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つくづくやなタイトルだなぁ


じんじんめぐりのそのわけは

*)今回は少々マジメな話題になっておりやす。。


  私はどイナカに住んでおりまして。

  その集落の名を「神々廻」と云いますな。

  さて問題です。なんと読むのでしょう?

  まず、知らない限り読めることはないでしょう(ココがポイントですな)。実は「ししば」と読むんですなコレが。

  神々、と書いて「しし」、輪廻の廻とかいて「ば」。

  この集落名が読めないのはいつの時代でも同じコトらしく、ウチの親の世代などでは知らぬ人に「じんじんめぐり」と言っては文字を説明したりしていたそうですから、いかにこの名が難読の地名であるかが解ります。

  しからばこの名は、いったいどうしてこんな名になったのでしょう?

  てなことがウチの(この場合は「たらこWORKS」の)掲示板で話題になったことがあったので、チョイと調べてみました。

  まずあたったのは地名辞典でしたが、ここではあっさりとしか触れられておらず、由来はさっぱり解らない。そこで地誌をあたってみますと、印旛郡誌(明治期に編纂)、白井町誌(最近の編纂)のいずれにも同じような記述が見つかりました。

  印旛郡誌の方では徳川末期の管轄所属石高の記録として

  神々廻村  旗本永井房之亟(ながいふさのじょう)・間宮鉄之亟(まみやてつのじょう)の管轄とあります。合わせて139石。

  白井町誌の方には元禄14年(1702年)頃の下総国各村級分(房総叢書第9巻所収)の記載として間宮新左衛門(元北条氏の海賊隊員の子孫だそうです)・永井監物両氏の所領となっている。合わせて260石と昔の方が石高が高い。しかも昔から二人の旗本(知行)による共同所領だったんですな。まぁ色々な話を合わせると白井橋本村はじめ下総のこのあたりは支配関係が入り乱れており、基本的には印西牧(おんまさんの飼育所)の支配者千葉氏の所領でありながら部分的にグレーゾーンがあって、あちこちに他人の支配地とされる部分が重なり合っていたりするんですが、いずれここからわかるのは西暦1702年の段階でこの神々廻なる地名は文字表記されていた、ということだけ。

  なぜ「神々廻」という地名なのか、は書いてないんですな。

  そこで職員さんに地名の由来を調べるリファレンス(図書館で調査の類に協力して貰うこと)を頼んだところ、そーゆーコトに詳しい人が郷土資料館にいるので訊いてみる、とのお話。む。訊いてもらうくらいなら、と直接その人に会うことにしましたわ。ってんで白井市立文化センター郷土資料館学芸員の石戸氏に話をうかがってみました。

  石戸氏には勤務時間がほぼ終わっていたにも関わらずたくさんの資料を持ち出して詳しく話していただきましたが、それによると「ししば」の字に「神々廻」の文字が充てられたのは、おそらく後代になってからのことではないか、とのことでした。

  根拠は律令制にあります。平安期の律令制度のもとでは、地名は二文字、と決まっているんだそうです(確かにほとんどの地名は二文字ですな)。しかし神々廻は三文字使う。したがって、「ししば」という呼び名はあったかもしれないが、それに「神々廻」という三文字の地名が充てられたのは少なくともそのずっと後のことであるはずだ、というのです。

  なるへそ、もっともな推論です。実際問題、地名は最初から文字表記があったわけではなく(誰もが文字を使う時代ではありませんからね)、何かの必要があって書類を作る場合に文字を充てる、つまり音か、その呼び名の意味に似た漢字を使って表記するにもせよ、それが平安の律令期に充てられた文字ならば「二文字」でないとおかしいわけなんですね。

  だから「ししば」には、もしそれが平安期からあった地名ならば、二文字の漢字が当てられたはず。三文字の漢字を充てたとすれば、それはずっと時代を下った、検地の行われた頃のことではないか、と石戸氏は推論してくれました。

  神々廻村内には、西暦1361年に建立された石の塔婆が残っているそうです(南北朝の頃です)から、少なくともその頃には「集落があった」ことは確かなのですが、この石の卒塔婆には地名は刻まれていない。もしここに村の名前として二文字の漢字が刻まれていたなら、その文字が現在まで村名として残っていたのでしょうがここには刻まれていない。

  つまり「ししば」という呼び名はあったかも知れない(石の塔婆があったんですから集落はあったのでしょうし、当然呼び名もあったでしょう)が、「神々廻」という漢字を昔から充てていたのかどうかは、わからないわけです。

