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屁理屈  生きている、ということ。




  多くの場合、人間は生きていることに価値を見出したがる生き物である。ただ生きているということにはなかなか納得しない。中にはえらく「のほほん」とした人もいて、そんなことは特に気に留めなかったりする場合もあるが、たいていの場合は、自分は何かをやるべきだ、と気負っていたり、たとえば楽しいことといった、何々の行為をすることにこそ生きている価値がある、と思っていたりするものだ。価値を意味と言い換えても、同じことである。

  もっともこれはある程度仕方のないことで、人間は物事に正負の価値を見出す(意味づけを設定する)ことで、世界を秩序化し、分類整理して行動選択の指針とする生き物だから、価値を見出す、考え出すことで生きようとすること自体はやむを得ない。

  だがしかし、本当のことを述べるならば(ここはそういうところだ)、生きているということは、価値があったり、なかったりするものなのだろうか? またもしあるとすれば、それはどんな価値なのだろうか。



  特別言い立てることでもないが、人間は動物である。万物の霊長であるのかは知らないが、少なくとも動物ではある。犬畜生と、そう変わるものではない。動物の生は、ではどんな価値のあるものなのだろう。

  動物は生まれて、餌を食し、排泄して、子をこしらえて育て、死ぬ。その過程のどこかで死ぬ場合もある。

  それだけだ。それ以外のことはしない。飛んだり、走ったり、潜ったりはするが、それは行動をするためである。そのことに特別な意味や価値があると思って、歯を食いしばって飛んだり潜ったりしているわけでもあるまい。

  実際、動物の「生きること」は単純である。喜んだり、悲しんだりもするのだろうが、そのことに特別な意味を認めているわけではないようだ。

  彼らは行動する。

  生きる、というそのことのために。

  彼らは生まれて、生きて、そして死んでいく。

  そこに、「生きて死ぬ」ということ以外の意味はたぶんない。そしておそらくいかなる価値も、たぶん彼らは認めないだろう。認めるとすれば、それは観察している人間の側が認めるのだ。このことはたぶん植物にもいえて、バクテリアにもウィルスにもたぶん該当する。聞いてみたことはないが。

  当然、本質的には人間にも当てはまる。ぶっちゃけた話、「生きていること」には、「生きている」という以外に、いかなる意味も価値もないのだ。そして「生きている」という意味と価値とは、単なる定義に他ならない。

  本来、生はそういうものだったのだ。人間が価値を見出すまでは。

(妙な言葉を使うなら、生きているということは「個体としてのまとまりを持ったあるもの」が、一時的に「自己組織化された行動」を行い、それを「同様の個体に継承したり、しなかったりする」ことなのだが、まぁどうでもよろしい)

  そう、人の生は、動物のそれでありながら、動物のそれとは異なるものとして、<心に>解釈される。

  「生きていること」に価値や意味を見出したがるのは、動物としての人ではなく、動物としての人が、生きていくために必要とした<心>、他の動物に抜きんでて複雑化した「解釈するもの」、精神の方なのである。(心と精神を区別する考え方もあるが、ここでは同一のものとして扱う)



  人間は、複雑な心を持つ動物である。わたしは心は肉体の機能することの結果だと考えているので、心は身体の従属物だと思うのだが、それでもたしかに、人間においては、心と体のどちらが主体か解らなくなるほどに、心の働きがその行動に大きく影響する。

  人間は、肉体としての動物であると同時に、心の動物でもあるのだ。おそらくこれこそが、人間を、他の動物と大きく隔てている点だろう。

  ではその、心が行動の指針として機能する人間、心なくしては「人間らしくない」とまでされるほど心の重要な人間という動物にとっての「生きていること」は、他の動物と違うどんな価値や意味を持つものなのか。

  鍵は「自分」という言葉にある。

  自分。あなたが自分だと思っているところの、「あなた」。それは多くを後天的な学習に頼って形成されるものである。先天的な部分もあるのだろうが、経験学習によって各個体それぞれに形作られる。「自分」は十人十色なものであり、各個体それぞれに特有の多様なものだ。そして生きていることに意味や価値を求め、定義するのは、もちろんこれなのだ。

  (心と自分は、持ちつ持たれつ、互いに影響し、影響される相対的な関係にある一つのものだ。これも同一機能の異なる側面である)

  これこそが、人間の「生きていること」を多様なものにする原因である。「自分」があるから、人は各々それぞれに生きていることの意味を見出さねばならず、しかも各人がそれぞれに違う「自分」を持つものだから、誰かに生きていることを教わろうにもちいとも解ったような気にはならず、結局のところ、ひとはそれぞれに「生きていること」に戸惑うのである。それなら解釈を止めれば良さそうなものだが、どっこい、世界を何か理解できないもの、意味のないものとして放っておくのは、人間にとって「怖いこと」なのだ。解釈せねば、不安でいられないのが人間の、心の基本性質なのだ。

