kandahal.png


カンダハルの犬・第一話

「その犬は僕の飼い犬です。 僕に似て、この辺のボス犬なんですよ。 僕もこの犬のように、昔は悪でブイブイ言わせたもんですよ。」

と、犬に負けず劣らず痩せて貧弱な田中次郎は証言をした。彼の側頭部にある十円ハゲ(心因性と思われる)が、証言の嘘を、雄弁に物語っていた。
もっとも、この白い犬が飼い主に似ていると言う点には有無を言わせぬ、揺らぎ無い信憑性があった。

マニラ食堂について尋ねると早くも取り乱し、いつもこうして自分だけの世界に逃げ込むのであろうか、奇妙な占いの話と母親の支離滅裂な話を始めた。
これではラチがあかないので、犬への虐待への怒りを少しぶつけてみると、更に怯えて次のように語った。

「僕は愛犬に虐待なんかしてませんよ、誓って本当です。 だってこの辺のボス犬なんですよ。 僕だって敵いませんよう。 でも何しろこの辺のボス犬だから、近所の猫やカラスに餌を分けてあげなきゃならないらしくて、いつも自分の分を食べ損なうみたいです。 僕が学校で、お弁当を食べ損なう理由と同じです。 散歩に出かける時も、ボス犬だからいろいろ大変なんです。 もう噛み傷が絶えなくて。 あんまり酷いから、最近は散歩も鎖を放して勝手にさせてます。 その食堂については、お母さんに行ってはいけないと、言われてるんです。 不良の行く所だって。 僕はちっとも怖くないんですけど、お母さんは女ですからね。 心配させないように、言いつけは、ちゃんと守ってあげないと。 僕は強くて優しいから。 頑張れ、僕」

この少年にはかなり苛つきを覚えたが、犬を虐待していないという話は本当らしく、少し安心できた。
この少年が飼い犬を虐待している光景は、気味が悪く、最低の景色に思えたからだ。

「だからマニラ食堂には行った事が無いし、知らないんです。 もう勘弁して下さいよ、お願いしますよ。 ハーブ園ですか?ひよこ豆には関係無いと思うけど。 僕はあまり出かけないんです。 お母さんが不良になるから行くなって。 そりゃ僕だって、みんなに気づかれないように、こっそり近所の本屋さんに出かける時はありますけどね。 だからハーブ園は家から遠いし。 出かける時も、お金は無くさないように、最低限しか持ち歩かないから、僕を脅しても無駄ですからね。 だからもう勘弁してください。 ええ、僕の愛犬はハーブ園に行ってるかも知れないけど。 ごめんなさい、すみません、もうこのくらいで勘弁して下さい」

この少年が何故しきりに謝るのか、理解に苦しんだが結局自分の話しかしないので、ハーブ園は、直接行って調べなくてはならないだろう。
メタルは晩秋の風の冷たさにトレンチコートの襟を立てた。
その前にマニラ食堂で腹ごしらえをしよう。

その食堂の看板が見える所まで来たとき、周りの景色の異常さに気づいた。
通行人がどれも同じ中年男性、同じ女子高生に見える。
疲れているのだろうか?
ロートV40と書かれた目薬を差し、もう一度目を凝らしてみたが、同じ通行人の行列は景色と矛盾する倍率で駅に向かっていた。
「ねじ式」の世界に紛れ込んだのかも知れない。
そういえば、さっきの少年もそんな世界が似合っているように思える。

だが、この事件の裏には、きっと政治的巨悪が存在する筈だった。
単なる偶然や個人の力では、このような事件をひき起こせない事は最近のテロ事件が物語っている。
絶対に裏があるのだ。
その鍵は今の所一般に開かれた、マニラ食堂とハーブ園に隠されているに違いない。
メタルは自分に言い聞かせた。
この異常な駅前の景色。
これは紛れもなく現実の光景なのだ。



