豊饒と彼女とアイドルと




1 〜和菓子の温〜

 彼女の滑らかに滑る指は、何の音も立てはしない。
 あるいは彼女と知り合ったばかりの頃であったならば、ポチポチというプッシュ音が微かに聞こえるくらいのことは、あったかもしれないが。
 ある日のプロダクション内、既に夕方から夜に向かっている時間ということもあり、現時点で数える程しか人は残っていない。特にこの部屋―事務室にはプロデューサーである男と、彼が担当している彼女(アイドル)の姿しかない状況であった。
 そんな状況であっても、もはやメールを打つときには音は聞こえない。いや、既に『打つ』という言葉が実際と乖離(かいり)している。
 これは二人の間に、それだけの時が流れた頃の話である。



「はい、送りました〜」
 彼女―海老原菜帆は、それまで見つめていたスマートフォンから目を離すと、傍らにいるプロデューサーに事が済んだことを告げたのだった。
 彼女が行ったのはメールを一通送るだけのこと、それ自体はさして大きい話ではない。
「わかった。それにしても、本当に四人とも戻ってくるかなぁ?」
 菜帆の言葉に、進めていた作業の手を止めて応じた。しかし彼の口調は、菜帆の行為―即ち送ったメールの内容について、割合否定的な結果が返ってくるという見解を示していた。
「里美ちゃんたちは帰ってきますよ〜、間違いなく〜」
 そんなプロデューサーの意図を理解した上で、彼女は答えた。
 そこにあるのは、絶対の信頼感。
 彼女が直接メールを送った榊原里美だけでなく、同道している十時愛梨、三村かな子、槙原志保を含めた四人―『スイーツカルテット』の仲間たちへの。
「いやぁな、さっき言ったとおりに四人とも今日は、スイーツバイキングに行ってるはずなんだが……?」
「それでも、です〜」

 彼女が出したメールには、『おいしい和菓子を買ってきましたから、事務所で待ってますね〜』と書いてある。それはいつもの彼女そのままの行為であって、どうということもない。ただ、そこに至るシチュエーションに問題があるのでないかと、プロデューサーは思っているのだ。
 今日は四人に、仕事のご褒美としてスイーツバイキング優待券を渡してあったのだ。
 スイーツにこだわりがあって遠慮はない彼女たちが、手加減をするとは思えない。
 そんな状況の彼女たちが果たして、本当に戻ってくるのか?
 プロデューサーには、とてもそのようには思えなかったのである。
 一方菜帆には、確固たる自信があった。
 プロデューサーが寄せてきた疑問にも抗いうるだけの、自身が選んだ和菓子を彼女たちなら必ず食べに戻ってくるに違いないという、信念めいた自信が。
 それは共にユニットを組んでいる里美はもとより、いずれも名前の知れた、事務所屈指のスイーツ好きアイドルである三人―愛梨・かな子・志保を、同じくスイーツ好きアイドルとして見てきた、付き合ってきたことにより固まった信念であり、自信である。
 決して両立することのない、アプローチの異なった二つの説。
 そのどちらが正しかったかは、割とあっさりと、短時間で示されることになるのであった。

