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上石神井の狼

その上石神井のライスボックス屋店主は、晩酌をの杯を傾けながら静かに言った。

昔、モデルカーという玩具が流行して、モデルレーシング・サーキット場に大勢の子供達が通う時代があったのじゃ。
思えば、あれが全ての改造の始まりじゃったかのう。
コントローラーの反応を高め、箱電池を接続し、シャーシーに鉛のウエイトを張り付け、モーターのコイルを巻き直す者も居ったな。
ある日、そんな自慢のモデルカーを抱えて、スキップでサーキット場に向かう道すがら、それは本物の自動車ティーラーのショーケースに、展示されておったのじゃ。
真紅のボディ、見事な流線型・・・

その上石神井のライスボックス屋店主は、遠い目をして静かに語った。

モデルレーシング・サーキット場に向かう途中、自動車ディーラーのショーウィンドウで見たのは、トライアンフTR3という英国製のスポーツカーじゃった。
それは当時ですら旧式のスポーツカーの筈じゃったが、何とも言えぬ永遠の美を醸し出しておった。
その時、騒がしい連中がやって来たのじゃ。

「おい、ブーニャン見ろよ」

その上石神井のライスボックス屋店主は、煙草を燻らせつつ語った。

その喧しい連中は、年齢すらバラバラに思えたのじゃ。
猫目小僧はどう見ても小三くらいにしか見えなかったし、一際目立つブーニャンと呼ばれる男は、高校生としか思えん。
何とも統一感のない集団じゃったのう。
猫目小僧はガラスに顔をべったり張り付け、トライアンフに感心しておった。

「見ろよ、この車すげえカッコ良いよ」
「いいから早くサーキットに行こうぜ、遅くなるとカツアゲする奴らの時間になるからよ」
「そのカツアゲって、ブーニャンを恐れて姿も見せねーじゃん」
「だ〜ら、俺が犯人に間違われんだよ。不愉快だから早く行こうぜ」

幸いな事に、そいつらは当時いたる所に出没した、モデルカー狙いのカツアゲ集団ではなかったが、猫目小僧はワシの大事に抱えるモデルカーの箱を抜け目無く見ておった。
モデルレーシング・サーキット場に着くと、案の定、チビの猫目小僧が勝負をふっかけて来おった。

「それ、田宮の最新型ローラT70だね。俺の車と勝負しない?」
「いいけど、何を賭けるんだよ?」
「NO.1のゼッケン。車でもいいよ」

ワシはチビの箱から出した車を見て、驚き、呆れ果てたのじゃ。

その上石神井のライスボックス屋店主は、仁丹を口に含みながら語った。

当時は玩具店の二階など至る所にあった、モデルレーシング・サーキット場で勝負を挑まれたワシは、その相手の車をみて呆れ果てたのじゃった。
極端にデフォルメの利いたネズミの化け物が、これまた異様なホッドロッドカーから飛び出しとる、外国製のふざけたモデルカーじゃった。

「その車を賭けるのかい?」
「この車で勝負するんだよ。T-70となら賭けても良いけど」
「その車はどう見てもレベル社のディスプレイ用モデルだが!?立体交差くぐれるのか!?」

それは立体交差どころか、重心位置が高すぎて、コーナリングすら怪しい代物に見えた。
コースアウトしただけで、細かい部品を盛大にまき散らしそうだった。

「大丈夫じゃないかな、たぶん」

チビがそういうので、とりあえず互いの車を賭けて戦う事にした。
あの時、どう考えてもワシの勝ちは固い筈じゃった。
最新式の蝶番式整流板、サイドワインダー式ギアボックス、レース用スポンジタイヤ、世界一の田宮製最新式モデルカーが、大雑把なアメリカ製ディスプレイモデルカーなんぞに負ける筈が無かったのじゃ。
あの時、周りの連中のニヤニヤ笑いを、もっと気にするべきだったのかも知れん。

