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屁理屈    「あなたist わたしist」




  我々がそれぞれに自分であるということは、すなわちそれぞれが自分の信仰者であることに他ならない。

  わたしたちは、自己を持つ限り、みな等しく宗教者である。

  自分の価値観、という信仰を強く持つことによって、わたしはわたしになる。

  わたしならこうする、わたしはこれを好む、これを嫌う、こうしたい、こうしたくない、わたしはこう選ぶ…身体的な制限を受けない部分で恣意的に明確な価値を選択するとき、その人は自分らしさを獲得する。

「こちらの価値を正しいものと選択するのがわたしである」と信ずるものがすなわち個人であり、わたし、なのだ。

  それは正しく信仰である。それまでの経験記憶の蓄積が生み出した、普遍的足り得ない根拠のみを有する、主観の絶対正義を信じる行為だ。この信仰無くしては、人は自分足り得ない。

  犬猫の姿を見れば、本来「自分足り得る」必要など無いことはわかる。だが、人にはそれが必要なのだ。人が人として生きるには、自分という、厄介なモノが必要になる。

  ただそれには普遍的な実体が無く、経験した記憶の中から個々人がその都度選び出し、これがわたしの好み、として決定し記憶した価値観によって構成されるために、本能的なものではなく恣意的なもの、そうと信ずることによってのみ維持される宗教にならざるを得ないだけである。強いて云えば、この選択を実行して自己を構築するのは本能的な行為であるのかも知れない。

  それぞれが勝手に築いた価値観の体系に拠って立つ個人は、決して正当ではなく偏っており、ことによったら同じ人間であってさえ、時期によりその価値体系を書き換えて別人のようになったりもする。個人がそれぞれに違い、同一の個体ですら時として違う人間になり得るのは、個人を構成するものが、選択して固定した価値の体系を維持すること、すなわち信仰だからだ。

  勝手に断じた価値を正当として行動すること、それは宗教に他ならない。人間は各個人が、それぞれに信じた価値を行動の指針に据えて行動するから個人なのであり、それぞれが違う「わたし」になり得るのである。しかしてそれら各個人が信ずる価値は、たんに個人が選び取った価値であるにすぎず、普遍性があるわけでも、絶対的な正当性があるわけでもないので、各個人毎の「信仰」にしかなり得ない。個人は事実としてあるのではなく、各自の信仰として存在する。

  生きるというしごく単純な、方法の共通性がありそうな行動において、人間がひとそれぞれなのは、つまりそういうことである。人はそのそれぞれが、「わたし教」の熱烈な信者なのだ。人には、それしか信ずるものがない。

  この自分教の教義に、他者のそれと共通した要素が取り込まれているとき、その人は自分教の信者のみならず、外部の宗教の信者となる。ときにそれが外部にあらかじめ用意された文脈に対する信仰であるとき、その人は宗教信者となる。だがそうして外部の宗教信者でなくとも、ひとはそれぞれに自分だけの教義を持った宗教者であり、自分教に入信している。

  だから教義の似た者達は群れたがり、仲間でないもの(自分たちの信仰に似ていない他者=異教徒)を排除したがる。人間個人の行動は、大宗教の信者達のそれとなんら変わるところがない。

  そうして人間個々人が、それぞれに「わたし教」を信仰する宗教者であると考えると、他の動物といかにも違う人間の行動も頷ける。それらはまさに、宗教者の行動ではないか?

  他者に不満を持ち攻撃的であるのは「異教徒の排斥」である。自分の信仰を否定されたように思ったときには強く反発し、信じる価値の実現が妨げられ、思うようにいかぬ時には絶望さえする。端から見て、それがどんなに無価値に見えても、人はそうするではないか。

  宗教だからだ。

  個人はすなわち「信仰を持つもの」なのだ。

  この信仰は生きるために行われる。信仰を持つことが、すなわち自分として生きることを意味しているからだ。逆に言えば、この信仰が生きるためにうまく働かないとき、個人は十全に自分を生きることができない。

  多くの信仰がそうであるように、この「自分信仰」も茨の道である。

  あいにくとそううまいことはいかない。自分信仰は自分を生かしもするし、殺しも、傷つけもする。ときには自分信仰が自分の実体を離れ、自分自身を思わぬ檻に束縛することもある。

  では、自分自身を生かす自分信仰はどうあれば楽なのだろう。

  わたしは浅学にしてまだその明確な答えを持たないが、青臭いことを言わせてもらえば、それは自分自身と、周囲を取り巻く環境とをともに肯定し得る信仰であればより有効であるような気がする。ままならぬ世界の、理不尽に思える部分すら肯定する自分教の信者は、おそらく幸福であるように夢想する。

  思えば理不尽な現象というのはありえないのだろうから。少なくとも人の頭の中になら、現象は理路整然と解釈可能だ、と思うのは哲学系の悪い癖なのだろうか。いや、現象が人の認識下にある限り、それはたぶん理屈で解釈可能なのだろう。人の認識は理屈でしかないのだから。わたしが言及すると屁理屈になってしまうが。

  ともあれ、自分教は周囲とうまい折り合いを付けないとうまく働かない。古来繰り返されてきた人の業のようなものである。数千数万年を経て、まだ誰もうまい手を見つけていないようなので、普遍的な折り合いはつかぬのであろう。

  やっかいな話だが、結局これらは個人の生きる以上必ずつきまとう信仰問題である。いかなる環境、いかなる個性に生まれついても、誰もこの問題を避けて通るわけにはゆかぬ。自分自身の信仰だけに、人に教わるわけにもゆかぬ。自力で、うまい自分教を創始できれば、きっとその人はうまいこと生きていけるのだろう。

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2002/06/17

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文責:@ Kaikou <木下裕文>