(ドブジャンスキー)
地球上のすべての生物は進化の産物です。ですから、生命を理解する上で、進化的な観点は欠くことができません。生物学の教育においても進化的な観点が重要であることはいうまでもないことです。ところが、大学に入学してくる学生たちの進化に関する理解の程度はきわめてお粗末といわざるをえません。高校の生物の教科書の進化の項に記述された内容があまりにも時代遅れなものが多いこともあって、進化はとかくおみそ扱いされがちなことが大きな理由ではないかと思います。また、高校で生物を教える先生方の進化に対する知識や関心が不足していることもこれに輪をかけているようです。
高校で生物を学んだ人達ですらこんな状態ですから、そのような機会を持つことのなかった人たちの進化に関する理解の程度はさらにひどいものです。その一方で、「進化」はこのところブームといってもよく、本屋さんにいくと、一般向けの本がたくさんならんでいます。残念ながら、その内容は玉石混交で、問題があるものが多いのが実情です。しかし、進化についての基礎的な知識がないと、たくさん出ている本の中から正しい内容のものを選ぶのは容易ではなく、トンデモナイことが書かれていてもそのままうのみにしてしまいがちです。
アメリカのいくつかの州の教育委員会が創造説の信奉者たちに乗っ取られ、学校で進化を科学的な事実として教えることが禁じられるという異常な事態が起こったのはそれほど昔のことではありません。幸いなことに、日本では創造説の影響は少ないのですが、かっては軍国主義的な政策を正当化するのに進化論が利用されたことからもわかるように、進化についての誤解は、その悪用の道を開くことにつながりかねません。
ネットニュースやメーリングリストなどに寄せれれた質問などを通じて私が経験した進化に関する誤解の代表的なものを取り上げてみました。生物の進化が現代の生物学ではどのように理解されているかを知っていただく上で少しでもお役に立つことができればと思います。
「車が進化しました」とか「コンピュータが進化する」とかいった表現は、宣伝文句などでもよく目にしますし、日常の会話でもしばしば耳にします。この場合、進化という言葉が進歩や改良という意味で使われていることはいうまでもありません。しかし、これは進化に関する典型的な誤解の一つなのです。生物学では、進化は「生物集団の遺伝的構成の時間的変化」、あるいは、もっと直接的には「生物集団の遺伝子頻度の時間的変化」と定義されます。ですから、進歩とか改良という意味はまったくないのです。また、進化の反対の意味で「退化」という言葉がよく用いられますが、これもまちがいです。
進化は英語ではevolutionといいますが、これは、本来、「巻き物を広げる」という意味で、進歩とか改良の意味はありません。にもかかわらず、このような誤解は日本にかぎらず外国でも珍しくありません。誤解がうまれる理由は、別の項でふれるように、生物は下等なものから次第に高等なものに進化してきたというもう一つの誤解がもとになり、さらに高等な生物は下等な生物より優れているのだろうという人間の勝手な思い込みがあるからでしょう。
生物はおよそ35億年くらい前に地球上で誕生したと推定されており、現在、私達が目にする生物は、すべてその子孫であると考えられています。細菌の類は現在でもいたるところに生活してますが、それらの中には生命誕生当時の姿とあまり変っていないとみられるものもいます。一方では、多くの人が高等生物の代表と思っているヒトのような生物もいます。しかし、進化の歴史の長さからみると、ヒトも細菌もまったく同じです。ですから、どちらが高等だとか下等だとかいったことはいえないのです。
たしかに、ヒトは細菌に比べるて体制がより複雑であり、持っている遺伝子の数も何10倍もあります。このことから、体制がより複雑な生物がより高等で優れていると考える人が少なくありません。しかし、考えてみて下さい。30億年以上にもわたって地球の環境に適応して生き残ってきた生物と、種としては誕生してから50万年も経っておらず、明日をも知れないような新参者のヒトとの間で優劣を論じること自体がナンセンスではないでしょうか。
