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屁理屈  定義者でゆこう



  世界には元来何の意味もなく、意味は、われわれ人間の認識能力が受容し、思考が分類・定義・学習し、再分類・再定義し続けるものである。

  ところが、この認識と分類・定義が、万人共通の法則性を持って、それぞれの個人の中で行われているかというと、全然そうではない。それはある程度まで、人種・環境・教育を問わず共通に行われるが、意味や価値の定義という面では、相似性はあるにもせよ、各人独自のものにならざるを得ないし、肉体的な特徴の他者と異なるものには、基本的な認識・定義ですら、万人共通とはならない場合がある。

  これはしかし、あぁ、人間のなんと混乱したものよ、なんぞと悲しむべき問題などではなく、といって喜ぶべき問題でもない。

  これはむしろ、各人が、世界を独力で定義し、価値付け、独自のやり方で多様に生きぬく可能性を持ち得る、いってみれば(各人こそが)価値体系の神のような存在であることを、実は意味する。

  自己啓発講座ではないが、「世界は己が定義したもの」なのだ。

  ただし、意識的に、各人がいくらでも自らの世界を定義できるわけではない。定義するのは、無意識も含めた心の全体だ。

  心が納得し、選び取ったものを、我々は世界として認識し、定義して、初めて生きる舞台を得る。心が定義しない限り、我々はそもそも生きることすら得ないのだ。定義することが、我々の、生きるために必要とする本能である。

  この、心が選び取って構築した定義の固まりが、我々の生きている世界となり、同時に我々各人の生きるやり方、世界の感じ方をも決定する。世界に与えた価値のあり方に応じて、各人が世界をどのようなものと見るかが決まり、結果、それに対する態度、つまり生き方が決まってくる。

  生まれつきの思考態度、思考のクセのようなものが人間にはあるとする考え方もあるが、それを考慮してもなお、世界が各人にとってどのような意味を持ち得るかという、世界の捉え方、言い換えれば性格は、幼児から以後ずっと行われ続ける世界の定義に応じて形成される部分が大きいと思う。また幼少時の定義に限らず、それは成人して以降の世界定義の変遷によっても変更形成される面が、おろそかには扱えぬほど大きいと思う。そう考えないと、成人してからの性格が幼時と違ったり、自己努力によって性格が変わったり、年老いて性格の丸くなるような事態が説明できないからだ。

  経験学習の進行と蓄積によって時々刻々とまではいわないものの世界の定義は各個人の中で更新・再構築され続け、その結果各個人にとっての「世界の受け止め方」が変わっていく。これに応じて我々各個人の世界への対処法も変化を続け、その結果、性格は日々微妙に変化をし続ける、時には大幅な変化をすることもあり一定などしていない、というわけである。

  だが性格論を語っているわけではない。現実の話である。、世界は確かに我々の外部に(少なくとも何かあるという形で)あるが、それが我々各個人にとって意味を持つのは、我々がそれを解釈し、意味を与えたとき、即ち定義した時であり、その定義した世界こそ、我々が生きている現実(と思っているもの)だということだ。それは個人にとって確かに現実だが、あいにく主観的であり、あくまでも「個人が定義する個人的もの」である。

  上記のように、それは必ずしも意識的なものではないので、意識が定義するもの、とは言え無いのだが、しかし全く意識と関係なく定義されるものでもない。意識もまた、世界を定義する心の一部には違いない。

  意識は、「信じ込む」ことで世界の定義に参加する。

  意識はあることをそうと信じ込むことで、世界に自ら意味を与え、決定するのである。意識もまた、間違いなく世界の一部を決定している。決定した結果、意識はそうした世界を生きることになる。

  世界の意味づけ、価値付けは、こうして意識や、意識に現れない心の全体が決定するものである。だからこそ世界の持つ意味は、個人の人生において変わったりすることがあるのだ。

  人はこの、個人の世界決定能力にあまり注意を払わないで生きていく。

  それでいながら、自分の決定した世界の意味に打ちひしがれたり、苦しんだり、喜んだりと一喜一憂する。あたかも、それが外部の何者かによって決定された、動かせない客観的事実であるかのように。だがあいにく、世界は主観的なものなのだ。少なくとも、その意味と価値においては。

  人はそのことをよく忘れているので、世界の理不尽に悩んだりする滑稽な面を持っている。理不尽も何も、理不尽な世界を決め、選び取ったのは御自分だというのに。時には、この自分の決定した世界の意味に世を儚んで、死んでしまったりするのだから、始末に負えないとはこのことである。

  それすら忘れているくらいだから、その決定に、経験を積み、変化していく過程での自分の意識が幾分か関わっていることも、もちろんよく忘れ去られている。意識がそう感じ、そう定義したものが、個人の世界の意味に「なる」のだ、ということを。

  そうして意識が決定に参加する世界の定義は、要するに世界の意味判断に対する個人の信仰である。個人が、そうだと信じ込んだ世界の意味こそが、その個人の世界の意味になる。そしてこれが各人各様であるのは、それが各個人の信仰だからだ。

  信仰は、個人の選択によって行われるものである。だから転向することが可能だ。それゆえに、人はその一生において「世界の意味の変化」を幾度も体験する。これは普通、意識的に変えようと思って起こるものではないのだろうが、結局世界解釈が変化するには違いなく、またそこにはきちんと意識的な選択が関わっている。

  意識がそうと判断し、定義した(世界解釈した)ものを、繰り返し強く信仰することで、世界はそういうものに「なる」。だが意識が世界の解釈を変え、それまでの信仰に疑いを持ち、定義をやり直してそれに転向すると、世界は違ったものに見えてくる。意識もまた、無意識と連続した心の一部だから、心が行う世界の定義に参画しているのである。

  このことを意識するとき、各個人は自らが世界を決定するものであり、その意味を決めるまさに主体であることを知る。世界はそのようにしか意味を持ち得ない。もちろん、そのようにしか価値を持ち得ない。

  各個人は普通、自分の決定した世界の意味と価値に縛られて生きる。時にはそれが個人の生き方の枷となり、苦しむこともある。

  だが本末転倒とはこのことである。世界の意味の決定者は、個人それ自体なのだ。当然、生き方も個人がその解釈次第で自由に決めることができる。まったく意識的にではないが。生き方はその個人にとっての世界の意味によって決まる。どのように生きぬくかを、個人はいかようにもデザインできるのだ。なにしろ、生きぬくべき世界そのものが、個人によって意味を与えられるものなのだから。

  世界の意味の違いは、世界の感じ方の違いを生む原因である。世界の感じ方が違えば、世界に対する姿勢が変わる。姿勢が変われば、生き様も、変わってくる。

  そしてそのすべての原因、世界の意味は、個人が、勝手に選択し決定するものなのだ。心の、その全体によって。

  冒頭に書いた通り、このことは喜ぶべきことでも悲しむべきことでもないが、個人の幸福の可能性が、ここにある。

  なにしろ世界は、そこを生きるものが意味を決定するものなのだから。

2001/03/29

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