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屁理屈  憎いあんちくしょう




  あいつはどうも気に喰わないとか、あんなヤツ嫌いだ、くらいはどこにもあるが、どうにも気に障り、ついには憎くてしかたがない、という人間関係がたまにある。恋しさ転じて憎さ一億倍、という話もある。昨日までの親友が、一夜明ければ犬猿の仲、ということもある。

  別段武器を担いで襲ってくるわけでなくとも、(主観的に)利害関係にあるとか、あいつはどうにもひどいヤツ(に違いない)、とかいったよくわからぬ理由で、この憎悪の関係とやらは発生してしまう。

  いずれも人が、その肉体のみに寄ってではなく、その精神が形成する自分の像を、現実に展開し実現しようとすることにも寄って生きているが故のことであろう。   動物一般において、敵は、身体に危害を加えるものや、食料を奪うもの、行為を阻害するもののことを指す。しかして人にあっては、敵は、主体の自己像の成立を阻害する他人のことをも指している。たぶん、犬猫その他動物さん達はこれを敵には含めない。

  人間においては、精神的な意味での「自分」の成立を否定する他者は敵なのである。それゆえそこに、「憎む」というなかなか理解しがたい判断が発生する。(寡聞にして、鳥が仲間を憎んだだの、ネコが仲間を憎んで殺害に及んだだの、犬が一緒にいる仲間を憎んでいるといった話をわたしは知らない)

  精神的な自分、あるいは自分が想定している自分の像、自己像を阻害する(と自分が感じる)他者がいた場合、人間はそれを敵と認識する。しかして物理的に敵なわけではないので、どうにかすることはできず、また行為に移ろうとしても多くは道徳的な禁止に基づいて、物理的な攻撃はできない(してはいけない、と思っている←そうでないと困るのだが)。   そこで、憎むのである。物理的にどうにかできるのなら、その場で攻撃して、結果はともあれそこで済む。物理的な脅威が無くなった時点で、普通敵は消滅し、「存在しない敵を憎悪する」ことは起こらない。物理的でない敵が、憎悪の対象なのである。だから正確には、この敵は物理的に撃退しても敵であり続け得る。「殺し」てしまわない限りは。(だから、人は人を殺すのだろう)

  ではこの敵はなんに対する敵か、というと、「世界と自分の安定した関係」に対する敵なのである(そういう意味では、正しく敵の定義に一致している)。

  人は肉体的に自分であるのに留まらず、精神的に自分である。そして後者の、「精神的な自分」こそが、人が「身を守る」ときの「身」にあたる。実体ではないにも関わらず、人が「自分」と認識するこの「身」は、世界解釈の体系の中に位置づけられた自分の解釈である。自分が「自分だ」と定義しているところの、自分の、像だ。(あぁ、わかりにくい)

  自分の像はもちろん、世界の像の中に位置づけられる。人間においては世界自体が、認識というフィルターを通った情報を解釈、定着させた像であるから、その中に自分を成立させるなら、自分もまた認識というフィルターを通った情報を解釈、定着させたものに他ならない。

  この「定着した」自分の解釈こそが、人が、普段意識しないまでも常に持ってはいる「自分」であり、「守るべきもの」である。身を守る、その身だ。(実体ではない)

  この定着した自分の解釈は、しかし絶対普遍に定着しているわけではなくて、非常にアバウト、かつ日和見である。常に(あたりまえだが)自分に都合のいいように解釈され直し、常に定着され続けるゆらゆらした像だ。根底にある、意識されないほどの基底的な自己像はそう揺れ動くものではないようだが、意識に上るような、わざわざ意識し続けなければならないような不定の部分も常に伴っている。だから自ら変更されることもあれば、情報の影響で変更を余儀なくされたり、余儀なくされそうになって脅かされもする。自分に都合がよいように構築されているだけにも関わらず、その自分が行動した結果世界からもたらされた情報(反応)によって引き起こされる変更、あるいは変更の可能性が都合の悪いものだった場合、自己像はこの変更を厭う性質を持つ。「自分」にとっての都合の良さを、できるだけ死守するためである。この「自己像」は究極の傲慢さを持っている。

  だから…自分にとって不都合な変更を要求されること(あるいはその可能性)、つまりは自己像を「間違っている」と否定されるような可能性を持った事象の出現を、人は「敵」として認識する。

