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屁理屈  不満な暮らし




  

  不満の一部は定義の満足に対する不満で、定義は人間そのものだから、よほど整合性の高い定義を持った人間でない限り、不満の全部はたいていなくならない。

  たとえば人はこういう風に行動するべきだ、という行動倫理についての定義をある人が持っていたとして、他者がその定義に反した行動をしたり、自分自身がその定義に反する行動をしてしまったりした場合、その人は不満を感ずる。

  オヤジモードに模して云えば、たとえば医者はこうあるべきだ、という定義をある人がもっていたとして、現実の医者の行動や行為がその人の定義に当てはまらなかった場合、その人は医者並びに医療の現状に対して不満を持つ。それが日常化すると、その人の中で医者に対する不満が常態化して、その不満を新しい定義として受け入れるべく、意図的にたとえば次のような文句を待合室での口癖とすることになる。

「医者なんていーかげんなモンなんだよ、いつも言ってるだろいーかげんなんだよ」

  医者はいいかげんなもの、といっしょうけんめい思いたがっているわけだが、そうしたいのはそう思ってはいないからである。心底そう思っているのなら、わざわざ口に出して力説することは無い。その人は医者を「そうでないもの」、いいかげんでないもの、と思っており、いいかげんでない医者の姿を、医者に期待しているのだ。そうしてその人の医者に対する定義に対して、現実には医者が異なる行為を示すとき、その人は医者に不満を持って、その不満を解消するべく懸命に(実は誰も聞いちゃあいない)独り言をいうようになる。医者がいいかげんなもの、と力説しなければならないのは、その人が医者に不満を持っているからで、その不満は、その人の医者の定義に、その人の目の前の医者が反しているからである。(別段医者をあげつらっているわけではないので、念のため)。

  だが、医者がその人の医者の定義に反する行動をするのには理由がある。

  一つはその人の医者に対する定義が非現実的なもので、とうてい現実には期待できないような定義であった場合、つまり定義が間違っている場合だ。もう一つは医者達の医者に対する定義が、その人の医者に対する定義とズレている場合で、この場合は、その人がそのような定義のほかにもあることを考慮せずに、自分の定義を絶対化すること自体が間違っている。

  この例では、その人が医者に対して理想化した定義をかたくなに抱いていれば、その人は永遠に「定義の不満足」を抱え込み、その定義を「医者はいいかげん」に修正すべきだと考えているが、医者にいいかげんさを期待しているわけではないので修正したくなくてしかたがねぇ、というわけで永遠に医者への愚痴をこぼし続けることになる(ついでにいえば医者がいいかげんなもの、という口先の定義も、極端に走った間違いであることはいうまでもない。仮にその人が医者の定義を心底「いいかげんなもの」としているならば、いいかげんでない医者は、悪い医者ということになってしまう)。だがどうせ修正するにしても、その人が医者をよく観察して、医者あるいは医療が、その人の思っているよりずっと人間的なものであり、ミスもありできないこともあり、やれるようにしかやれないことをその人が理解して、この理解を元に医者の定義を修正していければ、(期待がある以上不満はなくならないとしても)そう大きな不満は抱え込まなくとも済む。

  不満は期待が現実化しないことへの不満なのだ。そして期待には、こうなるといいな、という夢想と、これこれのものはこうあるべきだ、あるいはこういうものだと思っているという、物事への定義が、常に正しいと証明されることへの信頼とがある。

  夢想のほうは神でもない限りすべて現実化するわけではないので、期待しつつ喜んだりがっかりしたりして受け流してゆく他はないが、定義の証明されない不満については、場合によっては定義を修正していけば済む。

  たとえばオッサンモードに模していうなら、あるオッサンが女はこうあるべき、という定義(期待)を持っており、その定義があんまし現実的でなかった場合には、その人は女達のあり様に対して不満を抱き続けることになるが(今度は「いまどきのオンナはねー、だめなんだよー」とかいう愚痴だ)、女達が、実はそう男達と変わらないという観察でもしていただいて、女の定義を書き換えれば、そんな勝手な不満は抱えずとも済む。

  これまたオッサンモードでよくある社会に対する不満も、それがある種の期待に基づく社会の定義に、現実の社会が反している(とその人が感じている)場合に、社会そのものに対する不満が生じる。

  もっともこいつは善し悪しで、期待される定義の実現を求めることが、人間社会の変化に直結するわけだから、変化を肯定する立場なら、一概に不満は定義のマチガイだから無理な期待すんな、とは言えないのだが、個人が持つ定義そのものが現実的でないが故に、人が不満を感じ続けていることはよくある。それは直しても誰も困らない。

  よく見て、よく聴いて、よく考えて、自分の(モノや、コトの、なにごとかに対する)定義は見直されるべきなのだ。万全はないにしても、現実に良く一致する定義に、現実はなかなか反しない。外部の変更ではなく、内部の変更に期待するわけだ。たとえば女房は夫の思ったとおりに行動するべきだ、といういささか極端な定義を元に夫が妻に文句をたれ続ける場合なら、定義を変えればそれで済む。

  人間はなにごとかを定義してゆかなければその人足り得ない。定義することが人間であり、その人そのものである。だから万全な定義などという、それこそ理想的な事態でも起きない限り定義の不満足はなくなるまいが、破綻しにくいうまい定義をしてゆくことで、その人の暮らしが不満の少ないものになるなら、そうしていけないということもない。

  ありふれた啓蒙主義だが、個人そのものである定義は、常に見直され、反証され、確認され、修正されることで、より万全に近づいていくことができるし、暮らしの不満はそうすることで減ってゆく。

  不満は期待する側の問題であり、理解し得る期待もあれば、誤った期待もある。期待無しには行動はないから、期待と不満はそれはあるものだろうが、それが誤った定義の実現に対する不満であるなら、そんな無益な不満、無益な定義は見直すにやぶさかでもあるまい。

  そういうこれも定義であり、不満のカラクリはこうあって欲しい、という期待なのだが。

2001/10/10

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