医学の進歩によって、かっては致命的であったさまざま病気が治療が可能になったり、遺伝病の患者でもその発病を防いだりすることができるようになっています。また、栄養の改善や医療の発展によって乳幼児の死亡率は著しく減少しました。農業や工業の発展による飢えからの開放や生活環境の改善なども死亡率の低下に貢献しています。このような「自然淘汰」の圧力の低下によって人類の進化は止まってしまうのではないかと心配する人がいます。
これは、進化に関する二重の誤解によるものです。一つは、進化は進歩・改良であるという誤解によるものです。かっては生きられなかったような有害な遺伝子をもった人が子供を残すことができるようになった結果、有害な遺伝子の頻度が増加する可能性があります。しかし、その結果、人類集団の遺伝的構成は変化するわけですから、定義によれば進化にほかならないのです。有害な遺伝子が蓄積し、人類の遺伝的な資質は低下する可能性はありますが、そのことのよしあしは進化とは直接関わりのない人間の価値観の問題です。
もうひとつの誤解は、自然選択(自然淘汰)の意味を正しく理解していないことから生ずるものです。自然選択という言葉を表面的にとらえ、自然がなんらかの力を及ぼして優れたものを選ぶ、あるいは劣ったものを淘汰するという広くみられる誤解です。自然選択には本来そのような意味はありません。以下の項で説明するように、自然選択は子供の数の違い(変異)と定義されます。医療や環境条件がいくら改善されたとしても、夫婦の作る子供の数に家族間でばらつきが生じることはさけられません。子供の数にばらつきがある限り自然選択は働き続けるのです。
「サルが進化してヒトになった」とか「下等な生物が進化して高等な生物が誕生した」といった言い方をする人をよくみかけますが、これも進化に関する誤解の一つです。生物には、細菌や原生生物のような単細胞のものから、脊椎動物のような複雑な体制をもつものまで、きわめて多様性に富んでいます。これを整理してみると、簡単な体制の生物から複雑な体制のものまで、おおざっぱに序列化することができます。このような序列を「自然の階梯」といいます。階梯とははしごのことです。自然の階梯というのは、進化論の登場よりずっと以前から認識されていました。むかしはこのような序列は生命を創造した神様の意思によるもので、神の姿にもっとも近い人間が最上位に置かれたのだと説明されました。ダーウィンの進化理論によって、このような解釈が誤りであることがわかったにもかかわらず、自然の階梯という見方はなかなか消え去らずに、教科書などに出てくる生物の系統樹でも、「高等な生物」を一番上に置き、「下等な生物」を下の方に置いたものが少なくありません。
上にも述べたように、現在地球上でみられる生物は、すべて単一の起源に由来します。つまり、あらゆる生物は同じ長さの進化の歴史をもっているのです。ですから、生命の系統樹を正しく書くとすれば、現在の生物はすべて枝の末端に配置しなければならないのです。これでは序列のつけようがありませんから、下等も高等もありません。
では、なぜ生物には序列があるかのようにみえるのでしょうか? その理由は、進化が生物の多様化の歴史でもあるからです。生物の多様化は新しい種の誕生によるものです。地球上に誕生して間もない頃の生物は現在の細菌に近い原核生物(核を持たない生物)であったと考えられています。原核生物の中から共生関係によって現在の原生生物に近い単細胞の真核生物(核を持つ生物)が生まれました。これらの真核生物の一部が有性生殖の能力を獲得した結果、遺伝的多様性が増大し、進化のスピードは著しく加速されました。その結果、多細胞生物が誕生し、さらには、その中から植物や動物の祖先が分化し、現在、私達が目にする多種多様な生物が登場してきました。現在、地球上には1000万種をはるかに越える種類の生物がみられますが、これらのすべては進化の過程における種分化の産物です。
過去、地球上に誕生した生物の大部分は絶滅してしまったと考えられています。これは、三葉虫やアンモナイトや恐竜など、現在は化石としてしかみることのできない生物がたくさん知られていることからも明らかです。ですから、過去、地球上で生じた種の数は、まさに天文学的な数になります。一方では、細菌のように、20億年以上も前に誕生したころの形態をほとんど変えずに生き残っている生物もみられます。現在みられる生物を、例えば、原核生物、原生生物、多細胞生物というように区分けしてみると、進化の過程でこの順番で地球上に登場してきたと考えられます。このために、原核生物→原生生物→多細胞生物の順序で進化してきたかのようにみえるのです。実際には、原核生物の一部から原生生物の祖先がわかれ、さらに原生生物の一部から多細胞生物の祖先がわかれてきたのです。そして、多細胞生物よりずっと古くに誕生した原核生物や単細胞生物のなかまも、多くの種類が絶滅をまぬがれ現在も繁栄を続けているのです。