  そしてこの敵が排除されない性質を持ったものだった場合、たとえば殺して良い理由の見あたらない他者だった場合…

  憎む、のである。(風や嵐や犬猫が自己像を否定することは滅多にないので、たいていは他人を、だが)

  自分が自分として認識しているところの自己像を否定されそうになったとき、人は、憎むのだ。「自分自身を否定されそうで恐かった」という言葉の自分自身とは、この自己像を指す。これは「世界と自分」の定義でもある。(いやたぶん、それそのものなのだろう。世界と対置されない自分だけに対する定義など、自分として機能しないのだから)だから、この自己像を、他者によって否定されている、ないし脅かされている(と主体が判断している)ということは、すなわち、(人と人との関係であるにも関わらず)自分と、世界との安定した関係が脅かされている、ないし否定されていることと同義になってしまう。

「世界と自分の安定した関係(の意識)」こそが自分自身であるところのヒトという種にとっては、「殺されかけている」ことに等しいのである。

  人はこの自己像を、現実に自分の経験する世界の中に展開し、あわよくばできるだけ実現しようとして生きる。そのことが、人にとって生きるということになる。

  そうして現実に自己像を展開していく中で、主体が自分にとって好ましいと認識する他者が「いいヒト」、好ましくないと認識する他者が(現実にその他者がどういう人物かとは無関係に)「わるいヒト」として、その主体の世界像の中に位置づけられていく。主体の判断であるから、これはどのような判断形式であっても構わない。主体以外の他者には、理解できない判断である(主体自身の意識にも、実はよくわかっていない)。これらの「他者像」の中に、明白に自己像の展開にとって障害となる(ように判断される)他者がいた場合、その他者は「いやなヒト」と位置づけられる。これも判断であるから、その主体の認識次第であるし、またなにかのきっかけでマイナスの情報が加えられ、価値判断が変更されれば、それまで「いいヒト」であった他者像が、いとも簡単に「いやなヒト」に切り替わることもある。そしてこの「いやなヒト」が自分の(認識している周辺世界の)周囲に継続的に存在し、かつ意識の上で葬り去れずに自己展開の障害と認識され続けるとき、あるいはほんのささいなきっかけであれその他者像の(認識上の)障害の度合いが増加したとき、この「いやなヒト」は排除できない脅威となって、主体の自己像展開の「敵」となる。

  そして、憎悪の対象となる。

  逆に言えば、主体は、憎悪することによって自己像の展開を守ろうとしているのである。自己像が世界の中にスムーズに展開されていくこと、世界と協調して存在し得ることを希求するヒトという種にとって、それは守るべき、真に守るべき主体なのだから。(生命ではなく)憎悪することは、自分を守ろうとする行為に他ならない。

  人は自分の自己像を守るためなら、いくらでも必死になる。

  ましてその他者が、自分=自己像(と主体には認識されている像)の定義、すなわち価値観を、否定にかかるか、あるいは否定しているように主体に解釈されるとしたら?  (実際に否定的な言説をしているかどうかは、この場合関係しない。主体の判断がすべてである)

  否定を認めることはできない。それは、主体自身であると同時に、主体にとっては世界そのものなのだから。だから本来は、そうした憎悪の対象は、動物的に排除の対象になるのだろうが、前述したように殺さないのなら、脅威は(主体の認識の中に)残り続けるから排除したことにならない。しかして「人は人を殺してはイケナイ」という倫理観に、主体が従って生きている以上は、殺すわけにはいかないのである(笑える話だ)。殺せないから、代わりに憎む。憎むことで、その他者は自己像の持つ世界との関係性の外縁に追いやられ、できるだけ遠い位置を与えられることで、ようやく主体は、それが自己像の展開に与える影響を最小限に押さえることができる。

  うまくすれば、忘れることさえ、できるかもしれない。

  憎しみは、自分の自己像を守るために、自分のために発生する、(もちろんきわめて自己中心的な)自分の身を守る行為である。

  社会的にその行為が悪かどうかは、この場合関係しない。人の行為において、最も中心的に行われるのは、(他のすべての生物同様)身を守る行為だからである。自分の身を守ることは、社会性に優先する。ただし、守るのは生命ではなく、自己像だ。

  そのようにして、人はその自己像を守り、なるべく思い描いたとおりに世界の内に展開しようとして悪戦苦闘して生きる。現に生きていても、自己像の展開こそが、人において生きることなのだ。客観的には無謀でしかない英雄的行為に見られるように、時には、生命に優先するほどに。

2002/02/19

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