父がお世話になった方へのご挨拶

長女:池田千登勢

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父がお世話になった皆様へ 

ご挨拶    

 

父・小野嘉彦が生前、暖かいお心遣いをいただきましてありがとうございます。

長い間、大変お世話になりましたことを心よりお礼申し上げます。  

本来でしたら葬儀や法要の場などでお話するのでしょうが、

父の希望でそのような機会がございませんでしたので、

これまでの闘病の経緯や思い出を書き留めまして、お礼のご挨拶に

変えさせていただきたく存じます。  

 

9年前、父が肺癌の第四期ということを知ったとき、呆然としながら

書店で「癌」についての本を探しました。肺癌の予後が非常に悪いこと、

多くは骨や脳に転移し、激痛を伴うことなど、目の前が真っ暗になることばかりでした。

これまで風邪ひとつひいたことのない父が、この大きな病にどのように

向かっていけるのか、家族として何ができるのか、母と二人でどうしたらいいか

本当に思い悩みました。そんなときに聖ヨハネホスピスの山崎章郎先生が

書かれた本に出会ったのです。最期の時は苦しまないで逝く手段があるということ、

死を覚悟した上でこそ、過ごすことのできる家族の充実した時があるのだということ…。

いろいろな家族の物語と最期まで人間らしく良い時を過ごせるように支援を惜しまない

ホスピスの人たちの暖かく強い気持ちがあふれる文章が、

どんなに救いになったかわかりません。  

 

それから2年後、骨に転移するまでに、ホスピスの近くということで武蔵野市に

両親を呼び寄せ、とにかくはやく孫を見せたいと首尾良く(?)妊娠し、

初孫の顔を見せることができました。その後の闘病は、思いがけず進行が遅く、

医者を驚かせたくらい長い、7年という闘病生活となりましたが、

父は本当に死を恐れたり、弱音を吐いたりすることもなく、実に自然にかっこうよく、

快活に生を楽しんでいました。医学にあまり知識や興味のない人でしたので、

自然体で生きていれば、最期は苦しくなくしていただけると信じていられたからこそ、

泰然としていられたのだと思います。また、母も本当によくつくしていたと思います。

死を覚悟した看病だったからこそ、辛いこともあったのですが、

家族としてはできることをできるうちに、ということで、転移前の父は仕事にも行き、

ゴルフを楽しんでいました。また、その後も骨に何度か放射線をかけて痛みを

取り除くという治療以外は特に薬も飲まず、好きなものを食べ、普通の暮らしを

続けていました。北海道や箱根など何度も家族旅行に行き、

昨年春も伊豆のバリアフリー温泉に出かけて露天風呂を楽しみました。

武蔵野市でも地元の麻雀クラブに出かけたり、愛犬ミスティーを連れて井の頭公園に

散歩に行くのを日課とし、いつも大きな声で笑い、冗談を言い、

母にわがままを言い、これまで通りのマイペースな暮らしぶりでした。  

 

父とは末期癌を宣告されてからの7年の間に、何度も最期の時はどうするか

という話をしました。最初は「葬式をしないとさんずの川を渡れないかな」と

言っていた父でしたが、次第に

「死んだら無になるんだ。生きているときがよければいい。葬式にみんなが

来て泣いたりするなんてやめよう。坊さんとか線香をあげにくるとか、

神様にお祈りするとか、そういったたぐいは一切やめてくれ。香典とか

もいらないよ、オレは。その人が楽しいことに使ってくれたほうがずっといい。

いざというときは、とにかく苦しくなくしてもらって、家族だけで最期を看取って、

家族だけで火葬してほしい。みんなには死に顔じゃなくて、

元気だったころの顔を覚えていてほしいし…。骨は散骨してもいいし、

墓に入れてもいいし、めんどくさくないように、せっこ(母)と千登勢が好きなように

してくれればいいよ。おれはどうせわかんないしさ」

と、その場で遺言を書き留めていました。

また、延命治療をしないでほしいという意思表明書もかなり具体的な書面にして、

家族で署名をしました。      

 

