彼女の逍遙録


1 〜日暮れて道は遠くとも〜

 人生における旅立ちのことを、人は昔から『船出(ふなで)』という言葉に喩(たと)えてきた。
 とすればこのプロデューサーたる身は、既に船出を済ませ、航海中の身であることだろう。海……洋上には縁もゆかりもなく、関わりはいいところで浜辺海辺が限度、それ以上では、あろうはずもなかったのだが。
「おお……これは……」
 大きい。
 そして、高い。
 それに近付けば近付くほど全容が視界から消え失せ、一面の白い壁が迫ってくるかのようだった。目を上に向けるとビルのような数々の窓、そこから漏れ出ずる光が、それ自体のシルエットを闇の中に綺麗に切り抜き、浮かび上がらせている。
 途中からプロデューサーが言葉を失った理由は、その圧倒的な威容に気圧(けお)されたがためであった。
 数本のもやい(・・・)で岸壁に繋(つな)がれた、旅客船。
『豪華』という形容がお世辞にならない、立派なそれを目にしての一連の感想。
「……やっぱ金持ってんなぁ、うちの会社って」
 締め括(くく)りは、この一語に尽きた。



「船上パーティー、ですか……?」
 それはある日の、師走を迎えた事務所でのこと。
 会場が客船と聞いたプロデューサーはどこか、訝しがるかのように聞き返した。
 いや、よりはっきりと言えば疑っていた。それくらい実感に乏しいものとしてしか、受け止めきれなかったのだ。
「はい。今年はプロダクションが大きな成長を遂げることができました。ついては、社長がアイドルやプロデューサーさんたちの労(ろう)を労(ねぎら)うために、どうしてもと」
 彼の質問に答えるアシスタント、千川ちひろの表情は笑顔そのもの。プロデューサーに詳細が記された書面を見せながら、声が弾んでいる。
 およそ、楽しみで仕方が無いといった風情だ。
「社長が? そう言ったんですか?」
 そんなちひろを前にしても、なおも氷解にはほど遠い、彼が胸の内に抱きし疑問符の塊。
 社長という水戸黄門の印籠にも似た権威を持ち出されても、ちょっとやそっとで溶けるものではない。
「はい! 『どうしても』だそうです!」
 どうしても。
 強い言葉に置き換えるなら、『絶対に』辺りだろう。
 どうにも、そこが解せない。
「去年のアニバーサリーで……ありましたっけ? その、何か」
『どうしても』会場を移さねばならない理由。それが彼には分からなかった。思いつかなかったのだ。
『どうしても』と言うほどならば、『何か』あったと解する方が自然ではないか?
 例えば、トラブル。出入り禁止を宣告されるような『何か』がだ。
 所属アイドルは二百人を数え、そこに各アイドルのプロデューサーや事務所のスタッフが加わる大所帯だ。ひょっとしたら与り(あずか )知らないところで、何かが起きていたのかもしれない。少なくともプロデューサーには、自身が担当しているアイドル以外については責任を負う立場にないので、断言はできない。
 少なくとも、記憶にも噂にもなかったのだが。
「そういう訳ではないと思いますよ?」
 あっさりとした否定。
 大体ネガティブ含みの要素が原因であったなら、ちひろがこうも笑顔であるはずがない。 彼女は何よりアイドルと、アイドルのために在るプロダクションを何よりも強く想っているのだから。
 ―この二つのためならば、プロデューサーのことを顧みない程度には。
 だからこそプロデュースという仕事に就いている身にあっては、全幅の信頼を寄せることが出来る人物でもあるわけだが。
 立ち位置は違えども、向いている方向を同じくする……いわば『同志』。
 つまり事の発端が、トラブルに起因するものでないことは確実なのだ。
 ならば、恐れることも憂うることもない。
「なら、いいんですが。それにしても……よく賛成しましたね? 掛かるんでしょう、コレ?」
 言いながら、右手の親指と人差し指とで輪を作る。
 金。
 銭。
 マニー。
 なんと言い方を変えようと、必要なこれら。
 普段の仕事で使うような施設ではないだけに、どれだけ掛かるか分からない。
 しかしホテルの広間より、客船が安いとはとても思えない。
 彼女は先に述べた通り、アイドルたちのためならこちらに多少の……あるいは、多大なしわが寄ろうとも遠慮のない人物ではあるが、それらを支える事務所にシワが寄ることは極力避ける人物なのである。
 そこについては、誤謬(ごびゆう)が存在しないのか?
 彼がちひろに質(ただ)したのは、その源泉とも言える部分であるからだ。
「大丈夫ですよプロデューサーさん。社長がちゃーんと考えたうえでのことですから。あ、もちろん、私もですよ?」
 淀(よど)みない言葉。そして笑顔。
 それはイベントの真っ最中に、ドリンク類の調達を依頼したときのそれだ。
 そこから汲み取れる、事実と思しき事柄。
 一つ、ソロバンは、既にきっちりと弾(はじ)かれている。
 二つ、その結果は彼女にとって思わしい方向にある。
 三つ、今からこの決定された事柄に、異を唱えることは難しい。
 であるからには、回答における選択肢があるはずもなく、
「そうでしたか……それなら、こちらからは特に何も」
 異議なし。
 ただ社命のままに。
 所為、彼は仕事の割り当てに対して異を唱える力のない、しがない一般プロデューサーである。
「楽しみにしていてくださいね? 絶対に、思い出深いものになるはずですから……うふふっ」
 笑顔。
 あれこれと思うところはあるものの、やはり嫌いではないのだ。
 彼の早鐘を打つように唸(うな)っている心臓の拍動は、危機感だけによってもたらされているものではないのだ。決して。



