1 〜煙の行方〜 洋の東西を問わず、長く伝えられてきた言葉には、ある種の真理が潜んでいる。 真理。 辞書によれば、誰もが否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実―とある。 例えばこの言葉『火のないところに煙は立たぬ』などは、今にしても十二分に通用する諺(ことわざ)、すなわち真理であることだろう―世間一般では。 一般という言葉で括り得ぬ世界にあっては、真理も真実たり得ぬ瞬間がある。 これからここに記されるのは、アイドル世界の一側面を描いた平話(へいわ)である。 余人がいかに、評することになろうとも……。 * その日は、取り立てて忙しくもない一日であった。 とある芸能プロダクションのオフィスに微かに聞こえる音たちが、その平穏ぶりを何よりも雄弁に伝えていた。 パソコンのキーを叩く、パチパチという音。 プリンタが自身にため込んでいる紙の束に、色をつけながら断続的に吐き出している、シャリシャリという音。 先刻プリンタから吐き出された資料の束をめくる、パラパラという音。 それらを一つの形に綴じるホチキスの、カチカチという音。 淀み無く続き、鳴り響く(というほど大きくもないが、確かに聞こえている)音。 そのいずれもが、普段は掻(か)き消されて、耳まで届かない音である。 「はい、プロデューサーさん」 ことん。 アシスタントの千川ちひろが、プロデューサーの机にコーヒーカップを置いたときに鳴った、小さい音だ。 「あ、すいません」 その小さき音に、プロデューサーも平穏を感じずにはいられなかった。 ずず……っ。 コーヒーをすする音が、一口分だけで止まった。 手にカップを持ったまま、動きそのものを止めたためだ。 「あの……どうかしましたか、プロデューサーさん? 変な味でも?」 その所作は、どう見ても真っ当なコーヒーを飲んだときのものではない。何か自身に不手際でもあったのかと思ったとき、ちひろといえど不安にならざるを得なかったのだ。 折に触れて配給しているドリンクと違い、これは本当にただのコーヒーなのだから。 「あ、違います。コーヒーは至って普通に美味しいです」 言うや否や、プロデューサーは一気に手元のそれを飲み干した。 味はどこまでも、真っ当なレギュラーコーヒーのそれであった。 「なら、いいんですけど。いきなり不安にさせないでください、プロデューサーさん」 諭すような口調のちひろに、カップを机に置き直して彼が応えるには。 「すいません。ですが、私も一つばかり、本当に不安になったことがあってですね……。コーヒー啜(すす)った瞬間に、そいつに気がついてしまって」 平穏の中で……中だからこそ、垣間(かいま)見てしまった不安。 「……なんでしょう?」 首を傾(かし)げて考え始めたちひろには、心あたりがないようだった。 さて、その正体は。 「……静かすぎます。彼女たちがいるにしては、あまりにも」 ホワイトボードに記されているスケジュールと、そこに記されたアイドルたちの出勤状況を照らし合わせて考えると、甚だ不自然なほどに静かなのだ。 個性的―という言葉で言い表すには、一癖も二癖もありすぎて困るような―アイドルたちが、数枚の壁と幾らかの空間を隔てただけで存在を感じ難くなるほどに静かになるなら、仕事がどれだけ楽になることか。 ありえないはずのことが生じてしまったのならば、それは既に平時ではない。 事態は予兆の段階を越えて、既に動き出していると言っていいだろう。 事務所にあの(・・)アイドルたちがいて、騒音すらしない『平穏』。 それこそが、ありえない事態の本質にして、違和感の正体だったのだ。 パパパパパーン! 突如、鳴り響く炸裂音。 瞬く間に、付近に漂い始めた白煙。 「プロデューサーさんの予想、正しかったみたいですね」 目には見えない、音の聞こえた方に顔を向けながら呟いた、ちひろの感想がこれだった。 「嬉しくもあり嬉しくもなし、というところですか。できれば、もう一分か二分、早く気付きたかったですけどね」 ちひろに答えながら、プロデューサーが席を立つ。 「そうすれば、その瞬間に立ち会えたから……ですよね?」 そう言いながらちひろがプロデューサーに見せた表情は……微笑みだった。 それはもう『にっこり』という擬音以外、ありえないような。 「……はい、それはもう」 それもそのはず、先の言葉を口にしていた時点で、プロデューサー自身も笑みを浮かべていたのだから。 