「納得がいかない」ことは、人間の心にとっては不安なことであり、不満なことである。

  だからといって、すっかり誰かのまねをして、生きているとはこういうことだと思いこんでみてもうまくはゆかない。「自分」はその誰かとは違うからだ。そうして自分を放棄してしまってみても人は立ちゆかないというのだから、まったく人間の生はやっかいなものである。

  「自分」がなにかを価値づける、意味のあるものとして考えるということは、それが自分にとって好ましい(役に立つ)、好ましくない(脅威になる)、どうでもよい(特に意味づけを要しない無関係なものとして意味づける)、といった判断によって物事を分類し(世界を「切り分けて」)、その分類を用いて各事象を選択する、あるいは排除するといった直接的な行動の指針とすることである。、あるいはそれらの価値を「(段階的に)手に入れる」、「遠ざける(算段をする)」といった価値に対する婉曲な反応を目的に行動を選択することであったりもする。

  これらはつまるところ、自分にとっての価値判断である。意味がある、良い価値を持つ、という規定は自分にとって好ましいという意味であり、その逆の判断は好ましくない、と意味の判断である。「生きていること」を対象にそれらの価値を判断するのなら、それはつまり、生きていることに意味や価値があるのかないのか(ないのだが)、あるとすればそれは自分にとって好ましい価値を持つものなのか否か、という判断である。そして当然、あるとすればそれは好ましい価値でなくては困る、好ましくないものであるならどうにかして好ましいものに出来ないか、と人間は考える。考えずにいられない。そして好ましいものと思うべく、あるいは好ましいものになるようにこうしようか、どうしようかという判断を繰り返し繰り返して、人間は行動を選択する。人間にとっての生きていることとは、つまりこういうことである。

  しかし元来意味などはないものなのだから、この意味判断、価値判断は「勝手にそう決める」、「そういうものだと考える(ことにする)」ことに他ならない。一種の自己宗教のようなものである。そして「生きていること」は間断なくその違った側面を人間に見せつけ続け、そうして人間はそのつど生きていることの(自分なりの)価値判断を繰り返して、生きていることの意味を、価値を見出し続けることになる。その経験を幾たびも幾たびも繰り返して、その人なりに、納得のいくところで「手を打つ」ようになると、その人間は「円熟した」と呼ばれるようになる(その判断の領域の大きさに応じて、完成度が深い、浅い、などといった違いが生まれる)。これが人間の生きているということ、である。

  そうしてしかも、円熟したからといって生きていることが終わるわけでは無論なく、人はやっぱり、次々と訪れる「生きている」経験に対して、価値判断を続けて納得を探し求め続けることになる。

  (付け加えるなら、生きていることを好ましくないと判断したとき、どうにか出来ないかと思う対象を外部に求めるのは傲慢である。生きていること、それ自体はまさしく自分自身であって、それを変えるとは自分を変えることに他ならないからだ)



  結局、人間にとって、生きていることは単に「生きていること」でありながら、同時に何かわけのわからないもの、どうにか解釈をしなくてはいけないと自分に迫ってくるものということになる。

  しかしなんであれ、生きていることは生きていることに過ぎない。それ以上でも以下でもなく、その範疇を越えて人間に納得のゆく価値や意味など、本来どこにもありはしない。そんな価値を教えてくれるものがあるとすればそれは神だが、そーゆーものはたぶんいないし、いたとしてもいちいち人に応えたりはしまい。神様は人の下僕ではないのだ。ましてや人は神ではない。この世の本来の姿を越えた意味や価値など、人に解ろうはずもない。

  それゆえ、そしてだからこそ、生きていることはただそれだけのものであり、価値や意味とは「見出す」ものなのである。それはすなわち、いい意味での自己満足だ。

  人が、自分の納得するように、そして出来得れば自分をより納得のゆく自分にするような解釈をするならば、その時初めて、生きていることは意味のあるものになる。

  だから、人は、それぞれに考え、思わなくてはならない。できるだけ正しく理解し、自分の中に納得のゆく価値基準を設け、判断し、意味を見出さなくてはならない。そしてその行為そのものが、人間の、「生きていること」になる。

  生きていることそれ自体は、単に「生きて死ぬこと」であるに過ぎない。価値付けや意味づけの介入する余地はない。

  そして、生きて死ぬことの行為として、それぞれ異なる「自分」が生きていることに意味を与え、価値を見出し、納得し、納得した生を生きること、それが、人間の生きているということ、なのである。

2000/09/23

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