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屁理屈  愛、とかゆうヤツ




  愛、という言葉は現代では「使うと恥ずかしい言葉」の一種で、冗談の中でしか語られぬほどにバカにされている言葉である。

  渋いテノールで愛を語ったのは往年の歌手にでも限られて、この言葉をマジメに語る者は調子外れか間抜けと同一に視られる。

  しかしながら人間の人生は一度しかないのだから、一生に一遍くらい愛を語ったところで「若気の至り(いっておくが筆者はまだ若い。イヤ本当に)」、「魔がさした」で済ませることも難しくはなかろうから、此処で一遍語ってみることにする。恥ずかしいヤツ、とお思いの方は「若気の至り(いっておくが…もういいか)」、「魔がさした」、あるいは「壊れた」と思って見逃してやっていただきたい。

  愛という言葉は通常、男女間の感情を表す意味に使われていて、愛情とか、強く好きという感情を示すのに用いられる。しかして愛が、そういった男女間の情を示す言葉かというと、もちろんそうではない。

  慈愛、博愛、動物愛という言葉があるように、対象を男女に限った情愛だけが愛なのではないことは、同意していただけるかと思う。

  愛しく思う、という意味の言葉であるとみてまず間違いはないが(完全にそうだとはいえないにしても)、かといって好きという意味かというと必ずしもそうではないのが愛のややこしいところである。

  愛するものには、嫌いな対象も含まれてしまう。嫌いな人、嫌いな出来事も、悲しみながら愛し慈しむことができる事実にそれが現れている。嫌悪しながら愛する、という複雑な事態だってあるのだ。

  迂遠な好意の表明とも云えるのかもしれないが、好きにはなれないが愛せる、というからには好きなのではない。

  愛が単に好きなことと違うなら、それは同情なのだろうか。あぁ、それはある種近いと云い得るかも知れぬ。理解して情けを覚えるというのは、愛かも知れない。だが、たとえばこの自動車を愛するといったならどうだろう。クルマというのは、同情するモノなのだろうか?

  あまつさえ、人の作った技術や芸術の美しさを愛する、自然の美しさや荒々しさを愛する、宇宙を愛する、歴史を愛する、といった言い方が出来る以上、愛は生き物に対する感情というわけでもない。宇宙が対象に入ってしまうくらいだから、生物並びに無生物に対してのみ用いられる感情ですらないのだ。

  極端な言い方に聞こえるかも知れないが、「死を含めて人を愛する(死を喜ぶという意味ではなく)」「愚かな闘争をする人間を、しかし愛する」という言い方すら成立する。それらを人が、好きであろうはずがない。喜んで愛しているのとは、それは違うのだ。

  欲するのとも違う。欲で固執することを愛とは云わぬ。手に入れたい、と思うことは愛ではない。愛することの中に欲することは含まれても、それそのものは愛でも、愛情でもない。それは単に欲の中に愛情が混じっているだけだ。ある程度の経験を経た男女なら、このことは皆知っている。愛の破片がちらついているが、欲することはすなわち愛というわけではない。人に対しても、モノに対しても、人ならぬ生き物に対しても。

  山川草木を愛する、といったとき、それはもちろん欲しているのではない。欲望は愛をわずかに含む衝動であるに過ぎぬ。

  かくして愛は好意とも同情とも直接に言い換えられぬ、欲望でもない、しかも人にも何にも対象を限定されぬものであることがわかる。

  愛は好意とも同情とも異なる感情なのだ。欲とも違う。ただ、好意や同情と混同されやすく、欲の中にその破片があるに過ぎぬ。好意や同情、欲望は、「好き」や「同情している」「欲している」ではあっても、「愛している」のではない。

  だから、たとえば「私は海を愛している」という言葉を「好きだ」という意味で使うなら、その言葉は用法を間違っている。「愛している」とは、簡単には用い得ぬ言葉なのである。同様に、なにかを欲していることをもってその対象を愛していると思うのも混同である。安易に「私は音楽を愛している」と言うのなら、その人は(意味は通じるとしても)愛と好意を混同している。まぁ、強い好意という意味で「愛」という言葉を用いる慣用表現にケチをつける気はないが、強い好意という意味だけでは、哀れみや慈しみを含む「愛」という言葉を言い換えることは出来ない。なにしろ人の、認め難い非道な行いや、無情にして非情な自然の成り行きそのものすら、愛することは出来るのだから。