ライスボックス屋店主の仁丹を持つ手が震えだし、パラパラとちゃぶ台の上にこぼれた。

その上石神井のライスボックス屋店主は、こぼした仁丹を拾っては口に運び、話を続けた。

全8レーンのサーキットに奇妙なモデルカーが次々に並びだした時、奴らがタダ者では無い事を悟った。
勝負相手のチビはラットフィンクと呼ばれるネズミの怪物のディスプレイ・モデルカーを置き、他の連中も、棺桶T型フォード、風呂桶ドラッグレーサー、ワーゲンバスなどという一癖も二癖もあるようなモデルカーを並べおった。
その後1/32から1/72にスケールダウンを続けた、スロットル・レーシングの元祖は、何と1/24の大きさで、連中のモデルカーはその中でも目立って大きく、並ぶと威風堂々とした迫力をたたえておった。
普通は早さを競うために重心を低く、コーナリングの追従性を高めるために、小型に押さえるものなのじゃ。
まったく人を食った連中じゃ、本気で勝負する気など無いのではと疑ったものじゃ。

案の定、チビのラットフィンクは走り始めると遅かった。他の連中も呆れた事に、派手なヘッドライトの電飾やら電動スポイラーのギミックやらで無駄な電気を食っとるようじゃった。
しかも連中は協力しあって勝利を掴むどころか、一斉にラットフィンクの走行妨害を始めおった。

「ワハハ、今日は俺達が勝たせないぜ、ドビンなんか負けちまえ〜」

1/24フルスケールのトラックやらバスは、レーンの横幅を一杯に使うので、充分にコーナリングの妨害ができるようじゃ。
てっきり焦りまくってるだろうと、チビを見ると爬虫類のような笑顔を浮かべ、笑い声まで上げおった。

「ウキキ」

その上石神井のライスボックス屋店主は、老眼鏡を捜しながら語った。老眼鏡は頭に上にあったのだが。

案の定、ラットフィンクのモデルカーは立体交差を潜れる大きさではなく、細かい耳の部品を天井にぶつけて弾き飛ばした。
チビの仲間達が笑い声を上げ、お互いの車体をぶつけ合って細かい部品をまき散らした。
なんだこいつらは?
異様なモデルカーの群に吊られて集まったギャラリーの、低学年達が駆け寄り、コース上の部品をせっせと拾い、真っ直ぐ持ち主に届けに来た。

「サンキュッキュ」

同学年位に見えるチビが、スロットルを操作しながら開いた方の手で耳の部品を受け取り指で弾き、広げたポケットに命中させた。
その無償の連携は何だか羨ましかったが、ワシはそれどころじゃ無い、連中の車がだんだん速くなって来たのじゃ。
傾斜したコーナーでの安定した走りから、奴らの車はかなり重いのでは無いかと思われた。

何やら異様なモデルカーの群が、先行する田宮の最新モデル、ローラT70に徐々に迫って来る勢いじゃ。
しかし、次のS字カーブでラットフィンクとの差を広げる自信はあった。
平らなS字を、あんな重心の高いモデルカーでクリアするには、かなりスピードダウンせにゃなるまい。

しかし、チビを見るとスロットルを押し込んだまま、たいして減速する素振りも無かった。

その上石神井のライスボックス屋店主は、もぐもぐと口を動かしながら話を続けた。

ラットフィンクのモデルカーは、減速せずにS字に突っ込んでいきおった。
当然コースアウトするかと思いきや、ネズミの人形がパタンとコーナーの内側に倒れおった。
すぐ次のカーブもまた内側に倒れ、車体が外側に膨らむことなく、見事クリアしおった。
ある程度のスピードが出ると、遠心力で振り子式のスイッチが入り、電磁石が人形を動かす仕掛けらしかった。
電磁石が余計な電気を食らうので、都合良く減速も出来る訳じゃ。