もっと身近な生物で考えてみましょう。「ヒトはサルから進化した」といったことをよく聞きます。そのためでしょう、なかには「チンパンジーはそのうちにヒトになるんですか?」といった質問を受けることがあります。チンパンジーが、現存の動物の中ではもっともヒトにちかいことはたしかです。しかし、チンパンジーはヒトとはまったく別の種で、けっしてヒトに進化するようなことはありません。
ヒトはおよそ500万年前に誕生したといった記述は、教科書や一般向けの本などでよくお目にかかりますが、これもとかく誤解を産みがちです。これは、ヒトにもっとも近い動物であるチンパンジーとヒトの共通祖先であった種から、将来ヒトに至る祖先種が分化したという意味です。この共通祖先がどのような動物であったかはわかっていませんが、少なくとも現在のチンパンジーとは別のものです。分化したヒトの祖先種からはオーストラロピテクスなどの猿人やホモ・ハビリス、ホモ・エレクタスなどの原人が分化しましたが、これらはいずれも絶滅してしまいました。ヒトは、ホモ・エレクタスから分かれたとみられるネアンデルタール原人の一部から分化してきたものと考えられています。ネアンデルタール原人はヒトにあまりにも近いため、ヒトの直系の祖先であり、これから徐々に変化していったと以前には考えられていました。しかし、近年、化石から得られたDNAの分析により、ヒトとは別の絶滅種である可能性が高くなりました。現在のヒトはおよそ50万年位前に、アフリカで、ネアンデルタール原人との共通祖先からわかれたとみられています。以前、秩父で50万年前の旧石器時代の住居跡がみつかったことが話題になりましたが、もしこれが本当だとすると、ここに住んでいたのはネアンデルタール原人かそれに近い原人で、現在の日本人の祖先とは考えられません(この話は、捏造によるものだと判明しましたが)。現在の日本人はおよそ10万年前にアフリカを出て世界中に分布を広げたヒト(学名はホモ・サピエンス・サピエンス)の子孫と考えられています。
このように、チンパンジーとヒトの共通祖先の子孫からもたくさんの種が分化し、その大部分がすでに絶滅してしまったのです。そのために、現在も生き残っているチンパンジーとヒトをみると、ヒトがあたかもチンパンジーから進化したかのようにみえるということです。何十万年か後に、ヒトやチンパンジーから新しい種が分化する可能性がないわけではありませんが、これは祖先種とは別の新しい種であって、現在のヒトやチンパンジーという種がすこしずつ変化して新しい種になるわけではありません。
生物が自然選択(自然淘汰)による進化の産物であることを主張したダーウィンの進化論は、生物学のみならず、あらゆる分野に大きな影響を与えました。日本にもいち早く紹介されましたが、我が国の生物学の歴史が浅かったこともあり、生物学としてよりは、進化論が社会の進化にもあてはまるとする「社会進化論」(社会ダーウィニズムともいいます)を通じて普及しました。このために、ダーウィンの主張はきわめてゆがめられた形で広まってしまったのです。当時は、日本は富国強兵政策のもとに、外国の侵略や植民地化を図っていましたが、「社会進化論」はこのような帝国主義的な政策を正当化するのに好都合だったこともその理由です。生存競争、弱肉強食、適者生存などといった言葉は自然選択を意味する標語として現在も広く使われていますが、これらはいずれも自然選択の意味をはきちがえた社会ダーウィニズムの用語にほかなりません。
このような歴史的経緯とその後の進化教育の軽視のために、日本では自然選択の意味を正しく理解している人は、専門家を除いてはきわめて少ないのが実情です。「環境により適応した生物が生き残り、適応しなかったものが滅びること」などというのはまだましな方で、「弱い生物が強い生物に喰われてしまうこと」とか「生物同士が生き残りをかけて闘争すること」といった理解も珍しくありません。これらはすべて誤りです。
ダーウィンの主張を現代風に要約すれば以下のようになります。
