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屁理屈  みんなとイッショ  〜臍曲の理〜




  個人的な事柄で恐縮だが、わたしは「みんなといっしょ」という感覚にどうしても違和感を拭えない。

  世間様では、「みんながそうしているからそうしないとオカシイ」という感覚が主流らしく、子供の頃から「だってみんなそうしてるジャン」といった不可解な言葉を何度聴かされたかわからない。それは決まって、みんな(というのはつまり周囲にいる多くの他人のことだ)がしていることをしないのは間違っている、と言わんばかりの非難めいたニュアンスを伴っていた。

  どうやら人々は、みんなと同じであること、すなわち正しいことであるかのように思っているらしかった。子供達ですらそう思っていたのだから、この異様な考え方の浸透具合がよくわかる。

  まるで宗教だ。

  すくなくともわたしの周囲においては、人々はこぞって「みんなといっしょ」教の熱烈な信者だったのである。

  夏は海に行き、冬はスキーに行き、流行の服は着なければならず、流行の遊びはしなくてはならず、流行のイベントには行かなくてはオカシイ、のだそうだ。

  ごく個人的な感想を言わせてもらえば彼らは狂っているようにしか見えないのだが、まぁあまり正直なことを云わぬのがオトナの社会というものであるらしいから黙っておく。

  幼少の頃よりこんなキ○ガイじみた意見ばかり聴かされていては繰り返し思わざるを得ないではないか。
「おまえ」は、「みんな」なのか?
  と。

  うん、そうだよとは誰も云わぬのだろうけれども。

「みんなやってるジャンよなんでやんないの?」という、この根拠の不明な理解しがたい意見に対して「みんなやってることをなんでやるの?」と問い返したことは幾度もあるが、答えた者が誰もいないのはどうにも不思議なことではないか。
  彼らはなにを考えているのだろう?

  それともなにか考えて行動しているのではなくて、アリのように本能だけで社会性に従っているのだろうか?
  わたしは人間の本能が弱く、ほとんど本能として機能していないという意見に賛成なので、どうもそれが本能であるとは思い難いのだが、根拠を謂わぬ彼らの様子を見ていると、まるで本能に従う昆虫のように思えてくるから不思議だ。

  そうではないか?

「みんなといっしょ」の事をするのが「おまえ」なら、「おまえ」はいったい、どこにいるのだ?(子供じみた話で恐縮この上ないが)
  それとも「おまえ」は、「おまえ」ではないのか?

「わたし」は少なくとも「みんな」ではないので、わたしの感じ、考えた通りに行動する。

  このことは、案外に深い問題を幾つも隠し持っている。

「自分が判断して行動する」ことの内には、確かに「周囲の行動に倣うことを選択する」選択肢があり得るだろう。わたしの場合は、単に「周囲の行動にちぃとも倣いやしねぇ」というだけのことである。

  それはつまり、「自分の判断」が「周囲の情報に対する判断」でもあり得ること、そうであってもそれは「自分の判断」足り得ることを意味している。

「自分の判断」は、すなわち情報に対する判断なのだ。自分とは情報に対するリアクションなのだと、。

  しからば「みんながそうしているからそうしないとオカシイ」と宣うオカシナ人々は、「周囲の情報に対して無条件に倣う」という自分を持っているのだろうか?

  そうなのだろうか。それは反応では在っても判断ではないのではないかと思えてならない。強いて云えば判断の放棄のように思える。判断を放棄しているなら、それは自分ではないだろう。自分とは判断そのものなのだから。判断を放棄した行動ならカナリヤにだって出来る。それとも、それですら判断なのか?

  さらに彼らがそう判断なさっておられるというなら、それは何のために行われるのか?  同様に、自分の感じたとおりに判断する人々の判断は、何のために行われるのか?  人間の判断は、なんのために行われるのか?(ほら、いろいろな問題が)

  たぶん生きるためだ。生き物なのだから、その行動は生きるためだけに行われる。では、判断しないでとりあえず同調することも生きるためなのか?   そうしてはいけないという根拠などないが、そうして生きるというのは、ずいぶんオカシナ生き物ではないか。彼らは、それでも生き物、人間なのだろうか?

  人間なのだ。

  困ったことに(別にわたしが困ることはないが)、それでも彼らは紛れもなく人間だ。人間とはそうした生き物なのだ(なにしろ、彼らはそうして生きているのだから)。人間であればこそ、どんな行動形態でもとれる。たとえソレが判断放棄という判断であっても、実行に移すことが出来る。人は、行動を規定する本能からかなりの部分自由なのだから。(このことは逆の意味で考えてもらっても良いのだろう)

  すると人間は、「必ずしも明確に自分を持っているわけではない」ことになる。(情報を吟味して判断することをのみ自分であるとするならば、だが)

「みんなそうしてるの?  じゃあそうしなくっちゃ!」

  それもまた、あるいは判断なのかも知れぬ。だが、強く明確な主体ではない。むしろ・・その甘えこそが本能であるかのように見える。人に、弱々しく残った、それこそが本能なのだろうか?  明確な主体無しにも生きてゆけるのか?  人は?

  どうも、生きてゆけるらしい。たとえそれが、主体を持った人間という観点から見て狂ったように見えたとしても。   生き物である以上、とりあえず周囲の仲間に同調し、それで生きてゆける限りを生きてゆけるのならそれでいい、ということなのだろう。それが通用している間は、生き物が生きようとする生存原理に反してはいない。

  ただ、そうした傾向の強い彼らは、自分で感じ判断して行動する人々がいることを、認め難いだけなのだろう。自分の宗教以外を認め難い熱心な宗教者のように。

  端から見ると、まるで狂信者のようにしか見えぬとしても。

  十人十色とは、まったくよく云ったものではないか。十人一色とは云わぬところが、心憎いと云うものである。



ところで、レミングって知ってますか?(←蛇足)

2002/05/10

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