集中しないと負ける。ワシは焦った。
チビをナメてはいかん、あのふざけた形には、意味があった。他の連中の車も手強い。
ベアリングとモーターが普通じゃない。
電気を拾う部分も蝶番式パンタグラフに改造されとる。
新型にしか無い筈のサスまで付いとる。
唯一の勝機は、連中がワシの最新型を眼中に置かず、仲間同士でぶつけ合いに興じとる点だった。

ついにバスタブ・ドラッグレーサーが長すぎる車体を持て余し、仲間の接触を喰らってコースアウトした。
ガードレールに突っ込んで、本来ディスプレイ用の車体が、細かい部品を沢山ばらまき飛ばし、ギャラリーが叫声を上げた。
操縦者はなんと、笑っとる。
低学年がちょこちょこと駆け寄り、せっせと車体をコースに戻し、部品を拾う。
別な場所でまたクラッシュ。
歓声と興奮。
こんなレースは見たことがない。
無理矢理に興奮の高まる、それは初めて経験する荒れ模様のレースじゃった。

その上石神井のライスボックス屋店主は、焙じ茶をズズッと一啜りして、再び語り始めた。

ディスプレイ・モデルカーの群の中で先行していた、棺桶T型フォードがラットフィンクに捕まり、左右に倒れるネズミ人形の一撃を喰らった。
棺桶にから、ドラキュラの人形が飛び出し、胸に手を当てた威厳のある姿勢のままレーンの上を転がり、他の車にピンボールのように弾かれた。
ちょこまかと走る低学年達が、せっせとそれを拾った。

チビはスロットルを握りしめたまま、ついに床に笑い転げ、身をよじり、涙を流して笑い続けた。
こいつは見た目通り、本当にガキだ。
ガキ以下のジャリではないのか。
ブーニャンと呼ばれる高校生が、レーンに集中しながら、床で笑い続けるチビを蹴とばした。

「真面目にやれ」
「だって‥‥だって、のらキュラが〜っはっはっ‥」

その上石神井のライスボックス屋店主は、トクホンを首に貼りながら、話を続けた。

モデルレーシングカーの摩擦熱で、以前は空き倉庫だったサーキット場にABSセメントや接点復活剤の匂いが煙草の煙よりも濃厚に漂い、集まる人々の生活感とは全く異なるものが、かつては死んだ空間だった場所に胎動しておったのじゃ。
その日は特にボディパーツを弾け飛ばせ、タイヤが外れ、金属シャーシを剥き出しにした一群が、生き活きと元気なモーターの命を宿らせておった。

腹の立つ事に、チビのラットフィンクはスロットルワークを必要としないらしく、笑い転げるチビの状態と無関係にT70にどんどん迫ってきおる。
加速力は無いが、コーナリング性能だけが異様に高いと思われたディスプレイモデルカーの群は、余計な部品をコース上にばらまく事で、実は徐々に加速も増してるのではないか?とワシは不安になった。
チビは何とかゲラから立ち直ったらしく、野球帽を被り直し、形だけは真面目に操縦している姿に戻った。
する事といえば、ただスロットルを最大に押し込むだけの作業じゃったが。

その上石神井のライスボックス屋店主は、入れ歯に挟まった仁丹を指で取りながら、語った。

何周しても癖のあるヘアピンカーブが上手く掴めず、二度もコースアウトした。
その度にギャラリーの低学年の世話になったが、なんと可愛らしくも嬉しい事か。
奴らはレースが終わってからの残り時間を狙っとるだけなんじゃが、こんな疲れるレースなら、残り時間くらい喜んでくれてやるわい。
車も負けて取られずに済めば、好きなだけ貸してやる。そんな心境になったもんじゃ。
一台はモーターから煙を噴き、一台はハンダ吸い取り線を使った整流ブラシが外れ、一台は深刻な駆動輪破損で、三台もの車がリタイアしたが、その分強まる電気を受けて、ラットフィンクがどんどん速くなる。
見かけに寄らず頑丈で、見た事もない手強い車じゃった。