現在の進化生物学では、自然選択は「適応度の変異」と定義されています。ここで、適応度(より厳密には、ダーウィン適応度といいます)とは、「特定の遺伝子型を持つ個体が生涯に残すことのできる子供の数」のことです。ただし、雄と雌がいないと子供ができない両性生殖生物の場合は子供の数の1/2が適応度となります。
自然選択とは適応度の変異だと説明すると、けげんな顔をする人が少なくありません。あまりにも簡単すぎて、そんなはずはないと思ってしまうようです。そして、「適応度に違いががあるからこそ、環境に適応したものが生き残るのではありませんか?」などと質問されたりします。これは、「適応度」と「適応」という似てはいますが全く別の意味の言葉を取り違えたことによるものでしょう。ちなみに、英語では、適応度は fitness、適応はadaptationといい、まったく別の言葉です。ダーウィンの説は、つきつめればこのように簡単なものなのです。自然選択は適応度、すなわち子供の数のちがいそのこと自体をいうのです。
ヒトのように、せいぜい10人ほどの子供しか産まない生物は、マンボウのように何億もの卵を産むような生物に比べると適応度が低いと思うかも知れませんが、そうではありません。親の数を数えたのと同じ発育段階で子供を数えるのです。ですから、親の数を生殖年齢で数えた場合、子供の数も生殖年齢に達した個体数で数える必要があります。生物の個体数というのはそれほど大きく変動しませんので、このようにみれば、ヒトもマンボウも平均適応度は1にきわめて近い値となります。
このように、自然選択はつまるところ子供の数の差にほかならないのです。どんな生物でも子供の数には個体間でばらつきがありますので、自然選択は常に作用しているのです。環境により良く適応した個体の適応度が平均して高くなるのはいうまでもありませんが、妊性(子供の数)や生存力や病気に対する抵抗性など、生物自身がもともともっている能力の違いも適応度に影響する重要な要因です。
自然選択という言葉の字面から、「自然環境が積極的に作用し、優れた生物と劣った生物をより分けること」といった誤解をしている人も少なくありませんが、適応度というのは生物の持っている能力のことですから、自然選択にはそのような意味は全くありません。ただし、「自然選択が働く」とか「選択圧がかかる」といった表現は専門家の間でもよく用いられます。これは、「景気を押し上げる」とか「ひげを伸ばす」などというのと同じで、一種の擬人的な表現です。このような言い方は、内容を正しく理解していればの話ですが、ものごとを簡潔に表現するのに大変便利です。例えば、「農薬の使用によって農薬に耐性をもつ害虫の適応度が高くなった結果、耐性遺伝子の頻度が増加した」というよりも「農薬耐性に自然選択が働いた」といった方がずっと簡単です。
自然選択は適応度の違いですから、自然選択による生物の進化は、常に適応度を上げる方向に働きます。だからといって生物が一方向に向かって変化するわけではありません。妊性や生存力のように適応度に直接関係する形質の場合は、いつでも一方向、つまり高くする方向に自然選択が作用します。しかし、例えば、体の大きさのように大きすぎても小さすぎても具合が悪いような形質は、ふつう、平均値に近づける方向に選択が働きます。つまり、平均値にちかい形質をもつ個体の適応度がもっとも高くなります。現在地球上にみられる生物は、長い時間をかけて進化してきたわけですから、現在の環境条件にもっともよく適応しているのがふつうです。ですから、多くの形質で現状を維持する方向に選択が働いています。進化というと、とかく一方向に向かって前進するといったイメージでとらえられがちですが、実際には自然選択の大部分が現状を維持する方向に働いており、したがって、進化というのはきわめて保守的な性質をもつのです。
自然選択は適応度を上昇させる方向に働きますが、だからといって生物の環境に対する適応能力を向上させるとはかぎりません。その良い例は雄シカの枝分かれした大きな角や雄のクジャクの派手で大きい尾羽に代表される第二次性徴です。外敵に襲われて森の中を逃げ回ったりするのに巨大な角は邪魔になるし、敵に反撃するにしても枝分かれした角では武器としても役立ちそうにありません。クジャクやゴクラクチョウの派手な羽飾りは目立つので外敵に発見されやすくなるでしょう。このような第二次性徴は、明らかに生存能力の低下につながるものであり、どうみても適応的とは考えられません。この他にも、小鳥のさえずり、セミの鳴き声、カエルの求愛歌などのように、外敵が獲物を探す上でてがかりになりやすい非適応的な行動も広くみられます。このような非適応的な形質や行動は自然選択の産物ではないのでしょうか? そんなことはありません。やはり自然選択の結果なのです。
