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屁理屈  しなきゃダメじゃん!




  人間の満足や不満、焦り、不安、期待や失望、願望を規定するものは情報である。

  洗脳、と書きたいのだが印象が悪いので、とりあえず仕方なく情報と書いておく。

  ある人の周囲に「世の中で人はこうするべきだ」という情報があり、その人がその情報を受け入れたとき、それはその人の成すべき、あるいは成したいと思う課題となり、上記のようなあまりよろしくない感情を発生させる。

  あるいは「世の中の人はみんな(あるいは一部は)こうしている」という情報がある人の周囲にあって、その人が、じゃあ自分もそうしなくては(そうしたい)と思ったとき、それはやはりその人の成すべき、あるいは成したい課題となり、やはり前記のようなあまり嬉しくない感情を発生させる。(不思議なことに、多数の人々がそうしていることを見ると、あぁ自分もそうしようと思う種類の人、というのは意外なほどよくいるものである)

  その情報が正しいのかどうか、言い換えればその人の視点を離れてもそのことが言い得るのかどうかは、まったく関係がない。その情報が間違っていても、その人は取り入れた情報に真実味を(放っておいても)一生懸命与えるから、その情報は常に正しいことを、その人自身によって保証され続ける。自分の中に取り入れて、信じ込むかどうかが重要なのである。

  それこそが人間社会において、人を行動に駆り立てる原因である。人はそうした情報に取り囲まれ、追い立てられて、一生懸命「そうしなくっちゃ!」と自分に鞭を打ち続けている。

  わかりにくければ「そうするのがいいこと」という何かに対する情報がその人の周りにあって、その人がそれを信じ込んだ場合、その人は目的を獲得し、行動が可能になると同時に、少しの喜びと、優劣の序列感と、連帯と争いと、あまり嬉しくない葛藤をも獲得するということだ。

  時にはその情報はその人の中で「そうしなきゃダメ!」という法令のごとき絶対性を(心密かに)獲得するまでに成長し、その人が自分の決めたその法律に毎日の生活を束縛されるようになることもある。

  その情報には真実性が関係ないように、内容もどんなものでもよい。たとえば「一年の内のこの時期にはみんなこうするものである」といったひどくあいまいな情報であっても、一旦それがその人の中に信じ込まれて取り込まれれば、その人は毎年のその時期になると全ての行動をその感情の満足のために設計して、実際に行動するようになる。

    たとえそれが、幼稚な感情の発露に聞こえる情報であっても、それを取り入れたある人がその情報を信仰し、自分の中の価値観念に(意識的か無意識にかを問わず)置き換えて信じ込んだとき、その人の行動はその目的のために設計されて実行されるようになり、同時にその不達成に基づく葛藤もまた発生させてつきまとわれるようになる。

  周囲から発見するのでも良いし、他人から聞かされるのでも良いし、あるいはその人の内から発生するのでも良いが、なんであれある判断の情報が価値としてその人に信じ込まれるとき、その人は行動の目的を獲得すると同時に、「そうしなくてはイケナイのにそうできない自分」という強迫観念めいた葛藤、いやさ強迫観念そのものを自身の内に獲得することになる。「そうしないのはダメだから、そうする人は良い人で、そうしない人は良くない人」という物差しさえも発生させて、その人に他人を計る視点すら獲得させる。

  そして、人は不安や不満、焦りや失望、憧れや侮蔑、喜びや葛藤や優劣の感情を己の中に飼い始めるのだ。ときたまの幸福と、その他あらゆる不幸な感情と共に。

  やはり書いてしまうが、それはちょうど、その自ら選んで信じ込んだ情報に洗脳されているようなものである。そうした行為を貶める意味にとられかねないのでそういう表現はすべきでないのだろうが、この表現が一番しっくりこの現象を表している。

  無論その情報があったればこそその人は行動をし得るのであるが、それはやはり、誰であれ情報の上で踊らされているようなものである。

  自分の選んだ価値観の上で、人は情報に手を取られ足を取られて、人形のごとく踊らされて生きる。それは人をして社会的に行動せしめる唯一の原理だが、同時に人をして生にもがき苦しませしめる原因でもある。

  そうすると良い(楽しい)、という価値観を取り込むことは、一つにはそうできなければ悪い(辛い)、という価値観を同時に発生させるからである。この二律背反の発生は価値観の持っている基本原理だから覆すわけにはゆかぬ。またその他に、本当にそうすることが唯一最高の手段であるのかどうか、人には自信がもてないことも、人をして迷い苦しませる原因となる。なにをしても、隣の芝は青く見えるものだからだ。そして大なり小なり自分の選び取った情報を疑うとき、人は不安と、悔恨の情にさえ沈む。

  そして、しかし、果たせるかな、人は、そうした価値観を選び取らなければ、<行動することが出来ない>のである。自らなんらかの価値を信じない限り、どうすればいいかわからなくて自分を持て余してしまうのだ。人間という生き物は。

  たとえ、そうすることが自らに希望を持たせると同時に、煉獄へ導くとしても。

  人は、誰かに(それが真実でなかったとしても)直接聴いたり、メディアから伝えられたり、見て判断したりして思いこんだ<情報>を良きものとして信じることに拠って、その情報を軸にして物事を判断することが可能になり、自分から行動することが可能になり、そして、喜怒哀楽の人生を可能にする。

