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屁理屈  ジンクス、あるいは見えざる大山倍達  (*註:大山倍達=ゴッドハンド=神の手。く、くだらん)




  われわれはジンクスにとても弱い。

  イワシの頭式の迷信を皆が信仰している、という意味ではなく、個々人が「出来事の関連性を見出さずにはいられない」という意味である。

  生活をしてゆく内に、われわれは身の回りにいろいろなジンクスを作り出す生き物である。いわく、今日はいつものアクセサリを忘れたから調子が出ない、いわく、朝はこの紅茶を飲まないと気分が乗らない、いわく、おやこの店で昼を食うようになってから調子が良いぞ、いわく、てゆーかぁ、ストラップこれに変えてからー、イイコトありすぎ?、いわく、決めるときにはこのネクタイでないとダメなんだ、と心の内のおまじないには事欠かぬ。心当たりが、誰にでもホラ、あるでしょう?

  公言はしないまでも、私たちはみな出来事を巧く行かせる、あるいは験の悪いおまじないを誰もが世の中に見出している。それらはみなごく些細なことで、しかも時期が終わったり、あらたなおまじないを発見したりしてはころころとその内容を変えてゆく軽いものだ。

  おまじない、そう、それはもちろん勘違いである。さもなくばよく云ってこじつけだ。

  だが、われわれはそうしたおまじないの中に幸運を、あるいは厄除けを常に期待してそれらを日々発見してゆくことを止めないのである。気が付くと、毎日このドリンクを飲んでいると体の調子がいいんだよ、ベッドはこの向きに置くとなんかイイよ、と新たなおまじないを発見している。そして時期が終わると、あぁなんでそんなことを思っていたのだろう、と我に返っては、しばらくしてまた次のジンクスを発見したりする。

  招福や厄除け、あるいは不運の前兆をジンクスに期待するのは、われわれが因果の虜であるからだ。

  物事にはなにか理由があるのに違いない、そしてそれらは(わかってさえいれば)人為的に操作できるのに違いない。

  われわれは深く、心の底で、常にそのように世界を見ている。

  明確に因果の判ることは良い。特にジンクスなど必要とせぬ。しかしわれわれは、因果のよくわからない、原因と結果の明白でない出来事を、つまり世の中の大半以上の出来事の連なりを、心の底では、容易に認めることが出来ないのである。

  物事には、なにか、なにか「理由が無くてはならぬ」のだ。

  理由のない出来事は、不安なのである。

  われわれは原因と結果の明白でない出来事を決して許せない。頭ではわかっていても、ココロがそれを認められない。まして因果のまるでわからぬ、世界という厄介な謎においておや。概して生きてゆくのに厄介で、面倒で、奇々怪々な世の中にさえも、われわれはなにかからくりがあるものと思い、そのからくりを知り得さえすれば、きっとうまく生きて行けると心の底でみな信じているのだ。楽をしたいのは人情だし、世間をうまく渡ってゆきたいのもまた人情だ。しかしてそう巧く行かぬのはこれは人の世の常である。巧いこと行かぬ世の中に、たまに巧く行くことのあれば、あぁ、あれはあのことがあったからなのに違いない、巧く行かぬ事のあれば、あぁ、これはこのせいに違いない、とたとえゼンゼン関係なくとも因果を見つけずにはいられない。

  たとえそれが、決まった時間に茶を飲むの、飲まないのといったことであっても。・・ちょうど、それが神の手の導いたからくりの鍵であるかのように。良きジンクスを手に入れたとき、われわれは神の手を操る奇跡の道具を手に入れたような気になって安心するのである。まことに、ささやかな規模で。

  そのことはわれわれ人間が、世界を因果の連なりとして把握しており、なおかつそのことをとても不安に思っているという、それこそ因果な本質を迂遠に、しかし切実に表している。われわれは、因果の理解によって初めて安心し、生きてゆくことの出来る生き物なのである。(逆に、因果の理解なくば、動物たちのように本能だけで生きてゆくことの出来ぬ生き物がわれわれであることもそれは示している)

  この「因果関係の理解」こそが、われわれの依って建つ基盤であり、赤ん坊が見るような皆目わけのわからぬ不安な世界を、不安なき世界、安心して生きゆくことのできる「我がもの」の世界へと変える魔法の杖なのだ。

  安心して生きられること。そう、それこそがわれわれの求める唯一の望みだ。

  われわれが望んでいることは他にない。

  そうしてそれは、物事のカラクリを理解すること、そしてそれによって物事を操作可能になること、そのことによってのみ可能であると、そのようにわれわれは、根底から世界を認識しているのである。