第二次性徴のような非適応的な形質がどのようにして進化したかは、ダーウィンを悩ませた難題の一つでした。これを説明するのにダーウィンが用いたのは「性選択」という考え方です。例えば、雄同士が雌の獲得をめぐって争うような動物の場合、勝者の雄は子供を残すことができるのに対して、敗者は子供を残せないので、適応度の差が生じ、自然選択が働いたのと同じ結果をもたらします。また、雄を受け入れるかどうかは、多くの場合、雌が決定権をもっているため、雌に気に入ってもらえない雄は子供を残すことができません。このような性選択は子供の数にばらつきをもたらす要因であり、自然選択と同じように進化の原動力となると考えたのです。
ダーウィン自身は性選択を自然選択とは別のものとして扱いましたが、現在の進化生物学では自然選択の一部として扱います。子供の数にばらつきをもたらすという点では違いがないからです。性選択は、昔考えられていた以上に生物の進化に重要な役割をもつことがわかってきました。
生物の形や生理的な機能は大変適応的にできています。これは生物の適応度を向上させる方向に働く自然選択がもたらした結果です。しかし、一見、適応的にはみえないようなケースもあります。たとえば、動物に広くみられる利他行動がそれです。これは自分を犠牲にして仲間を助ける行動で、たとえば、小鳥やサルが、外敵を発見すると警戒音を出して仲間に知らせるとか、ライオンに襲われたシマウマが協力して子供を守るといった行動です。このような利他行動は、直感的には行動を行う個体の適応度を下げるようにみえます。そのためでしょう、このような性質は種の保存のために進化したとか、種にとって利益になるから進化したと考える人が少なくありません。中には、シカやゾウアザラシの雄が雌をめぐって闘争するのも、よりすぐれた雄が子供を残すことによって種の利益になっているなどと解説した本もみられます。かってはこのような考え方が広く受け入れられていた時代もありましたが、現在では否定されています。
自然選択は基本的には個体間の適応度の差に対して働きますから、その対象は個体です。ですから、自然選択が働いた結果、種全体の適応度が上昇するとはかぎりません。そのよい例は動物の性比にみることができます。多くの動物は両性生殖で、雄と雌という2つの性がありますが、ふつう、雄と雌はほぼ1:1の比率で生じます。もし、種全体の適応度を上げようとしたら、これはばかげたことです。子供を産むのは雌だけですから、種全体の適応度を上げるためには、雌の数をできるだけ多くすべきです。細かい説明は省略しますが、1:1の性比は、個体の適応度を最大にすることがわかっています。その結果として、種全体としての適応度は下がることになるのです。一見したところ、利他的にみえる動物の行動の多くも、実は利他行動を行う個体の適応度を上げる方向への自然選択によって説明できることがわかっています。
一つの種がいくつかの小さいグループに別れていて、グループの間に遺伝子の交流があまりないような場合、自然選択はグループ間の平均適応度の差に対して働くことはありえます。このような選択を群選択といいます。ミツバチやアリのような社会性昆虫では、働きバチや働きアリのように子供を産まないカースト(階級)がみられます。子供を残さない、つまり適応度がゼロであるような性質がなぜ進化したかは、ダーウィンを悩ませた問題です。結局、ダーウィンはこのような利他的な性質はコロニー間の群選択によって進化したと考えました。しかし、現在では、不妊カーストの存在も個体に働く自然選択によって説明できることがわかっています。群選択による進化の可能性は理論的には考えられるにしても、実例はほとんどなく、進化の要因としてはあまり重要ではないと考えられています。
