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1 〜ノット・レディ〜 確かにちょっと、ヘンだとは思ったのよね。ただのお祝いなら、わざわざクルーズ船に乗る必要なんてなかったもの 単なるお祝い事なら、ホームパーティーでもバーベキューでも問題なかったはずだ。実際に今までは、そうしてきたのだから。近くに住む親戚やクラスメイトを招いて、盛大に、あるいはささやかでも、誰も文句など言うはずもない。そういった気が置けない数々の人に囲まれて過ごすことが、何より幸せではなかったか。 豪華客船のレディ・クリスタニアU号に揺られながら、メアリー・コクランは考えていた。 液晶時計はPM後半を表示している。一家揃ってのディナーも終わり、もうこれから絶対にやらなければならないことといえば、寝ることだけ。 必要なコミュニケーションはレストランで済ませた。父母と姉二人の話し声が時折聞こえてくるが、それらはメアリーに向けての言葉ではなかった。 ぶつけたい感情は、一通りディナーの最中にぶつけ終えたため、特に今は言葉もない。 普段の快闊な彼女を知っている友人たちが見たら、一様に驚いたあと、心配してくれることだろう。 メアリーは一人、舷窓の近くにある椅子に腰掛け、海を眺めている。 あえてテラスに繋がる大きい窓の前ではなく、船室の一隅にある『いかにも』な丸い形の舷窓、そこに彼女は座り込んだ。この規模の客船ともなるとほとんどお飾りのようなものだが、なぜだかそこに座って考えてみたかった。見る人が見れば、陣取っていると評しただろうか。 それは、この客船でなければ『ない』ものだったからかも知れない。らしさ、と言い換えてもいいだろう。 そこには、夜陰にちりばめられた星空が見えるだけ。波の音は聞こえるが、そこに海があるようには感じられなかった。しかし光がスッパリと切り取られる暗闇があることで、その辺りが海面なのだろうと感じられた。 どこまでも一直線に水平。どうやら、今日の太平洋は穏やからしい。 (豪華客船の沈没を描いた映画のヒロインには、なりそうもないわね……) こんな物騒な感情さえ渦巻いているメアリーの胸中とは、正反対に。 * コクラン一家は住んでいるサンフランシスコを離れ、ロサンゼルスとサンディエゴを周遊して戻ってくるクルージングツアーの真っ最中だった。 その中の一人、メアリー・コクラン、11歳。優しい父母と姉二人に囲まれて日々を過ごしている、金髪碧眼のアメリカ人。 このクルージングも、そんな家族との日常の幸せな思い出の一つ……でしかないはずだったのだ。少なくとも船のラッタルに足を掛けたときは、そう信じて疑わなかった。 しかし出港し暫くして、父親から聞かされた『良いニュース』と『悪いニュース』……正しくは『そうじゃないかもしれないニュース』によって、彼女の心はかき乱されていた。 父親の栄転という『良いニュース』は、それこそ手放しに喜ぶことができた。家族として当たり前に。 問題は、『そうじゃないかもしれないニュース』の方。メアリーは直接それを聞かされる前から既に『悪いニュース』と認識したが。 父親の栄転に伴うオフィスの異動先が、日本という異国だったことだ。 そして父母は共に、一家揃っての日本への移住を計画しているという。同じタイミングで話を聞かされた姉二人は、揃って前向きな答えをその場で返していた。 現時点で態度を保留(それも否定的な方向で)しているのは、メアリーただ一人。 孤独を感じずにはいられなかった。優しくされるほどに。労れるほどに。 自分だけが置いて行かれているような気がして。言葉で家族全員が繋いでくれようとしてくれているということは、傍から見たら離れていくように感じられているということ。 自分の方からも声を出し手繰り寄せようとするが、どうにも距離が縮まらなかったのが先のディナーでの一幕だった。 ――慣れ親しんだサンフランシスコの地で、一人前のレディになる―― そんな夢が、日常共々消えようとしている。とてもではないが、黙ってはいられなかったのだ。たとえその喚く姿が、レディからほど遠いものだったとしても。 