  だから、世の中を操作可能にする魔法の理に、われわれは常に餓(かつ)え、あこがれ続けて止まない。神の見えざる手がこの世にあって、それが知り得さえさすれば、幸せになれると欲して止まぬ。

  幸福な生活の全体といった、きわめて因果の把握困難な、まして操作の可能性など及びもつかぬ事柄に対して、思わず些細なジンクスを、神の手(の代わり)として見出さずにはいられないほどに。

  ただ、ジンクスでは少々、いや多大に役不足で、つねにその内容は新しいものにとってかわられ続けてゆくだけだ。それらは、われわれの、いってみれば動物の本能に代わるヘンな本能の導く結果のようなものなのである。

  そして、われわれはそこから逃れることはできない。しかも、われわれは世の因果など(もちろん)把握できない。日々を重ね年経ても、流行歌ではないが「なんでだろう♪」と不思議に思い続けては死んでゆくのだ。誰しも、程度の問題である。みな一様に、「理由無しには不安でならない」ことに変わりはない。

  それはわれわれにとって逃れられぬ、しかして重大な生存の問題である。ときにそれは狂信的になって、ヘンな宗教と化したりもするし、こだわりの故に性格を変えたりもする。ジンクスと云って、あなどれぬ。世のカラクリを求めて止まぬ、それは、人の心のカラクリなのである。

  われわれの、世を生きる身のカラクリが、ジンクスの中にほの見える。

  因果の論理を求めて止まぬ、決して満たされることのない、飢えた動物のごときわれらの心のカラクリが。ジンクスごときを止められぬほど、安心したがるわれらの飢えが。シカケを知れば安心なのだと、われわれはみな思っているのだ。

  それがわれらの止められはせぬ本能なのだが、しかしてラプラスの魔(*註)でもあるまいに、全てのシカケを知り得るほどに、われわれはそう賢くはない。重大な生存の問題は、常に重大な破綻に直面している。死ぬまで、直面しつづける。

  まことに厄介なカラクリだ。それはわれわれの進歩、あるいは複雑化の原動力であると同時に、われわれを常に悩ませ、不安がらせる原理でもある。なにか不可解な、あるいはもう少し柔らかくいえば釈然とせぬことのある度に、われわれは(ジンクスにすがりたがるほどに)不安がり、カラクリのあるを期待する。自分がそれを操作可能になることを。「できれば全ての物事を」操作可能になることを。決して起きないそのようなことを。それは時には懊悩を呼ぶ。欲はときには貪欲すぎる。貪欲すぎると、不満は強い。ジンクスごときの不成立に、腹を立てては狭量に過ぎる。

  我慢のきかない赤ん坊の欲するごとくに、それが際限のない欲目の故だと(誰もがそうしているように)、常に弁えておかねばジンクスといえど我が身を毒す。

  どこぞの学者ではないが、「知ることの無さ」を知って生きねば不満は尽きぬ。正しく解ろうとする者は、解るなどと思ってはならぬ。ここの兼ね合いが肝要だ。

  神の見えざる手はあるやも知れぬが、あいにく、それは見えぬのだ。そうと弁えた上でなら、ジンクスは、いやさ見えそで見えぬかすかな因果の理は、ささやかな幸福をもたらすものと楽しむことが出来る。

  ジンクスという遊びは、いやさわれわれの因果の理を知りたがる心は、楽しむくらいがちょうど良い。ジンクスであれなんであれ、それは終わり無いわれわれの不安な心が、やむを得ずすがる間に合わせの藁なのだから。藁屑を手に持って、遊んでいるようなものだ。その手に持ったお守りのようなジンクスは、それが有効に働いている(と思っている)内は、存外小さな安心であり、度を超して重視さえしなければ、ささやかながら幸福なものだ。であるならば、そんな小さな幸福だって、大事にして悪いこともない。こじつけといえど、ヒトを不安から救うなら、別段、悪いということもない。それがこじつけと知っているなら。我に返れば、すぐ捨てて次の藁を拾うだけである。あるいは拾うのは麦の穂かも知れぬ。いずれさらりと受け流し、また楽しんでは困ったものよと笑うくらいが、たぶんいちばん幸福だ。


*註:数学者ラプラスの唱えた「すべての物質の運動を記述可能な魔物がいれば、彼はすべての現象の因果関係を数学的に記述可能だ」という話に出てくる魔物のことデス)

2003/04/26

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