1 〜Entrance(エントランス)〜 静寂のなかに佇(たたず)めば、普段は聞こえない音までが賑(にぎ)やかに聞こえてくるものだ。 雑踏や何気ない会話の声でさえ、ここに居並ぶものたちの出す音を打ち消すには十分過ぎる程に大きい。その姿形を見せることに最大の価値があるとはいえ、少し勿体(もったい)ない気がしてならない。これを確かめることができるのは、本当にごく限られた一部の人だけだから。自分とて、その『一部』の枠に入ることができるこの機会を得られなかったならば、恐らくは一生涯、気がつくことはなかったであろう。 真夜中のアクアリウム―水族館に居並ぶ水槽と、そこに住まう生き物たちは、一介のアイドルプロデューサーにさえそんなことを考えさせてくれるのだった。 「向こう側は、こんな時間だってのに賑やかなもんだなぁ」 時計の針は既に、シンデレラの魔法が解ける時間を過ぎている。それだというのに、水槽の向こう側で舞い踊る、魚たちの賑やかな時間は終わる気配を見せない。 浦島太郎の歌に伝わる光景というのは、まさにこういったものだったか……と、感じ入っているところに、ハキハキとした明るい声が聞こえてきた。 「でもよーく見ると、寝てる魚もいたりするんだよね。ほら、あの辺とか、あそこの砂のあたりとか」 水槽の前にへばりついて模様を眺めていたプロデューサーに横から解説を挟んだのは、彼の担当アイドルの小松伊吹だった。 「へーぇ……あっ、本当だ」 彼女が指し示した方向を見やると、確かに動きが緩慢な魚たちが端の方に散在しているのが見て取れた。 「今も起きて動き回ってる魚たちは、昼間とかの別のタイミングに寝てるらしいよ。人間みたいにグッスリ寝てるってワケじゃなくて、寝ながら泳いでたりもするみたいだけど」 スラスラと淀み無く解説してみせた伊吹に、プロデューサーは目を細めた。 「よく調べたなあ。企画を持ってきたのはこっちだけど、正直驚いたよ」 水族館を使用した、アイドルコラボの一環としての企画展と、その一部始終を撮影するドキュメンタリー番組の作成という、普段彼女が軸足を置いている活動からは遠いところにある仕事だけに多少の不安があったのだが、そのすべてが取り越し苦労に過ぎなかったという証明でもあるように思えたのだ。 それは大きく、嬉しい誤算と言えたかも知れない。 アイドルとしての伊吹が、彼が考えていた以上に成長していたということなのだから。 「音声ガイドを吹き込んだり、説明のポップを作ったりしてるうちにさ、やっぱりある程度は覚えちゃうよ。それに今回組んだありすちゃんやマキノはホラ、知識欲に手足が付いてるのかってくらい調べ物が大好きだからさ、それにあてられちゃったような感じでもあるかな。まぁそれだけじゃないけど……へへっ」 橘ありすと八神マキノ、事務所の中で理屈っぽいアイドルは誰かというタイトルでアンケートを集めたら、二人とも上位入選は固いところである。謎を謎のままに放置しない知的探究心―それが伊吹に言わせるとこうなるらしい。 ともあれ、それはいい影響と言えるだろう。 「なるほどね……だからこんな時間のお誘いってわけか」 企画展の準備は終わり、明日(日付的には今日の朝から)の開場を待つばかりの水族館に残っているのは伊吹とそのプロデューサー、そして最小限の水族館のスタッフのみ。撮影クルーも既に解散しており、それこそこの場にいるのはプロデューサーと伊吹だけという状態だ。 「うん、できるだけ知っておきたいんだ。アタシの目で見て、肌で感じて。それこそ……ダンスみたいにさ!」 * 栗原ネネを含め今回仕事に携わったアイドルのなかで、伊吹は一番の年上である。学生身分ではないのもまた、伊吹だけである。つまり、この夜遅くに大っぴらにこの場所への滞在を許される状況にあるのは、伊吹だけなのだ。 展示の最終チェックなどは既に済んでいるが、今回の展示における目玉の一つ『時間経過に併せて照明の光量を変化させ、昼の海から夜の海に変化していく様子を表現する』ディスプレイのリハーサルを行いながらふと、彼女は思ったのだ。 『私は真夜中の海を、そして水族館の姿を知らない』と。 というわけでそれらを確かめるべく、大っぴらにプロデューサーを巻き込み、真夜中の水族館探訪を決め込んだというわけである。 前述の通りに理由付けを行い、他のアイドルたちの同席を上手いこと退けながら。 * 熱い眼(まな)差しを水槽に向けて送っている伊吹の横顔には、笑みがあった。無関心な事柄に接しているときにはとても浮かべようがない、温かい笑みが。 「変わったなあ……最初の頃はそれこそ、ダンス以外は眼中に無いって感じだったのに。ダンスはいつだってガチだったけど」 彼の脳裏に思い浮かんでいたのは、得意なダンスのレッスンには情熱を思う存分燃やすが、ボーカルやビジュアルのレッスンにはかなり及び腰だった頃の伊吹の姿である。そんな率直な感想を漏らすと、伊吹から抗議の声が上がった。 「それは言いっこなしでしょ、プロデューサー。時効だよ、じ・こ・う!」 思い当たるフシが色々あったのか、恥ずかしげに打ち消そうとしている伊吹だったが、そんな彼女の姿を見ても彼の口は塞がらず言葉も止まらない。 「いや、ホラね、あの辺りにいるカラフルなヤツを見てると、どうしても思い出しちゃってさぁ……南国、バリの海を。あの頃は魚なんてそっちのけだったよなーって思ったら、人は変わるものなんだなぁってね」 隔世の感……というと大袈裟(おおげさ)になりすぎるだろうが、出会った頃の彼女と今の彼女は、このように表現したくなるほど変わったのだ。 嬉しい誤算の正体がこれだった。嬉しいことなのだから、わざわざ留(とど)めたいとは微塵(みじん)も思わなかった。伊吹の抗議を受けても止(や)むことがなかったのは、ひとえにこのためである。 オーディエンス(ありすネネマキノ)がこの場に存在したならば、また少しは対応も変わったかも知れないが。 「……確かにあの時のアタシは、ダンスとバカンスにしか興味がなかったなぁ。今思うと、ちょっと勿体(もったい)なかったかも」 思い出を掘り返しても浮かび上がるのは、情熱的なダンスとトロピカルに染め抜かれた記憶ばかりだった。 それらは決して悪い話ではなく、むしろ楽しい思い出の固まりではあったのだが。 そんなことを考えていたプロデューサーの腕を引っ張りながら、伊吹は突然掛けだした。 「まあ今はさ、話でもしながらゆっくり、のんびり見て回ろうよ。開館はまだまだ先だし、貸切状態なんてそうそうないよ。水族館も……伊吹おねーさんも♪ それじゃああの時は見なかった南の海へ、レッツゴー!」 「おい、ちょっ……伊吹!」 進んでいく彼女の耳に彼の声は届いているが、彼女の足が止まることはなかった。 目的の場所に届くまでに足を止めてしまったなら、恥ずかしさに耐えられそうもないから。 うっかり勢いに任せて『伊吹おねえさん』なんて名乗ってしまったばっかりに……。 * ここは、物語のエントランスホール。 飾られる光景は、思い出の中から今へと蘇るもの。 海の一部を切り取ったかのような佇まいをみせる、アクアリウムさながらに、色とりどりに。 物語はいま、海の中を漂っている。 2 〜Outtalk(アウトトーク)〜 インドネシア・バリ島。 赤道よりやや南に位置するこの島は、一年を通じて平均最低気温が20度を下回ることがない、温暖にして風光明媚(ふうこうめいび)な土地として世界に名を知られているところである。 その素晴らしさを、一言で表すと……。 「だらだらーん♪」 このようになる。 トロピカルジュース片手に寝そべっている、南国風の軽装に身を包んだ彼女は本来、極めてアクティブ&アグレッシブであり、某働かないことをモットーとするアイドルではないのだが……。 「なんというか……すごくリラックスしてるな、伊吹」 今回はバリ島で行われることになったライブツアーのメンバーとして、意気揚々とこの島までやってきたのだったが……。 「もっとゆるーい感じでいこーよー、プロデューサーも。バリ風にさぁ」 伊吹は南国の緩やかなリズムがよほど体と心にマッチしたのか、露ほどの緊張も感じられなかった。一方のプロデューサーはというと、少なからぬ予算を掛けたこの興行が、伊吹の今後を大きく左右することになるだろうという思いからか、リラックスとはほど遠い精神状態にあったのである。 「そうは言うけどな、この後も俺にはスタッフさんたちと打ち合わせがあるからさ……。こんなに綺麗(きれい)な海が目の前に広がってるのに、ビーチに繰り出すことすらできそうにない……色々あるって話なのに」 第一スーツすら脱げない状態なのだから、バリ風も何もあったものではない。 「アタシなんか既に、ちょっと焼けちゃったくらいなのに……だから今はこうして、焼きすぎないようにってヴィラでゴロゴロしてるわけだけど。