オオシモフリエダシャクという蛾の名前を聞いたことのある人は多いでしょう。工業暗化の例としてたいていの教科書に出てきます。イギリスの工業地帯のばい煙で汚染された地域では、昔はまれにしかみられなかった黒化型の頻度が、数十年という短期間で急激に増加したことが知られています。この理由は、鳥などの捕食者に目立ちにくい黒化型が選択的に有利であったためであると説明し、自然選択の影響を短期間で観察できた例としてあげられています。
この説明自体がまちがっているわけではありませんが、これに社会ダーウィニズムのキャッチフレーズの一つである「弱肉強食」を重ね合せて理解し、喰うー喰われるといった関係が自然選択の典型的な姿であると思ってしまう人が少なくありません。アフリカのサバンナでライオンに襲われる草食動物の姿を撮影したテレビ番組などで、自然淘汰の厳しさなどといったナレーションが入ることもよくみられます。また、日本の在来の動植物が外来種との「生存競争」に負けて、絶滅の危機に瀕しているといった言い方もよく耳にします。この例のように種間の競争関係も自然選択の一種であるかのように理解している人が多いようです。
上に述べたように、自然選択というのは個体間の適応度のちがいですから、それが別の種との関係にまでおよぶことはありません。捕食者に見つかりやすいか見つかりにくいといった性質は、生存に直接結びつくわけで、喰われる側の種にとってはその適応度を左右する重要な要因です。しかし、この場合、捕食者は被捕食者の適応度に影響する環境要因の一つでしかないのです。つまり、種間関係というのは、それが喰うー喰われるという関係でも、あるいは、競争関係にあるにしても、互いに生物的環境という関係であり、自然選択はあくまでもそれぞれの種を構成する個体間に働くのです。
生物の大多数は何らかの形で有性生殖を営んでいます。これは実に不思議なことで、現代の生物学でもその理由は完全には理解きていない大問題です。ところが、大学に入学してくる学生などに質問すると、たいていきまりきった答が返ってきます。「有性生殖によって遺伝的多様性が増すので、将来、環境が変わってもそれに適応できる」とか「遺伝的多様性が増すことによって進化のスピードが速くなる」といったものです。高校の生物の授業などでは、有性生殖の進化的な意味についてこのような説明をしている場合が多いようです。生物学の専門家の中にすらこのような誤解をもっている人がけっして少なくないので、当然のことかも知れません。しかし、進化の仕組みを正しく理解していれば、このような説明は子供でも理解できる単純な誤りであることがわかります。
有性生殖によって遺伝子が混じり合う(遺伝的組換えといいます)結果、遺伝的多様性が増すこと、遺伝的多様性が大きいと変化する環境に適応しやすいこと、したがって、進化のスピードが速くなることはどれもそのとおりで、そのこと自体はまちがいではありません。問題は、だからといってこれが有性生殖を行う理由にはならないということです。つまり、生物がなぜ有性生殖を進化させ、それを存続させてきたかの説明にはならないのです。
自然選択は現在の適応度の差に対して作用します。ですから、現在の環境条件にもっともよく適応した個体が選択されることになります。将来、環境条件が変化することにより、現在最適な遺伝的構成をもつ個体が最適ではなくなる可能性は当然あるわけですが、自然選択にはそのようなことはわかりません。つまり、将来のことを予測する力(予見性)をもたないのです。人間の場合は、文化という特殊な能力をもつために、過去の経験を伝達することができ、これによって将来の危険性をある程度予測することができます。ですから、いざというときに備えた保険のような制度が成り立つのです。しかし、保険業はヒト以外の生物では成り立ちません。いずれ環境条件が変化した場合に有利だからというのは、人間の経験にもとづく価値判断であって、それがいかにが正しくても予見性をもたない自然選択には将来に備えるような性質を進化させることはできないのです。
進化のスピードが速いからという理由も有性生殖の説明にはなりません。これには、進化することはいいことだという暗黙の前提があるわけですが、これは進化は進歩・改良であるという誤解によるものでしょう。生物は進化することを目的として生きているわけではありませんから、それが早くても遅くても関係ありません。環境の変化に追いつけず、絶滅する運命が待っているかも知れませんが、現在の生物にとってそれは関わりのないことです。進化というのは、あくまでも結果であって、目的ではないのです。
