裕Believe


1 〜堀裕子、『さいきっく』を頼みに決起す〜

 芸能界に、アイドルブームが吹き荒れている。
 多種多様なアイドルたちがステージにテレビ、イベントやCD、はたまた映像媒体へと華麗に進出を遂げている今日(こんにち)、一年前に旗揚げしたばかりの新進気鋭の小規模な芸能事務所といえども、その恩恵は充分―いや、十二分であった。
 極めて短期間のうちに、世間に広く知られるアイドルを得ることが出来たのだから。
 ただ、それしきのことで満足しているわけにはいかないのだ。

 たとえば、この人。
「ああ忙しい、忙しい!」
 猛烈な勢いでキーボードを叩きながら、呟く人影。
 しかしその表情には言葉と裏腹に、一寸の淀(よど)みもなければ曇りもない。
 見慣れたものからすれば、なんとも頼もしくも恐ろしい表情なのだった。
「ず、随分とゴキゲンですね……ちひろさん」
 件(くだん)の人物は千川ちひろ。この事務所の事務を一手に担いつつ、プロデューサーのアシスタントとして諸々(もろもろ)の雑用やスケジュール管理、備品や衣装の調達に業務を効率的に処理できるようになる医薬品の調達等々、彼女無くしては事務所の業務一切が回らなくなると断言してもいいほどの重要人物である。
 そして先の言葉を発した、プロデューサーと呼ばれる人種。

