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屁理屈  正しいあなた




  あることを正しいと判断するのは、その人にとって宗教である。

  自分の中でこれは正しい、これは正しくないと決めることは、(たとえそれで論理的であっても)自分の中に信仰を持つことに他ならない。

  その判断が、他人と共有し得る普遍性を持ったものであっても、同じことである。

  判断を信用することは、その人自身の宗教でしかない(それが客観的であることを証明するのは、不可能だからである)。

  正しいこと、ほんとうのコトは、(その人の)信仰である。

  正しいと判断することの根拠は、その判断者、その人の思考であり、思考の材料となるのは、その人の経験であり、学習である。同時にその経験や学習から導かれた法則性のようなものが、その判断者をはじめとした個々人にはあり(誰々の法則ならぬ、あなたの法則、というわけだ)、その法則性には、現実に起こる出来事に対する妥当性はあるやも知れぬ。他ならぬ現実に対する、その人の経験から導かれたものなのだから。

  だがそれらのものから導かれた「正しい」ことの判断は、絶対性を持ち得ない、その人にとっての判断でしかない。その人の正しいとする判断が絶対的に正しいためには、(当然)その人の経験と学習と「その人の法則」とが、絶対の正確さを持っていなければならないが、神でもなければそれは持ち得ないものだからである。

  ただし、正しいという判断が正しくないわけではない。その人が正しいと判断したのだ。その人には正しいだろう。しかし他の人にとってもそうではない。

  何であれ、ある人が正しいとした判断に、例えばその友人が賛同したとしよう。

「そうだ!  そうなんダヨ、アニキ!  俺もそう思う!」   というわけだ(その人がアニキかどうかはともかく)。それでも、そのことは、ある人の判断がほかの人にとっても正しいことを意味しない。それはその友人が、同じくそのことを正しいと思っている、というだけのことである。二人とも実は正しくなかった場合には、それは単に二人の人間の、それぞれの判断(信仰)が、たまたま一致しているというだけのことだ。

  たとえばある人の判断が、その周囲の全人類によって支持されたとしても、同じことである。それは全人類が、同じ判断を同じく正しいと信仰しているだけのことだ。

  正しいことは保証され得ない。

  正しいとは、その判断者にとって正しい、ということだからである。その判断者が絶対者でない限り(そんなものはいないが)、判断者の「正しい」という定義は、絶対ではありえない。絶対でないのなら、それは、たとえ共有され得たとしても、個人的な能力の範囲内での判断である。

  そして個人の能力は、誰であれたかが知れている。(もちろん、私もだ)

  正しいという保証の無い物を正しいと信じるならば、それは宗教である。正しいという判断は、それを正しいと信じる、という信仰なのだ。

  ある人にとって「正しいに決まってルじゃん!」ということは、それがその人の行動を決めているのだから、もちろん無数にあるのだろうが、そう思う時は、それが常に「自分にとっての正しい」であると、心の片隅にでも(意識して)忘れずに置いておくべきである。

  人間は、そうするべきなのだと思う。

  われわれは、正しいことを知り得ない。

  われわれの「正しい」はわれわれにとっての「正しい」であり、結局のところ、われわれ以外にとっての「正しい」ことは、われわれには知り得ないのだ。

  正しいとは、われわれの意識に他ならないのだから。



当然、論理も宗教にしかなれない。

2001/09/15

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