 半信半疑……よりも疑念の方が色濃く表れている表情を、隠そうともしないプロデューサーが見ている前で、菜帆のスマートフォンにメールが届いたのが見て取れた。
 可愛らしい着メロも、プロデューサーの耳には法廷に響く木槌(ガベル)の音のように感じられた。それは、何かが決する音。
 しかし菜帆の耳には、いつも通りの着メロ。
 両者の心理を第三者の視点で俯瞰(ふかん)することができたならば、この時点でどちらに分(ぶ)があるか、分(わ)かりそうなものである。
「で、どうだ?」
 身を乗り出すように確かめにかかるプロデューサーの前に、菜帆はメーラーを開いて指し示した。
 その結果、多分に漏れず。
『みんなで今すぐ戻りますから、そのまま待っててくださいねぇ〜』
 そのまま満面の笑みを浮かべている菜帆に対して、プロデューサーは若干気まずそうな顔をするしかなかった。
「まいったな……俺の負けだわ」
 これは目の前にいる菜帆と、スイーツカルテットの面々への理解が足りていなかった、己の読みの甘さに対する悔恨(かいこん)に向けた言葉である。
「甘い物は別腹って言いますからね〜」
「スイーツバイキングのスイーツは甘いものじゃ?」
「和菓子と洋菓子では入るところが違うんですよ〜。多分ですけど〜」
「……そういうものなのか?」
「はい〜、そういうものです〜」
 こう自信満々に答えられては、プロデューサーには返す言葉もない。
 ましてごくごく近いところで盛大に読みを外した当事者に、いったい何が言えたものか。
「そうか、なら仕方ないな」
「それに『おいしいから大丈夫だよ』って、有名な言葉もありますし〜」
「言った本人も戻ってくるようだし、やっぱりそれは真理ってことなのか……」
「おいしいものにはドキドキとワクワク……それに幸せが詰まってますからね〜」
 幸せが詰まっているであろう箱―菜帆が持ってきた和菓子が入っているそれ―を見つめる顔からして、既に笑みを湛えているではないか。

 それを目にした瞬間。
 それを手に入れた瞬間。
 それを口に入れることを想像した瞬間。
 それを口に入れた瞬間。
 それが口の中から去って行く瞬間。
 それが口の中から去った後に、お茶を含む瞬間……等々(などなど)。
 それと関わっている総(すべ)ての瞬間に、幸せがあると言わんばかりに。
 彼女が今この瞬間に垣間(かいま)見せた笑みは、その一側面でしかないわけだ。