嬉しかったのは、予想が的中したこと。 嬉しくなかったのは、その瞬間に居合わせることができなかったこと。 ただ、それだけだったのだから。 彼女たちが大人しいばかりなら、仕事は幾らか楽だろう。 そして同時に、驚くことも減るだろう。 それは彼―このプロデューサーにとっては既に、『ありえないこと』にカテゴライズされるほどのことなのだ。 今更そうなってしまったならば、どれだけ寂しくなることか。 ともあれプロデューサーは席を立ち、流れてきた煙の行方を求めることにした。 煙の先に連なる、今日という日の物語―平話を求めて。 2 〜忍武平話〜 「ところでプロデューサーさんは、誰だと思いますか?」 彼が煙を辿(たど)りながらオフィスを出たところで、後に付いてきたちひろの声がした。 「そうですね……」 あえて主語を飛ばしたのであろうが、ちひろが問いたがっていることは、もちろん一つしかない。 原因となったであろう人物のことだ。 この瞬間において『何が』『どうして』『こうなった』のかは、別段問われることではない。ことを起こしたのが『誰か』さえ分かれば必要充分、おおよそ……どころではない、確定した答えが出せるからだ。 個性と行状が強く結び付いた、ひたすらに特徴的なアイドルが多く居る事務所ならではと言えるだろう。 「方向が給湯室ではないので、料理作りが原因ということはないでしょう。匂いにも食材の気配はありません」 この段階で、料理作りが得意なアイドルの線は消えたことになる。 「はいはい」 ちひろが頷く。 「微かに火薬のような匂いがします。これだけならイタズラを愛好する彼女の仕業にも思えますが……今回はその線は薄いかと。彼女が原因なら高笑いなりなんなり、何らかのアクションがあるはずですから」 成功にしろ失敗にしろ、仕掛けたイタズラで大騒ぎしているはずなのだ。彼女なり周囲なりが。 「ええ」 「機械なり薬品なりの実験の類なら、露骨な失敗を犯して放置……ということもないはずです。というわけで、よく白衣の似合うあの二人も対象から外れます」 あえて口にはしなかったが、もう一つ彼には、彼なりの理屈があった。 それは、彼自身を被験者としてターゲッティングしてこなかったという事実である。 良きにつけ悪(あ)しきにつけ、プロデューサーを実験台としないはずがないのだ、オフィスワーク三昧で他のアイドルと行動を共にしていない状態の彼に、お声掛かりがないことなどは。 「そう、なんですか……?」 後段の論拠を伏せたおかげで、微妙に前の数件と違って得心がいかなかったようだ。 「そうなんです」 しかしこれは、どちらかと言えば直感に近い読みと言うこともあって、それっぽく並べ立てるにも限界がある―そう考えて、強制的に話を打ち切ったのだった。私見による、強い断定を持って。 「それでは……?」 そう長くもない廊下、煙の出所であろう休憩室は目前であった。 オフィスで聞いた、破裂音の発生方向とも一致する。 「こういうことの相場は決まっているんですよ、ちひろさん。それこそテングか……ニンジャの仕業ってね。しかしうちの事務所にテングはいませんから、答えは一つです」 このようにいろいろ勿体(もったい)をつけて語ってきたが、実の所、プロデューサーには初めから確信があったのである。 巷―( ちまた )というほど広くもない、事務所内に流れるウワサと、プロデュース時の実体験によって。 煙立ちこめる休憩室にいたのは、紛(まぎ)れもなく彼女だった。 ニンジャの、アイドル! 「正解はあやめちゃん、でしたか」 「ゲホッ、ゲホゲホッ! ぷ、プロデューサー殿にちひろ殿! まことに申し訳な……ゲホッ!」 二人の目の前には、煙を避けるようにうずくまったまま、声を殺すように咳(せ)き込むニンジャのアイドル……浜口あやめの姿があった。 「ええ、予想通り……に……?」 プロデューサーが言い淀(よど)んだのには、無論のこと理由がある。 彼が予想していなかった人物までもが、その場に居たからだ。 「ケホッケホッケホッ! ケホッケホッケホッ!! プロデューサー殿からも強く言ってください! 忍者はずるいですぞと……ケホッ!」 あやめと正対する位置で同じように咳(せ)き込んでいるのは、脇山珠美その人であった。 サムライのアイドル……で、あろうか……恐らくは。 いや、きっと。 * 「つまり、上質の煙玉ができたから、思わず試してみたくなったと?」 