カンダハルの犬・第二話

マニラ食堂に入ると、そこは1960年代に流行したと言われる、アングラ喫茶のような内装だった。
壁と天井一面が、原色の組み合わせで、サイケな縞模様や水玉模様で埋め尽くされおり、マリファナの煙をカムフラージュする為か、きつい線香の匂いが鼻をついた。
床にまで垂れ下がる暗幕で覆われたテーブルの一角に奇妙な空間があり、そこにはテーブルの代わりに大きな白い風船が据えられ、同じ規格で統一された作業着とサングラス姿の男が三人、風船に向かって腰掛けていた。
先客と言うより何かの作業の為にそこに居るらしく思われたが、どんな作業をしているのか、さっぱり判らなかった。
熱の対流でゲルの流動する仕組みの、照明ランプの置かれたテーブルに着くと、件の女将が何かの儀式のような仕草で水の入ったコップを持って、注文を取りに来た。
メタルはタンメンを頼み、ついでにハーブ園について尋ねてみたが、「へその奥だよ」と意味不明の答えが返ってきた。
メタルは聞き返した。

「アングラ劇の練習に来たんじゃないんだ。この町のハーブ園について尋ねたいんだ、それだけだ」
「教える訳にはいかないね」
「夢十夜にはそんな台詞は無い。さっきのは夢十夜だろう、へその奥って」
「そんな事は知らない」
「教えて困る事がある、と受け取って良いのかな?」
「困る事などない。教える事はできないけどね」

「夢十夜」に反応したのか、作業着姿の三人の男が同時にこちらを向いた。
そして同時に立ち上がり、同時にこちらに向かって同じ歩調で向かって来る。
サングラスで表情が見えないが、この男達が危険である事は間違いない。
言葉による威嚇もせず、無言で即座に行動するのは、彼等が交渉の余地の無い役割である事を示している。

メタルは立ち上がり、発作的に向かって来た男の一人を殴りつけた。
同時に突進してきた二人の男のうち、片方に蹴りを喰らわせ、連続動作で、もう片方に肘打ちを決めた。
三人の男達は椅子やテーブルをひっくり返してバラバラな方向に倒れたが、すぐに身構えながら起きあがろうとした。
三人とも、ビクともしていない様子だった。

最初に立ち上がった男に、渾身の蹴りを喰らわせようとした時、後ろの女将に、落ち着いた動作で、ゆっくりと振り下ろされたブラックジャックの一撃を喰らい、メタルはあっけなく気を失った。



カンダハルの犬・第三話

メタルは、マニラ食堂で牛団子スープと空心菜炒めを頬張っていた。
向かいの席には体型と顔立ちの整った魅力的な女性が座り、出されたゴイクンとニョアム・バンコンに口をつけず、しきりにメタルに話しかけている。

「まだベレッタの旧式32口径なんか使ってるの?もうあんな時代遅れの玩具なんか誰も持っていない。 単なる趣味ね。 あなたはいつもそんな風。 思い入れのある、形のある物にしがみつかなければ、何もできないのよ。 私さえ居ればあなたは、もう何の心配もいらない。 まだ気づかないかも知れないけれど、あなたには安らぎが必要なのよ。 それが私。 私はいつでもあなたを受け入れる。 2人で優雅にやっていけるわ。 あなたの目指した世界の終点が私だったの。 私だけが世界で一番早いKawasakiを用意できるし、あなたの欲しいモノを何でもそろえる事ができるのよ。」

女の良く動く形の良い唇が、唄うように早口でそんな事を話し続けていたが、メタルの感心は口紅の種類だった。
昔とは違い、強い光沢はあるけれども、触れた物に痕跡の残らないタイプの口紅。
これがこの女の言う進歩なのか?香水の種類も最新流行に変わっていた。
窓から見える景色はすっかり日が暮れて、女の実体を暗示する暗闇に変わっていた。
この女は死神だ。
この女の手渡すキーでKawasakiのエンジンをかけたが最後、道路に張られた極細のワイヤーロープで首を失う事になるだろう。