 アイドルという存在を、世間に送り出すことを生業としている人々は。
 成すべきことは、いくらもある。
 風があろうが、なかろうが。



 プロデューサー、何とも良い響きではないか。
 そんな思いに捕らわれたことから事務所の門を敲(たた)き、早一年。
 それはちひろの頼もしさ、そして恐ろしさを知るに当たって、決して短い時間ではなかった。
 それはもう、骨身に沁(し)みるほどに。
「ええ! まさか一年足らずで北海道にまで営業拠点を構えることが出来るようなるなんて、夢にも思ってませんでしたから。これも、プロデューサーさんの頑張りのおかげですね。うふふっ」
 そんなちひろの、満面の笑み。
 アイドルたちが大好きと公言して憚ら( はばか )ないちひろとしては、そのきっかけとなる窓口が増えることが、何よりも嬉(うれ)しいのだ。
 都内から始めた営業活動。
 横浜、千葉、埼玉と言った関東近郊から徐々に大阪、京都、神戸、広島、福岡、名古屋と遠方に拠点を広げていき、つい先日、北海道拠点の設立が決まったばかりなのであった。
 冒頭で語られたように、僅(わず)かこの一年余りでである。
 プロデューサーに掛かる負担は、決して軽くなかったのが実情である。
 名古屋に拠点を開いたのが三か月前のこと。多少ペースは落ちたものの、所属アイドル数は拠点の増加と共に増える一方。仕事が楽になるはずはなかったのだ。
 プロデューサーとして楽しくないわけではない。
 ただただ、未知なるものが恐ろしい。
 それをひたすらに、喜ぶものも含めて。
「そういえば北海道には、もうスカウトが出発したとか?」
「ええ。なんでも有望な子がいるとかで。なんでも、ロシアとのハーフの子らしいですよ。資料、見ますか?」
 ごそごそと、デスク上のファイルを漁(あさ)り始めたちひろを制するように答える。
「いえ。もう動いてる話なら、どう転んでも私の仕事にはならないでしょうし……あとで見せて貰うことにしますよ。結果でね」
 スカウトの成否。そしてプロデュースの成果。
 それらを一つに纏(まと)めてくくった結果という言葉の中にあるものは、明確な同僚プロデューサーへのライバル心だ。
 ライバル(RIVAL)という言葉は、ラテン語で『小川』を意味する言葉から派生したという。即ち水源を競い合う行為から転じて、競い合う相手を指すようになっていったのだとか。
 同僚という名のライバルたちの活動に彼の心は刺激され、猛(たけ)るばかりだ。
「そうですね。新しい拠点も出来て、スカウトしなくちゃいけない子がたくさんいるはずですからね! プロデューサーさんには、そちらをお願いしますね!」
 発掘されることを待っている才能が、新しい拠点にはいくらも眠っているはずだ。
 だから焦らずに、それを見つけ出して育てれば良い。
 小川を巡って争った時節は、とうの昔に過ぎ去っているのだ。
「はい。……っと、あれこれ片付けている間に、もう昼時ですね。そういうわけで、私はこの資本たる身体を維持するために、昼食とします」
 猛スピードで駆け抜けた仕事の日々。
 平素において、何より大事なのはスタミナだ。スタミナが尽きては、お仕事もままならない。これは大概この界隈(かいわい)において、不変の事実である。
 隣近所の同業他社においても、さして変わるものではない。
 ここぞという時以外は、ドリンクに頼ることはないのだ。
「はい! 私のことは気になさらずに、どうぞ! ところで、今日はなんですか?」
 こう尋ねてきたちひろのデスク上には、これ見よがしにドリンクの瓶が鎮座している。
 というよりも、彼女がドリンクを切らしているところを見たことは、入社後一度たりともない。
 それは間違いなく彼にとって、謎の一つであった。
 しかし今は、それを紐解くべきタイミングではない。そんなものがあるのか、来るのかもまた謎ではあるのだが……。
 何にせよ心底寒いこの一月、腹が減っているシチュエーションを予測して彼が準備した、腹に、体に、最も効果的な一食。
「カレーです! あ、寒い日は内から、温めるに限りますから」
 妙に熱が入ったのは、おそらくカレーとする決め手になった人物の顔を思い出したからであろう。この事務所の所属アイドルの誰に聞いても、最も熱い血が流れていると満場一致で認められる人物、彼女そのままの勢いだったからだ。
 ……『そのまま』は嘘だった。彼女の半分くらいなら届いているだろうか。
 世の中、及ぶべくもないということがいくらもあるのだ。
「カレー弁当ですか……なるほど。私はキリのいいところまで済ませたら、外に食べに行きますね」