  地名の謎が二つに分かれましたな。

  一つは「ししば」という呼び名の由来。

  そしてもう一つは「神々廻」という漢字が充てられた理由。

  石戸氏に拠ると小字名なんかは実はコロコロとよく変わっていて、ずっと同じであるとは限らないのだそうですが、字名(村名)というのはそうは変わらない。「ししば」という呼び名(音)は昔からあったものと思われます。どれくらい古くからそう呼ばれていたのかは、記録がないので解らない。言い伝えもない。由来の言い伝えもないので、神々廻の由来は実は、皆目分からない、というのが実際のトコロなのだそうですが、しかして推論はできる。

  「しし」というのはケダモノ、害獣のことだったのではないか、と石戸氏が推論します。害をなす獣のことを「しし」と呼ぶんですね。

  んでケダモノがいっぱいいるところ(ば)という扱いで「ししば」だったのではないか、というのが石戸氏の推論するところですが、説得力ありますな。

  一方、「神々廻」という文字表記ですが、これが「ししば」という音の意味を素直に漢字にしたものだとは、誰にもせよ容易には説得力を持ちませんわ。

  神々と書いて「しし」と読む例は私にはまったく思いつきません。「しし」と云ったら普通「獅子」を連想するでしょう。廻を「ば」と読む例は大廻という字がありますんで例がないワケじゃない。しかし神々とくっつけて神々廻となると・・読みが不自然です。

  前述の通り元禄14年(1702年)頃の文献にはこの文字が出てきますから当時はすでにこの文字を充てていたのでしょうがずいぶん時代が下ります。

  地名、村の名前の古い形は関ヶ原の合戦以降に全国で実地された「検地」の記録、検地帳を見るのがグッドだそうなんですが、慶長7年(1602年)にこの地域で行われた検地の記録を見ると、他の村の分はあるのに、神々廻の分は散逸してしまったらしく、現在発見できていません。そして、この検地の際に、従来の郷名を初めて文字にする例があるそうなんですね。

  古来文字があった地区は別として、そうでない郷には検地の際に、文字が「充て」られた可能性があります。

  ところで神々廻村には神社仏閣が四つほど(割と)固まって存在します。古来集落の中心部を「屋敷廻り(やしきまわり)」と呼ぶことから、この神社仏閣の分布を見たお役人さんが神社の集まった地域、神社廻りという意味で「神々廻」という文字を使って表記した・・・のかも知れない、という推論が成り立つような・・・気もしないではありません(笑)

  つまり、「ししば」という音の意味とは無関係に、「神々廻」という漢字表記がこの頃強引に充てられたのではないか、という推論はできるわけです(石戸氏のお話)。

  ただそれを何処の誰が、本当はどんな意味で充てたのか、は何の伝承も残されておらず、記録もないのでわかりゃしない(笑)

  わかったのは「ししば」という音と、「神々廻」という、比較的新しいと思われる文字表記は、元来全く別のものである可能性がある、ということだけ。元来こんな文字が充てられていたとは限らない、ということでした。

  最初の検地帳の記録や、ごく古い神社か何かの寄進の記録にでも「神々廻」という文字が見つかれば話は別ですが、いまのところ1702年以前に神々廻の文字を使った表記は見つかっていないんですね(てゆーか「ししば」の名が出てこない)。1361年の石塔婆建立の頃、このあたりはなんと呼ばれていたのか?  また文字を使って表記することがあったとしたら、そこにはどんな字が充てられていたのか?

  大袈裟なタイトルで視聴者を引っ張っておきながら、引いたまま終わってしまうNHKのテレビ番組に登場した鈴木健二アナウンサーの決め台詞が思い浮かびますな。

「謎は深まるばかりでございます(どど〜ん)」  歴史への招待

  ・・オチが古かったっスか?(笑)



  最後に、勤務時間外にもかかわらず多量の資料を持ち出してきては熱心に教えてくださった白井市立文化センター郷土資料館学芸員の石戸氏に深く感謝申し上げます。たいへん面白く、興味深いお話ばかりでした。人手不足に負けずに良い研究をなさっておくんなさいまし。

千葉氏の知行地を記録した高城氏による文献には「ししはざま」という記述が見受けられるそうですので、ひょっとしたら「ししば」という呼び名も、微妙な変化を経てきているのかも知れませんやね。
(2003.06.10)


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