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屁理屈    日記風「すごくささいなしあわせ」





  2003年秋現在、我が家には毎週来客がある。

  家を出た弟夫婦と、その1歳になる娘がそれだ。

  今週などは早くに来て、ちょうど同じ頃に帰ってきた私は姪っ子とおおいに遊ぶ機会に恵まれた。

  姪っ子は我が家に来ると積み木が置いてあるのを知っていて、その場所までよたよたと出掛けてゆく。もちろん、木製の積み木は重いので、台車ごと親か私に茶の間へ運んで貰う他はない。赤ん坊だけにものも云わぬのに主張が通る待遇の良さである。

  茶の間にそれが展開されるとたちまち積み木弄りが始まる。まだ自分で組み立てるまでは行かないので、せいぜいが二つ三つ積み上げるか、大人達が積んだモノを片端から破壊して遊ぶかのどちらかである。気まぐれにわぁわぁ我が儘を主張するタイプではないので、えへ、えへへ、いへへ(?)と謎の笑顔を浮かべながらおとなしく遊んでは喃語を発している。かと思うと両手に手頃な積み木を持ってはあちこちによたよたと爆撃しに行く。どういうわけか、モノを持つときは両手に二つ持たないと気に入らないらしいのだ。お菓子の類も常に両手に握ってあまり上手でなく口に運ぶ。

  父親(弟)が買い物に出掛けたので相手をしていると家型に組んでやった積み木を次々と薙ぎ払っては自分でも組もうとするが、三角形の積み木の上に三角形の積み木は載らないのがまだわからなくて苦労をしている。結局興味津々のまま四角いのに持ち換えたのは飽きたのか切り替えが早いのか、私のやるのを見て学習したのか判断しにくい。

  やがて帰ってきた父親と私とが再び買い物に出掛け、兄弟揃って夜のユニクロ店内を彷徨っていた間もおとなしく遊んでいたらしい。残念ながら姪っ子の着るような服はデザインが良いものはあったがサイズが無くておみやげに出来なかったが、無論本人はそんなこと露とも知らぬ。デジタルカメラで撮ってやったら、そのキカイのレンズ繰り出し機構が気に入ったらしく、電源オンオフの度にレンズカバーをしゃきっと開けて伸び縮みし、青い三つのLSDを光らせる様を飽くことなく眺め、カメラを置くとそれを手に取ってよたよたと突き出してはもういっかいやってくれとせがむ(ように見える)。

  繰り返してやるとえへえへ笑って、繰り出したレンズを伸ばした人差し指でそっと触って興味深げである。レンズをちょん、とつついてはそれがうぃ〜んと格納され、またうぃ〜んと出てくるのをじぃっと見ている。あまり泣かない赤ん坊なので相手が楽で助かる。どういうわけか機械モノが好きな娘で、携帯をイジルのも大好きなせいだろうかカメラもお気に入りらしい。しばらくすると飽きたので蝶々の手押し車(押して歩くと羽根が上下する)やらミニビーチボールやらいろいろなモノで遊ばせていたが、一番お気に入りの「いないいないばぁ」(の真似)を自分でも憶えたのが一番嬉しいらしく、ぜんぜんタイミングの合わぬのをやってはえひゃえひゃ笑っている。ついでにダンスの真似までするから芸人である義妹(冗談です)の血を引いている。歩くのが速くなったのはよいが安定性がまだまだで、つかまり立ちの頃よりよく後ろへ転ぶようになったがひとつも泣かない。転んでもつまづいてもおかまいなしである。

  そうこうする内に夕飯の支度が出来て、大量のフィレカツと大量のコーンサラダと大量の"すいとん"がおでましになった。

  弟夫婦は赤ん坊のなんでもいじくりまわしアタックにてんてこ舞いだが、こちらは悪いが余裕の食事である。ときおり姪っ子のアタックをかいくぐればそれで済む。一口、フィレカツを口に運ぶとこれがもう、安物のクセに柔らかくて豊潤で、甘口のソースと相まって絶品の美味さである。揚げたては舌が溶けるほどウマイ。