「ではその間、電話番してますので、遠慮無く」
「はい!」
 契約成立。
 しかし実効性を持たせるためには、さっさと前提条件を整えねばならないのだ。
「それじゃ、いただき……?」
 プロデューサーが取り出したカレー弁当の封を解き、使い捨てのスプーンを手に取ったその瞬間のこと。
 彼は知らず知らずのうちに、言葉を紡ぐのを止めていた。
 全身も、動きさえ忘れたかのように固まって。
「どうしました?」
 そんな彼の異常を察した、ちひろが声を掛けた。
 先の約束がある限り、あながち無関係ではないポジションであることも大きいのだろう。
「いえ、これを見てください。ついてきたスプーンなんですけど……」
 彼が一瞬にして言葉を失った理由。
 それは総ての神経が一点に集中し、この奇っ怪な謎のことで一杯になったからだった。
 文字通り、言葉さえ失うほどの謎。
「……綺麗にL字に曲がってますね?」
 後から現物を見せられたちひろでさえ、首を傾げるスプーンの形状。本来概ね平行であるはずのヘッドとグリップが、綺麗にL字型に曲がっていたのだ。
 形状的には既にスプーンではなく、おたまの方が近い。
「はい」
 本当に綺麗な……初めからこの形に誂え( あつら )られたのではないかと思われるくらいに、綺麗なL字なのだ。
「もしかして、電子レンジでスプーンごと温めましたか?」
 故に、ちひろのこの問いかけは、即座に彼に否定された。
「そもそもカレーと別々で受け取ったものなので、そんなことはありません。少なくとも受け取った直後は普通の形をしたスプーンでしたし。うーん……?」
 プロデューサーが考えれば考えるほどに有り得なく、謎は深まるばかりであった。
「まあまあプロデューサーさん、考え込んで直るものでもなさそうですし、ここはひとまず給湯室のスプーンでも使ったらどうですか?」
 それはそれとして棚上げし、話を、即ち食事を先に進めることを勧めるちひろ。
 なるほど、いかにも怜悧(れいり)な彼女らしい、現実的な提案ではないか。
「そうですね。それでは給湯室の……」
 ちひろの提案に同意したプロデューサーが、椅子から腰を上げたその時。
 ……彼女(それ)は、唐突にやってきた。
 予兆は、確かに存在したのだ。
 誰もそれをこれとを関連づけることが、できなかっただけで。
 ドンドンドン!
 激しくドアがノックされる音がした。
 インターホンは鳴っていない。全く。
 ダーン!
 件のドアが、勢いよく開かれた音だった。
 事務所内から、ノックへの応答はしていない。
 間断ない一連のアクションに対して、対応している時間がなかったからだ。
 事務所に所属しているアイドルの中に、勢い余って似たようなことをやらかしそうな子が幾ばくか居なくもないのだが、今日は全員が仕事で出払っていて、事務所に戻ってくるような時間でもなかった。
 そして、開かれたドアから飛び込んできた姿にも、全く見覚えはない。
 ぱっちり大きく開かれた目と、綺麗に束ねられたポニーテールが印象的な娘だ。
 プロデューサーは一瞬にして、視線を奪われた。それこそ、L字のスプーンなど目ではないくらいに。
 それ自体がプロデューサーがこの時点では見ず知らずの少女に下した、最初の評価だった。
 言い換えるなら、『直感』だろうか。
「さいきっく〜、こんにちわっ!」
 端正な顔についている口から飛び出してきたのは、挨拶……と解釈して良さそうだ。
 語頭の『さいきっく』と言う言葉が余りにも意味不明過ぎて、一々解釈しなければ挨拶とも思えなかった。
 目からの評価は疑う由もなかったが、耳からの評価は疑いだらけだ。
 そしてよくよく見るとその手には、先割れスプーンが輝いている。
「え? さいきっく……? スプーン?」
 呆気(あっけ)にとられて、やっとの事で絞り出した言葉がこれ。
 そう、これだけ。
 これで精一杯だった。
 一瞬して視覚情報を失わせるエフェクトを『フラッシュアウト効果』と言うが、彼の頭に生じたのは正(まさ)しくこれであった。
 目から得た情報による評価にさえ疑義を与えかねない新情報を加えて再構成した結果、焼き付いた印象を二つ並べたものを、繋(つな)げて放り出すよりほか、何もなかったのだ。
 ただ、間を持たせながら、思考を立て直す時間を稼ごうとの本能から。
 しかし彼女は、プロデューサーが発した言葉を聞き逃さなかった。
『さいきっく』という、その一言を。
 およそ、待っていたのだろう。食いついてくるこの瞬間を。
 おほん、と、咳(せき)払い一つ。
 そして彼女が、そこから紡ぎ始めた言葉は―。

