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屁理屈  赤ん坊、世の中を回す



  人間は、子供と成人とを問わずみな赤ん坊である。

  子供は、子供程度の「行動形式の鎧」を纏った赤ん坊であり、大人は、大人程度の「行動形式の鎧」を纏った赤ん坊である。

  子供も大人も、不快を避け快を求め、褒められること、大事にされること、いつでも要求がかなえられることを望み、幾度望みが満たされぬとも繰り返し望み、その望みが少しでも叶えられる生を目指して模索するのは、彼らの中に、たとえ老人といえども、赤ん坊の欲求の原理が脈々と息づいているからに他ならない。

  すべからく、人間はみな赤ん坊と同程度の存在である、と考えて差し支えない。   赤ん坊が、行動形式という「判断と行動の取り方」を学習した姿が、赤ん坊でないもの、子供や大人なのである。

  人間の欲求は、すべて「赤ん坊の欲求」を原型とし、「完全に充足していること」を欲する。

  食が足りていること、美味であること、寒くなく、暑くないこと、可愛がられること、関心を持たれること、ただし褒めてもらえること、相手をして欲しい時は相手をしてくれること、放っておいて欲しいときは放っておいてくれること、欲しいと思ったものが与えられること、その他ありとあらゆる「不快でないこと」が赤ん坊の欲求である。

  そして人間は、赤ん坊から一歩も進歩することはない。ただ、その欲求を実現するために成される行動や思考が、複雑で婉曲なものになるだけである。

  赤ん坊を養育した経験のある方はご承知だろうか、赤ん坊は王様か、あるいは神のように全能であることを欲する、恐怖の我が儘大王である。人間は、死ぬまでこの「我が儘であること」、「甘えること」を諦めたりはしない。

  ただ、思考の複雑化の度合いに応じて、ある程度(一時的に)我慢したり、(一時的に)諦めたりすることができるようになるだけである。

  しかしこれは、なんのかんのと理由を付けて、それを主張し続けることで生じる、「他者(親、あるいは親の投影)に疎まれる」不利益と、「実は欲求は満足されない」という冷徹な事実の認識とを回避するために取られる緊急回避手段にすぎない。文字通り、我慢するだけだ。

  幼児がそうであるように、そして幼児でなくとも、人間は、「無限の欲求の満足」をなかなかあきらめたりはしないのである。複雑怪奇な理屈や、現象の曲解を通じて、どうにかこの根元的な赤ん坊の欲求を満足させようと機会を狙っている。

  人間の行動の理由は、そうしないと困るから、というすこぶる現実的な理由のある場合をのぞくと、そこに一見見受けられるような理由、例えば爽快だからだ、とか、みんなと騒げて楽しいからだとか、義務だからとか、達成感があるからとかいうものでは、全然無い。それらはみな、おそろしく間接的な形で、赤ん坊と同様の欲求を満たすことが目的である。あらゆる行動、あらゆる選択が、この満足を叶えられる(と思われる)方向を指向して行われる。

  いい車を買うこと、いい食事をすること、より充実した仕事を求めること、安楽な家庭を求めること、素敵に見えるものを手に入れること、素敵に見える人を手に入れること、それらの行動のすべては、赤ん坊の欲求の、きわめて婉曲な(そして多くの場合には部分的な)実現を目指したものであるにすぎない。   より不快でないこと、より暖かいこと、(比喩だが)撫でてもらえること、大事にされること、欲求が聞き入れられること、泣けば食べ物がでてくること…、それらが少しでも実現しそうな方向を選択すること。

  人間の行動の目的は、その行動をする理由は、それ「だけ」である。

  しかしてそれらの行動は、達成されても赤ん坊の欲求を満たし得るものではとうていないので、人間はどんな状態にあってもみな不満が多く、理想と違うと不平を言い、駄々をこね、終わり無くもっともっとと求め、行動するのだ。   人間は、大人も子供も、基本的に「我が儘で我が儘でどうしようもねぇ」存在なのだ。我慢がきくのは、程度の問題である(ちなみに、この我慢がけっこうきく人を、理性的な人、あるいは人格者と呼ぶ)。   複雑な人間の社会行動も、分解してゆくとたいていはこの原理で動いている。それをどう(少しでも)実現するかの方法論と、我慢と諦めの度合いが、大人であればあるほど複雑になってゆくだけである。

  人間は赤ん坊と同じ欲求が、ずいぶんと間接的であるにもせよ、少しでも満足される行動を探し、選択し、活動する。

  この大小老若の赤ん坊たちの複雑な活動が、結果としてなにを成すかというと、これが人間社会だったりするのだから、世の中はあなどれない。大人のふりをした赤ん坊や、子供のふりをした赤ん坊が、文化を営み、決まり事を決め、行動し、様々に形を変えて、時代を、社会を動かしていくのである。人間の社会とは、すなわち、理論武装した狡猾で婉曲な赤ん坊の社会であり、それは常に、個々の赤ん坊の、欲求を満たさんと欲する行動が錯綜することで脈動し続けている。

  このシステムは自己完結という形式に変形することもある。肉体的な満足ではなく、精神的に自分が「不快でない」「撫でてもらえる」「大事にされる」と、想定される自分を「演じる」ことで、赤ん坊の欲求を(いわば仮想的に)実現しようとする場合がある。好んで痛みや苦しみを引き受けることで、そんな自分の姿に(自己完結した精神的な)満足を得ている場合や、聖人君子の場合がこれにあたる

  恐れ入りやの鬼子母神、というところだが、それが悪い、といっているのではない。そう考えると、人間たちの行動に非常にすっきりと納得がいく、一本筋の通った解釈ができる、といっているだけだ。

  それが本来の姿なら、それでいいのだ(by バカボンのパパ)。

2001/03/02

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文責:@ Kaikou <木下裕文>