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屁理屈  神様へるぷ!




  日本において、神様は一般に「助けてくれるもの」、「願いを叶えてくれるもの」と思われている。

  (俗な意味での)中国の道教信仰のような、現世利益をもたらす「もの」である。

  これは古来からの態度のようで、八百万の神様から記紀の国造りの神様に至るまで、たいていは豊作願いや厄災対策の祈祷の対象、何々の願いを叶えてくれるもの、何々の御利益があるもの、何々の害を鎮めてくれるものと考えられているのが一般的である。だいたいが神社の扱いも、商売繁盛家内安全、学業成就家庭円満、病気直しに安産祈願と、万願い事引き受け所の観を呈しているくらいで、神様というのは願いを叶えてくれるもの、自分たちにとって良い働きかけをしてくれるものと、相場は決まっているようである。我が国ではスゴイ人、エライ人も死ぬと神様に祭り上げ、ナントカの命として無事満願成就の願掛け相手となる(学業の守護神として知られる菅原道真公あたりが有名だろうか)。

もっとも無論そればっかりというわけではなくて、災害を起こすモノや大罪を犯した霊、恨みの強いと思われる霊などは禰宜や氏子がさんざん祈って鎮まっていただくような信仰形式もあるのだが、しかしこれとて、荒ぶる御霊の鎮まることを祈願するのだから、要は願いを聞き届けてくれるようにと祈っているのと大差はない

  土着の神様の扱いが元来こうであるせいか、本邦では外国の神様も、信仰され次第片っ端からこうした扱いを受けるようで、仏教に取り込まれた印度の神々、大黒天や毘沙門天はいうに及ばず、キリスト教の唯一神、かの父なるヤハウェすら「祈ればどうにかしてくれるもの」と思われている節がある。

  要するに、この国では神様は「ドラえもん」なのである。(逆にいえば、かの有名なドラえもんは神様として描かれているわけだ)

  だがしかし、本邦古来の信仰の形の是非はともかく、また本来が恵みをもたらすものとして敬われる自然神はともかくも、たとえばヘブライ人の神、キリスト者の神であるヤハウェ(ヤーウェ,エホヴァ) は、いったい「祈ればたすけてくれるもの」なのだろうか。世界を造った超越者というものは、そんなことをしてくれるものなのだろうか?

  たしかにこの国の視点から見れば、神に祈るキリスト者たちは願っているように見えるかも知れない。また実際、主の御加護を願っている場合もあるのだろう。だが彼らが神を、霊験あらたかの故に祈っているのでないことはいうまでもない。教会が、厄除けの札を売ることは(いまは)ない。

  神は世界の主なのだという。この言い方はしかし、誤解を招きやすい。あたかも神が、世界とは別個に存在しているように感じる。世の困難や、希望を神がどうにかしてくれるという発想も、世界とそこに起こる物事とは別に、それを操作可能な力あるものとしての神が存在すると考えて、初めて可能になる思考だ。

  だがこの考え方は正しいのだろうか。神というモノが世界の中に、世界とは別に存在するというのなら、その神は世界と同等な存在に過ぎないことになるではないか。神がいて、世界があるのなら、神と世界は対等の、しかして2者になってしまう。だとするならば、神は「神の世界に」いて、世界を見ているだけの、単なる神の世界の住人ということになってしまう。

  たしかに多くの神話は神をそのように描き、天界の玉座にどぉんと鎮座ましますものとして語っている。天界から世界を見下ろし、時に操作の手を加えるものとして。だがそれでは、神は天界という別世界の、単なる住人に過ぎなくなってしまう。

  しかし私には、一神教の唯一神はそのような、天界の住人の一人であるようには思われない(←決めつけ)。彼は、言葉にできないもの、唯一にして絶対のもの、「この世界のあらゆるものを」超越したものとして語られているではないか。そのような神は、当然、人称ではない。「すごい誰か」ではないのである。

  それゆえ、「彼」は世界と区別されるものではないはずである。唯一にして全なるもの、であるならば彼は、全世界そのもののことであるまいか。世界の主、すなわち世界というわけである。

  で、あるなら、神が世界を意のままにするというのもごくかんたんに頷けるではないか。世界それ自体なのだから。

  そうしてキリスト者の神は、神自身の遠大な意志の基に世界を創造し、導いているのだという。人間の創造もそれに基づくのだそうである(だいぶ後世の解釈だが)。ついでにこの遠大な計画とやらは、人間には理解し得ないものなのだ、ともおっしゃる。つまりキリスト者の神は、人には解らないなにか偉大な意志の基に世界を経営しており、人はただその御意志に従うのみである、わけなのだ。人はその計画の一翼を担うための僕(しもべ)なのであり、すべての物事はそのための活動であり、計り知れぬ神の意志の基にあるという。イスラム教の神アッラーとて同じこと。人はわかり得ぬ神の意志の僕、というわけである。