 直接目にしたことのないものを、初めて目にしたときの、得も言われぬ高揚感。
 興味があろうがなかろうが、価値あるものに触れれば大なり小なり、人の心は動くものだ。
 それが喩え、無縁の世界にあったものだとしても。
 クルージングパーティー。
 それはプロデューサーにとって、全く未知の領域にある出来事。
 そもそも交通手段としての船からして、そうそう世話になることはない……それが、今のご時世であろう。少なくとも自動車、列車、航空機に比べれば、圧倒的に。
 生まれてこの方乗ったことがないという人物がいても、それが珍しくもない程度には。
 だからこそプロデューサーにとっても、目に映り込んだその巨体は、とても新鮮なものに映ったのだ。
 この一事をもってしても、既に思い出深いものと言えた。
 まだ、何も始まっていないにも関わらずだ。
 乗船ゲートで社員パスを提示し、タラップを登っていく。
 金属で出来たそれを踏みしめながら登っていくと、突如視界が開ける場所に出た。
 デッキだ。
「……おお」
 そこは紛(まぎ)れもなく、海の上。
 何枚かの床を隔てて、下が海 。
 そんなデッキの上を、見知った顔たちが歩き回っている。
 同じ事務所に所属するスタッフ、プロデューサー、そして……アイドル。
 そこには、いつもの事務所の空気があった。
 いかにもな非日常の中に置かれている、日常。
 なるほど、舞台装置としての価値もあったりするのか……などと、彼が妙なところに感心してしまうのは、ある種の職業病のようなものだった……かもしれない。
 いずれにせよ、こんな感想を頭の中でこねくり回せるだけの落ち着きが、彼に残っている証拠とも言えよう。
「さて……どこかな」
 船上をうろついているうち、場の空気にも慣れてきた。
 食堂とでも言うべきホールに辿(たど)り着いたところで、担当アイドルを探すべく方々に意識を配り始めた、その瞬間!
 プニョフワ。
 本来、その行為に音はない。
 だからこの『プニョフワ』というものは、彼が感覚に与えた擬音。
 柔らかい。
 ただただ柔らかい何かが、唐突に彼の背中を襲ったのだ。
 プロデューサーは、このパーティーの開催が初冬であることに感謝した。
 鎧の如き働きを見せる厚手の生地たちに、どれだけ救われたことか。
 ―理性が。
「私もアニバーサリーのお祝いをさせてください〜」
 遅れて耳に届いた声。
 間違えようはずもない。正体はまごうことなく、彼の担当アイドルだ。
 すんでのところで飛びきらなかった理性が、振り返るよりも先に一歩だけ、彼の足を進めさせた。
 密着したまま振り返ったら、そのまま正面で受け止めてしまう形になりかねない。
 一歩だけ、距離を開く。
 放っておくと、いつもいつでも距離を詰めてくる彼女を相手にするには、これぐらいしなければ保たないのだ。
 プロデューサーの面目やら、年上としての矜持(きょうじ)やらといった、色々が。
「菜帆……」
 進んだ先から、振り向きざまに声を掛けた。
 海老原菜帆。
 それが、彼の担当アイドルの名前だ。
「あ、プロデューサーさん、お疲れ様です〜」
 柔らかい笑み。
 その柔らかさは、先程の『プニョフワ』という感覚に勝るとも劣らない。
 スリーサイズが上から92/67/93。
 身体の中で、柔らかくない部位を探すことの方が困難な彼女にあって、それ以上に柔らかい……そんな笑みだ。
「お疲れ様。それにしたって挨拶の順番が……逆じゃないか?」
 流されそうになるところ、そこをぐっとこらえて、苦言を呈す。
 彼女は魅力的だ。
 そしてその魅力を、惜しげも躊躇(ためら)いもなくぶつけてくるのだ、プロデューサーに。
 嬉しくないはずはない。一介のプロデューサーとしても、一人の男性としても。
 ただ、距離が近すぎる。
 ヤマアラシのジレンマは、柔らかさの中にも存在しうるものなのだ。
「アイドルとプロデューサーさんの仲じゃないですかぁ! 水臭いこと言わないでくださいよ〜」
 しかし菜帆に、そんなことを気にする気配はない。
 今だけでなく、それこそ昔―と言っていいほど、古いかどうかは分からないが。
「その言葉、スカウトした直後にも聞いたっけな」
 出会った直後から、こうだった。
 ただそれだけの、しかし、揺るぎない事実。
「……えへへ、憶えていてくれたんですね〜」
 もともと柔らかかった笑顔が、一層。まるで、とろけるように。
「忘れることはないと思うよ、うん。それこそ生きてる限りはね」
 それは彼がプロデューサーとして、菜帆から刻み込まれた、原初の体験とでも呼ぶべきもの。その鮮烈さは脳裏に刻み込まれ、未(いま)だに色褪(あ)せることを知らない。
 そして彼をして、彼女をアイドルたらしめようとする所以(ゆえん)。
「それじゃあ私も〜……えい〜」
 プニョフワ。
 本日2回目。
 累計は今更、数は杳(よう)として知れず。さながら、今まで食べてきた和菓子の総数の如く。
 そして今度は彼がおよそ、恐れていたような形へと進化を遂げた。
 正面から逃がさぬようにと、ガッチリ抱き留められてしまっていた。
「菜帆、あのな」
「あいさつはもう終わったんですよね〜? 順番はこれで、いいんじゃないかと〜」
「順番というのは、その、例えというか……もっとスパンの長い話でだな?」
「プロデューサーさん、たしか私に言ってくれましたよね〜?『このままの私でもいい』って〜。 ですからこれは、あのころから変わってない私なんです〜。うふふ〜♪」
 だだ甘な彼女に釣り合う熱く渋いお茶のような境地は、どうにも、まだまだ遠い。
 頬を赤らめつつも渋い顔をしてしまう、未だ至らないプロデューサーであった。



