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屁理屈 Kaikou    「時間という名の記憶」




  時間とは記憶である。

  時間の感覚は、認識と記憶とを比較することによって生じる。認識した現状と記憶との比較に違いが発見されなければ、時間は生じない。

  客観的に、人間の認識を離れて時間が経過している可能性は十分にあるのだが、人間が、それを客観的に認識することはできないので、認識者の中では、時間は記憶との比較によってしか認識され得ない。

  客観時間が「ある」とは言い切れないのだ。「なにか変化しているものが(認識の外部に)ある」と言えるのがせいぜいだ。人間の云う「時間」、時計で計れる時間、覚えている時間の経過とは、即ち記憶以外のものではない。(だから人間の云う時間とは、同じく人間の考える客観時間のことではないのだ、たぶん。我々は外部に存在する時間を認識することはできない)

  時間はどこまでいっても主観的なものである。認識者が人間で、その人間が生きている限り、彼は主観的でない時間を経験することはない。

  前述の通り外部の世界の「変化」は確かにあるのだが、それに気づくという形での時間経過の感覚ですら、記憶との比較無しには生じ得ない。もしも、継続した記憶を持つことのできない人間がいるとしたら、その人は時間という感覚をも持ち得ないだろう。時間は、記憶の連続と、連続した記憶の比較の中で生じるものなのである。

  余談だが、この記憶の比較、という形での時間が積み重なってゆくことで、「自分」が形成されている。人間が想起する自分は、この積み重なった比較の記憶のことである。だから記憶の比較をもし行わなかったならば、「自分」は極めて曖昧な、悪く云えば信念のないもの、よくいえば柔軟な自分として自分の自覚を失う。それはたぶん、人間の最大の幸福だろうけれども。

  この記憶の比較に、正確でない歪みが加わった場合、当然「自分」の認識に狂いが生じる(もっとも記憶を正確に確認することはできないので、正確な比較、ということもまた、厳密には不可能なのだが)。人間の人格に変化が生じるのはこの故である。記憶していた自分と、認識した現在の自分との比較において、それまでと異なった意味づけを与えた場合、「自分」の変化が起きる。

  「自分」もまた、定義なのである。そしてそれは比較に対する意味づけをも含むので、その比較の意味づけにおいて、現実的でない評価や、暴走した定義(無根拠な意味づけ)が行われた場合、「自分」はそれまでの、世界に適応し得ていた正常な姿を失い、すなわち正常な世界を失ってゆく。自分というのが、実は世界そのものだからだ。

  逆に、記憶との比較によって意味づけられる自分の定義が、その人が緩やかに生きられるようなものに「変化」した場合、その人はそれまで以上に世界に適応した時間を生きるようになる。

  世界の意味も同様に、記憶との比較の意味づけによって良くも、悪くも変化する。それゆえに世界は移ろうものであり、人間は移ろうものなのだ。もしも記憶がなかったら、人も世界も、変化することはないだろう。そこに時間は流れない。

  しかしながら人は記憶する生き物なので、時間を流して生きてゆく他はない。そこでうまく記憶を定義できないと生きづらい時間の中を生きなくてはならず、しかもそれは結構難しい、ときている。時間の中を生きるのは、なかなか難しいことなのである。

2001/04/30

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