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屁理屈 Kaikou  あるとかないとか、そういったもの




  あるとないとは、何がどう違うだろうか。

  あるいは、なにがそれを決定するのだろう。

  有るものはあって、無いものはない。よくそう云われる(というか、普通そう云われる)。

  では、有るものが無いと思われていて、しかも、有ると知られないままに無くなってしまったとしたら、どうだろうか。それは、有ったのか?

  例えを出すなら、ある家の倉に祖先から受け継いだ家宝の皿があったとして、お爺ちゃんしかそれを知る者がおらず、しかも、お爺ちゃんがそのことを家族の誰一人にも伝えておらず、なおかつ倉の中が改められることもなかったとする。

  倉の奥に家宝が眠っていることをお爺ちゃんだけが知っていて、そのお爺ちゃんが誰にもそれを伝えることなく亡くなったとする。そして、倉が、中を確かめられる間もなく火事に遭い、焼け落ちてしまったとしたら?(火事で皿が壊れてしまうものかどうかは置いておく。地震でも良い)
  家宝の皿は、有ったのだろうか。
  有ったんだろう、有ったんだから、とおっしゃるだろうか。でもそれは、「有るものが無いと思われていた」と、そうと知っているからではないか?  そうと、知らなかったとしたら?

  それは、本当に有ったと云えるのだろうか。それが有ったと、誰ひとり、知らなかったとしたら。その場合、それが「有った」のだとしても、誰もがそれを「無い」あるいは「無かった」と思っていたならば、それは有ったことになるのだろうか。誰一人「有る」と知らないものは。

  のっけからごちゃごちゃと書いているが、何を云いたいのかはもうお判りだろう。

  有るものをあると決めるのは、「有る」と思うことなのだ。有る、という認識が、あるとないとの差をつける。そして、現実に有るか無いかとは関わりなく、わたしたちは有ると知れるものを有ると云い、有ると思わぬものは無いと云う。視覚であれ、聴覚であれ、触覚であれ、伝聞であれ、なんにせよ知ることの出来ぬものは無いと思ってしまう。

  それは仕方がないことだ。知らない限り、わたしたちはなにかが有ることを知り得ないのだから。だからわたしたちは、現実に何が有るのか、無いのかを、知らない限り知り得ない。


  ヘンテコに聞こえるが、ものすごく簡単な話である。

  わたしたちの現実は、認識なのだ。

  このことはとても軽視されやすいが(実際、これを重視していると一時混乱するのだが)、忘れられてはいけないことだ。わたしたちがどこを生きているのか、それを知るだけで、わたしたちは楽に生き易くなる。

  そして、ことのついでに間違えにくくなる。たいていの場合、わたしたちは本筋を踏み違えて生きており、勘違いの上に立つことで、苦しんだりがっかりしたりしているからだ。特に人間についてはそうだ。

  話が逸れた。有ると無いの話である。有ると無いの違いが認識だとすると、わたしたちの勘違いの一つが明瞭に明らかになる。

  わたしたちが、現実など生きてはいない、という事実だ。

  わかりにくい表現だろうか。わたしたちが生きている舞台は、現実ではない、ということなのだが。

  わたしたちが生きているのが、「認識の内側」であって、現実世界ではない、ということが、有ると無いとの違いからわかる。わたしたちは、まったくの現実の中を生きることは出来ない。構造上、不可能なのだ。

  世界があって、認識を介し、それがわたしたちに認知されるとき、わたしたちはわたしたちの生きる世界を獲得する。それは認識を介した現実の一部ではあっても、現実の全部ではない。わたしたちの現実は、わたしたちが認識した際に、いわば主観的に生成され、現実とは別に、現実となる。
「ある」と「ない」は、その中に発生する識別なのだ。だから、わたしたちの行う有ると無いの区別が絶対などとは、ゆめゆめ思ってはならぬ。

  そこを履き違えると、わたしたちは容易に蒙昧の中に踏み込んでしまって、井の中の蛙を誇りかねない。

  有るものはあると「思われている(あるいは、認識されている)」のであり、無いものはないと「思われている(あるいは、認識されていない)」のであって、実際にそれが無いかどうかとは関係がない。

  このところに、わたしたちがどういった生き物なのかの要点が一つ潜んでいるが、まぁそれは長い話だ。

  とはいえ、有るものが無いというのでは無論無い。わたしたちが有ると認識するものは、どうやったって有る。それは信じても良い。わたしたちが、認識の檻からは出られないという意味で。ただし、それは認識であって、認識以上のものではない。それは、認識である以上の意味を決して持たぬ。私たちが現実だと感じているものは、そうと認識した現実であって、必ずしも認識外の(ややこしいが、実際の)現実と一対一には対応していない。個人はそのようにして世界を獲得するので、結果、個人の生きる現実世界は、「ある/ない」を個人が識別した認識世界である以上のリアリティを持つことはない。

  そのことを弁えておくことは、罠に足を取られにくいという意味で、きっと暮らしの役に立つ、とわたしなどは思っている。

  

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2004/04/01

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文責:@ Kaikou <木下裕文>