 ボヤージュという言葉に、込められた三つの意味。
 船旅
 長旅。
 そして、人生の旅。
 なるほど、アイドルとプロデューサーとは互いが互いに夢を預け、目的地へと向かう旅のともがら(・・・・)。
 目的地が遠ければ遠いほど、困難は増す。
 しかしそれを同じくする限り、終わりの日は来ない。
 その時まで思い出を重ねながら、ともに進んでいくだけだ。
 折に触れて、重ねたものをめくったり、なぞったりしながら。
 航跡から現在地、そして目的地へと繋(つな)ぐために……。

 そして、船は航(ゆ)く。

*〜

「おいしいですか〜?」
 菜帆の言葉に、プロデューサーが無言で頷く。口いっぱいに広がっているチョコレートケーキが災い?して、言葉を発せないでいるだけなのだが。
「よかった〜。まだまだたくさんありますから、どんどん食べてくださいね〜」
 皿を空けるたびに追加されるチョコレートケーキ。
 さながらわんこそばの様相を呈している。つきっきりで追加してくれるのがアイドルというなかなかに贅沢(ぜいたく)なシチュエーション、やる気は当然あるのだが、いかんせん胃の空き容量が追いつかない。
 酒の一つも呷(あお)れば多少はマシになるかもしれなかったが、未成年の担当アイドルが傍らにいては、どうしても気が引ける。
 結局は、胃袋頼み。
 止まることなく、プロデューサーの握ったフォークは動き続ける。
 舷窓(げんそう)の外、流れていく夜景のように、せわしなく。



