えんげーじめんと☆




1 〜抱きしめた『パッション』〜

 古ぼけた風合いに年期を感じる、とあるビルの一角。
 掲げられた色褪せた表札も、ビルの風合いから浮くこともなく馴染んでいる。
 まるで初めから、その姿で設えられていたかのように。
 雨に打たれ、風に晒され、時には雪さえ被り、たまには落書きの憂き目にもあった。春夏秋冬と季節が巡る中で、この場所に出入りするアイドルたちを迎え、送り出してきた。
 重ねた歳月が、そこには確かに刻まれていた。
(ビル共々、苔むしたか……)
 プロデューサーは、そんなことを思っていた。
 古いが手入れの行き届いているビルと、プロダクション名がかすれた表札。
 十年を超える歳月を過ごしてきた、そう遠くない将来に『思い出』と化してしまう、この場所を見つめながら……。
 そんな時だった。
 影が伸び、覆い被さったのは。
「にょわ? どしたのPちゃん?」
 そしてやや遅れて担当アイドル、諸星きらりの声が聞こえてきた。
 視界にその姿はなくとも、間違えようはずもなかった。
 被さるほどに影を伸ばせるアイドルは、そう多くもないのだから。



 一年で一時間を刻む時計があったとすれば、今は十一時を少し過ぎた頃合いだろう。
 かつて零時に、この地にやってきた男がいた。
 独立したばかりの新進気鋭のプロダクションに、プロデューサーとして働くために。
 それはまさしく、未開の地への冒険だった。
 かつて現状――彼がそれまで勤めていたプロダクション――に別れを告げてまで。
 安住を良しとしない精神性が、そうさせたのだ。

 それはまだ何者でもなかった、『彼女たち』に出会うために。

 物語には、結末が用意されている。
(結末がないことが結末、なんて冴えない場合もなくはないが、それはそれとして)
 彼が古巣からの旅立ちという決断を行ったのは、ある一つの物語が結末を迎えた頃だった。
 結果から振り返れば、そういうことだったのだろう。
 もっともごく最初の頃は、業務協力のような形で顔を合わせることもあったか。
 今の事務所にアイドルが増え、古巣もまた独自に『劇場』の立ち上げという新規業務を手がけるようになってからは、時に協業することもある同業他社程度の形に落ち着いた訳だが。
 決断の時点では、そんな運命など知る由もなかった。
 数多く採用したアイドルたちの面倒を見ることだけで手一杯、他所のことを気にかける余裕などなかったからだ。
 彼女たちはあるいは何者にもなれず、消えていった可能性さえあった。むしろ、その可能性の方が高かったかもしれない――何者かとして、世に知られるよりも。
 確実に存在したのは、そのどちらかになるという『可能性』がいつの日か『結果』として示されるという事実だけ。
 もし、その瞬間までに何物でもなければ、ただ消えゆくのみだ。
 かつて昭和と呼ばれた時代の末頃に、こう言った人がいる。
『歌手一年、総理二年の使い捨て』と。
 しかし現実というのはより無情かつ無常なもので、使い捨て以前の問題……日の目を見ることなく消えていく確率の方が、遙かに高い。
 数年曲がりなりにもこの世界に身を置いたことで、身を以て知った事でもあった。
 だからこそ、彼女たちをそのような目に遭わせたくなかった。
 世に出ずる方の可能性を潰さないようにと、駆けずり回る日々。
 彼女たちが何者かになるかも知れない、という『予感』。
 ただ、それだけを信じて。
 それが『予感』に似た『願い」だけで終わるかも知れなかったのに、存外駆けている間は頭の隅にもないものだから不思議だ。
 こうして振り返っている今だからこそ、聞こえよく言えば俯瞰視、悪く言えば他人事のように語ることができている訳である。
 それだけでも、こう言って差し支え無いだろう。

『願いは叶った』と。

 彼女たちの輝きは、幸運にして世に解き放たれることが叶った。
 その光の強さには惜しいかな差はあれども、名も無き星々として忘れ去られる事態にはならなかった。
 プロデューサーとして、その一助であることができた自負もある。
 しかし今、その源流とも言える場所は、失われようとしていた。
 ただ、時の流れに飲まれゆくのだ。
 プロデューサーやアイドルが置き去りにするのか、それとも置き去りにされるのか?
 それさえも、判然としないままに。
 だから、こうも言えるだろう。