女将が儀式のような仕草で春巻を持って、調理場から現れた。

「あいにくタンメンは、この店じゃ扱っていないのでね」
と、女将は感情のこもらない口調で言い、春巻の皿を置いた。

「脳震とうは、もう大丈夫かね?」
「気を失っている間に、こちらの事はすっかり調べがついたようだね」

メタルは向かいの席の美女に、曖昧な笑みを浮かべて見せた。女は踵を返して店から出ていった。
ジーンズやスラックスが決して似合わず、生涯身につけない女。

「そう言えば、あの3人は?」

3人の座っていた一角は、白い球体もろとも消えていて、何事も無かったように普段のテーブルと椅子が置かれていた。
3人の痕跡はもう跡形もない。

「さあね、何の事かしらね。3人の男なんて、最初から居なかったけどね」

3人の男達が何処へ行ったか、もう目星はついていた。
ハーブ園だ。 あの球体は気象観測用ゾンデで、上空のヘリか航空機への目印になるのだろう。
女もそこへ向かった筈だ。
ハーブ園だって名ばかりで、ようするに上空から見つけるのに都合の良い目印にすぎない。
全ては政治的に仕組まれた欺瞞だ。
少なくとも農林水産省、厚生労働省、外務省と有名な巨大外資系ファーストフードの重役が、この事件の核心に絡んでいる筈だった。

店内のジュークボックスが奏でる音楽が、ドアーズからピンクフロイドに切り替わった。



カンダハルの犬・第四話

「これが無いと、あんたは何も出来ないんじゃなかったかね?」

マニラ食堂の女将は、そう言って拳銃を店を出ようとするメタルに向けた。
メタルの愛用する32口径、骨董品のベレッタM1934だった。

「そんな物は紙鉄砲だ。撃たれた奴がカンカンに怒る代物さ。 今時32ACp弾じゃ人を止められない。 もっとも、今の奴等には拳銃すら時代遅れなんだろうが‥」

今時の殺し屋は、もう銃など使わない。
もっと気の利いた玩具が沢山あるのだ。
ただ、拳銃には以前として強力な威嚇力が残っているが、女将はセフティ解除に手間取る筈だ。
骨董品のベレッタは、現代銃ほど即座に安全解除できない。
それにしても、この女将はどこまで事情を知っているのだろう。

「あんたはプロには違いがないが、下請け業者のようなものだろう。 立場的に、この俺を撃っては、不味いんじゃないのか?あの3人がわざわざ俺を生かしておいたのは、俺も計画の一部に含まれるからじゃないのか」
「下手をしたら、この食堂の裏家業に、支障をきたす事になるぞ」

機械のように、カチリカチリと正確無比に計算する女将の額から、一筋の汗が流れ伝うのを、メタルは見逃さなかった。

女将が拳銃を向けるのも構わずに、調理場に入ると、案の定そこで立ち働いていたのは、外国の子供達だった。
おそらく密入国者の子供達だろう。
戸籍も本籍地も持たない、どんな扱いを受けても、たとえ臓器を抜かれて殺されようが、誰にも気づかれない子供達。

マニラ食堂の真のシノギは、児童売春斡旋業者だった。
この事件には、間違いなく製薬メーカーも絡んでいる。

ジュークボックスのピンクフロイドが終わり、キングクリムゾンに切り替わる。

深夜、名ばかりのハーブ園は、それでもスイートバジルやタイム、レモンバームといった香草の匂いが香しく、本来の悪と硝煙の耐え難き臭いを消す役割を、ささやかながらも果たしていた。

痩せた白い犬は、ここが好きだった。
ここには虐待する者は誰も居らず、飼い主の歪んだ愛情とも無縁だった。
誰もに気づかれずに飢え死にする危険はあったが、犬には落ち着ける場所が必要だった。
犬は小刻みに震えながら耳を立て、車のエンジン音を聞いた。

