Ruiner Flame


1 〜フェイバリット☆タイム〜

 風。
 喩えるならなのか……それとも、喩えるまでもなく……だったか。
 それ自体は形を結ばぬ空気の動きに過ぎないのだが、恐らく、この瞬間の在り方を形容するのに、これ以上相応しい言葉は存在しないことだろう。
 眼前を流れてゆく景色は移ろい行く、思っているよりも疾く。
 なるほど。
 形無き風が舞い上がることに、労を多とするはずもない。
 ならば、できないことはないはずだ。
 彼女が言う通りにやるならば。
『コツはバランスと、思い切り』
 そう、彼女のように!
 力強く地面を蹴って、体重を一枚の板に託した。
 スコーン!
 瞬間、まさに文字通りに、宙を舞った。
 思いがけず、己の身体一つで……。
 ドンッ!
「ぐはっ」
 そして地面に叩き付けられ、僅かに跳ね上がる。
 己が体を預け託した相棒は、どこへ消えたか杳として知れず。
 最早流れる風はなく、眼前の景色も変わらない。
 広がっているのは、留まり続ける青い空。
「プロデューサー、大丈夫!?」
 そして、顔を曇らせた小松伊吹だった。
 言わずもがなの、彼がプロデューサーとして担当しているアイドルである。



 事務所にて。
 それは、久々のオフを前にした日のことだった。
「……レッスン?」
 伊吹からの意外な提案を前に、プロデューサーは驚いた。
 来るオフの日に、自主トレをしたいという提案。
 それだけなら、どうということはない。むしろ喜んで然(しか)るべき、尊んで然るべき精神と言えよう。実際彼自身も、そのように思ってもいる。
 それが久々……何か月ぶりかの、完全なる休養日に対しての提案でなければ、だ。
 デビュー後目覚ましい勢いで売れ出した伊吹のスケジュールは、それはもう過密以外の何物でもない状況にあった。
 学園祭のゲスト。
 テレビ番組の収録。
 海外へのツアー遠征。
 ウエディングドレス着用に端を発したモデル業。
 彼女のズバ抜けたダンスセンスを売り込んでいるうちに、際限なく広がっていった活躍の場。
 その結果―というよりは代償として、ろくに休みのない日々が続いていたのである。
 いかに芸能界が『そういう』世界であるとはいえ、だからといって一顧だにもしないのは道義に悖(もと)ろうというものだ。
 というわけで、あれやこれやとスケジュールを調整し、どうにかこうにか久々に、丸々一日の休みを取れるようにしたのだが……。
「うん。なんていうか自主トレみたいなノリなんだけどさー、プロデューサーに付き合って欲しいなあー……ってね?」
 そこで伊吹から提案されたのが、これだった。
 面食らわずにはいられない―というものだ。
「まあ俺も予定はなにもないし、異存もないんだけど……いいのか?」
 やる気に水をさすほど野暮ではない。
 その意識の高さは、なによりも喜ばしいところでもあるし。
「? なにが?」
 それでも気になる、一つのこと。
「だってせっかくの完全なオフに―俺だぞ、俺。いつも見てるこの顔を見ちゃあ、あんまり休んだ気にならないんじゃないか?」
 仕事の時間が密になるにつれて、二人でいる時間も当然、長くなる。
 ことに彼女は未成年でこそあるが、就労に関しての制約をほとんど受けない年齢には達している都合上、どうしても高校以下の就学生より拘束時間が長くなってしまっていたのだ。
 最大限にリフレッシュして貰うためには、まさしく仕事の象徴である自分―プロデューサーの顔を見ない日が一日くらい、あったほうが良いのではないか?
 そんなこんなを考えた末の、言葉だったのだが……。
「ひょっとして……迷惑?」
 受けが悪い、どころの騒ぎではなかった。
 露骨に寂しいとも悲しいとも付かない顔をされては、立つ瀬が無い。
 そんな顔を見たいがために、提案したことではないのだから。
「いやいや、そんな訳ないって。俺としてはもちろん歓迎だ。いくらでも付き合うよ」
 全力でネガティブな要因を否定して見せた。大仰に頭を振って、手も振って。
「やったー! 約束したからね! あとからやっぱなしとか……それこそなしだから! じゃ、そういうことで♪」
 言質を取った伊吹が、意気揚々と帰っていく。
「あ、ああ。それじゃ、また明日」
 スキップ・バイ・スキップ。
 今日という日を乗り越えた、軽やかさを見せつけるようにして。
「……うーん?」
 予想だにしない展開。
 万事伊吹のペースで進められた予定。
 果たして自分は、何者であったのか?
 伊吹を見送り終えたプロデューサーは一人、首を傾(かし)げるのであった。
「……朴(ぼく)念(ねん)仁(じん)……」
 一部始終を近くで見ていた、ちひろのつぶやきをBGMにして。