 この日行われていたライブに参加していたアイドル、プロデューサー、スタッフを最後に乗せて、船は動き出した。
 乗船のためのタラップが外され、最後のボートロープが陸岸から放たれた瞬間、ここは公に存在することを許された、一つの大きな密室となった。
 スケジュール上、東京湾を大きくぐるりと周回し再び陸岸に着けるまでの間、誰がやってくることも、誰が出て行くこともない密室。無論、厳密には不可能ではないが、それを行うためのハードルは極めて高く、現実的とは言い難い。
 つまり否(いや)が応でもプロデューサーとアイドルは、同じ時を過ごさざるを得ないのだ。
 一つ、限られたこの場において。



「ふう、喰った喰った。流石の俺も喰い飽きた」
 なんとか意地で完食にこぎ着けた上で、入念な『もう入らない』アピール。
 何事にも限度はある。
「ふふっ、おそまつさまでした〜」
「いやいや、美味しかったよ。ちょっとばかり、量が多かったけど」
 このパーティー、会場に並んでいた料理の多くがアイドルたちのお手製という、妙な方向に趣向を凝らしたものだった。
 ライブに参加しない手空(てす)きのアイドルたちを動員してパーティー用の料理を用意するという、ちひろ一流の経費節減策でもあったらしい。
 しかし主眼を置くべきは、そこではない。
「うちの事務所ってキッチン回りが充実しているおかげで、大きいケーキも難なく焼けちゃうんですよね〜。だからプロデューサーさんにいっぱい食べて欲しいってがんばってたら、あの大きさになっちゃったんですよ〜」
「確かに。元々はテレビに出る前の特訓用ってことだったのに、テレビ出演に関係なく誰かがいつも使ってるもんな」
 一部のプロデューサーが毎日大量の小麦粉を仕入れているのは、今では見慣れた景色であった。そのレベルでの『毎日』である。
「お料理って楽しいですよ〜。作るのも食べるのも」
「そういえばさっきのチョコレートケーキも、もともとは他の子たちと作ったんだっけ?」
「そうです〜。ちょうどバレンタインの頃に、チョコのお菓子を作る相談をしている所に居合わせたんです〜」
 なんでも聞いた話では、ほとんど調理経験がないお嬢様たちが、調達したカカオ豆を前に途方に暮れていたところに居合わせたおかげで、成り行き上参加することになったのだとか。確かに後でケーキ作りに参加したアイドルの陣容を尋ねたところ、菜帆抜きで調理を強行していたら悲しい結末にしかなならなかったであろう。
 今となっては公には確かめることができない、拡大された意識の外に置かれているエピソードであることがいかにも惜しいばかりである。
「みんなの評判は良かったけど、俺にはひとかけらも回ってこなかったんだよな」
「あれは友チョコでしたから〜。プロデューサーさんも、お仕事でいませんでしたし〜」
「まあ……あの日があって今があるなら、悪い話にはならないんだけどさ」
「私もやっぱりプロデューサーさんにも、食べて欲しいと思いましたから〜」
 それがこの瞬間まで続いた、チョコレートケーキの物語。
「それにしても意外だったよ」
 そして思い出したのは、ふとした疑問。
「?」
「いや、和菓子党だと思ってたから、ケーキ……洋菓子作れるとは思ってなくてさ」
「ああ、それですか〜」
 菜帆が、ポンと手を叩く。
「バレンタイン前にチョコまんじゅうを作る練習をしてしましたから、そのおかげかもしれませんね〜。色んなお菓子の作り方を勉強して……やっとのことでできた自信作だったんですよ〜」
「……なるほど。あれも確かに美味しかったもんなあ」
「うふふ、プロデューサーさんさえよかったら、いつでも作ってきますよ〜?」
「そいつはうれしいけど、ダメだな」
「え〜? なんでですか〜?」
 今日初めて菜帆が見せた、困惑する表情。
 果たしてこの系統の表情を、出会ってから何回見たことだろうか。
 希少な経験には違いないのだが記憶にとんと存在しないのは、それほどありがたいものではない……からだろうか。
 ともあれ、彼女のやる気を不必要に削(そ)がないためにも、明確に論拠をもって説明しなければならない。
「そんなことになったら、今以上に和菓子屋さん巡りに熱が入っちゃうだろ?」
「そうですね〜」
「だからさ」
 彼女の持ち味は、無論のこと『プニョフワ』どこもかしこも柔らかい、その身体にある。
 しかしアイドルである以上、発揮して貰(もら)わなければならないパフォーマンスがある。
 ことダンスのシーンにおいては、過剰なウェイトは本当にただの『重し』でしかない。
 ダンスレッスン担当のトレーナーから釘を刺されているアイドルの一人として、どうあっても現状を維持して貰わなければならないのだ。
 度が過ぎた場合先に待っているのは、俗に『地獄の特訓』と称されるほどの、スペシャルなレッスンメニューであるからして。
「それじゃあたまーに、くらいにしておきますね〜。こういうパーティーとか、バレンタインとか、お誕生日とか〜」
 つまりは、現状維持。
 これこそプロデューサーが望んだ、満額回答だ。
「うん、それで頼むよ」
 一件落着。
「ところでプロデューサーさん、和菓子と洋菓子の大きな違いって、知ってますか〜?」
 プロデューサーがそう思っていたところに、続く菜帆の声。
「いや……?」
 菜帆の意図を読み切れず怪訝(けげん)な表情を浮かべている所に、その答えが示される。
「洋菓子って和菓子よりも、動物性のものを多く使うんですよ〜。たとえばバターとか生クリームとか、チーズとか。それに比べて和菓子って、小豆とか寒天とか、そういうのが多いんです〜」
「ふむ」
「だから和菓子は洋菓子より、太りにくいんです〜。食べ歩きしても安心なんですよ〜」
 そう来たか!
 思わず唸(うな)りたくなったのと同時に、片時も目が離せない子だとの認識を新たにしたプロデューサーだった。
 いつだって、視線は釘づけだったのだが。