空気の入れ換えも済んで二人が落ち着いたところで、プロデューサーが雑談という体をした事情聴取を始めたところ、あやめから出てきたのが先の言葉であった。 なおちひろは、電話の呼び出し音に釣られてオフィスに引き返したため、現在ここに居るのはこの三名だけである。 そして本来であればこの場にいたはずの、他のアイドルたちはそれぞれ野暮(やぼ)用があって席を立ったとのことであった。 虫の知らせか、はたまた神のお告げか。 本当にそういった類の現象と無縁ではないアイドルも存在するのが、この事務所がなによりも深いところである。 底か懐かはたまた闇か、いろいろな深さのいずれか、または―すべてに於(お)いて。 さておき、言葉を口にするあやめの声は、それはもう朗々としたものであった。 「はい! あやめとして納得がいく、会心の出来の煙玉でしたので!」 そして、それを言う表情が微笑みどころではない、満面の笑みなのである。 起こしてしまった騒ぎはさておき、満足感は極めて高かったようである。 「だからといって、いきなり、珠美の目の前で試す必要があったのですかっ!?」 反対にあやめの話を聞いて、その表情を見たにも関わらず、一向に収まりが付かないのが珠美である。 「なにをおっしゃいますか! 私は珠美殿の前だからこそ、あえて試したのです! ニンッ!」 批判的な珠美をあえて煽(あお)るかのような、あやめの言動である。 「な、なんということを! 珠美がいくらあやめ殿よりお姉さんといっても、やっていいことと悪いことがありますぞ!」 一つのソファーに並んで座っているのを見るにつけても、そうは思えないのが難点である。 「お待ちあれ! そういうことではありません! あやめは、珠美殿を剣士と思っているからこそ、躊躇なく煙玉を使ったのです!」 「な、なんと!?」 あやめの言葉に驚きながらも、にやつきを抑えきれない珠美。 目指す姿の具現であると評されて、喜ばない人はそうそうありはしない。 前置きされている言葉で、微妙に否定されているもう一つ目標としている姿があったりするのは……きっとご愛敬の(あいきよう )類だろう。 「サムライが白刃を煌(きら)めかせながら斬りかかるのを華麗な身のこなしで躱(かわ)しつつ、煙玉を投擲(とうてき)! たちどころに、辺り一面にたちこめる白煙! 戸惑うサムライ! そして煙が雲散霧消する頃には、影も形も残さぬくノ一あやめ!! どうです、完璧な時代劇のワンシーンではありませんか珠美殿!?」 いつの間にやら彼女の中では、忍者≒くノ一≒あやめという図式が成立しているらしい口ぶりだった。 相当な入れ込みよう―没入感が窺える。 そうでもなければ、煙玉をこさえるような真似(まね)はすまい―このように思えば万事道理の内側である。 「なぜそこでサムライが負けると決まっているのですっ!? 心眼をもってすれば、煙の中の忍びを討ち果たすことくらい、わけないことですぞ! だいたいなんですか、忍術と称して道具を使って……剣士が恃(たの)むのは、一振りの剣だけだというのに! 毎回毎回、本当に忍者はずるいのですぞーっ!」 珠美の意見もどうにも、自分が劇中のサムライだったならどうかという視点からの回答になっていた。やりとりの内容は、この二人で揃って時代劇を観賞しているときのそれ、そのままなのだが。 「ずるくないですー忍法ですー」 この二人、どちらも素の口調が時代がかったところがあり、そのことを会話中で意識してしまって妙に固くなる瞬間が時折あるのだが、二人を組み合わせると不思議なことに、そういうことがないのである。互いが互いにそのまま、自然体として接するために違和感を覚えないからであろうか。 いずれにせよ、気脈を通じる間柄なのは間違いない。 竹刀と苦無(くない)―一文字しか違わないが、その形状を大いに異にする二つが交錯する瞬間こそ、その証明と言えるのではないだろうか。 たった今、眼前で始まったそれのことであるのだが……。 * 目標とした事柄を、自らをして体現せしめようという態度。 それぞれが時代劇と時代小説を、趣味という価値観の根底に据えている近似性。 そこだけ考えているとインテリジェンスデザイン―そのように機能するように構築された設計―のように思えてくるが、実のところは偶然の出会いがなければ顕現することもなかった関係。 忍者アイドルと剣士アイドル。 二つの野放図が交わった先に広がっているのは、無限の原野。 そこに、いくらでも新しいアイドルの世界を広げていけるほどの。 (続く) |