現代の進化生物学はダーウィンの提唱した理論にその後発展した集団遺伝学の理論を統合させたもので、「ネオダーウィニズム」*とよばれています。集団遺伝学が対象とする集団というのはその構成メンバーの間でお互いに遺伝子を交換できるような集団、つまり、一つの種であることがふつうです。ですから、ネオダーウィニズムでは、主に種を対象として、その遺伝的変化、すなわち進化の仕組みをを調べるというアプローチをとります。このような種のレベルの進化的変化のことを「小進化」といいます。これに対して、種以上のレベルの進化は「大進化」とよばれます。つまり、ネオダーウィニズムが対象とする進化というのは小進化のことをさします。
* ネオダーウィニズムという言葉は、本来はワイズマンによって唱えられた生殖質の独立という概念によるダーウィニズムの修正説のことを指すが、現在では、より広い意味で用いられている。現在の進化生物学は、ネオダーウィニズムにさらに生態学や分子進化などの理論が統合されたものであり、「総合説」と呼ぶのがより適切であるが、一般の人にはあまりなじみのない言葉なので、ここでは、広い意味でネオダーウィニズムということにする。
このことを誤解したためでしょう、一般の人向けに書かれた進化の本などでは、小進化の仕組みはよくわかっているが、大進化の仕組みはわかっていないなどと解説したものをよくみかけます。これは、大進化にはなにか特別な仕組みや法則があるにちがいないという思い込みによるものです。進化生物学では大進化というのは単に小進化の積み重ねであって、特別な仕組みや法則があるとは考えていません。ですから、小進化がわかれば、それは大進化の理解にもつながると考えます。
たくさんある生物の種にはよく似たものや、まるでちがうものがみられます。よく似たグループをまとめて、それに名前をつけることは大昔から行われてきたことで、分類とよばれます。そして、そのようなまとまりのことを分類群といいます。現在の生物学で用いられる分類は、18世紀にリンネによって提唱された体系にもとづいています。その特徴は、生物を階層的に分類・整理することにあります。つまり、よく似た特徴をもつ種の集まりを属という分類群とし、さらに似た属を集めて科という分類群にまとめるといったように、上の分類群はそれより下の分類群を含むように整理するのです。これは図書館で10進分類法を用いて本を分類・整理するのと同じです。生物の場合、大きくわけると、超界(ドメイン)、界、門、網、目、科、属、種という8段階の階層が用いられています。たとえば、ヒトの場合、真核生物超界−動物界−脊索動物門−哺乳網−サル目−ヒト科−ヒト属−ヒト、ということになります。
それでは、なぜ生物がこのようなまとまりに分類できるのでしょうか? それは生物が進化の産物であるためです。つまり、どんな生物でも先祖をたどっていくと、どこかで共通の祖先種にいきあたるためです。共通の祖先に由来する生物は多かれ少なかれ共通した特徴をもつために似通っているのは当然のことです。このように、分類群というのは、それがどのようなレベルであっても、一つの共通祖先種から枝分かれした種のグループ全体を含むことになるのです。ですから、分類群の間の関係は樹木のような形で表わすことができ、系統樹とよばれます。一枚の葉を一つの種とすると、何枚かの葉をつけた小枝が一つの属になり、そのような小枝が何本か集まった枝が一つの科に相当することになります。このようにして、枝を根元に向かってたどっていくと、ついには幹に達することになり、これがすべての生物の共通祖先になるわけです。
生物の系統関係を反映した分類を「自然分類」といいます。しかし、系統関係というのは木の枝のような形をしていますから、リンネの階層的な分類体系に完全にあてはめることはできません。ある共通点をもつ分類群があったとしても、それを属にまとめるか、あるいは科とかさらに上の目にするかにはきまりはないのです。分類学者が近縁なグループとの間でさまざまな特徴をくらべて判断するわけですが、人によってその結論がことなることもよくあります。というわけで、種より上の分類群(上位分類群)は、種にくらべると、より主観的な要素がはいることがさけられません。上位分類群というのは、このように多かれ少なかれ人為的なもので、それを定義できるような生物学的な特徴があるわけではありません。ですから、大進化に特有なメカニズムも考えられないのです。