黒い乗用車が数台、静かに乗りつけられ、中から各省庁の事務次官達が現れ、待機していた3人の作業着姿の男達が彼等を出迎えた。

次に入って来たのは、まるで嫌がらせのように人目を引く、派手な塗装と改造を施されたシヴォレーのピックアップで、四駆の巨大なタイヤが砂利をはね飛ばしながら、騒々しく急停止した。
中から降り立ったのは、更に奇抜なピエロの格好をした男だった。

事務次官達に緊張が走り、戯けて見せるピエロを真剣に出迎えたが、作業着の3人の男達は、合図と共にピエロに襲いかかり、ピエロが護身用拳銃を抜く暇も与えずに撲殺した。
上空から近づきつつあるヘリの爆音が微かに聞こえてきた。



カンダハルの犬・第五話

「あなたは勘違いをしている。あれでママさんは、私たちを守ってくれてるのよ」

調理場で年長の少女が、流暢な日本語で説明した。
女将は精神ブロックの為か、しばらく前から店内の椅子に腰掛けて俯いている。
女将が知っていた唯一の方法が、児童売春。
それだけが子供達の命を守る現実的な手段で、それ以外の術を持たなかった。

それで子供達の命が救われる筈もなく、過酷な環境で死んだ場合はやはり臓器を抜き取られ始末される事になるだろう。
悪魔に魅入られたまま運良く大人になれたとしても、子供時代を完全に奪われた歪みを、何倍にも増幅させて世の中に返すに違いない。
最悪なのは、製薬会社のモルモットにされるケースだ。

「警察に知らせるのは止めて。ママさんはいい人だから、お願い」

少女が抱きつき、懇願する。少女の仕草に毎夜の熟練が感じられた。

「俺は警官でも探偵でもない。日本中の犬を調査しているだけなんだ。だから、心配はいらないよ。ただの犬の調査員だからね」

メタルは油染みた調理場で少女を抱きとめ、悲しい抱擁で答えた。
トレンチコートの胸ポケットに、女将から取り戻したベレッタの手応えがあった。
ハーブ園に行かなければならない。

ジュークボックスのキングクリムゾンが、「吹けよ風、呼べよ嵐」の演奏に入った。


作業着の3人が手早くピエロの死体をロープで縛り、気象観測用の大きな気球に繋げ、必要のなくなった重りを解くと、ヘリウムの充満する気球はスルスルと夜空に舞い上がった。

三菱MH2000ヘリコプターのスキッドに取り付けられたフックが、気球に繋がるロープを捕らえ、専用の巻き上げ装置によって死体がヘリに回収される手筈だった。

持ち上げられる死体と入れ替わりに、今度は純白のスーツに白髪白髭メガネ姿の太った男が、ヘリから垂らされたロープで地上に降りてくる。
これらの異常な作業が、あたかも予め決められた手順通り、順調に進んでいるかのようであった。

死体がある程度まで巻き上げられた時、同じ高度を維持しようとするヘリが、安定を失った。
ヘリが抵抗するように上昇力を高めると、地上のシヴォレー・ピックアップが引きずられ、殺されたピエロがいよいよ本領を発揮し始めた。
ピエロは前もって自身の体とシヴォレーの車軸を、見えないほどに細いが強靱なテグスで繋いであったのだ。
ヘリの操縦士が焦って、さらに上昇力を高めた為、ズルズルと引きずられるシヴォレーとMH2000の間で、胸にMのマークを付けたピエロがちぎれ始める。

操縦士は巻き上げ装置を一旦止める事に頭が回らず、ただ闇雲にスロットルを全開にした。
ピエロの死体が地上に繋がるテグスに切断され、一気に解き放たれたヘリがバランスを失った。
ヘリは空中で横滑りし、操縦士が体勢を立て直そうとしたが、不用意に近づきすぎた高圧電線に接触して、耳を劈くような衝撃音と共に、一瞬でローターを奪われた。