 知り得たことを元に、知り得なかったことを手繰り寄せる。
 そこに浮かび上がる姿は形を結びつつも、なお漠然としていてすべては知り得ない。
 故に、人はこれを観ようとして目を凝らす。
 朧気(おぼろげ)であるが故に、むしろ焼き付けようとする。
 それが、偶像(アイドル)。
 なるほど、彼女は既にアイドルだ。
 彼は既に、彼女から目が離せない。
 それはさながら、混み合う航路にある、船を観るかのようなもの。
 目を離すわけにはいかないのだ、片時たりとも。



「ところで、一つ聞いていいか?」
 ゆっくりとした時間が過ぎていく中でプロデューサーは菜帆と二人、並んで海を見ている。
 そして海越しに見える、夜景を見ている。
 周辺には他のアイドルやそのプロデューサーがちらほらと、同じような風情で船旅を楽しんでいる。たまに得も言われぬ禍々(まがまが)しい気配が漂ってくることもあるが、それは彼の与(あずか)り知った話ではない。無縁の一言に尽きた。
「一つといわず、いくつでもどうぞ〜」
 一つと絞ったのは愚問だったか。しかし不意に会話が途切れた直後だったので、どうしても何か理由のようなものが欲しかったのだ。
 話しかけるに値するような、何かが。
 彼を無用の配慮に駆り立てたのは、この穏やかに過ぎている時間。
 他に何をすることもない、ただ、菜帆と過ごす時間。
 無駄に使いたくはないが、この二人、並んで海を見ている時間は断じて無駄ではない。
 ならば、ここで口を開くという行為は、あるいは無駄なのか、それとも有益なのか。
 なぜだか、そんなことが気になったのだ、無性に。
 しかし菜帆には、彼のような気負いはない。
 それが同じ時間を共有していながら、同じような振る舞いに至らなかった道理である。
「オホン。えーっと……楽しいか、アイドル?」
 口にした瞬間、後悔。
 何に繋(つな)がることも無い問いだ。
 そもそもこの質問で、いったいどのような答えが返ってくることを望んでいるのか。
 万が一『ノー』に類する回答を突きつけられた場合、続ける言葉があるのか。
 今の瞬間に至るまで、彼女に大きな影を認めたことはない。
 つまるところ、自分の目が信用できないと、ぶちまけたようなものではないか。
「もちろん楽しいですよ〜。もしもつまんなかったら、笑顔になれるはずないじゃないですかぁ〜」
 しかしそんな彼の逡巡を( しゅんじゅん )余所(よそ)に、きっぱり・くっきりとした答えを返す菜帆。
 状況的には、問いに入る前と何ら変わるところはない。
「そうか……ならいいんだ」
「あ〜、でも一つだけ不満なことが〜。ほんと〜に、ちょっとしたことなんですけど〜」  胸をなで下ろしたところに、この一言。
 心がざわつく。
 プロデューサーとして、欠けていたものの正体。
 およそ吐き尽くした言葉は、このためだったか。
 刮目(かつもく)して、菜帆の顔を凝視する。
 どのような言葉が飛び出してくるかと、その瞬間を心待ちにしながら。
 一言一句、聞き漏らすまいと。
「それはですね〜……」
 菜帆もまた、プロデューサーを見つめている。
「プロデューサーさんがプニョフワを、楽しんでくれないことなんですよ〜」
「……え?」
「さっきもそうでしたよね〜。私があいさつをしたのに、すぐ避けようとしちゃうんですから〜」
「え? え?」
「プロデューサーさんの視線はうれしいですし、よーく効くんですけど……私の一番の魅力をプロデューサーさんがカラダで感じてくれないの、寂しいんですよ〜? ほんの少ーしだけ、ですけど〜。プロデューサーさんが居てくれなかったら、アイドルにはなれなかった私ですから〜」
 あっけらかんとした口調に、含むところは感じられない。
 だから本当にこれは、些細(ささい)なことなのかも知れない。
 ただこの瞬間まで、そんな彼女の意を汲(く)むことが、全くプロデューサーは出来なかった。
 その意味では確かに愚問だったが、必要な問いではあったのだ。
 あるいは、彼女の気質(きしつ)と善意の上にしか成立し得ない、まぐれ当たりのような成功だったかもしれないが。
「……足りてねえな、俺。いろいろとさ」
「その分私が余ってますから、ちょうどいいと思います〜。いろいろと〜」
 瞬間、二人で笑い合ったのだった。