『叶ったことと、叶い続けることとは、別物である』――と。



 今となっては千川ちひろ――この建物で、最初に出会った事務所を支えてきた彼女――さえ毎日は訪れなくなってしまった建物を、正面に見据えたままで語りかけた。
「おはようきらり。今日も元気そうだね」
 首と腰とをググッと反らせば、きらりの顔が逆さの正面に見えた。
 別に右か左かどちらでも、振り返ってしまえばこんな無理のある姿勢をする必要も必然性もなかったのだが、どうしてかそうしたくなったのだ。
 強いて言えば、俯きがちに腰が曲がった姿よりも、伸びた姿を見せたいという気持ちがそうさせたか。
 伸ばせば伸びる。
 少なくとも、担当アイドルにしょぼくれた覇気のなさを見て欲しくはなかったから、というところだろう。
「おっすおっすばっちし! でも、そういうPちゃんはもしかして……お疲れさま……かにぃ?」
 逆さ向きのプロデューサーと目を合わせながら、きらりが向けてきた顔には初めに笑顔があったが、程なく憂いが僅かばかり差し込まれた。
 まぁまぁ長い付き合いのせいか見透かされてしまっていたようだ。
「そうか。……やっぱり、そう見える?」
 思いつつもきらりの言葉をよくよく咀嚼してから、プロデューサーは改めて問い直した。
 きらりシンプルに一つ頷くと、答えた。
「なんだかPちゃんの背中……今日はちっちゃく見えた気がしたにぃ……」
 覇気が欠けていたのを、見透かされていたらしかった。
 現状への安住を否としてやってきた場所が、まさに失われようとしているこの時にあって発揮された、余りにも原初の思いから懸け離れたナイーブでセンチメンタルな感傷。
 背中は何よりも、雄弁に女々しさを語っていた……らしかった。
 一瞬だけ取り繕ったところで何の意味もなかった。
 それでも貼りたいのが、意地やら見栄やらなのだが。
 彼女を相手にできるだけ、相応しい存在でありたいがために。
 反らしていた首と腰を元に戻し、きらりに背中を向けたままで、告げた。
「寂しいものは、やっぱり寂しいんだよな。思い出は沢山作ってきたし、それが消えるわけでもない。誰がいなくなるわけでもない。わかっちゃいるんだ、頭では。でも……それでもなぁ……」
 視界が、不意に乱れる。目に入る光の屈折が乱され、正しい像を結ばなくなったせいだ。
 涙と呼ばれる液体が不意に溢れ、眼前を覆ったためだ。
 背中も小さく見えようというもの。
 数多の時間を預けてきた場所が、消えるということ。
 現実にそれが迫ってきたことが、苦しい。ひたすら苦しい。
 それは担当アイドルに、見せたい姿ではなかった。
 見透かされていると認識していても。
 この弱い自分で、彼女と向き合いたくなかった。彼女と正面から、視線を避けがたい形では。
 どうしてか、ではなく、どうしても。
 それが、今の彼の姿だった。
 事務所の実質的な主とも言えた、千川ちひろでさえ毎日顔を出さなくなった場所。
 その事実が余りにも、重い。
 近付きつつある『その時』を意識するほどに、気分はその重さを増していく。
 だが、それでも目を逸らせない。見つめてしまう。
 ただの入れ物と思っていた、古びた建物を。
 安住を良しとせずに移ってきたはずの環境に、いつしか安住していた自分さえ嫌になり、また、哀しくなったのだ。
 今、目に映るすべてが、哀しい。
 大袈裟に言うと、こうなるだろうか。
 そんなプロデューサーを、きらりは……。
 がしっ。
 真後ろから、捕まえた。
 腕が、プロデューサーの腰の高さ辺りに巻き付いている。
 ハグと言えばハグだが、微妙に……いや、かなり位置が低い。
 感覚も『ぎゅっ』とか『ふわっ』とかいった柔らかさを感じることもなく、『がしっ』。
 きらりの体格を思えば、姿勢は相当低いはずだ。彼女が普通にハグをする程度なら、この高さに腕が回ることはないのは自明の理。
 頭を低く下げた姿勢で、背中に密着していることになるだろうか。
 ハグはハグでも、ベアハッグに近い。
 そこに込められていたのは、紛れもなく――力。
「……いっくゆぉ〜、Pちゃん!」
 グッと一層、力が込められたのを感じた。
「きらり!?」
 叫ぶが早いか、彼の身体は宙を舞った。
 思い切り垂直方向に、彼の力をなんら用いることなく。
「たかい、たか〜い!!」
 目の前で、景色が踊る、流れる。
 世に聞く走馬灯が流れる感覚というのは、こういうものだろうか?
 そして確かに、こう思ったのだ。
 出会ったときから彼女は確かに、こういった力にも満ち溢れていたと。

