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屁理屈  心の、うごき




  人は暮らし、心は千々に乱れ飛ぶ。

  人の心はちぃとも安定しちゃいない。あるいは憧れ、あるいは苛つき、あるいは寂しく、あるいは燃え、あるいは冷えて涙を流す。

  なんだか詩的な言い回しだが、それほど不当な表現ではないだろう。一瞬とて同じ状態などありはしない。人の心ほど様々に移り変わり落ち着かぬものを私は他に知らない。心は、どうしてこんなにも揺れ動くのだろうか。心とは、いったいなんだろうか?

  心は、期待し、驚き、失望し、焦り、餓え、一瞬満たされ、不安がる「反応」である。

  反応であるから、当然固定された一定のパターンではない。心が常に揺れ動いているのは、このためだ。心とは理解とか、認識とか、定義といった固定的な観念記憶ではなく、動的な反応それ自体を指して呼ばれる言葉なのである。反応の主体ではない(主体は、人の「全体」なのだ)。

  だからそれは様々な「反応」であり、折々に違うものなのである。心は一般に精神の主体であるように捉えられがちだが、そうではない。心とは精神の機能の内、刺激や情報に対する反応の部分につけられた呼称だ。

  心が、そのような反応であることによって、人の精神は行動を起こすための原動力を得る。心が反応することによって、精神が機能し、欲求が生まれ、行動の選択が開始される。

  心がそのようなものであることによって、我々人間は、行動という、世界への対応を開始するのである。心は、精神を駆動するエンジンのようなものだ。

  それは認識に反応して発火するエンジンである。それは発火して、我々を感情へ、行動へと突き動かす。ときには外部からの情報への認識だけでなく、記憶の内部から起こった刺激にも反応して発火する。無限連発の精神爆竹みたいなものだ(←なんだそりゃ)。体内器官からの信号にも反応する。情報の種類によっては、その情報を無視するという反応もする。(つまり心という反応は、知覚刺激が情報として処理されたその後に起こるものなのだ。したがって、心という反応が機能するためには、知覚刺激が、脳内で意味のある情報として処理されることが前提になる)

  いずれにしても、心という反応は、情報に対して起きる現象を総括した名称なのである。入力された情報、想起されることで出現した情報、情報に対する反応が、心だ。

  反応は想定された「仮想理想状態」と、認識された情報に与えられた価値との差異に応じて様々に生じる。心という反応は、あらかじめ想定された状態に対する認識の価値判断、その判断に対する反応なのである。(豪快な断定)

  想定された仮想理想状態、というのは、主体(個人)が個々に持っている「満足」の想像的認識のことだ。人間というヤツは一人の例外もなく、生まれてこの方一度も満足したことがないし、満足することがないまま死んでいく動物なので(それゆえに人間は行動が可能なのだが)、満足という状態は知らないのだが、常に満足という状態を(心の中にか?  いいや記憶の中にだ)想定して希求し続けるというやっかいな性質を持っている。個々人は記憶の底に、それまでに各人が経験した人生(価値判断の集積)から導いた理想状態(と思いこんでいるもの)とでも呼ぶべき記憶をもっており、これを後生大事に追い求めている。心は、この状態と認識に対して(記憶と意識の連携した精神活動が)行った価値判断とを(記憶と意識の連携した精神活動が)対照して、喜び、悲しみ、失望し、怒り、悲しみ、諦め、望むといった「反応」の形で生じるのである。

  これは対照する参考資料、想定された仮想理想状態が前提になって生じる反応である。したがって複雑な反応、複雑な心は、それを起こすに足る十分な経験記憶を摘んだ個体の精神に初めて生じる。経験記憶が未熟な内は、肉体が生来持っている状態記憶をもとに、イタイとかアマイとか心地よいとかいった原型的な反応=心で過ごす(赤ん坊の状態ですな)。

  それゆえに・・・

  これは、収まることはない。人間である限り、人の心を持つ限り、この心という反応は欠かすことができない。行動するための、それはエンジンだからだ。

  たとえそれがどんなに苦しく、うざったいものであっても、人は、この心を鎮めて生きることはできないのである。

  明鏡止水の境地というのはあるだろうが、それは一時的なものでしかない。たとえ悟りを開くといえども、腹が空くのは避けられないし、心が生じないわけではない。そういった境地にいる人がもしいるとしても、その心は鋼のごとく揺るがないのではなく、たんに反応が小さいか、反応を(心を)受け流してしまうだけのことである。

  もしこの心という反応を完全に超越し、静まりかえった湖水のごとく心の騒がぬ人がいるとすれば、その人はもう人間ではない。こんちゅーとか、植物の類であるといってよかろう。心騒がぬものは、そもそも、人間ではないのだ。

  だから我々は、この騒がしい心につきあって生きる他はないようですぜ、皆々様。

*ここでは、心を感情とほぼ同義のものとして取り扱っておりやす

2001/01/12

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