今、船は既に領海を出ている。排他的経済水域内とはいえ、彼女たち一家は一時的にとはいえアメリカ合衆国から切り離された環境にあった。 ある意味、既に『試されている』最中にある……少なくとも、メアリーにはそのように感じられた。 親戚から、親しい友人たちから、物理的に切り離された世界。 もっとも親愛なる家族は全員傍に居るが、今の彼女の世界を形作っているのはその両方。 そして、慣れ親しんだサンフランシスコという場所である。 それらのうち近くにあるのは『家族』という、もっとも親しく近しい人たちだけ。 そんな中にあって、メアリーは決断を迫られていることになる。 家族を取るか、それとも家族以外――正しくは父親だけを他国に送り出し、今まで通りの生活を送ること――を選ぶかという、小学生に考えさせるにしては、少々重く大きい決断を。 先のとおり、年上の姉たちは既に父母の提案に賛成し、家族共々異国……日本へ渡ることに反対していない。長女のマーガレットは驚いていたが乗り気のように見えたし、次女のダイアナはメアリーと似たような種類の逡巡を一瞬だけ見せたが、あっさりと承諾した。 このような状況だが、父はメアリーが断固拒否するようなら、単身赴任も止むを得ないと考えているという。 故に決定権は、メアリーに委ねられたも同然の状態にあった。 断固としてNOを叩き付ければ、父は単身日本へと渡るだろう。 しかし、それでいいのか。メアリーは自問する。 ここで家族に――ダッドやマムに反対するのは、レディに相応しい振る舞いなのかしら? ――早く立派なレディとして認められたい―― それは彼女が、常々抱き続けた夢だった。 しかし、ふと思い至ったのだ。 そもそも立派なレディって、なんなのかしらね? それが独立した女性を指すなら、自分はどう考えてもレディではない。小学校すら卒業していない自分は、とても一人では生きていけないだろう。家族全員を日本に送り出し、自分一人カリフォルニアに残ることなど、少し前まで考えてもみなかった。 そしてその選択は、両親揃って認めてはくれないだろう。だからこそ、第二案として父親は単身赴任という選択もあると考えていると伝えてくれたのだ。 だが、その選択を受け入れてしまうことは、自分の目指すレディ像から遠ざかってしまうようにしか思えなかった。 そして、気軽に友人たちに連絡を取って、相談することもできない。船室内のWi―Fiは接続容量に制限があり、使い放題というわけにはいかないからだ(一日あたりの指定容量を超えると、従量課金で大きく費用がかかるため)。 もっとも、親しい友人たちに相談したところで、みんな引き留めにかかってくるであろうことは予想に難くなかった。もし仮に自分が同じような相談をされたら、そうするだろうから。 そこまで考えて、一つの思案に対して結論を出す。 相談は決断を鈍らせるだけだし、おおよそ返ってくる答えに身を委ねた結論を自分の考えとは呼べないだろう。自立した女性像がレディの一部をなしているメアリーにとって、この選択はないものとして選択肢から消されるに到った。 大事なのは結局、アタシがどうしたいか……なのよね まずは両親や姉たちに勧められたように『日本』を調べてみよう。 結論を出すのは、それからで。 * 今という時間は、一歩を踏み出すにはもう遅かったに違いなかった。時計の表示は、椅子に座った時からかなり進んでいた。物思いに耽っていたせいだろう。 今日はここまでとメアリーは椅子から立ち上がると、翌日ネットカフェに予約を入れるよう両親にお願いし、それから眠る準備を整えてベッドに潜り込んだ。 どうせ周囲は海ばかり。この逃げ出せもしない客船内で出来ることといえば、それだけなのだから。 翌朝、朝食もそこそこにメアリーは姉のマーガレットとダイアナ共々、予約したネットカフェスペースに向かった。クルーズ船というのは、乗っている間は何をしてもいいのだ。というよりは、義務として何かをしなければならない……という責任が存在しない。与えられた設備と時間を自由に使っていい、というよりは、自由に使うことを求められるのだ。 その世界と隔絶した空間であることが最大の魅力といえた。 