そんな環境なのにプロデューサーがぜんぜん楽しめないのは、何か違う気がするんだよねー。アタシやみんなのことを考えてお仕事してくれてるのは嬉しいけど。だから……はい!」 そう言うと伊吹は、横たえていた体を起こして、プロデューサーにトロピカルジュースを差し出した。 「……えっ?」 手に持っていた、飲(の)み止(さ)しのものを。 「ほらプロデューサー、一口あげる。アタシのストローでいいよねっ? その様子だとさ、水とかコーヒーとかしか飲んでないでしょ? このジュースだって、立派なバリ風……う うん、バリそのものだからさ!」 それは、伊吹なりの思いやりに他ならなかった。 謝意や好意が綯(な)い交ぜになった、トロピカル風の。 「えっ、えっ!?」 予想だにしていなかった展開に、プロデューサーが目を白黒させていると、だんだんと伊吹の表情が曇っていった。 「それとも、アタシと同じストローは……イヤだったり、する?」 いかにトロピカルな地とはいえ、雲で日が陰らないことはない。好意を受け取られないというのは、時として悪意を向けられるよりも堪えるものだ。 「い、いただきます!」 涙目になった伊吹を前にして、迷っている暇は無かった。 まるで奪うように伊吹の手からトロピカルジュースを?(か)っさらうと、一気に中身を吸い上げて見せた―一口で。 「……ぷはぁーっ。ごちそうさまでしたっ!」 そして空になった器を、元あったように戻したのだった。 即ち( すなわ )、伊吹の掌中に。 「確かに一口は一口だけどさあ、いくらなんでも、これはちょっとひどくない……プロデューサー?」 空になった器をぷらぷらと振りながら、伊吹はプロデューサーを見つめた。僅かに、眉間にしわを寄せながら。 「あ、ご、ごめん。ついうっかり……おいしかったので」 実際のところは、ジュースの味はなんとなく甘い程度にしか分からなかった。 それでもなお、甘い。甘かった。甘すぎた。 プロデューサーにとっては、伊吹がそれだけの好意を寄せてくれたという事実が―である。 「そっかー。そうだよね、あんなに凄(すご)い勢いで飲んでたんだから、美味しいに決まってるよね……へへっ!」 恥ずかしげにおずおずと言葉を吐き出したプロデューサーの姿を見た瞬間から、伊吹は満足げな笑みを浮かべていた。 そしてそれは、言葉を繋(つな)いでいくごとに不敵な笑みへと変わっていった。 彼女は一計を思いついたのだ。 およそ自分と―彼のためになるであろうことを。 「ちょっと待っててね、プロデューサー」 そう言うと部屋に設置されている電話のところに向かい、いくらか時間が経(た)ってから戻ってきた。 「一体、何を?」 プロデューサーが尋ねると、あっけらかんとした語調での答えが返ってきた。 「ルームサービスで追加したんだ、これ。アタシの分のジュースまで飲んじゃうくらいプロデューサーは喉が渇いてるんだから、放っておけないでしょ? それに、アタシもまだ飲み足りないしー」 半分はそのまま伊吹の本音だが、もう半分はこの場にプロデューサーを留(とど)めておくための方便。 ただ、同じ場所で、同じ時間を過ごして欲しいがための。 「そういうことか……」 およそ文面通りに理解してのけたプロデューサーを前に、伊吹は続けた。 まずは、自らの想いに念を入れるために。 次に、彼の憂いを断つために。 「そういうこと。いくらプロデューサーが忙しいっていってもさ、ジュース一杯飲んでく時間はあるでしょ?」 「まぁ、そうだな」 「それにね、プロデューサーには安心してて欲しいからさ……見ててよ」 言うや否や、伊吹は踊り始めた。 窓辺から聞こえてくる、柔らかな音に乗って。 * 伊吹のダンスは、ルームサービスが届くまでの間中続いた。今回彼女がプロデューサーに見せたのは、空港からヴィラまでの道中で見た、現地民のダンスだった。 「どうだった、プロデューサー? 結構よくできてなかった?」 息を整えながら届いたジュースをすすりつつ、感想を求めた。 「……いや、正直言って驚いたよ。この短時間であれだけ踊れるなんてな」 贔屓(ひいき)目も、もしかしたらあるかもしれない。 それでも彼の目には、そうそう違ったものには思えなかったのだ。少なくとも、人に見せられるだけのものではあった―こう思うくらいには。 ダンスアイドル・小松伊吹を見つめ続けてきた目には。 