  食っても食ってもウマイので大茶碗に山盛りの白米がみるみる口中に消える。文字通り採れたての野菜をどっさり使ったサラダも、各種ありあわせ野菜てんこ盛りのすいとん(知らぬ人のために念のため説明すると、こねて小さく丸くしたうどん粉と野菜や肉、キノコなどを使った汁である。うどん粉の他はありあわせの何を入れてもおいしくいただける)も、舌と胃袋が喜んで踊り出すほどウマイ。

  自慢のようだが、管理人の舌のレベルが低いのか、母御の作る我が家の家庭料理は絶品なのである。素材が常に新鮮で豊富なせいなのか(ウチはやたらに新鮮でいろいろな食材を貰い物にいただくのである。スーパーの野菜など買わなくとも畑直送のモノがすぐ生かせる)、はたまた母御の腕が良いのか、どんな料理店に行こうともこれよりおいしい夕食は食えぬと断言して少しも過言ではない。騒がしく下品な輩のいない家族も又、料理を引き立てる絶好の条件になる。可愛くおとなしいよちよち歩きの赤ん坊などは天下無敵のスパイスである。

  ふかふかのカツを次々と胃袋に収めながら、温泉紹介番組を流すテレビに時折目をやり、よちよち来襲する姪っ子を適度にあしらい、オイシイ、ウマイを連発していられるほどの、これほどの幸せが、はたして人に許され得る幸せの、最高のものでないなどと云えるだろうかと心の底深くで思う。

  裕福でもない一家の、豪華でもない家の茶の間で、ほんの少しだけ騒々しくまた安らかなこのオイシイ、ありふれた晩ご飯の、なんと無上の幸福であることだろうか?

  そんな一般家庭のありふれた夕食になにを大袈裟な、と思われるだろうか?

  そうなら、その人はずいぶんと目の曇った人であろうし、またずいぶんと不幸な、可哀想な人であるだろう。

  一家に、こうしてこれほどに恵まれた夕食の有り得ることの、いかに、言葉の文字通り有り難いことであるだろう。こうしておだやかに、家族一同恵まれた夕食を迎えることの出来る一家の、この世にいったいどれだけの数があることだろうか。

  家族が皆、心安らかに、楽しく、目を細めながら箸を進める夕食を楽しめる一家の、いったいどれだけあることだろう。誰も怪我をせず、病気でもなく、誰も怒っておらず、不満気でもない家族の、そもそもどれだけあることだろう。裕福でも豪華でもなく、されど諍い無く声を荒げることもない、皆が笑っているおいしい食卓の、どれほど希有な奇蹟であることか。

  そのような時を、人が持ち得ることの、いかに難しくあるかを思うとき、この小さな一家のいかに幸せであるかを、いまだ見知らぬ神に感謝せずして、いったいいつ、神に感謝する時があるだろう。

  ささいな家族の、ささいなおいしい食事の、皆満ち足りておだやかであることが、どれほど幸福で感謝すべきものであることか!

  いったいどれほどの偶然と、どれほどの時間とが、この時をもたらすため家族の間に必要だったことだろう。その一事を思うとき、このささやかな食事のどれほど奇蹟であるかが知れようというものである。私たちの他に、こんなささいな、そして限りなく幸福な夕飯を味わい得る人は、他にどれだけいるだろう?

  もしあなたが、「ウチもそうだ」とおっしゃるならば、私はこの上なく嬉しい。それがささいな、それでいて限りなく難しい幸福であると、心得ているからである。そんな家族の楽しい、幸福な夕食の他の家にもあるならば、それは私にとってもまた喜びである。そうと知る機会があったなら、私はそのことをどれほどにでも嬉しく喜ぶだろう。

  人間に、こんな幸福な時間の有り得ることを知ることこそが、もしや幸せなことであるのかも知れぬ。この一時の有り得た故に、私は私の生まれと、このような家族の集い得た奇蹟と時間の積み重ねと、この時のこのように生じ得た全ての偶然とこの世の働きに、おしなべて一様に深く感謝する。無信心な私の神にというのがおかしいならば、この世のここにこうして我らが家族の時間が有り得た、その故の全ての働きに深く感謝する。