カンダハルの犬・第六話

回転し続ける部品をまき散らし、ロープでぶら下がった白いスーツの男もろとも、三菱MH2000ヘリが墜落する。
地上には溜弾のように破片が降り注ぎ、男達が条件反射的に、その場に伏せた。
機体が地上に激突して轟音が鳴り響き、周囲が残骸から噴出する爆煙に覆われた。

「ドナルドの変態野郎め、殺される事に勘づいてて、ピエロを全うしやがった」
「とんでもねえ奴だ、早く撤収しねえと別な掃除屋が飛んで来て、もっとひでえ事になるぞ」

作業着の男達が、怒鳴りあった。
しかし、3人目の作業着の男は涎をたらし、虚ろな目で両手をシヴォレーに押し当て、車体に沿って、じわじわと歩いていた。

「野球なんてもう嫌いだから玉子をね、玉子を鍋で煮ると美味しいよ鍋でかき混ぜるんだよだってさ悪い選手がいるから」

その作業着の男の前頭部には、高速で飛んできたローターの部品が、深く命中していた。
黒い乗用車でやって来た役人達には、白いスーツの男が近づいていた。
白髪白髭の男は、ヘリの破片を体中に突き刺し、片方の眼球が飛び出して顔からぶら下がり、純白のダブルのスーツは赤い血で斑模様になり、墜落で折れた足を引きずりながらも、事務次官の一人を差し出した両手でガッチリ捕らえた。

残った役人は身に迫る恐怖でわらわらと逃げ出したが、突然発進したシヴォレーに一人は跳ね飛ばされ、一人は巻き込まれた。
シヴォレーにカスタム装備されたナカミチが、大音響でガムラン・ゴンクビャールの名演、スカール・ゲントツの演奏を開始する。
ガムランの旋律に合わせるように、シヴォレーの巨大な車輪が激しく空転し、車体に巻き込んだ事務次官の肉片をまき散らした。

そのハーブ園では珍しいローズマリーが鮮血を浴び、スカール・ゲントツに答えるように、月の光を受けて優雅に揺らめいた。



カンダハルの犬・第七話

股から縦に真っ二つに裂かれた、父親と母親のぶざまな死体。
人としての姿は終わったが、はみ出た内臓は脈動し、主を失った細胞はわけも判らず、生への虚しい努力を続けている。
ドクン、ドクンと、大きく脈動する筋肉や心臓。
身籠もっていた母親の、生まれる前の小さな胎児が、へその緒で脈動する死骸に繋がり、母親に負けずに大きく脈動し、生への虚しい努力を続けている。
この胎児が私だった。
私は「死」に抱かれた子供達の一人だった。

まだ精神ブロックの解けない女将が、ずっと同じ姿勢でマニラ食堂のテーブルについたまま、鬱なる妄想から抜け出せずに、閉じこめられていた。
もう何度も自分のそんな光景を見てきた気がする。
いくら感情を追い払っても、次々にやって来る子供達が、同じ光景を繰り返し思い出させる事だろう。

ジュークボックスが、ブツッ、ブツッとレコードの傷までを演奏してしまうように、生活を続ける限り避け難く過去の忌まわしい生い立ちが、動物以下の「死」にまつわる母国の惨劇がついてまわる。
自分に罪があるとすれば、幼子に春を売らせるのが精一杯の、この弱さだろう。

子供達にとっては、飢えで体を死なせるか、心を死なせるかの違いでしかない。
結局は、忌まわしい病気の為に、製薬会社の実験台で、心も体も死なせてしまう。

あの死神女、火兄馬(ひのえうま)は強いと言えるのだろうか。
組織に歪められたまま趣味と金に溺れ、人を殺し続ける日本人。
それともあれは、自分の厳格な美学に従っている姿なのだろうか。