「それにしても、どうしても今日じゃないとダメだったのか?」
 趨勢(すうせい)が決した今になって、もっともらしい問いをプロデューサーが発した。
 先のメール送信までに菜帆が確認したのは四人の現在のスケジュールにあって、手が空いているか否かだけ。甘いものを食べていることと、これから甘いものを食べようと誘いを掛けることとで、内容的に被っていることにはお構いなしだったこと。
 そこに至る道理を、読み切れなかったことがどうにも気になって仕方がなかったのだ。
「このお菓子、生の果物が使われてるんですよ〜。だからあんまり日持ちもしないですし、おいしいうちにみんなに食べて欲しくって〜」
 それはここ最近ネットでも話題になっている、生のミカンがまるごと使われている大福。冷凍状態のものを買えば一ヶ月は持つものだが、すぐに食べるということで冷凍されていないものを選んだために、あまり消費期限が長くはないのだった。
 ロジックとしては、先に菜帆から示されたものより、余程通っているように思えた。
 少なくとも、プロデューサーにしても理解は及ぶ。
「ああ、そういうことか。納得だ。でも里美に送ったメールには、そんなことは一切書いてなかったよな?」
「はい〜。『おいしい和菓子を買ってきましたから、事務所で待ってますね〜』としか書いてませんよ〜」
「それについて一言でも触れておいた方が、帰ってくる確率は高くなったんじゃないか? まあ全員帰ってくるって返事だった訳だから、要らぬ心配だったようだけど」
 会話の中でここで始めて、菜帆が言い淀んだ。
「……ん〜。それはなんか、ちょっと違う感じがするんですよね〜」
「そう?」
「そうですね〜、私はおいしいお菓子だからみんなにも食べて欲しいと思っただけですから〜。もしお菓子がダメになっちゃうから一緒に食べましょうって書いちゃったら、お菓子を楽しみにする気持ちよりも、お菓子がダメになったらかわいそうって考えちゃうと思うんですよ〜。みんな優しいですから〜」
 みんなでお菓子を食べるという同じ結果に辿り着きはしても、そこに至るまでの過程―心の在り方に、大きな違いが生じるのは間違いない。
 お菓子を食べて幸せを感じてもらうことが目的であって、お菓子を食べることそのものが目的であって欲しくはない、ということなのだ。
 食べたいから、食べる。
 食べることは、楽しいことなのだから。
 誘いをかけたスイーツカルテットの四人なら、それで大丈夫だということを。
「あぁっ……!」
 口から出た叫びとともにプロデューサーが見出したのは、彼女のことを正しく理解し切れていなかった至らない自分だった。それは僅かばかり前に感じた『彼女たち』に対するそれよりも、遙かに彼を驚かせた。
 知っていた・分かっていた『つもり』で、安穏としていた自らの在り方のありえなさが。
「そんなにビックリさせちゃいましたか〜? すいません〜」
「いや、謝ることがあるとしたらこちらの方だ。この期に及んで、菜帆のことをどこか甘く見てた……考えてた。すまない」
 菜帆の前でプロデューサーが頭を下げると、彼女はそのままそれを受け入れるかのように―抱きしめた。
 彼の下がった頭が、ちょうど彼女の胸がそびえている高さくらいの位置にあったのが、よかったのか悪かったのか。
 元来頭を下げるという行為は、無防備な頭部を、頸部を相手の前に曝し、その生殺与奪を相手の思うままに任せたことに端を発する。
 故に菜帆がそれを求めたのであれば、与えられて然(しか)るべきではあるのだ。原義に基づけば。
 ただただプロデューサーにとっては予想外だっただけで。
「あま〜く見てもらえてたなんて、嬉しいですね〜。私はず〜っと、あまあまなアイドルになりたいな〜って、ず〜っと思ってましたから〜」
「い゛あ、ぞ゛う゛い゛うごどぢゃ゛なぐで……」
 頭を強く抱きしめられているために、口が押さえられる形になっていて言葉が上手く発せない。『いや、そういうことじゃなくて』と、本人的には必死に言っているつもりなのだが。
「でも、プロデューサーさんには私のことを、もっとたくさん知って欲しいですね〜。私ちょ〜っと思ったんですけど、お互いを知るためのスキンシップが足りてないんじゃないかって〜。私と仲のいい友達はみんな、抱きついてきたりするですよ〜。今は私が抱きしめちゃってますけど〜、たまにはいいですよね〜?」
 事務所で耳にした、菜帆のウワサ。
 曰く『友だちによく抱きつかれるらしい』とのこと。
 プロデューサーも耳にしたとき、大いに納得したものだった。これほど一ミリの疑念もなく信じ切れるウワサが、他にどれほどあるものかと。
 とはいえ、彼自身がこのウワサを身を以(もっ)て検証することは無かった。当然である。
 アイドルとプロデューサーという関係。
 男性と女性という性差。
 迂闊(うかつ)に実地検証に挑もうものならば、色んなものが一度に吹き飛ぶ危険性を有していることくらい、認識できずにいて勤まるプロデューサー業ではない。
 このように考えて身を律することで、あえて遠ざかっていたというのに―ウワサから。
 遠ざけていたのに―現実に踏み込んでこないように。
 だというのに、彼女はあっさりと越えてきたのだ。
 ウワサをして真であると、その身を以て雄弁に、何の遠慮も躊躇もなく。
「どんなお菓子でもちゃ〜んと味わってみないと、本当のおいしさは分からないと思うんです〜。プロデューサーさんにわかってもらえるように、これからもがんばりますよ〜♪ですからまずは、プニョフワをい〜っぱい味わってくださいね〜♪」
 菜帆が先程からでプロデューサーに示している行動原理は、『おいしいものは、おいしいうちに、おいしい方法で食べましょう』という、単純明快な原則で貫かれている。
 その原則に、彼女自身(・・・・)が含まれていても、取り立てておかしいものでもない。
 かくして彼に与えられたものは、あまりにも甘すぎる罰だった訳だが。結果としては。



