第二景  吉野川にて







奈良県に源を発する吉野川は、和歌山県に入って紀ノ川と名前を変える。
下流域に当たる紀ノ川でも、十分に泳ぐに耐える水質だが、
上流の津風呂湖付近にまで遡ると、春の桜、夏の新緑、秋の紅葉と、
四季折々の豊かな自然の中を清冽な水が流れ、
キャンプ場が何ヶ所も整備されていることもあって、
奈良県下のみならず、遠く京阪神からも大勢の人が訪れる、絶好の行楽地となっていた。



加護が、家族と共に、そのキャンプ場の一つへ遊びに行ったのは、
小学校3年生の夏休みのことであった。
2泊3日の旅程で、吉野川での水遊びや、山に入っての虫捕り、野外バーベキューなど、
夏休みの楽しいひとときを満喫していた。



吉野川の上流は、水量が豊富な分、流れが急なところもあったが、
キャンプ場の近くでは、その前後だけ川幅が30メートル程に広がり、
流れも穏やかになって、泳ぐには絶好の場所となっていた。
加護の家族が宿泊していたバンガローから、林立するテントの間を抜けて暫く歩くと、
少し坂を下った所から、ゴロゴロとした石で覆われた河原が広がり、
すぐ目の前に、吉野の清流が臨めた。
遊泳場に指定されている区域では、水深がすべて1メートル以下になっていたので、
向こう岸まで、川底を歩いて渡ることも出来た。
反対側の岸は、間近にまで山が迫って、鬱蒼とした森に覆われ、
明るいこちら側とは対照的な雰囲気を醸し出していた。
水際には、崖の岩肌が露出している所もあり、ずっと昔に崩れ落ちた巨岩が、
水面から2メートル程の高さにまで突き出ていて、そこに登って遊ぶ人たちも居た。



加護たちが来てから2日目の夕方、巨大な積乱雲が発生し、
まだ、4時過ぎにも拘わらず、辺りが薄暗くなってきた。
夕立を予感して、泳ぎに来ていた人たちも、早々にテントやバンガローに引き上げ、
川で水遊びを続けるのは、加護一家だけとなってしまった。
一人、川の中にいる加護を、母親と祖母が心配そうに見つめていた。



亜依ちゃーん、早く上がりなさーい。
母親が、岸から呼びかけた。
加護は、浮き輪に身体を通して、水面にプカプカと浮きながら、
う〜ん、と母親に聞こえるはずもない小さな声で、一応の返事をした。
真夏の眩しい光の下、泳いだり水を掛け合ったりする、当たり前の光景ではなく、
薄暗い夕暮れ、静まりかえった中で、一人で水に浮かんでいる、
そんな普通ではない状況が、加護の心を捉えていた。
いつまでも、ずっとこうしていたいような気分だった。



遥か遠くから、重低音の響きが聞こえて来た。
雷が近付く兆しがいよいよ濃厚になった。
のんびり構えていた加護も、さすがに早く上がらなければと思った。
岸の方を見ると、母親と祖母は加護に背中を向け、雲の様子を見ているようだった。
加護は、水中で曲げていた足を伸ばすと、両手で浮き輪に掴まったまま、
思い切り川底を蹴った。
だが、その勢いで身体が反転し、進もうと思っていたのとは逆の方向を向いてしまった。



水の中で、思いも掛けない体勢になって、少しだけ慌てたが、
パニックになることもなく、すぐに身体を立て直した。
暴れた勢いで、水を浴びてしまった顔を手で拭い、
反対側の岸の方を向いたまま、あぁビックリしたー、とつぶやいた。
そのとき加護は、対岸近くに異様なものを見つけた。
全身灰色の何かが、向こう岸に向かって、ゆっくりと川の中を歩いていた。
背格好から言うと、ちょうど人間の大人くらいで、
人間が歩くのと同じように、両手を交互に振りながら進んでいたが、
その背中には、亀のような甲羅が見えた。
カッパ!?
咄嗟に加護は、そう思った。



その生き物は前屈みになっているのか、首から上がよく見えなかったので、
カッパのもう一つの特徴である、頭のお皿があるのかどうかは、確認出来なかった。
加護は、正体を確かめようとするように、その生き物を暫くの間見つめていたが、
振り向いたらどうしようと思った途端、急に怖くなって、
大慌てで身を翻し、手足を無闇にバタバタさせながら、
必死で母親たちが居る岸に泳ぎ着いた。



大きな水音に、驚いて振り向いた母親と祖母は、加護のただならぬ様子に、
どうしたの?と心配そうに尋ねた。
カッパが居たの!
加護の口から出た言葉を聞いた二人は、思わず顔を見合わせてしまった。
加護が必死で指差す方向には、既に先程の異様な生き物の姿は無かった。
岸に上がって少し落ち着いた加護は、今見たばかりのことを、つぶさに話したが、
真剣な表情で話せば話す程、
母と祖母の二人は、ますます困惑したような表情を浮かべるばかりだった。



バンガローに帰って、みんなの前で一から事情を話したが、
家族の誰もが、どう答えれば加護を納得させられるかを考えているようだった。
世の中には、まだまだ一杯分からないことがあるからね、
という祖母の言葉で、その話は終わることになった。
加護は、その後も、何人もの人に、事ある毎にこの話をしたが、頭から否定されるか、
言葉を選びながらも、結論として、何かの見間違いだと言われるだけだった。



だが、加護は間違いなく見た。
あの夏、吉野川の上流で、カッパではないかも知れないけれど、
未だかつて見たことのない生き物を。
それは、信じるとか信じないとかではなく、加護にとっては紛れもない事実なのであった。









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