  大風呂敷を広げすぎると分を越える。そろそろ畳もう。

  愛は肯定の同義語である。

  例えばあなたの大切なものが失われたとする。モノなら壊れ、生き物ならあるいは事故で、あるいは寿命で、あるいは病に倒れ死に、あるいは殺され、思い出も未来も否定され、守られることもなく、希望すら失われたとする。

  それでも、愛はそれらを受け入れる。(本当だ)

  愛は、受け入れ、赦し、認めることなのだ。

  喜ばしきことも、忌まわしいことも、嬉しいことも、悲しいことも。

  良きことも、悪しきことも、ただそこにあることも、どうにもならないことも。

  愛は、すべてを受け入れ、赦し、認めることである。

  対象を限定しても良いし、しなくとも良い。認め、受け入れ、肯定する。否定しない。

  愛するとは、そういうことなのだ。こいつはそりゃあ難しい。愛が希なのも道理ではないか。

  だからといって、何でもよっしゃよっしゃと大目に見るのが愛なのではない。愛は道徳とは異なる概念である。不道徳なものも愛することはできる。道徳は人の倫理観、価値観であり、行動の物差しとなるものだ。愛を道徳として扱うと、人は行動できなくなる。なにものかを否定するところにしか選択というものが発生しない以上、なにも否定しない「愛」は、人間の行動基準とは成り得ない。愛を道徳と混同して行動基準にし、なんでもかんでも大目に見ていたのでは、人はどんな選択も自分からはできなくなる(このことはわたし自身が実証済みだ)。そうではなく、自分が否定するものは否定する、一個の行動基準としての人格を保ったまま、しかもなお、その否定するものを愛するのが愛なのだ。

  なんだか哲学的に難解になってきたが、なにせ理解の容易なものではないから御勘弁いただきたい。

  そして、だから、愛は感情ではない。人間の行動を決定する選択基準として機能する感情には、愛を置くことが出来ない。もしものことそうするならば、その人は座して死を待つ他はない。(まぁ、結局のところ人間の人生は、座っているか動いているかの違いがあるだけで、誰も皆等しくそういうものなのかも知れないのだが)

  愛は感情にすることも可能な観念である。知覚、と言い換えても良い。

  愛は、愛するというカタチで世界を認識することなのだ。理解する、といった方が適しているかも知れぬ。そうして知覚された世界のカタチが、愛という観念である。

  愛はなにものをも受け入れる。

  吹き抜ける風も、人の営みも、滅びてゆくものも、生まれてくるものも、変化するものも、変化しないものも、ただそこに在ることを受け入れる。

  いやさ、ただそこに在るが故に、愛はそれを受け入れる。

  愛は、在りと在らゆる「存在するもの」「存在すること」を認め、受け入れ、肯定することである。そのようにして世界を認識することが、愛なのだ。

  浅学にしてわたしは、それが人間以外にもある知覚なのかどうかを知らない。

  あるいは虫や動物や、植物にもある知覚なのかも知れぬ。あるいはいっそ突き詰めて、知覚認識せぬことが愛なのかも知れぬ(それならば、なるほど人間には手に入れにくい)。

  あいにくわたしは人間なので、人間の観念としての愛しか知り得ぬ。

  だからこのようにしか語れない。

  愛はすべての価値判断を放棄して、ただ存在することを受け入れて、自分が存在することをいう。在る、ということを理解し、受け入れて、良否ではなく慈しむとき、その人は愛している。意識して言葉にしようとすると、確かに、人には遠い類のものだ。

  意識を離れ、言葉を離れ、価値判断を離れて存在するとき、その人は愛しており、同時に愛である。

  だから、愛は存在することだ。特別な行為などではなくて、そのように存在することが愛なのだ。そして愛される対象から見るとき、それらは存在することを無条件に受け入れているので、特別にそうと意識しなくとも愛である。だから・・つまるところ、存在することはみな愛なのである。ある意味、特別に意識するようなことではないのだ。

  愛でないものは、この世にはない。



  

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2002/08/07

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