その上石神井のライスボックス屋店主は、白髪頭をぺたぺた叩きながら、話し続けた。

ワシの方は何としても買ったばかりのローラT70を、守らねばならんかったし、ヘアピンを狂ったようにギリギリでクリアするラットフィンクを見て、焦りすぎた。

その上石神井のライスボックス屋店主は、こぶ茶を小さじですくいながら、語った。

あろう事か、ワシの車は減速のタイミングを誤り、レーンから飛び出してしもうた。ヘアピンをクリアし損なったのじゃ。
無数に散らばる拾いきれない部品を巻き込みながら、またしてもコースアウト、ついに逆転されてしもうたのじゃ。
しかしチビのラットフィンクにも段差カーブからはみ出したワーゲンバスが激突し、バランサーであるネズミ人形の部分がすぽーん!と飛び出しおった。
デッサンの狂った精密なラットフィンクの人形はコース中を弾き飛ばされ、低学年達がワッと追いかけた。

その人形はワシの目の前で、何とか転がり終えて止まった。
目が飛び出し、細かい歯の間から舌が垂れ、何とも異様な表情のバケモノじゃった。
意外にもチビは笑わず、難しくなったスロットル操作に目を尖らせ、今度は床に笑い転げたブーニャンを蹴っ飛ばしとる。

はしゃぎながらラットフィンクを追いかけた低学年に、ローラT70は随分遅れてコースに戻して貰えたが、すぐには復帰できなかった。
ワシは肩を震わせ、顔を真っ赤にして、連続性の破壊から来る笑いを、必死で堪えておった。

その上石神井のライスボックス屋店主は、こぶ茶を湯飲みに入れたり茶筒に戻したりして量を調節しながら、話を続けた。

言うなればサーキットは戦場、スロットル・レースは男のスポーツだ!
ワシはどうにか爆笑に繋がる危険な発作を押さえつけ、戦線に復帰して我が新車を走らせるべく、険しい表情でスロットルを思い切り押し込んだ。
しかし、ワシの必死の努力は滑稽さを強調するに過ぎなかった。
コースに戻ったローラT70は短距離レース用のヤワなスポンジタイヤを焼け付かせ、ゴトゴトと上下に揺れながら走りだし、強く押し込みすぎたスロットルは、ベコッと留め金の壊れる音と共に戻らなくなってしもうた。
レーンの縁に手をつき、体を折り曲げた様は、はたからは慟哭と嗚咽に見えた事じゃろう。
低学年達が顔を覗き込み、何やらワシについての推測を話し合う。

「あの子、気持ち悪くなっちゃったのかな?」
「大丈夫かな?吐くんじゃないの?」

笑いを堪える努力も、もうそこまでじゃった。
ズルズルと床に落ち、ワシはそのまま静かに笑い続けた。
チビがキョトンとこちらを見ている。
その横に、ラットフィンクを届けに来た低学年が、誉めて欲しそうな子犬のような表情で待っとる。
ワシはただもう涙を流し床で笑い続けた。

その上石神井のライスボックス屋店主は、ようやく丁度良い量の昆布茶を、二人前入れ終えた途端にクシャミをして全部こぼした。

天井のランプがレース終了を告げた時、何が走っているのかもうワケの判らないモノ達が、次々と店員のチェッカーフラッグを受けて、走り抜けた。
(ABS樹脂ではなく、プラスチック製のディスプレイ・モデルの外装だから、壊れて当たり前じゃ)

床に転がったワシの、笑いは静まるどころか激しくなる一方だった。
あれは回転しながら弾け、他のこれとぶつかりあって、その化け物のヘンな人形を飛び出させ、ついでに人形の目玉もベロも飛び出ていて、あのモデルカー達は、わざわざ如何に華麗に部品をバラまくかの為だけに、細かい部品を、柔らかい素材で組み立ててあった。
痙攣しながら見上げると、猫目小僧達も釣られて笑っておった。

その上石神井のライスボックス屋店主は、畳を拭いた。