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屁理屈  食う!




  食事というといつも私の心に浮かぶものがある。

  それは、数千年も一万年も時間をさかのぼった、原始人達の食事だ。

  子供の頃から、私にとって食事というとこの観念がついてまわってしかたがない(変な子供だ)。

  原始の頃の、狩猟採集民達の食事だ。氷河期が終わろうかという時代の、辛く、厳しい彼らの食事が、私にとっての食事の意味を決定づけている。

  それは簡単ではなく、しかも満足な量が望めない、さらに得るのに苦労と危険が伴うような、グルメも栄養もクソもない、ハードな食事の光景である。

  彼らの食事はどんなものだったろう?  それはまず、探さなければ得られない食事であったはずだ。なにもしなくとも、ひょいと横町の料理店に入れば手にはいるような、あるいは近所の店で食材を物色すればすぐに得られるような、安易なものでは到底なかっただろう。

  それはまず、安楽な寝床から出て、大地の上を探し回り、あるいは息を殺して近づき、戦って殺し、何時間もかけて、ようやく一回分のそれが可能になるような、大きな代償のいるものであったろう。また大きな代償をかけてすら、時として得られないような、つまりは希なものこそが、食事と云うものであったのだろうと思うのだ。

  まだ農耕が始まる前の時代の話を、私はしている。

  グルメのグの字も入る余地のない、それは大地と闘って勝ちとる貴重な食事だ。選り好みなど無論出来はせぬ。量の過多にも文句はいえぬ。ましてや味など、なにをかいわんやだ。

  得られれば、御の字。なんであれ、毒でないなら結構である。腹が膨れればなお結構だが、膨れなくとも贅沢はいえぬ。自分と家族が、死なない程度の量が食えれば、その頃はそれがよい食事であったのじゃないかと、心密かに常々思っている。

  それから数千年が過ぎ、では我々のおいしい食事は、彼らのそれとは違うのか、といわれれば、違いはしないのだろうと思う。

  例え毎日、掃いて捨ててもまだあまるほどに食えるとしても。メニューを開けば、あるいは食材の棚を物色すれば選り取りみどりに食えるとしても。だからといって、食事は貴重なものではなくなったのか?

  いいや、それはいまでも変わらない。彼らの頃と少しも変わらず、食事は貴重なものなのだ。たとえそれが肉一切れであったとしても、食事は苦労し、時間をかけて、闘って勝ちとる得難いものであるはずなのだ。いまこの時代に食糧が、掃いて捨てるほどあるというのは、単に偶然であるに過ぎない。それが証拠に、いまこの時代にあってさえ、食えない人もいるではないか。食うや食わずの人を指し、貧しいとさえ我らは言うが、それが本来、食事の姿でなかったか。不毛な大地に暮らし、僅かな食糧を苦労して得ては食う、どこかの国の人たちの食事と、我々の豊潤な食事と、いったいどこが違うというのか。

  食事は生きていくためにするものだ。誰かこのことを覚えているか?

  余計なお世話かも知れないが(笑)

  我々は、生きるために食う。そして食うとは、本来それだけのことである。

  それは確かに我々は、いつでもどこでも気楽極楽に食うことができる。お金という、我々の生み出した魔法のアイテムさえあれば、それが尽きるまで食い尽くすことも確かに可能だ。それある限り、旨いものだけを食うこともできる。だからといって、食事の意味は、変わっていたりはしないのだ。

  食事は、生きるために行われる。我々は(おおむね)働いて働いて、その結果一切れの肉、一片の食糧を得て、それを文字通り糧にして生きるのだ(生きる糧とは、食糧のことに他ならない)。動物を狩り、木の実を採って食べていた原始の人々と、なんら変わるところなどない。我々は、たんに偶々豊かすぎる世界に生きているだけだ。それでも、食糧が貴重な糧であり、代償無しに得られる安易なものなどでは決してないことに違いなど無い。数千年から一万年も二万年も前に、暗い洞窟の奥で祖先達が(祖先なのだ、彼らは)世界を這いずり回った末に口に入れる一片の肉と、我々がたとえばコンビニで買うおにぎり一つの価値と意味とに、差などあり得ようはずがない。それらはどちらも、生きるために、やっと手に入る糧なのだ。

  確かに、食事の意味はずいぶん変わったように見える。食う以外の意味を、そこに見出すことは可能だ。それは、いまが過酷な時代でないから、我々が現代人だから、当然そうなるようなことなのだろうか。食事とは、そんなものにまで変化したとでもいうのだろうか。それが進歩だというかも知れぬが、進歩したなら、それでは生き物の生きる意味は変わってしまうのだろうか。

  我々は、生きていく以上に生きられるほど豊かな世界を、本当に生きているのだろうか。我々は、数千数万年前よりも、本当に楽で豊かな時代を生きているのだろうか。

  そんなことはないだろう。我々は、いまだって、軽々と死んでしまうのだから。見た目よりはるかに、原始の祖先達と同じ過酷な世界を、我々は生きているのではなかろうか。なにより、過酷な世界であれ豊かで安易な世界であれ、生きていく方法論に、違いなどあり得ようはずがない。彼らと我々は、まったく同種の、同じ生き物なのだから。

  そうだとするなら、生きていくために我々が取り得る方法は、彼らとそう違わないのではないか。そうなら、食うこととて、彼らと我々の間に、意味の違いなどあり得ようはずが無いではないか。

  私は食事をするたびにそう思う。冷め切った弁当の肉に食らいつくときも、暖かく味の沁みたごちそうを食うときも、好みの食材を食うときも、好みでない食材を食うときも、それがこの身を生かす糧だと思わずにはいられない。その一切れ、その一口こそが、私をして生かすのだ。過程はどうあれ、それは私の得た獲物である。

  食事とは本来そうした、そしてその程度のものではなかったか。

  ただ、食って生きるためだけのもの。

  それ以外の意味を認めぬとは言わないが、本来そうしたものだったことを、肝に銘じても罰はあたるまい。


* 粗食に徹しろなどとは書いていないので、念のため。

2002/03/20

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