ただし、何かとの連帯を模索したい瞬間であれば、単に贅沢な牢屋みたいなものでもある。なにせ世界が、この船の中だけなのだ。子供の退屈を紛らわせる刺激には、欠けていると言われても仕方がない。 多様な催し物や設備を誇る客船だが、今もっとも彼女が必要としている物――情報を与えてくれるものは、このスペースにしか存在しない。ここは船室内とは異なり、かなり自由にインターネットに接続することができるのだ。 (マムにはゆっくり考えていいのよ≠ニか結論を急がないで≠チて言われたけど、この船を降りる前までには結論を出さないとダメよね、やっぱり) お世辞にも広いとは言えないスペースに、姉妹三人で肩を寄せ合う。 中央にいるのは、メアリー。 現時点で、もっとも日本行きに対して難色を示している彼女に興味を持たせること――それが役目だと、二人の姉は悟っている。もちろん、彼女たち自身も好奇心は持っているのだが、末妹を押しのけてまで満たすほどのものではないことも弁えている。 それじゃ、調べてみましょうか! 私たちが知らないだらけの『日本』って国こと! テンション高く張り切っているのは、最初から乗り気だった長女のマーガレット。 ええ。なんでも知ることから始まる……そうよね、メアリー? 続いたのは、友人のことを気に掛ける素振りは見せたものの、即座に家族と共にいる選択をした次女ダイアナ。幾分テンションが低めなのは、やはり気掛かりがあるためだろう。 考え込んだって、答えなんて私たちのなかにはないものね。それじゃ、始めましょ 中央にいるメアリーが端末を操作する。二人の姉は、それを見守っている。 ブラウザを立ち上げ、スタートページへ。そこは標準的な、サーチエンジンのトップだ。 意を決して、文字を打ち込んでいく。 最初に打ち込むのは、5文字のアルファベット。 japan エンターキーを叩いた瞬間に見えてきたのは、特段意識したこともなかった、遠い遠い国の情報の奔流だった。 太平洋を間において、隣り合っているのね 今浮かんでいる海を船が走り続けていれば、ノンストップで辿り着くことができる国。 そう思うと、それだけで何だか身近に感じることができた。 (オレゴンやネバダ、それにメキシコとそんなに変わらないかも?) なんて、思えるくらいには。 * ねえダッド。マム。アタシ……日本に行ってもいいわ 数時間に亘りネカフェに籠もったあと、昼食時に姉妹揃って離席。 食後に自室に戻ったところで少しだけ、一人で考えさせてちょうだい≠ニ家族に伝えたメアリー。夕食時に家族と連れ立って入ったレストランで着席するなり、彼女は唐突にこう切り出したのだった。 !!!! 驚いたのは家族、特に両親である。 それこそ約24時間前まではあれほど頑なな姿勢を見せていた末娘の、ドラスティックな方向転換。 本当かい、メアリー? 父親は娘の言葉を信じていないわけではないが、聞き返さずにもいられなかった。 た・だ・し! また家族みんなをゴールデンゲート・ブリッジに連れてってくれるならね! たまには里帰りに連れて行って欲しい、くらいの話だと父親は受け止めた。 ハッハッハッ! わかったよ、メアリー。約束しよう! 父親は笑って、その要求を受け入れた。その程度のことで単身赴任という寂しい生活を過ごさずに済むものなら、お安いといった具合だ。そこまで安くもないクルージングに家族を連れてきた甲斐もあったというもの。 誰の泣き顔もない、笑顔に満ちた夕食の席。 それは確かに、その場にいた全員が望んでいたものだった。 メアリーの言葉に嘘はない。 ただし、言葉がそのまま額面通りということもなかった。 奔流のように流れ込んできた情報の中に見かけた、期になる存在――アイドル。 その在り方がこのアメリカのアーティストとは、何かが違うように感じられたのだ。 あれは、なんなのだろう? そんな素朴な疑問が、メアリーの胸中を占めた。 多くはティーンエイジャーのようだったが、明らかに大人もいたし、自分よりいくらか年下の人さえいるようだった。 そんな多種多様な人たちが、一堂に会して歌い、踊る。 その姿はどこか、お伽噺に出てくる舞踏会を連想させた。