「アー、アー、私は超能力者デース。このスプーンを曲げるデー……」
 目の前にいるはずの彼女の言葉は、なぜだかとても遠かった。
 捉え所がないものとの距離など、測れるはずもないからだろう。
「……あの、すいませんが、もうちょっと普通に話せませんか?」
 プロデューサーは恐る恐る、相手の反応を伺うように声を掛けた。
「え? あ、普通に自己紹介ですか?」
 言葉は通じる。
 それだけのことで、ホッと胸をなで下ろした。
 これが彼女―堀裕子と、プロデューサーとのファーストコンタクトだった。



 名前:堀裕子(ほりゆうこ)
 年齢:16歳
 身長:157cm
 体重:44kg
 B―W―H:81―58―80
 誕生日:3月13日(魚座)
 血液型:O型
 利き手:右
 出身地:福井

 彼女に詳しく話を聞くとアイドル志望と言うことだったので、プロフィールをシートに記入してもらったプロデューサー。
 上から順に目を通していくが、別段おかしいところは見受けられない。
 ……最下段『趣味』の項目以外は。

 趣味:サイキックトレーニング

 サイキック。
 辞書によると『霊能のある人。超能力者。また、超自然的なさま』とある。
 何のことだか、これだけ見て分かる人が果たして、どれほど居るものだろうか?
 というわけで必然として、プロデューサーは追加の説明を求めた。
「私の特技は、超能力ですっ」
「……はい?」
「特技の超能力……さいきっくぱわーを増幅するためのトレーニング。それがサイキックトレーニングですっ!」
 説明により、増えただけの謎。
「……えーと……」
「その疑いの目、わかります。わかっていますとも。さいきっくぱわーは誰にでもある力ではありません。見たことがないものは信じられない……当たり前の話です! 私でさえ覚醒した瞬間は、自分のことが信じられませんでしたからね!」
 反応に困る数々のワードに対して口ごもってしまったところに、重ねられる裕子の言葉。
 言葉の節々から、疑いの眼(まな)差しで見られていることに慣れていることが窺え( うかが )た。
 それと同時に、自分の力―超能力の存在を、微塵(みじん)も疑ってないことも。
 自信満々、余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)。
 前提を当たり前として並べ立てていくその姿には、感心せざるを得なかった。
 残念ながら、言葉の意味はよく分からなかったが。
「そこでっ! 今からっ! スプーン曲げますよ! サイキックアイドル予定者、エスパーユッコをとくとご覧あれ! えいっ!」
 叫び声と共に裕子は、持参したスプーンを握りしめて、念を込めた―ように見えた。
 念もまた、人の目に見えるものではなかったので、そう考えた……考えるしかなかったのだが。
 人は理解したつもりにならねば、考えられない生き物なのだ。
 既にアイドルである気分を前面に押し出して、自らをユッコと称した少女はスプーン曲げに取り掛かったのだった。