  この時の、なんと幸福であることか。どのような過去がかつてあろうと、どのような未来がこの先にあろうと、私たちにこのささいで幸福な一時のあることの故に、私はなにもかもに感謝する。

  すべての物事に感謝。ご飯ウマイです。

  それは無論私たちにばかり起こるものではなかろうし、また、私たちに訪れたような家族の穏やかな食卓が唯一の形式だというものではないだろう。あるいは公園でベンチに座っているときに訪れるものかも知れぬし、あるいは老夫婦の静かな朝に訪れるものかも知れぬし、あるいは働く者が仕事中に一人で取る昼食にそれはやってくるかも知れない。いずれ希有にして貴重な、得難い、そしてささやかな時間にも幸福の訪れることのあることに違いはなかろう。それは誰にでも、どのような形にでもあり得る、気づき難いささいな瞬間なだけである。

  だからもしも幸福を期待せぬと云う人がいるなら、このようにささいな、存在する全てのものに感謝せずにいられない無上の幸福が、人間にも有り得ることを、ここにちゃんと記しておくから、決して忘れぬがよろしかろう。それは奇蹟に近いものだが、ちゃんといまここにある。だから、きっと誰にでもある。

  つまらぬ失望など、しなくてよろしい。しあわせのかたちがここにある。

  かくして私は食事を口に運ぶ。

  フィレカツとサラダを山ほど平らげてもまだすいとんが用意されている。先日もらったとうがん(わからない人のために補足すると瓜の一種です)と頂き物の人参(貰い物ばっかり)と、その他なにやらがうどん粉と供にダシのよく出たつゆに浸かった当家の隠れた名物である。うどん粉の少々硬めに出来上がったのも歯応えがあってたいへんよろしい。

  姪っ子は一足先に食べてしまったので、おいしい食事の間中、よちよち、うろちょろと食卓やらなにやらに黙々と手を出していたが積み木と「いないいないばぁ」に誤魔化されて、結局終始おおむねおとなしく遊んでいた。もともと機嫌の悪いときがあまり無い赤ん坊だが、えへえへ笑いながら「ば!」(←ばぁ!と言えない)とやっている様子は可愛気があってなかなかよろしい。たらふく肉や野菜を食った後のすいとんがまだまだイケルのも、少しはこの姪っ子の可愛気スパイスのおかげであるのやも知れぬ。

  たらふく食って家族一同茶を啜る。姪っ子はまだ赤ん坊なので水で誤魔化されているが気づいていないからまぁ良かろう。最近は面白い赤ん坊グッズがやたらに多くて、その一つであるところのストロー型の吸い口のついた小さな水筒からごくごく呑んでいる。結構厚着をしているのに時折くしゃみをしているのはまた風邪をひいたからなのだろうか、大人には快適な涼しい気候が少し恨めしい。

  そして赤ん坊が煙に巻かれぬよう、私が別室で食後の煙草をゆっくり楽しんでいると、姪っ子は父親と共に時々よちよちのぞきに来ながら、いないいないばぁをやってみたり、私にやってもらったりして御機嫌に楽しんでいたがやがて、小さく横に手を振りながら帰っていった。バイバイのつもりらしい。夕刻に母御(姪っ子の祖母)が自分の買い物に出たつもりで山ほど買ってきてしまった赤ちゃん服の中からさっそくジャンパーを着せて貰って帰ったのは寒さ対策というのか親心というのか祖母心というのか、生意気にスタジャンなのがお洒落であった。

  そして私はささいな幸せに深く感謝しながらこのつまらぬ一文を書いている。誰かの胸にこのささいな幸せのやはりあらんことを祈りながら。幸せが忙しく金のかかるものだと思っているのは、どこの誰なのだろうと思いながら。

  この一文になんの意味があるのか、なぜ書いているのか、私は少しも知らない。たぶん、感謝の結果なのだろうと思う。そしてこのようなささいな行いが、この世の何処かで誰かのささいな幸福に繋がるであろう事を、私はなぜか露ほどにも疑っていない。

  これもまた、私と私の家族達にささいな、そして無上の幸せの時間を可能にした、人の目などには捉え切れぬ世の働きの一つだと思うからである。

2003/10/04

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文責:@ Kaikou <木下裕文>