜が、プロデューサーと名刺とを交互に見つめる。
「やってみませんか、アイドル」
 交互に行き交っていた茜の瞳が、プロデューサーだけに向けられる。先程までと同じように。ただ、彼だけを見つめている。
 しかし、表情は異なった。
「本気ですかっ!?」
 真剣……いや、先程も彼女は真剣だったが、気配が大きく異なるのだ。
 それは詰まるところ、向けられている感情の差に他ならない。
 単に通りすがったところで見つけた、意気消沈していた男性を心配する気持ちと、自分にアイドルデビューを勧める男性に、その真意を問う気持ちが、全く同じなわけはないからだ。
「この目が、嘘や冗談を言ってるように?」
 まなじりを決した目で語りかける。
 少しだけ、そのまま瞳、逸らさないで。
「……わかりませんっ! ですが、信じますっ! その……アツく燃えている目をっ!!!」
 まず飛び出てきたのは、待ち望んでいた色よい返事。
「! それじゃあ……」
「でも、私にできますかね!? 芸能界とかアイドルとか、そんなの、考えたこともなかったですから!」
 しかし繋ごうとした言葉は、あえなく遮られた。
 彼女が示した、余りにももっとも過ぎる理由によって。
 しかしそれを再びして繋ぎ直す力が、今の彼にはある。
「できます! やれば……絶対に!」
 それはこの場所で茜に出会ったことで、与えられた力に違いなかった。
 ただ、本音で語るのみだ。
「おおっ、本当ですか! あ、でもアイドルって、一体何を目指してやればいいんでしょう!? 例えばラグビーなら、花園を目指して頑張るんですけどっ?」
 理屈は要らない。
 示すべきは、あるべき姿……目標だけだ。
 茜は自ら、アイドルを志して門を叩いたわけではない。
 だから彼女にはまず、形を与えなければならないのだ。目指すべき、アイドルとしての形を。そしてそれを、示さねばならないのだ。
 プロデューサーとして、彼女のために。取りも直さず、自分のために。
「それは……あれだ!」
 彼は人差し指を立てて、空のある一点を指し示す。
 日が沈み往く空……あかね色と夕闇とのグラデーションの先にあったのは……輝く一番星。
 日の沈み切らぬ空にその存在感を示し、他の星々に先駆けて光を増す輝かしい星にこそ与えられる、栄誉ある呼び名だ。
「星……星になるんですかっ! つまりアイドルって、宇宙に行くんですねっ! ロケットですか、それともシャトル!?」
 シャトルはもうない……という喉まで出掛かった言葉は、ひとまず飲み込むことにした。
「いや、そのまま星になるんじゃなくてさ……あの一番星のように輝く、いや、目立つと言った方が正しいか?……とにかく、そういう存在に、ってことだよ。それが『トップアイドル』なんだ」
「トップ……アイドル?」
「歌やダンスでファンを……いや、関わった人たちを元気づけて今日を乗り切る力を、明日を生きていくエネルギーを与える存在……それが『アイドル』。『トップアイドル』は『アイドル』のなかで一番、人を元気にすることができるんだ!」
 彼はそこで一度言葉を句切り、茜の両肩に手を乗せた。
「茜さん! 見ず知らずの俺に元気を取り戻させてくれた君なら、きっと『トップアイドル』になれる! いや……一緒に駆け上がってくれないか!? 『トップアイドル』への階段を……俺と、二人で!!」
 一世一代の大勝負。 彼の脳裏にはこの瞬間、茜以外の何もない。彼女以外をプロデュースすることなど、思いも寄らない状態にあるからだ。
彼女がこの誘いに乗ってくれなければ、その時点で彼のすべては潰えるのだ。
 抱いた野心も、叶えたい希望も、見た夢も―すべてが、夕闇に沈むように。
「う」
 茜の言葉は、『う』から始まった。
「う?」
 一文字目が『う』から始まる返事と言えば『うん』だが……?
 強い期待が心からわき上がってくるのを、彼は必死で押し殺す。
 もし違ったら、耐えられそうにないので。
「う……うう……!!」
 しかして、聞こえてきたのは呻き声にも似た、低い低い唸るような音。それも、腹の底から絞り出しているかのような、力の籠もったものだった。
「あ、茜さん?」
 想定していなかった展開に驚き、身を乗り出すようにして茜の表情を伺った。
 その瞬間。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!! 燃えてきましたあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 耳元で、空気が大爆発。
 その正体は、茜の絶叫だ。
 先程の唸り声は声を絞り出していたのではなく、絞り出すために貯えていた声が、漏れ出ていただけだったのだ、驚くべきことに。
「!!?」
 夕闇が迫る頃、橋の上で茜の絶叫に耳を塞ぐ彼の姿は、およそムンクの絵画『叫び』を思わせたことだろう。周囲にそれを解するギャラリーがいたら、の話だったが。