 冬至を一か月前に越えたといえども、冬の日はまだまだ短い。
 明らかに太陽が傾いたことを告げる斜陽が、窓から差し込んできていた。
 昼時は既に大きく越えて、夕刻へと差し掛かっている。
「ムッ……ムムッ……ムムムムムッ!」
 真剣な眼差しのまま、時折唸(うな)り声を上げる裕子。
 金属製の先割れスプーンに、形状が変化している気配はない。
 この儀式(セレモニー)は、いつまで続くのか?
 終わる瞬間が訪れるイメージがプロデューサーには、微塵(みじん)も湧いてこなかった。
 そんな折に、手元に差し入れられる紙片(メモ)。
 コーヒーのおかわりに添えるようにしてあったものだ。無論、差出人はちひろである。
(そろそろ)
 何かを促す、主語のない言葉。
 それでいて、十分過ぎる言葉。
 求められているのは、決断。
 ちひろは背中を押すことはあるが、決定はしない。
 およそそれが、アシスタントとしての職分だと考えているのだろう。
 プロデューサー。
 彼はこの響きに値する、決断を下さねばならない。
 一人睨(にら)めっこを続けている、彼女に対して……。
「どうやら、曲がらないようですね……」
 数時間ぶりの沈黙を破って、プロデューサーが告げた。
「曲がらない……いやまさか、そんな……」
 誰の目にも明らかな、数時間の試練の結末を。
「では、この辺で、ひとまず終了と……」
 プロデューサーが言いかけたのを、遮る絶叫。
「待ってください! 必ず……必ず曲がりますから! どうか……どうか、もう一度だけチャンスを! お願いしますっ!!」
 スプーンを両の手のひらで挟み込んで合掌すると、裕子は深々と頭を下げた。
 先程まで漂っていた必死感に、悲壮感までついてきた。
「あ、はい。スプーン曲げについては、またそのうち。当事務所……いえ、私はあなたを、アイドル候補生として採用したいと考えていますが、それでよろしいでしょうか?」
 長くなりそうなサイキックの実演よりも、プロデューサーとして優先すべき話題。
 それは、彼女の処遇についてであった。
「ええっ!? ま、まだスプーン曲げてませんけど……いいんですかっ!?」
「当事務所に手を使わずにスプーンを曲げたことのあるアイドルは、今のところ誰も居ませんので……特に問題はありませんが?」
 裕子は一つ、考え違いをしていたのだ。
 彼女は『サイキックアイドル』でありたいがために、プロデューサーの前でアピールを成功させることが、そのまま絶対条件だと思い込んでいたのだ。
 サイキックパワーに関する話は基本的に裕子から持ちだしたものばかりで、それが存在するという前提の元に立って話を進めてはいない。確かに追加の説明を求めはしたが。
 説明に説得力を持たせるための実証に力が入るのは、当然と言えば当然か。
 会話を近くで聞いていたちひろが、くすくすと笑っている。
「そ、それじゃあ!?」
「はい、当面はレッスンなどが中心になりますが、いずれ、アイドルとしてデビューして頂きます」
 正直な所、現時点ではプランも何もない。
 何せ出会ったのは数時間前のこと。しかも不意を突かれた形の飛び込みでだ。この状況で一から十までデビューの計画を立てられるほど、彼は豪腕のプロデューサーではない。事務所も威を以(もっ)て圧するほどに強大ではない。
 それでも、彼は言い切ったのだ。アイドルとしてデビューさせると。
 彼は、賭けてみたくなったのだ。
『サイキックアイドル』という自分のありたい姿を真摯に追い続ける姿に、自らのプロデュース力……その総てを。
 ただの騙りやハッタリではない、彼女が持っている『何か』に……。
「もしかして、私をアイドルにしちゃう超能力を持ってるんですか!? あ、ありがとうございます! この美少女エスパーユッコ、必ずや、なってみせます!スプーン曲げ……だけじゃなくて、いろんなミラクルをみんなに届けられる……サイキックアイドルに!」
 色々な意味で途方も無い、彼女の夢に。
「それでは、今後ともよろしくお願いします。呼び方は……裕子で?」
「ユッコでお願いします! えーっと……」
「そういえば、こちらは名乗っていませんでしたね。プロデューサーで構いません」
「それでは改めて! プロデューサー、これからエスパーユッコを、よろしくお願いします!」
 ユッコがスプーンを左手に握りながら、プロデューサーに差し出したのは右手。
「こちらこそ、ユッコ」
 それを迎えて、握り返すのはプロデューサーの右手。
 それは柔らかく、温かい手だった。
「ふふっ、よろしくお願いしますねユッコちゃん」
 二人の横にいつの間にか歩み寄っていたちひろが、声を掛けてきた。
 見計らったように、落ち着いたタイミングでだ。
「この人は?」
 プロデューサーが答えるより早く、ちひろが自ら口を開いた。
「千川ちひろと申します。プロデューサーさん、そしてアイドルの皆さんのサポートが私の仕事なの」
 ユッコはプロデューサーとの握手を解き、ちひろの前に差し出した。
「超絶大人気アイドルになる予定のエスパーユッコこと堀裕子です! よろしくお願いしますっ!」
 どうやら『エスパーユッコ』の一語は、絶対に挨拶に含むつもりのようだ。
 個性的なアイドルが数多く所属するこの事務所にあっても、簡単には埋もれないだけの独自性。
 それ自体が既にサイキック(超自然的なさま)と、言えなくもないのではないだろうか。
「それじゃあユッコちゃん、ちょっとこっちに。色々と用意しなきゃいけない書類があるの。プロデューサーさん、構いませんよね?」
「お手数ですが、よろしくお願いします」
 未成年となると、当事者同士の合意があれば……とも行かない。保護者の許諾や学校への連絡、状況によっては女子寮への入寮手続きなど、やらねばならないことは数多くある。
 そういった諸手続きは、ちひろの独壇場と言えた。頭が下がるどころの騒ぎではなく、上がる可能性が全くない分野の一つである。冒頭でも少し語ったところではあるが、つまるところ、ちひろに対して頭が上がる局面など、全くと言っていいほど存在しない。
 敬意と畏敬。似ているようで異なる両者を、どちらも有しているのがちひろなのである。
 彼女を呼び捨てにするプロデューサーが事務所内に存在しないことが、その査証であった。
 閑話休題。
「さいきっく・アイドルデビューへの第一歩ですね! 行って来ますプロデューサー!」
 ユッコはぱたぱたと手を振り、笑顔を振りまきながらちひろの後を付いていった。
 物陰に消えるまでの間、彼女に合わせるようにして、プロデューサーも手を振り続けた。
 消えたことが確認できた瞬間、脱力しながら椅子に落ち、テーブルにしなだれかかった。
「……疲れた」
 元から色々と気を遣うことの多い仕事だが、不意を突かれただけあってか、いつもより疲弊した気がした。彼が直接知っている人間の、誰とも違うタイプだったことも一因であろう。
 しかし、悪い気分ではない。決して。
 疲れと共に満ちてきたのは、未知なるものと向き合える―純粋な喜びであった。