「やっぱり……慣れないことは、するもんじゃないな」
 衣服の接地面に付いた埃をパンパンと手で払いながら、プロデューサーが伊吹に告げる。
 レッスンと聞いていたのでいつも通りの姿―背広姿で待ち合わせ場所にやってきたプロデューサーを出迎えた伊吹。
 その足下には車輪の付いた一枚の板……スケートボードがあった。
 なし崩し的にスケボーに乗せられ、言われたように繰ってみたつもりだったが……結果は冒頭に文字で連ねた通りであった。
 伊吹持参のプロテクターに、ヘルメットがあったおかげで怪我はない。
 強いていえば、彼女の前で曝(さら)した無様が一番のダメージだ。
「うーん……まだちょっとプロデューサーに、トリックを教えるのは早かったかな?」
 しかし伊吹に、そんなことを気にしている様子はどこにも、微塵(みじん)もなかった。
 トリック。無論彼女が言うそれは、詭計(きけい)や詐術の意味ではない。
 平たく言えば、スケートボード(スケボー)で行う技・魅せる技術のことである。
「生まれて初めてスケボーに乗って二時間……くらいだったか? なんとか走って、滑って、やっとのことで止まってが出来るようになったばっかりの俺には、ちょっとどころじゃなく早かった気がするわ」
 レッスンはレッスンでもスケボーのレッスン、しかもレッスンを受け(させられ)る側だったとは……と、今更ながらの感想を思い浮かべるばかりである。
 しかし多忙であったがゆえに、暫く( しばら )遠ざかっていた趣味に触れること、また、いつもと違って、人に教える側に立ってみようという試み、リフレッシュの効能を思えばかなり秀逸であるのもまた、確かなことであった。
 それがこの瞬間に至るまでの、プロデューサーの決断の軌跡である。
「見てたら意外とスジが良かったからさ、いけるかなー……って思ったんだけどねー」
 彼の手が届かない背中の汚れをはたき落としながら、伊吹は一連の結果に対して所見を述べた。
 総じて悪くない、ということらしい。
「買いかぶりすぎだよ、そりゃ」
 内心嬉しくはあるが、大ゴケしたあとに貰っても気恥ずかしさが先に立つのも本当の所であって、このような返しに至る。
「そんなことないよ」
 伊吹の声のトーンが、明らかに変わった。
 普段からどちらかというと軽妙なタイプだが、今のはそうではない。なんというか……微妙にしっとりとした雰囲気を纏(まと)っているのだ。
 彼女のもう一つの趣味である恋愛映画鑑賞―事後に感想を述べている、まさにその瞬間のような空気。
「……自信満々なんだな?」
 感想とは、本来疑ってかかるものではない。
 意見として表明する場合に、改めるところの有無は別にして、それ自体は感情が如何(いか)に動いたかということを知覚したもの……即ち( すなわ )『想い』だからだ。
 疑う要素が無い以上、自信に溢(あふ)れていて当然なのである。
「だってさ、アタシをこんな立派なアイドルにしてくれたプロデューサーでしょ? それだったら、元々のカンが悪いわけないじゃん!」
 その根拠は、自分がアイドルとして存在しているという事実。
 およそダンスしか取り柄が無かった―と思い込んでいる―小松伊吹、その人の。
「お、おう……」
 否定するような要素は一切無い。
 しかし大っぴらに肯定するのも、自分で自分をヨイショするようで気が引ける。
 いや、もっと本質的・根源的なところで、彼は言葉を失っていたのだ。
「もしかして……照れてる?」
 図星。
 今日の彼女はどうにもこうにも、言い様がないほどに冴(さ)えている。
「……」
 そしてプロデューサーが態度に表したのは、なによりも雄弁な沈黙。
 自分でも赤く染まっていると感じるほど紅潮している顔が、伊吹の発言のすべてを是とする回答であった。
「……へへっ!」
 瞬間、彼女はすべてを受け取ったのだ。
 彼の心から、その心へと。
「そ、そんなことよりさ、もっとみっちり基本から教えてくれよ。流石に担当アイドルの前で滑って転んでおしまい……ってんじゃ、縁起も格好も悪すぎだからさ」
 そんな彼女が相手だからこそ、可能な限りその想いに応えたい。
 それがプロデューサーの、偽らざるところだった。
 無論、多少なりだが意地もある。
「オッケー! アタシに任せてよプロデューサー! プロデューサーがアタシにいつも教えてくれるように、これはアタシが教えてあげるからさ! 専属コーチとして責任もって……ね♪」
 どうやらこれは、今日一日限りという話でもないらしい。
 それは間違いなく彼にとって、喜ぶべきことに―。