ガムラン・ゴンクビャールが鳴り響く、深夜のハーブ園。給仕をする時の、マニラ食堂の女将の儀式のような仕草を、メタルは直感的に連想した。
あの動作は、この空間、この空気の中であれば、何も不自然無く完全に溶け込むだろう。

ガムランの主、シヴォレーがヘリの残骸に乗り上げ、横転した。
中から、ローターの部品を額に突き刺した作業着の男が転げ出て、笑いながら額に刺さった部品のネジを回した。

メタルはナックルダスター・ナイフを片手に、猫のような滑らかな動作で移動する死神、火兄馬の姿を発見した。
こんな光景にはいつも火兄馬の姿がある。
見慣れた古いイギリス製のナイフを、今回も握りしめていた。
グリップ部分のナックルガードを取り外すと、極細ワイヤーが繰り出され、ナイフの柄からは毒液が滲み出す、仕掛けだらけのナイフだ。

「よくも人の旧式ベレッタを非難できたもんだ。そのナイフの方が、よっぽど古臭くて役立たずだろう。 それとも、監視者はもう全部片づけたのか?」
「あなたを殺さずに正解だったわ。 今すぐ撤収しなければ」

サイレンサーの構造上、徐々に大きくなる、くぐもった銃の発射音が、断続的に続いていた。
緊急車両のサイレンが、遠くから聞こえてくる。メタルは旧式ベレッタ独特の安全レバーを半回転させ、ハーフコックの撃鉄をカチリと起こした。
発射した弾丸を現場に残し、旋条痕から、犬の調査員がこの事件に絡んだ事を宣言するつもりだった。
初めて見る火兄馬の革のボディスーツ姿で、その覚悟は決まった。



カンダハルの犬・最終話

監視者の誤算は、このハーブ園に集まった風船兄弟、死神女、犬の調査員の、全員が対殺し屋級の腕前である事だった。
加えて監視者にとって、ノーチェックの飛び入り程、有り難くない者はない。
監視の環の外側から、好き放題に行動されてしまうからだ。
実際、犬の調査員は、三人ものプロを、ごく短い時間に旧式な拳銃で、行動不能にする事ができた。

犬の調査員と死神女が黙々と監視者を制圧する中、風船兄弟は瀕死の仲間に止めを差した。
陽気に笑う男の、額に刺さった金属部品のネジを締めると、笑う男は徐々にボリュームが下がり、スイッチが切れたように静かになった。
もう二度とこの仲間にスイッチは入らない。

仲間に簡単過ぎる別れを済ませると、風船兄弟は役人達の乗ってきた黒い乗用車を急発進させ、死神女と犬の調査員を拾い上げて、ハーブ園から脱出した。

「くそっ、ドナルドの変態野郎が、味な真似しやがって」

車を運転しながら、作業着姿の風船兄弟の一人が毒づく。
小児性愛者の外資系食品企業重役は、死神女の得意とする極細ワイヤーを使い、自らの人生をピエロとしての悪質な冗談で全うした。

「この仕事は仲間を一人失うほど、割に合わなかった。 だがこれからは美味しい仕事になるぜ。 金が無限に湧いて来る場所が、とうとう判ったんだからな」
「長くかかっちまったが、やっと金の流れから全体の構造が掴めたんだ。 あんたも乗るだろ?」

風船兄弟のもう片方が大雑把に説明を加え、犬の調査員を勧誘した。
断るとは全く考えていない様子だった。
食肉畜産業者、食肉加工業者、遺伝子研究、製薬企業、農林水産省、厚生省、多額の寄付金と名目だけの理事、そして人身売買。末端からいくら奪った所で、決して枯渇する事は無い。
いつの時代も圧倒的に需要が供給を上回る業界だからだ。