  その情報が(信じる本人にとっても、客観的にも)正しいかどうか、本人の望みを本当にかなえる情報かどうかは、いっさい関係がない。情報が信じこまれることが重要なのだ。  人間の行動は、その人が信じる情報に基づいている。そうして選択した行動の成果であるところの喜びも悲しみも、情報に基づいている。信じ込む情報の内容が変われば行動が変わり、喜怒哀楽の性質も変わる。同じ人間の中でさえ、時と共にそれは変化してゆく。

  不思議なことに、多くの人は長い時を生きる内にだんだんと、重要視するべき情報の内容について似通った普遍性を見出すようになり、老いては大なり小なり、それなりに達観の域に及ぶ。だが、それですら情報の信仰である。試行錯誤の末に枝葉の部分が削ぎ落とされて、誰もが(必ずではないにしても)、最後には似通った情報を信仰するようになるだけだ。

  人をして「こうするべきだ」、「こうした方がいい」、「こうしたほうがトクだ」、「こうしないのはバカだ」、「こうしなきゃダメだ」と思わせるもの、そして人をして苦しませ、悲しませ、喜ばせ、泣かせるものは情報なのだ。人は自ら選んで取り込んだ情報に自ら洗脳されて、自らの人生を生きるのである。

  どのような情報を信じるのであれ、それらは何一つとして間違ってはいない。どれ一つとして、正しくはないからである。一つも正しくないところには、一つの間違いもあり得ない。<間違い>は、<正しい>の対概念だからだ。(対になる概念が、その片方のみで全てを占める場合、それはそのどちらでもあって、どちらでもない)

  自ら選んだ情報に洗脳されることによって、人間は生きている。誰もがまるで阿呆のようにそれを信じることによってのみ、人間は生きるのだ。

  人間が、いわゆる人間らしく生きるのは、内容を問わず自ら洗脳された情報の故である。

「そうしなくちゃ(ダメ)!」と<そうするべき>情報を信じることによって自らを束縛し、人間は自分を生きる。喜怒哀楽や、憧れ、侮蔑、和み、争い、その他もろもろの人間らしさを自らの内に巻き起こしながら、そのように人は生きていく。

  そのことの是非は、いっても詮無いことである。

  それがヒトなのだから、それで良いのだ。

  とくにそれが(自己洗脳が)うまく働いている場合には問題はない。多少の葛藤はあれ、その人はおおむね幸福に生きて行けるだろう。情報は架空のものだから、まったくその情報の通りに生きることは出来ないにしても、その人はのたうちまわりつつ、そこそこ満足のゆく行動がとれ、行動がとれたことに満足し、また行動に移る。そうした情報の転がす鼠車に乗って、その人はおおむね安楽に車を蹴り回し続けることが出来る。

  だがこの自己洗脳が自己を苦しめ、痛めつけるだけだったならば逆効果である。いかに道しるべになろうとも、煉獄にしか通じぬ道しるべではありがたくない。

  ある人が自らを生かす情報に、あまりにのたうちまわるなら、その情報そのものを疑ってみるべきである。情報を疑って、ふと我に返って冷静に観察し、それでもなおその情報こそが最重要に価値のあること、と心底思えるならば苦しんでもかまわぬが(それは幸福なことなのだから)、我に返って観察した、自分の信じる<そうするべき>という情報が意外にも馬鹿馬鹿しく思えたならば、そしてその情報に拠って立つ故にこそ苦しんでいると知れるなら、その人は、その情報を捨て去って良い。

<(〜という)あることをすることこそが幸福である>とその人をして思わせている、あるいは感じさせているその情報がその人を良く生かすならともかくも、その人を引き裂いて苦しめるなら、その情報は欺瞞であるとその人によって断定されて良い。他の人にとってどうであれ、その人にとってそれが欺瞞に思えるならば、それは、価値の欺瞞なのである。

  しょせん、情報だ。いくら見直しても、誰も困りはしない。現に困っているのなら、見直す方が困らない。

  情報に踊るのが苦痛なら、あなたを生かすあなたの価値を  あなたはふと我に返って見直してみるべきである。案外、あなたを生かすのは、違う情報だったかも知れないのだから。

  人の葛藤はそうした、その程度の薄っぺらな構造を持つようなものに他ならぬのだから。神の声を聴いたがごとくに信じ込んでいる情報があるなら、すこし疑ってみるべきだ。「自分はどうして、それにこそ価値があると思いこんでいるのだろうか?」と。

  よく見れば、それはおそらく情報の罠である。とくにあなたが、「そうしなきゃダメに決まっているんだ」とそのように思っているなら要注意である。

  案外、まわりがみんな「それには価値がある」と言い続けるのを聴いていて、いつのまにやらそう思いこんだだけのことかもしれないではないか。

  自分をだまして生きるのが人の人生だとしても、下手にだますのはつまらぬだろう。

  どうせ己にだまされるなら、うまくだまされるのが吉と出ている。

     

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2002/12/26

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文責:@ Kaikou <木下裕文>