実際に見たことはなく、それらしいものと言えば大規模テーマパークを手がけている、自国発のアニメーション作品中だけだが。 だからこそそれは、本当にただの夢……お伽噺でしかないのだと思っていたのに。 あったのだ、ここから遠く離れた、しかし海で繋がっている、隣の国に。 アタシは、行かなくちゃ。 だってそうでしょう? 一人前のレディは、舞踏会に参加しなくちゃいけないんだから。 ステージに立つ彼女たちの輝きに、メアリーの魂は吸い寄せられたと言ってもいい。 そしてふと思ったのだ。 何も『サンフランシスコでレディになる』ことに、拘る意味はないことに。 レディとして、サンフランシスコに戻ってきても同じことなのだと。 次にゴールデンゲート・ブリッジを潜る時は、胸を張って、レディとして、自分の意志でやってみせるのだ。 『家族みんなで』と含めたのは、その姿を見届けて貰うため。我が侭を言って一晩家族を困らせた昨日の自分の姿を、レディとしての未来の自分で上書きしてしまうために。 そんな決意表明が含まれていたのだ。 サンフランシスコでレディになるという計画をすべて白紙に戻し、日本でレディになる。 それも、アイドルというステップを踏むことでだ。何から手を付ければいいのか、見当もつかない。 それでも、目標ができた。これだって、ちゃんと自分で考えて立てた目標だ。 迷いが完全になくなったわけでもなければ、惜しいと思うこともある。 しかしそれは、失うことを意味しない。そう思っただけで、随分と前向きになれた。 遠くても、隣は隣だって思えば、何も怖くなくなった。 それに、いつだって優しい家族が傍にいてくれるのだから。 彼女の碧い瞳が、宝石のように輝いていた。水面を分けていた星の光よりも、強く。 * アメリカ西海岸での家族揃ってのクルージングを終えて帰宅した後、メアリーは積極的に活動した。 大切に温めていた、いくつもの計画の大規模な修正。 生まれ育ったサンフランシスコの地でレディになるというそれを、ほとんどゼロベースで書き直す……頭の中で描き直す作業だった。 その全てを『日本でアイドルになる』という目標を着地点に置き換えて、具体的に思い浮かべていく。この作業はかなりの部分が動画頼りだったが、それでも一昔前の紙の資料と文字でしか思い浮かべられない状況よりは遙かにいい。 実体そのままでなくても、実感のある作業……思考ができたからだ。 そして最初に具体的な作業として取り組んだのは、言語の壁への挑戦。即ち、日本語の練習。 日本でアイドルになるなら、避けては通れない道に思えたからだ。 「やりたいこと」と「やらなければならないこと」が見事に重なった結果、それは来日直後から効果を発揮することになる。 * アタシ、日本語をいっぱい勉強するわ! そうすれば、アイドルのメッセージが分かるようになるもの! 羽田空港、国際線ターミナル内。 全員が入国手続きを終えた家族の前で、メアリーは高らかに宣言した。 慣れ親しんだアルファベットに併記された、漢字仮名交じり文の看板や表示があちこちに表示されている。 見たような覚えはあるが、すぐには読めなかった。少しでも時間を割いて道具を使えば、そう難しいものでもないだろうが。ここは、ビジターための施設でもあるのだから。 ただ、それではまだ届かない気がしたのだ。いや、確信したと言ってもいい。 自分はまだまだ、ネイティブスピーカーには届いていないのだと。 家族の前ではアイドルを目指すことを応援されて、こそばゆかったのかヤダ、ジョークよ≠ネんて言ってみたりもしたが、本当の所ではもう心に決めていた。 一瞬でもステージに立つ自分の姿を想像したときには、既に取り憑かれていたのだから。 それは、家族の誰もが認めるところだった。あまりにも、あからさまだったので。 * 最初の彼女はただ、家族の都合に飲み込まれただけの少女に過ぎなかった。 だが、今は違う。 自らの意思でアイドルになると決めた、一端のチャレンジャー。 その一歩目は、既に踏み出された。 今はその心の在り方を肯定してくれる四人の家族だけが、彼女のファンである。 ノット(Not)・レディ(Lady)。 バット(But)・レディ(Ready)・OK。 (続く) |