 残念ながら―あるいは幸運なことに、それは誰の目にも留まらぬ幻として、かき消えたのだった。しかし、もし彼の心象が絵になったのなら、背景は光焔を思わせる明るさで彩られたに違いない絵ではある。
 耳を塞いだままの彼の掌を突き抜けて、茜の声が響き渡る。
「アイドルになれば、ファンになった人たちを元気にすることができるんですねっ! ファンが増えれば増えるだけ、ファンのみんなが元気になるっ! ファンのみんなが元気になることで日本中が、そして世界中が、宇宙中が元気になっていく……つまり、そういうことですよねっ!?」
 それは全力での、彼の提案に対する肯定。
 先程までのすべての行動で全力だったように、今もまた。
「……!」
 黙ったままで、彼は首を上下に振った。
 耳鳴りが抜けないので、言葉を出せないでいるのだ。
「わかりました! 日野茜、アイドル、やらせていただきますっ!! よろしくお願いしますっ……?」
 不意に、耳に届く茜の声が小さくなった。
「……、ど、どうしたの?」
 おそるおそる耳から両手を離して、彼は口を開いた。
 自分の声がちゃんと出ているかを、確かめるように。
「えーと、なんとお呼びしたらいいのでしょうか……?」
 先程茜に渡した名刺には、間違いなく彼の名前が書かれている。
 しかし呼びかけねばならない相手が年上の男性、しかも仕事上のパートナーという関係性。それは彼女の人生において、初めてのことである。
 名字か、名前か。さん付け、くん付け、あるいは呼び捨て。
 絶対の決まりは無い。先だって話に出て来た事務所でも、アイドルとプロデューサーごとにまちまち、お互いにやり易いならそれでいい、程度のコンセンサスが見られた程度だ。
 だから彼は茜に、その呼び名を告げる。
「ああ、それなら……プロデューサーと呼んでくれればいいよ」
 プロデューサー。
 候補者という仮の肩書きが外れた、本物のだ。
 彼が彼女と繋がるための、アイドルという言葉に対するカウンターとしての看板でもある。
「プロデューサー……プロデューサー、プロデューサーですねっ! これからよろしくお願いします、プロデューサー!!!」
 大きく―上体が地面と水平になるくらい―頭を下げた茜の目の前に来るように、右手を差し出す。
「今後とも、よろしく」
 無論、握手を求めてのムーブだ。
「はいっ!」
 差し出されたそれを、彼女は両手で包み込んだ。
 思い切り、だ。
「……あ、ああ」
 大騒ぎするほどひどくはないが、それなりに刺激的な衝撃が、右手を貫く。
 僅かに額に滲む、季節はずれの汗。
 まず、彼女のボディランゲージに耐えうる身体を作ること。
 彼は自分の果たすべき使命の第一を、このように定義することにしたのだった……まさに、この瞬間から。
「それじゃあプロデューサー、早速ですが、教えて下さいっ!」
 そして、それに早速補筆が必要であると、次の瞬間には悟ることになる。
「……な、何かな?」
「駆け上がるトップアイドルへの階段って、どこにあるんですか!? 今からでもダッシュで上っちゃいますよっ!」
「あー、いや、この近くにはないかなぁ……」
「そうですか! 残念ですが仕方ないですね! それじゃあ今日の所は、うちまでダッシュしましょうっ! ちょっと遠いですけど、階段を上るのよりは楽ですよっ!」
「え?」
「それじゃあ行きますから、しっかりついてきて下さいね! そーれ、ダーッシュッ!!」
 タフネス(耐久力)と同程度のバイタリティ(生命力)。
 それもまた、欠くべからざる要件であると。
「あ、ち、ちょっと待ってくれぇー!」
 連絡先の交換をしていない―名前しか知らない現状で振り切られたら、再会できない可能性がそれなりに存在する以上、今の彼に走る以外の選択肢はない。
 しかし冬仕様の厚手の生地で出来ているスラックスとジャケット、そしてソールが固い革靴。走るというただそれだけの行為だが、これで中々に苦行なのである。
 それでも……分かっていても、踏入らずにはいられない。ただ、置いて行かれないように走る―走り続けるだけだ。
 手にした『プロデューサー』という肩書き失わぬため。
 彼女を、トップアイドルに導く―今やっとの事で具体的な形を結んだ、夢のため。
 そして何より手を差し伸べ……どころか、身体を張ってくれた、彼女―茜のために。



 日野茜。
『日』と『茜』……その名前に太陽と、その光の色を纏った娘。
 その熱さ、まさに太陽級。
 そんな彼女の光に照らされ、彼の姿が形を結ぶ。
 ただの男から、プロデューサーの名を冠した男へと。
 それは一年のうちで一番日が短い冬至に姿を現した、一つの奇跡だったのかもしれない。
 その日を境に太陽がだんだんと高く昇っていくように、彼女もまた昇っていくのだから。

『トップアイドル』と言う名の、穏やかならぬ階段を。

(続く)



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