「きらりんぱわー! そ〜れ〜!」

 彼女がこのように呼んでいた、物理的な力に。 



「どぉ? どぉ? 元気でた?」
 地に足がついたはずなのに、あやふやな感覚。
 涙はどこかへ飛んでいき、物理的に目も乾いた。
 だが、悪い気分ではなかった。
 力尽くに過ぎる気配はあったが、これは恐らく……と、彼なりに思い当たるフシがある
行動だった。
「ああ、出たよ。久々に出会った頃のきらりに会えた気がしたからね。怖いものなんて飛んでいったさ。……物理的にも、ね」
 目尻の乾いた涙の跡を拭いながら、さらさらと淀みなく言葉を口にした。
 満面の笑顔とともに。
「にょわっ!? ……Pちゃん、気付いちゃったにぃ?」
 それは、彼女なりの激励。
 しかも、出会ったばかりの彼女がやりそうな、力強さに満ちたやり口の。
 敢えて――とキャプションを付けたくなるような、気遣いに満ちた。
「もし俺が項垂れていたのが、あっちの建物の中で机の前にいる時だったら、じっくりと話を聞こうとしてくれたような気がするんだ」
 彼が『あっち』と言った方には、大きい事務所が建っている。いつからか業務の中心に居座るようになった、比較的新しい大きな社屋だ。
 そこに勤めているきらりは務めて穏やかで、面倒見がいい。悩みに寄り添う優しさで満ち溢れている。
 無論こちらのきらりが、そうではないというわけではない。
 ただこちらで見られるきらりの方が幾分自分に素直で、躊躇わない性格のように思えるのだ。
 その差が、如何様に現れるかというと……先の光景のように、少々強引な手段に出ることを厭わない。その行動はどちらも優しさをいう同根から生じているものだが、表現としては時に大きな違いとして現れる。
「じゃあ、Pちゃんが好きなきらりは……どっち?」
 その上でのこの問いは、ある意味究極の問いだろう。
 きらりは天秤の上に過去と現在の自分を乗せ、その価値を問うているのだ。
 過去のきらりだけでは恐らく表しきれなかった感情であり、姿がそこにはある。
 しかし当然のこと、過去のきらりが存在しなければ、今のきらりもない。
 答えは一つだった。
「どっちもさ。ただ一つ思うのは」
「……にょわ?」
「いつも俺を振り回して欲しい、だな。『きらりんぱわー』を知っているからこそ、お淑やかな姿に振り回されるし、お淑やかに振る舞える今でも、いや、今だからこそ、さっきみたいに振り回してくれても嬉しい。だから、『どっちも』欠けて欲しくない。わがままで、都合が良すぎるかも知れないけど」
 彼女が偽らないのだから、自分もまた偽らない。
 アイドルに向き合う、プロデューサーとして。
 きらりがきらりであってくれれば、それでいい。
 ただ、願わくば、原初の姿も忘れないでいて欲しい。それだけだ。
「……うんっ!」
 正面からの、思い切りの無遠慮なハグ。
 昔ならたじろいだものだが、今なら。
「ありがとう、きらり」
 思い切り抱きしめ返すことだって、できるのだ。
 重ねたのは、時間だけではないから。
 出会った日から、円環のように巡る時の中で重ね続けた想い。その分だけ。
 あるいは動かなくなる、時のように――固く。