「中立説」も高校の教科書にはたいてい紹介されています。ところが、その扱いは、ラマルクの説やダーウィンの説など、進化に関するいくつかの説の一つであるとしていることが多いようです。このために、中立説はダーウィンの進化論を否定する説のように受け取られることもあるようです。これも大きな誤解です。
これが誤解であることを理解するために、中立説というのはどのような説であるかを簡単に紹介することにいたします。生物の集団中にはさまざまな遺伝的変異がみられますが、昔は形態や生理的機能などにみられる個体間の変異を通してしか知ることができませんでした。しかし、1960年代になって集団中の遺伝的変異を分子レベルで調べることができるようになりました。最初は、酵素などのタンパク質の変異でしたが、1980年代に入ってからは、DNAレベルでも調べられるようになりました。その結果、分子レベルの遺伝的変異の量が、当初考えられていたよりずっと多いことがわかったのです。理屈はすこしめんどうなので、結論だけにしますが、これほど大量の遺伝的変異が自然選択によって維持されているとはとても考えられないのです。この困難を克服するために登場したのが日本の木村資生博士らによって1960年代の終わりに提唱された中立説です。この説は、分子レベルでみられる変異の大部分は適応的に有利でも不利でもなく、したがって、自然選択に対して中立であるというものです。選択に対して中立な遺伝子でも、その頻度は変化します。つまり、進化が起こるわけですが、その変化は自然選択による変化とちがって、まったくランダムで予測ができません。このような偶然による遺伝子頻度の変化を「遺伝的浮動」といいます。
中立な遺伝子の進化の速さは、中立な突然変異がどのくらいの率で新たに生ずるかによってきまります。突然変異はどの遺伝子でもほぼ一定の確率で起こることが知られていますが、そのうちの中立突然変異の割合は遺伝子によってちがいます。重要な働きをしている遺伝子の場合、突然変異の多くは有害ですから、進化は遅くなりますが、それほど重要でない遺伝子は速く進化することになります。しかし、特定の遺伝子に注目してみると、どの生物でも大体一定の速さで進化することがわかっています。つまり、分子レベルの変化は、進化の時間を測る一種の時計としてつかうことができるのです。これは生物の進化の歴史を明らかにする上で大変役に立ちます。ヒトとチンパンジーが400〜500万年前に分かれたといった推定ができるのは、中立な遺伝子のこのような性質を利用したものです。
中立説は、このように、分子のレベルでみられる進化を説明するのに登場したのですが、はたしてこれはダーウィンの進化論とは相いれないものでしょうか? そんなことはありません。分子レベルにかぎらず、形態や生理的機能などの形質でもほとんど中立といえるような変異は少なくありません。たとえば、ヒトの色覚異常などは、人類がまだ狩猟・採集生活をしていた時代には命に関わるような重大な遺伝病であったと考えられていますが、現在では、適応度とはほとんど関係ありません。つまり、中立とみなせるのです。
上に述べたように、中立遺伝子の頻度の変化は遺伝的浮動によるものですが、遺伝的浮動の影響は、中立な遺伝子でなくてもみられます。細かい説明はしませんが、遺伝的浮動は生物の集団の大きさが有限であることが原因です。集団が小さいと遺伝的浮動によるランダムな変化の影響が大きくなるので、選択的に有利な遺伝子が消失したり、逆に、不利な遺伝子の頻度が増加したりといったことがおこります。ですから、現実の生物の集団における進化、すなわち、遺伝子頻度の変化には、自然選択と遺伝的浮動の両方の要因がつねに働いているのです。
ダーウィン自身も、このような中立な変異が存在することは充分承知していました。しかし、そのような変異は適応的な進化には役立たないと考えたのです。そのような考え方は現在でも間違いではありません。しかし、生物の進化には、適応的な進化だけでなく、遺伝的浮動の影響もけっして無視できません。ですから、中立説は、ダーウィンの説を否定するものではなく、それを補強するものといえるでしょう。
(last modified: 2002.8.8.)
布 山 喜 章 fuyama-yoshiaki@c.metro-u.ac.jp