「プロデューサーは休憩の時間ね! その間はしばらく見ててよ……アタシをさ♪」
 暫くプロデューサー相手のコーチングに勤(いそ)しんでいた伊吹が、このようなことを言い出した。
 彼に異存はないので、大きく一つ頷いてスケボーを伊吹に引き渡した。肩で息をする程度には疲労困憊(ひろうこんぱい)した彼には、抗(あらが)う意志も気力もない。そして、その必要性もない。
 唯一障害になり得た意地は、肉体疲労に引き摺(ず)られる形で弱ったのでここでの出番はない。
 さておきプロデューサーから引き渡されたスケボーを伊吹は、自重自在に乗りこなしている。
『最近乗れてなかったけど腕は鈍ってないみたい! あれ? この場合、鈍るのは足かな? どう思うプロデューサー』
 ここに来た直後、こんなことを言っていた人物のそれとは、とても思えないほどに。
「気持ちー♪ さいこー♪」
 杞憂(きゆう)にも程がある……というものだ。
 ウォーミングアップで少しばかり乗ってからこっち、コーチングに専念していたというのに、自身が乗った瞬間からこれなのだから。
 伊吹はスケボーに乗ってこなかったというだけで、身体を動かしてこなかったわけではない。
 アイドルとして在るために、殊更に強くダンスを磨き続けてきた伊吹。
 そんな彼女のことを裏切るような、不義理な板などあるわけがない。
 動かしたように動く―それが万物普遍の物理的な本質。
「ダンスレッスンをずっとしてるからかな……前より乗れてるかも?」
 伊吹はくるくるとプロデューサーの周辺を回りながら、そんな言葉を漏らした。
 意が通じたのか。
 それとも偶然、気持ちが言葉に乗っただけなのか。
 彼女の指す『前』の実体がわからないプロデューサーに、厳密な意味での比較はできない。
 それでも、彼は告げる。
「キレてるよ。ダンスと同じくらい」
 彼が知っている姿に、重ね合わせて。



 彼女がアイドルとして、過ごしてきた時間を。
 レッスン場にある、彼女の姿を。
 ストリートにある、彼女の姿を。
 ステージ上にある、彼女の姿を。
 南陽の島国にある、彼女の姿を。
 パーティーにある、彼女の姿を。
 プロデューサーは、その中で備(つぶさ)に見てきた。
 彼女が光り輝く、その姿を。
 苦手だったボーカルは、目覚ましい成長を遂げた。
 元よりビジュアルは、人後に落ちるものではなかった。
 それでも、というべきか。
 やはり、というべきか。
 なにをおいても彼女が一番輝いている瞬間は、やはりダンスシーンだ。
 そして彼の目に映るそれは、彼のもっとも良く知る小松伊吹―その人なのだから。



「……へへっ!」
 伊吹は笑った。
 屈託のない笑顔の見本とでもいうべき、清々(すがすが)しさを湛えて。
「そこまで言われちゃったらさぁ、見せるっきゃないよね! アタシの……とっておきをさ!」
 言うが早いか、どんどんと遠ざかっていく伊吹。
 ダッシュで距離を詰めても十秒は優にかかるであろう距離から、声がした。
「そこでじっとしててねプロデューサー……動いたら危ないからー……」
 割と物騒な話が聞こえた……そんな気がした。
 危ない。
 平易な事態には冠されない言葉である。
 しかし同時に、条件付けもなされている。

 ―動かなければ、どうということはない。

 彼女の言葉を信じて、腹を括る。
 二つの眼は終始一貫、彼女をその中央に捉え続けている。
 やがて、彼女は走り出した。足下の道具に力を託して。
 彼の元へと迫り往く。遮るものなき道を、一直線に。
 耳に届くのは、地面とローラーの擦れる音だけ。

(もっと早く、高く、遠くへっ!!)

 伊吹は念じながら、地を蹴り―翔(かけ)る。
 プロデューサーの頭上を、流れ過ぎ往く。
 それは、いかにも太陽だった。
 払暁(ふつぎょう)からら黄昏(たそがれ)までを瞬(またた)きの間に模した、早足な太陽。
 それはいつも彼が彼女に見ていた、輝きそのものであった。
「決まった! もうバッチリ……最っ高っ!」
 拍手。一人分の二つの手で鳴らすことができる、その最大限を目指して。
 万雷にはほど遠くとも、あらん限りに。
「凄かった。なんていうか……俺もまだ知らないことだらけなんだなって、思い知らされたよ」
 ひとしきり手を叩き終えてから、賛辞を呈した。
「うん。アタシだって知らなかったくらいだからねー」
 予想外の答えに、プロデューサーは呆気(あっけ)にとられた。
「!?」
 しかし彼のあからさまな動揺を前にしても、彼女の口ぶりは変わらない。
「プロデューサーのおかげでわかったんだよ。アタシはプロデューサーが見ててくれるなら、なんだってできるし、どこまでだって飛べるってこと! だって、一番いいアタシを見ていてくれてるのは……見つけてくれるのは、いつだってプロデューサーだってコトに、気付いたから!」
 アイドル。そしてプロデューサー。
 それは互いに、なにかを求め合う間柄。
 そして互いが、互いにないものを与え合う存在。
 結果として生かし、生かされることで成り立つ関係。
 それを今更揺るがすような、本質を損なうことではなかったのだから。



 やがて本物の太陽が沈み、今日という一日は終わりを迎えた。
 充実した、『お気に入りの時間(フェイバリツト☆タイム)』が。
 お互いに一人きりでは、過ごし得なかった時間に違いなかった。
 そして昨日から連なる今日という日は、明日という未来へと続いていく。

 ―次なる『お気に入りの時間』へと。

(続く)



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