「どうですか〜? 私のこと、分かってもらえましたか〜」
 プロデューサーを解放してから、なんともあっけらかんとした口調で菜帆は尋ねた。
「……五分前よりは、多分……」
 その時間が正しくは何分だったかなんて、視界を覆われ触覚はすべて彼女に包まれていた彼に、分かろうはずもない。ただ、事の前と後とでは、確かに違うものがあったことも事実。挙げた五分という時間は、その通過を表すためだけに存在する、いわばシンボリックな数字上のものでしかないが、感想に具体性を持たせるためには必要な表現だったと言えるだろう。
 なんとか解放されたあとの感想は、この通りであった。
 実際、貴重な経験であったように感じているプロデューサーではあった。赤裸々に綴(つづ)ると二文字もしくは三文字程度のぶつ切りになった文字列が、つらつらと並べられるだけの。
 その感情に理性で蓋をして上澄みを掬(すく)い、それなりにお出しできる形に整えたのである。
 アイドルとプロデューサーという枠が、自らの内にあることを確かめるかのように。
「足りないようでしたら、もう一度いかがですか〜?」
 そして彼が変わらないように、彼女もまた変わらない。
 ファーストコンタクトの時点で菜帆の存在を―その在り方を長所と認めて、『プロデューサーさんならこのままの私でもいいって言ってくれるかなって思ったんです! 勝手な想像ですけど! で、どうですか?』という彼女の言葉を、殊更否定することなく受け入れたのは、確かにプロデューサーなのだ。
 菜帆は彼が受け入れた姿そのままに、振る舞っているだけのことで。
「いや、止めておく。みんながいつ帰ってくるか分からないしな」
 さておき、菜帆の意思がどうであれ、少なくとも衆目においそれと曝していい姿ではないと、冷静さを取り戻しつつあった彼の理性が告げていた。だからこそ行動自体の良し悪しではなく、事務所に向かっているであろうアイドルたちのことを引き合いに出しているのだ、ストッパーとして。
「そうですか〜……残念ですね〜」
 言葉と態度の節々から、本気で残念がっている様子が窺えた。
 理解もしているし同意もするが、納得とはほど遠いといった塩梅(あんばい)だ。
「だけど、お互いにもっと良く知る必要があるって意見はその通りだと思ったよ。ここは一つ話を……そうだな、思い出話でもどうだろう?」
 意思や感情を伝える手段には、色々とある。先程の菜帆の行為などは、かなり過激な部類に入るそれだろう。
 ただ、人と人とが通じ合うためのもっとも基本的な道具は、やはり言葉だろう。
 プロデューサーが思い出話と限ったのは、自身の目が見ていた出来事を、菜帆がどのように見ていたか、思っていたかを知りたがったため。齟齬(そご)と大袈裟に語るほどのことでもないが、どうあってああなったのか突き詰めておくことは、この先のプロデュースにおいて必要な―不可欠とまでは言わないが―ことのように感じられたからだ。
「いいですねぇ〜! やりましょうやりましょう〜! それじゃあ私、お茶とお菓子を用意しますねぇ〜!」
 スッと給湯室へ移動しようとする菜帆の動きには、一分の無駄も迷いもなかった。
「あれ、みんなが来る前に食べるの?」
「私が買ってきたお菓子は、一つ二つじゃないんですよ〜? みんなに食べて欲しいとっておきは食べませんけどね〜。そ・れ・に」
「それに?」
「みんなはスイーツバイキングを食べてくるんですから、私もなにか食べておいてもいいですよね〜?」
 その澱(よど)みがない口ぶりから、お菓子が場を持たせるための道具ということもないようだ。
 浮かんでいる満面の笑みが、それを裏付けるかのように浮かんでいる。
「……まあ、それもそうか」
「それじゃあちょっと待っててくださいね、プロデューサーさ〜ん♪」
 言い残すと足早に給湯室へと消えていった菜帆の後ろ姿を見送りながら、プロデューサーは一人、誰にともなく呟くのだった。
「まだまだだな、俺も。ま、だからこそ……か」
 己が甘さを、その至らなさとして味わいながら……。



 振り仰げば貴し、和菓子の温(ぬくもり)。 
 アイドルとしての菜帆を振り返るきっかけは、やはりこれであった。
 それは甘さを知るために、思い出すために綴られる回想録。



 (続く)



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