  さてそこだ。

  われわれは、キリスト教を戦後を迎えて以降徐々に違和感なく受け入れるようになり、いまではアメリカの影響を強く受けた文化の下に、キリスト教の持っている概念、行動形態を身の回りによく見かけるようになっている。映画しかり、文学しかり、世界の神話しかり。(われわれがよく耳にする世界創造譚は、記紀の国造り神話であったか?  否、神による七日間の世界創造、創世記の神話ではなかったか)

  しかしてわれわれは、その神話、その宗教観を理解しているかというと、どうにも怪しい。子供がかの神様の話を聞いて、まず思うことは、「神様はどうしてわたしを助けてくれないの?」ではあるまいか?  (え?  ちがう?  オミソレシマシタ)

  これがしかし、大人になっても、われわれの大半の耳には、違和感を伴ったまま残っているのである。だがこれは発想が間違っているのだ(たぶん)。長々と話を振ってきたが、要するに、われわれ日本人がキリスト者の神に思うことは、事実上大黒様や弁財天に望むのと変わらない、現世利益の祈りなのである。これはたぶん、ほとんどの日本人の心の底にある感覚であろう。だからこそ、助けてくれない、御利益のない神様の神話など、われわれは信じ得ないのではあるまいか?

  その信仰の形自体を否定しようというのではない。日本人は間違いなくアジア文化圏の、現世利益を追求する文化の中におり、そのこと自体は民族の特色である。だがそうした賽銭と交換の御利益や、祝詞の見返りの幸いなどを、ヘブライ人の過酷な神に求めるのは、キリスト者の神になって慈愛の神になったといってもなお、やはりお門違いというものだろう。

  天なる父が求めるものは、自分を神と認めた上での絶対服従であり、御利益と引き替えに貢ぎ物を求めているのでは決してない。絶対服従を誓うことによってこそ、「キリスト者の安楽」はあるのであり、その「結果」、最後の審判の後天国にゆけるというおまけが付くのに過ぎない。

  神に従うことを認めるところに、彼らの幸福があるからこそ、キリスト者は祈るのであって、別段かくかくしかじかなので一つよろしく、と祈っているわけでは決してないのだ。彼らが神の加護を願うことはあっても、それはすなわち見返りを期待してのことではない。彼らは神の加護があることを信じるために祈る。死んだら死んだで、それも神の加護なのである。(たしかに、日本人にはわかりにくい概念ではあるのだが)

  キリスト者にとって、世界はすべて神の意志であり、神とともにある。イスラム教徒においてもそうだ。唯一絶対の神とは、本来そうしたものである。かの唯一なる神は、別段人を救うために世界を経営してるわけではないのだ。人を救うのが神の仕事というわけでもない。といって見捨てているのでもない。   唯一絶対の神と、その世界意志を認めるならば当然使われる運命という言葉は、「神の意志によって」人にはそうあるべき生き方が定まっている、という意味であって、こういう人間に生まれたからこういう運命しかないんだ、という、一般によくなされる解釈は、つまり誤解なのである。

  唯一神の信仰の元では、人間は神の意志によって生まれ、神の意志に従って、その生き方を定められている。人の生きるに 必定の、悲しみや苦しみも、この信仰の元では神の意志である。だからそこには、即物的な意味での救いは、ない。

  しかし宗教が、人を救うことを目的にしていることも確かである。そして唯一神は人を救ったりはしない。その意志に基づいた必要がない限り。

  この矛盾は、一神教を、神が信者を救ってくれる宗教と思う勘違いから生じる。かの宗教は、神の意志である自分の人生と世界のあり方を、信者がすべて受け入れる絶対帰依によって、信者を救うのだ。

  自分たちがか弱き神の子羊であること、天なる父の僕であると信じるところにこそ、一神教の救いがある。そう信仰することによって、神の子羊たちは、神と共にあること、神の意志の基に歩むことに安心するのだ。そして死後は、最後の審判の後に天界において復活する、という特典もつく。彼らが神の加護を願うのは、神の意志の中に、その加護が含まれていることを願っているのである。決して、困っているから何とかしてくれと願っているのではない。(もしそう願っている信者がいたなら、その信仰はたぶん勘違いである)

  一神教の神様は、顔役ではないのだ。

  だから神の救いとは、その信仰の中にある。信仰することが即ち救いであり、信仰しない限り救いはない。自分が神の僕であることを信じ、神に絶対帰依すると誓うことが、すなわち神の救いなのである。

  神様へのヘルプコールは、届かないわけではないとしても、聞き届けられることはない。それが神の意志に叶うものであれば問題は解決し、そうでなければ捨てておかれる。いや、その場合は問題の解決しないことが、神の意志なのである。そうと信じ、納得するところに、一神教の救いはある。だからこそ、それは信仰なのだ。

  一神教の信者でないなら、彼らの神様へのヘルプコールは納めておくのがよろしい。それは見当違いか、さもなくば、お門違いというものである。

2000/10/23

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