 しかし世の中、不思議なこともあったものだ。
 今日の今日まで彼女が、平穏に生きてきたという事績、それ自体が不可思議で。
 あれほどの、魅力の塊だというのに。
 特に(外見的に)一見してわかるほどの逸材が、自ら進んで来てくれるとは……。
 これだから、プロデューサーはやめられないのだ。なってからまだ日も浅く、ろくにプロデュース歴もないのだが、彼には。
 それでもそれが彼の、偽らざる感情であった。

 一息ついたところで、プロデューサーは気付いてしまった。
 それはもう、凄まじいまでの空腹感に。腹がヘコむことを殊更強調してしまうような姿勢を取ったのが悪かったのか。
 そもそも彼女が訪ねてきたのは昼食時、それもカレーを食べようとしていた直前のこと。
 既に少し早い夕食というぐらいの時間帯だが仕方ない。背に腹はかえられないのだ。
 給湯室までスプーンを取りに行く気力も湧かなかったため、先程ちひろが持ってきてくれたコーヒーに付いてきた、シュガースプーンでカレーを食べるという暴挙に打って出ようとしたその時だった。
 いただきますの一言さえ省略し、食べようと用意してあったカレーに付いていたフタを手早く外し、口に入れたその瞬間。
「あちっ!」
 彼の身に起きたことは、言葉そのままである。
 口に運んだカレーが、熱い。
 温め直してもいない、昼の時点でさえ温(ぬる)かったカレーがだ。
 一体、何が起きたのか。
 分かるはずもない。通常の物理法則に則っていない現象のことなど。
 大体彼に、そんなものを突き詰めようという意志は元から存在しない。
 たかがカレーの話といえども、一介のプロデューサーの身の上に起きた出来事にしては、余りにも深い謎である。
 そう―謎。
 そこまで考えて、一つ、思い至った事柄があった。
 先程まで彼の目の前にいた人物は、何と言っていたか。
 昼食を前にして、折れ曲がっていたプラスチックのスプーン。
 その直後に、現れた人物。
 理解不能を前提としても、符合すると言えなくもない、幾つかの現象。
「まさか……いや、そんなはずは……」
 彼が彼女を評価したのはあくまでそのキャラクター性を堅持しようとする姿勢と、理想とする自分の姿を叶えようという信念。
 そして、均整にして良好なバランスで成立している、誰にでも愛されうるビジュアル面。
 決して、彼女が主張する能力そのものではないのだが。
「いやいやいや……」
 己の中の何かが揺るがぬようにと強く念じながら、今更熱いカレーを全速力で掻き込みに走るプロデューサーであった。



 拡がっていく世界。
 積み上がっていく仕事。
 進んだ先には、プロデュースを待っている新しいアイドル。
 冬に始まりを見せた新たな物語は、春に向かって進み始める。

 超自然的(スーパーナチユラル)アイドル・堀裕子ことユッコの物語は、ここに決起(始まり)を見ることになる。
      (サイキツカー)
 今はまだ、そのどちらでもないのだが……少なくとも、対外的には。


 (続く)



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