 プロデューサーに許される『プニョフワ』の限界点はどこか。
 二人で語り合い、ひとまず得た結論はというと……。
「気持ちいいですか〜?」
「ああ、最高だ……」
 彼の口が音を発するそこは、菜帆から丁重に拝借した膝の上。
 頭と首は今、ひざまくらの上にあった。
 目線を遮るのは、二つの山。
 そこを彼女が潜るように視線を送ることで、初めて目が逢(あ)うステキ仕様。
 古来、人は理想郷をして『桃源郷』と詠んできたが、なるほどなるほど、こういうことだったのかもしれない……そんな悟りめいた言葉まで浮かんでくる始末。
 これほどの行為、本来であればもっと心の敷居は高いはずだが、今この瞬間にあっては、どうでもいいことであった。
 語り合う最中に彼らが目にしたもの……それは、成年アイドルとそのプロデューサーたちが織り成した、酒に塗れての行状、その一部始終。
 聞きしに勝るその様を目の当たりにして『これくらいならいいだろ』と、心の中のバリアフリー化が劇的に進行した結果なのである。
 そして、社長とちひろの慧眼(けいがん)に感謝する。
 憂う瞳は過去ではなく、現在を見通していたのだ。
「なんだか……眠くなってきたよ……」
 上質な寝心地故に、プロデューサーのもとに睡魔が一気に駆け寄った。
「いいですよ〜。そしたら、私も一緒に眠っちゃいますから〜」
 およそ外には出せない、うたかたの夢。
 だが、これでいい。
 なにせ、夢なのだから。



 彼らが夢の中にある間も、船は走り続けた。
 そして、朝が来る。
 幻と並んで語られる夢からは、醒めなければならない時が……。



 船が接岸し、再びタラップが架けられた。
 もうここは、単なる地続きの構造物……その辺りのビルと、さして違う意味を持つものでもない。
 日常へと戻らなければならない―乗り合わせた全員に告げられた、明確な合図とも言えた。
「終わっちゃいましたね〜」
「長かったような、短かったような……まあでも、いいパーティーだったよ」
「そうですね〜」
 先を争って船から降りていくアイドルやプロデューサーを、なんとなく後ろから見送っている。
 先を争わねばならない局面というのは確かにあるが、それは今ではない。
 ましてや菜帆は、明らかにそういったことを志向していないタイプだ。
 ゆっくりのんびりと行きながら、そのうちたどり着ければいい。

 寓話(ぐうわ)によれば、ウサギはカメに勝たないのだから。

 (続く)



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