「いいね。趣味と実益を兼ねて、一儲けか。それであの食堂はどうなる?」
「マニラ食堂には、もう先回りされているでしょうね。 残念だけど」
「君は一体どうしちまったんだ?革のパンツを履いて、残念なんて言葉を使う女だったのか?」
「知らなかったの?私にも血は通っていたのよ」

機動捜査隊が、ハーブ園のヘリ墜落現場周辺に素早く張り巡らせたビニールシートの中で、下請けの掃除屋が作業を始めた。
持ち込んだ大きなジュラルミンのトランクから、様々な道具が取り出され、最初はまず髭剃りクリームの泡立て作業から始められた。

直立したまま息絶えた、白いタキシードの男の髭に髭剃りクリームを丁寧に塗り、髭を綺麗に剃りあげ、別な作業員はダブルのスーツの、斑模様の乾いて茶色に変色した血を、赤いペンキで鮮やかに塗り直した。
差し出された両手で絞め殺された、事務次官の死体は取り除かれ、本来持つべきチキン・バーレルを両手に配置する。
仕上げとして、銀色に輝くエアブラシで、幾重にも透明な樹脂コーティングが施された。

クレーン車から伸びるアームが、コンテナ車で運び込まれた中型のヨットを吊り下げ、ヘリとシヴォレーの上に落とされた。
そしてヘリの残骸、横転したシヴォレー、ヨットのそれぞれに蛍光塗料で幾何学的なサイケ模様が、錆の浮いたコンプレッサーで手早く描かれて行き、地面にも専用の塗料散布機で、毒々しいアングラ模様の塗装が施されていった。

マスコミからは、三菱の新型試作ヘリコプターの墜落事故とだけ報道され、暫く閉園していた松田ハーブ園の運営が再開された。
再開に向けての新趣向として、どぎついメタリックや蛍光色に塗装されたシュールなオブジェが、数多く野外展示されていた。

一番の売り物はヘリコプター、ピックアップ・ワゴン車、中型ヨットの残骸で構成され、丁寧に保存塗装された大掛かりなオブジェで、人がよく集まっている。
人物のオブジェにも人気があり、白と赤の斑模様のスーツの男と、額に埋め込まれたネジを締める男は、評論家にも高く評価された。

変装して訪れた犬の調査員と死神女、風船兄弟は、子供達のオブジェの前で立ち止まり、息を呑んだ。
裸体をブロンズで固められた偽物の彫像の群れは、全員がマニラ食堂の調理場にいた子供達だった。
様々なポーズをとる子供達の中で、女将が例の給仕をする時の、儀式の仕草で固められていた。
その表情は、苦悶の表情を浮かべる子供達に比べ、どこか安らぎに満たされていた。

犬の調査員が目を背けると、見覚えのある少年の姿があった。
調査のはじめに聞き込みをした相手、田中次郎だった。
彼は彫像に胸を打たれたのか、犬の調査員が抱きしめた、年長の少女の裸体像の前で涙を流していた。
遠くから田中次郎の飼い犬と思われる、弱々しい遠吠えが聞こてくる。
あれは特別な犬ではなかった。
世界中のどこにでもいる、ありふれた犬だ。

ハーブ園の所々に展示された、ジュークボックスのオブジェが、一斉にビートルズのWITHIN YOU WITHOUT YOUを演奏していた。


肉片がこびりつき、返り血で真紅に染まる、革のスーツを着た男女が、硝煙の立ち昇る武器を手に、廃墟と化した製薬工場、児童売買組織の拠点に佇んでいた。
互いに合図を送り、各自の位置や状況、そして勝利を確認し合うのは風船兄弟と、犬の調査員、死神女の四人。
他にも多数の物好きが、膨れ上がった金庫を目指して集結している。
組織から外れ、鬼殺しに徹する彼等に、もはや制限は無い。
平和で平凡な日常を失った人々の世界に紛れ込み、その短い生涯を終えるのだ。

(カンダハルの犬 完)