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屁理屈  飲酒編(酔漢の屁理屈)  「ジェリコの壁」




  若い頃、泣いたことがある。

  学校がそういう学校だったため、「ヒトの行動原理はなにか?」と考えていたころのコトだ。(いまでも考えてはいるのだが)

  乏しい脳味噌を総動員して、わたしたちの世界認識の方法が、目だの、耳だのといった「制限のある認識器官」による不完全で主観的なものだと思い至ったまではまぁ良かった。

  その後、本を読んで(その主張の真偽は証明できないのだが)、わたしたちヒトが、まだ生まれる前や、生まれた直後の「ストレスを与えられていない状態」を記憶しており(この点が疑問だ)、その状態を復元しようとして行動する、という説を知ってずいぶん仰天した時のことである。

  前述の自説を信用するなら、わたしたちは世界をそのまま認識することは出来ず、常に認識装置の特性というフィルターによって認識している。つまり、認識装置の限界を離れたそのままの世界とは断絶されている。それも不可避に。

  そうして本の説を信用するなら、わたしたちは、絶対に戻ることの出来ない、赤ん坊の頃の状態に胎内回帰したがっており、それを現実に求めて行動を起こすことになる。

  当然、その願いが果たされることはない。

  生まれた頃に戻ることは出来ない。死んですら、生まれる前に戻るだけである。赤ん坊の頃というのは、まったく不可逆の、ほんとうに一回こっきりの奇跡に他ならない。

  その本は語る。すべての行動は、この胎内回帰願望によって説明できる、と。

  すべてを説明できる理屈、というのは概ね胡散臭いものである。新興宗教か、永久機関のようなハッタリ装置に近いものがある。だが、若い私にその説は深い説得力を持って迫った。そして若いから、さくっと鵜呑みにした。

  その本は更に語る。その胎内回帰願望を実現した時にのみ、人間は幸せになれるのだが、それは再現不可能であるが故に、生きている限りヒトはその状態の再現を目指し、様々な精神状態を迎える。・・・つまり、誰も幸せになれないことになる。

  若い私はこの説をさくっと鵜呑みにし、その後、検証してみた。

  前提になっている「人間は胎児の頃の状態を記憶している」という仮定は、記憶の基本構造(複数の刺激の定着と、その差異の比較)を考えると誤謬であるように思えた。しかし精神分析治療の報告などを見ると、ごく幼少の頃の記憶の意外に豊富にある人もいるので、無意識下に一歳程度の頃の満足感や不満を記憶していることはあり得るのようにも思える。つまり、決定的な事実として理論の前提に立てるには弱すぎるように思う。

  またその状態を証明しようにも、誰にどんな記憶があるのかどうかなどもとより調べる手だてがないので、そもそも証明不可能であることがわかった。

  しかしながら、どう意地悪く読んでみても、その本の主張は、アタマのところの説得力の無さを除けば、その後の展開は論理的に破綻していないのである。

  むしろ見事なほどに、たしかにどのような人間行動の説明にもなる。

  だがそれでは、その説は正しいことになってしまうではないか!

  わたしの智恵ごときではその説を否定することが出来ない。前提がいいかげんだ、と主張することは幾らも出来るが、たしかにすべてを説明できる点は覆せない。

  都合が良すぎる、と憤ってはみても、たしかホーキングだったかと思うが、「論理的に首尾一貫した物理学理論は検証を要さず正しい」のだそうであるから、その立場に立てば(物理学理論ではないが)この説は正しい。

  では・・・。

  わたしたちは誰もが、何万年もの間、何十何百億人もが、あり得ない幸せを求めては、生きて死んでいることになる。

  誰もがこれほど悲しい思いをしているのに、誰もがこれほど心の安楽を願っているのに、それらは決して、構造的に回避できず、実現しない心の働きと云うことになる。

  自説に拠れば認識器官(五感)によって世界と構造的に隔絶され、その本に拠れば不可逆な状態の再現を目指す構造によって幸福と隔絶される。まるで決して崩れることの無いと、旧約聖書のヨシュア記に記されたジェリコの壁が、その二つとわたしたちとの間に横たわっているかのように。

  誰もが?

  わたしの知る人、知らぬ人、いまいる人、かつていた人、これから生まれてくる人の、すべてが?

  誰も幸せになれないと?

  すべての人の人生が、徒労に終わる必死の努力の徒花であると?
  

そんな酷い話があるか


  なんと、なんという救いのない話であることだろうか?

  若いわたしは、すべての人の営為を想って少し泣いた。冗談でなく、涙を流した。(ほんのちょっとだ。本当だ)

  そして、結局わたしはその説の(結論の)正しさだけは受け入れて現在に至る。それは確かに正しいのだろう。説明としては。

  だが、当時も今も、わたしはその説のもたらす救いようのない結論を、受け入れることは出来ない。なにか、その構造をねじ曲げ、打破する後智恵はないかと、いまだに足掻いて抗っている。まるで苦行僧のように。ロマンチストの戯言であり、ピエロのような物言いだが、根がロマンチストだから仕方がない。

  ただ一つの救いは、この状態が意志の力によってねじ曲げられるかどうかの一点に、わずかな可能性が残っていることである。ただ一つ方法があるような気が、いまのわたしにはする。ジェリコの壁とて、七人の司祭の笛の音と群衆の叫声に崩れたと、同じヨシュア記にあるではないか。

  その可能性はまだ在るものと、わたしは今でも信じている。わたしの信仰する宗教のようなものである。環境保護論にいう人類の悪行の停止ではないが、個人の精神にも救いはあると信仰している。ただ、その実現がひどく厄介なだけだ。

  そうと覚悟すると肝が据わるもので、以来わたしは泣いたことがない。

  その本に拠れば人が幸福になり得ることなく徒労を繰り返すのは不可避なのだとしても、ある形を取れば人に幸せはあるのだと、強く信じるが故である。

  もはやお気づきのことと思うが、その本はこのコーナーのネタ本だ。わたしはその本の内容を繰り返す鸚鵡に過ぎない。

  その本の名を「ものぐさ精神分析」と云う。ヒドイ本である。

  一読をお奨めする。

2003/02/22(2003/07/23 2行3箇所改訂)

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