「そうだ。きらり、今日は何かあるか?」
 無論、アイドルとしての彼女のスケジュールが空いているのは承知している。確認しているのは私用の有無だ。
 そうでもなければ、自分もこんな所で呑気に黄昏れるような真似はしていない。
 呑気に黄昏れることができるだけの時間があればこそ、彼女に先のような無様を晒すハメになったとも言えるが。
「ううん。なぁんにも」
 本当に『ブンッブンッ』という音が聞こえるほど、勢いよく首を横に振る。
 長い髪に一杯のアクセサリーや、上体が同時に振り回されているのだから物理的にも間違っていないのが嬉しいところだ。
 この力強さにも、見せられた身としては。
「それじゃ、ちょっとばっかり俺とやってみないか? 事務所探検をさ」
 そういって、目の前の建物を指差した。
 古びて、今となっては手狭な、もうすぐ無くなってしまう事務所だ。
 これも、今更と言ってしまえばそれまでなのだが。
「うんっ!」
 きらりは二つ返事で頷いた。ノータイムで。
 それが無性に、嬉しくてたまらない。
「それじゃ、行こうか……っと、その前に。きらりは俺があそこのドアに立つまで、ここで待っててくれないか?」
「……にょわ?」
 てっきり一緒に歩いて行くものだと思っていたきらりが、首を縦に振りながらも不思議そうな顔を見せる。
「出迎えたいんだよ、あの場所でさ」
 先にプロデューサーとしての自分がいて、やってくるアイドルとしての『誰か』を待っていた『あの日』みたいに……。
「……うんっ!」 
 破顔一笑。今日一番の笑顔だ。
 先刻までグダグダ考えていたことが馬鹿らしく思えてくる、いい笑顔。
「それじゃ、始めるか!」
 自信ありげに歩を進めて、ドアを開ける。
 このドアを潜るのに、どれだけのアイドル(になった子たち)が勇気を必要としていたか。
 それは、きらりにしても同じだったはず。
 アイドルという未知の世界への、第一歩。
 夢を願ってやってきた彼女を受け止めた、この場所。
 振り返る。
 こちらの準備が整ったと見た、彼女が駆け出す。
 その力強さは、あの日から何も変わっていない。
 いや、一層増している。
 それはもう、先程味わったことだ。
 それは軽く、しかし力強い歩み……から走りへと変わる。
 ホップ。
 小さく一飛び。
 ステップ。
 さらに伸びて二飛び。
 ジャンプ!
 すべての勢いを乗せて、全身で跳ねて三飛び!
「にゃっほーい!」
 勢いづいたきらりの三段跳びを、がっしりと受け止める。
 プロデューサーの体は……揺るがない!
「諸星きらりだよぉ☆ よろしくおにゃーしゃー☆」
 そこにあったのは先程まできらりにリフトアップされていただけの、情けない男の姿ではなかった。
(俺は、この子を受け止めきれるプロデューサーだ!)
 一歩も後ずさりすることなく、受け止めきった。
 育ったアイドルに抱えられるだけの存在では終わらない。
 育ったのは彼女自身の努力の賜物だが、そこに何の力添えもしていないわけではない。
 彼女と共にあることができることを喜び、この先も進んでいくだけだ。
 これは、その決意表明と言えた。
 それだけの力を備えていると、まるで何者かに見せつけるかのように。
 まだ、その時ではなかったと抗議するようでもあり……。



 終わりを告げる、一つの世界。
 それ自体は揺らぎのようのない、永遠として残るだろう。
 多くの思いを残し、何かにそれを託して。
 しかし今日もまた、託された世界での物語は終わってはいない。
 燃えるような太陽はいまだ沈むことなく、胸に残っているのだから。

 故に今からここに綴られるのは、今はなきアイドル事務所を巡る記録の一欠片。
 そう、今へと続く、もう見ることができない足跡の一編。
 そんな幻にも似た、一瞬を振り返っていく夢物語。

 ます最初に目一杯の、パッション(情熱)/(受難)をだきしめて。

 それではしばし、お付き合いの程を……。



 (続く)



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