今年の9月末になって、急に息苦しさを訴えるようになり、それが日増しに

悪化していくことに不安を覚え、ホスピスで先生にお話したところ、

急遽入院となりました。その日のうちに病室が空いたのは幸運というしかありません。

入院後も2週間ほどは時々胸水を抜きながら酸素を常用していましたが、

息苦しさはすぐになくなり、車椅子でラウンジにお茶を飲みにいったり、

庭に散歩に行ったり、好きな食べ物をいただいたりしておりました。

その後はうとうと眠ることが多くなり、一週間後、深い眠りに入りました。

その翌日の朝、本当に静かに、眠るように息をひきとったのです。

その間、不要な点滴などもしなかったため、恐れていた痰がからむこともなく、

骨の癌でありながら痛みも軽く、モルヒネなども使うことはありませんでした。

入院してからは24時間母が同室に寝泊まりして付き添い、

父の世話をしておりましたので、父はとてもうれしそうでした。

お見舞いは辞退していたのですが、兄弟には会いたいということで、

ごく近しい親戚にだけお知らせし、お見舞いに来ていただきました。

懐かしい顔を見て昔話ができたことに、父も満足しておりました。  

 

これまで9年間の闘病中、いろいろな病院に入院いたしましたが、

聖ヨハネホスピスは素晴らしいところです。私も母も、ただの一度も心が傷ついたり

思いが叶えられなかったことはありません。

いつも暖かいまなざしと静かな無口な思いやりに包まれ、心が癒されていました。

本物の生きた天使たちに会えた気がします。本人だけでなく、

付きそう家族までが心の痛みをケアしていただいたと感じています。  

ホスピスの先生方は、いつでも患者と家族の意向について、

長い時間をかけて聞いてくださり、何事も押しつけず、

患者の意に添うことに心を砕いてくださいました。普通の病院ではないことでした。

怖くないお医者様がいらっしゃるということに大変驚き、また心強く思いました。  

 

最期の夜、海外で研究中の山崎先生がちょうど一時帰国され、

病室にいらして昏睡状態の父に声をかけてくださいました。

先生の、「小野さん、またどこかでお会いしましょう」という言葉に、

私もまたいつか父に会えるような気がしました。生と死はつながっていて、

だれもがその時間の流れの中で生から死に向かって

静かに歩いているのだと思いました。  

 

初めて人の死に触れた私の子供(もう小学生になりました)も、

段々弱っていく祖父の手を取り、「ここにお泊まりしたい」と言っていました。

死を間近に感じる人を見ても怖がることなく受け入れ、

静かに見つめることができたのも、ホスピスだったから、

父が苦しまなかったからだと思います。家に運ばれた遺体の安らかな表情を見て

「おじいちゃんは眠ってるみたいだね」と何度も髪をそっとなで、

「もうすぐさよならだね。お星様になってね」と話しかけていました。  

 

今、父はお骨になって、数ヶ月前に先立った愛犬のミスティーのお骨の

隣に並んでいます。武蔵野の自宅にしばらくはそのままにしておこうと思います。

母も私も父が思ったとおりの安らかな最期を迎えることができましたし、

闘病中もできる限りのことをしてきたという思いがあり、

とても寂しくはありますが、心から安堵もしております。

今後は、母は一人暮らしになりますが、歩いて3分のところに私が住んでおりますので、

お互いに心強く、いつでも会えるので安心です。

母は長い間父の看病をしておりましたので、これからは自由な時間をできる

限り長く楽しんでもらいたいと思っています。明るく強く、友達の多い母ですから

マイペースで暮らしていくことでしょう。どうぞご心配なさらないでください。  

 

入院中、父は担当医に「何かやりたいことはありませんか?」と聞かれて、

しばらく考えた後、

「そうですね・・。颯爽とここを出て、どこか、たくさん水のあるところ、

海とか大きな川とか、見に行ってみたいですね」と言いました。  

これからしばらくしたら父のお骨をひとかけらと、ミスティのお骨をひとかけら、

いっしょに持って、母と二人で父が好きだった瀬戸内海へ行って来ようと思います。  

 

長くなりましたが、お礼のご挨拶とさせてくださいませ。

皆様もどうぞお身体をご自愛なさって、お元気でお過ごし下さい。

どうもありがとうございました。

 

平成13年10月21日 池田千登勢