「でしょでしょ! だから安心してよプロデューサー、今回のライブツアーは、絶対に成功させてみせるから! アタシがちゃんとできるって分かったらさ、プロデューサーもリラックスしてお仕事できるでしょ? 余分な心配しないで済む分バカンスもできるでしょ? つまりはさ、こういうことだよね……へへっ!」 彼女にとっての自分のためは、彼のためでもある。 アイドルとプロデューサーという関係は、多くそういった側面を持つようになるのだろう。 プロデューサーの考えていることと比べても、ロジックに大差は無い。よって、異議もない。 「伊吹……そこまで考えてくれたのか……」 ここまでは。 「まあ、もし万が一大失敗して帰れなくなっちゃったりしたらさ、バリのアイドルになっちゃえばいいかなーって思っちゃったり?」 ちゅるちゅるとジュースを吸いながら、どこまでも希望に満ちた展開を描く伊吹だったが、流石にこれには率直に頷くことはできなかった。 「こっちのアイドルプロデューサーって稼げるのかな? それこそ最悪、その辺で魚でも釣って過ごすことになる気がする……って、カラフルな魚はあんまり旨(うま)くないみたいな話を聞いた覚えがあるけど、どうだったかな?」 「知らなーい」 「ま、そりゃそうだよな」 聞くべき人を間違っている質問であるからには、答えも興味なさげで相応と言った感じだ。前提とされている仮定も仮定ゆえに夢一杯すぎて、本当に夢物語でしかないから、これでいいのだが。 「プロデューサーと一緒ならそれでもいいかなー♪ ……なんてね?」 とびきりの笑顔がこんな時に、こんな所で出てきたことに喜びと気恥ずかしさが込み上げてくるものがあったが、努めて平静を保つようにしつつ告げた。 「魚捕まえてる俺はプロデューサーじゃないぞ、どう考えても」 彼女との間に横たわっている、アイドルとプロデューサーという関係性が失われたとき、いったい何が待っているだろうか。 そんなことを考えながら言葉を継げれば、多少なりとも頭も冷えるというものだ。 「アハハ、冗談だってば。プロデューサーはマジメだなあ。心配しないでよ、アタシ、そんなヘマはしないから……絶対にね!」 プロデューサーは問いの答えを深追いすることはせず、向けられた伊吹の言葉を受け取った。そこにあるのは、ただ、アイドルとしての彼女への信頼だけだ。 「そこは心配してないよ。さっき見せて貰ったダンスでダメなら、誰が何やったってダメだろうし」 「うん! そういうことだからさ、今はいまを、できるだけ楽しもうよ、のんびりと! ホント、ヤバいよねー、この居心地。クセになっちゃうよー。一人でいたら抜け出せないかもしれないから。ね、プロデューサー!?」 異国の景色。 聞き慣れぬ音。 熱を帯びているが、不快ではない空気。 「……本当に、なあ……」 そのすべてに、蕩(とろ)けていた……二人して。 ただ、時間の許す限りに―。 * 「南の島には、知らない踊りがまだまだたくさんあるんだね。アタシと世界中を回ろ、プロデューサー! あらゆるダンスを叩(たた)き込んでよっ!」 ライブツアーが終わる頃には、いつものアクティブ&アグレッシブな伊吹が戻ってきていた。 では先程の伊吹は、幻や気の迷いの類だったのかといえば、断じてそうではない。 どちらも間違いなく、小松伊吹自身である。 彼女は自分の感覚が『楽しい』と告げるものに、貪欲(どんよく)かつ真っ正直に生きているだけなのだ。 バリ島の楽しさも、ダンスの楽しさも、その時々の瞬間において、一分も偽りもないのだから。 だから彼に、伊吹のプロデューサーとして、できることはというと……。 「ああ、それじゃ行こうか、次のステージにさ!」 常に彼女の前にあって、次々と新たなステージへ導いていくこと。 それだけなのだ、彼女に必要なことは。 ―ダンスステージさえあれば、いくらでも輝ける― それが彼女、小松伊吹なのだから。 * 小松伊吹というアイドルの、基本的なスタンス。 ダンスに熱心で、とても発想が乙女的で、自分の感情に正直で……それらは今も変わることはない。 では、変わったのは何か。 それはひとえに『アイドル』として、経験を重ねたこと。 ストリートダンサーとしては重ねようがなかったものが、今の彼女を構成する一要素なのである。 現在水族館でプロデューサーの傍らに居る彼女は、そのままバリ島にいた彼女ではないのだ。 美風は何ら変わることなく、いっそ涼やかに薫りながらも。 (続く) |