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遙洋子さんの

「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」

筑摩書房



存在する限りにおいては喋れ




大学のカタチ


  十数年前のことですが、ご多分に漏れず、私にも学生だった時期がありました。

  たかが弱小大学の弱小学部を四年やっただけですが、その四年間で私が学んだことはたったひとつ、

  モノの考え方

  それだけでした。無論、私のアタマが悪くてその上不勉強だったせいもあるのでしょうが、四年間勉強して、考えて、書いて、学んだことはたったそれだけ。学部の専門課程のエキスパートになるなど、夢のまた夢でございました。

  まぁ実際、学部の四年間程度で専門課程を網羅しようと思ったら、年間に百や二百の専門文献や論文に目を通してでもいなければ難しいだろうとは思いますけれども(それでも無理でしょう)。頑張って、専門分野の一ジャンルの青二才になる、くらいがせいぜいでしょう(もちろん、それでもいいんですが)。体を壊すほど勉強しないなら、私のように、「モノの考え方」を学んで、はいおしまい、が平均的なところかと思います。どの専門分野を選んでも、学部の四年で学べるのはそれくらいがせいぜいか、と思いますです。

  もちろん、「気楽な大学生活をエンジョイ」するだけで勉強しなければ、それすら学ぶことは出来ませんけれども。
(ちなみに、私は「モノの考え方」を誰か教授に教わったわけではなく、多くの教授にやれコレを調べてレポートを書けだの、やれソレは教えないから自分で調べておけ、と突き放されて、仕方なく図書館に篭もって調べ、書き、そしてその結果をさんざんに(教授達に)ケナされている内に、自然と身に付いてしまったものです。誰かに教わったわけではなく、また、大学で直接的になにかを教わったことはあまり無いように思います。
  教授達は講義で語りますが、語る以上のことはせず、勉強は学生にやらせ、その結果を非難します。そのやりとりを繰り返す内に、ものには考え方があることが、あぶり出しの絵のように浮かび上がってくるのです。大学はモノを教わる場だと思っておられる方が時折いますが、いま記述したこのコトは、そうではなく、大学は学ぶ場であって教わる場ではないのだということを示しているように思います。
  したがって教えてもらうつもりで講義に出席し、エサを待つ雛のようにただ口を開けていても・・・つまり学ぶ気がないのなら・・四年間教室に座っていてもなにも得るところはないでしょう。これから大学で学ぶ方々がもしこのテキストを読んでいらしたなら、この点を肝に銘じておくとよろしいかと思います)

  しかして大学で学んだことが「モノの考え方」だけでは、学問を修めたことにはなりません。それを踏まえて、そこから始まるのが学問なのですから。

  したがって、大学生の学問は、大学の四年間を終えたところから始まると云っても過言ではないと思います。そこから初めて、学ぶことが可能になるのです(もちろん、大学に行かなくても、「モノの考え方」を学ぶことはできます。要はどう学ぶのか、に過ぎません。そして、やはりそこからが出発点になります)。ですから大学生というのは、学部の過程が終わってからこそ、大学院に行こうが、行くまいが、ばりばり文献を読み、考え、書き、批判を受ける必要があると思います。大学生、あるいは大学卒業生(いわゆる学士)などというものは(あるいは学ぶ者は)、一生勉強を終えられはしないのだ、というところです。卒業して学ぶことを辞めてしまうなら、その人は学士を名乗れません。(古くさい偏見かも知れませんケドね)


学問のカタチ


  しかしそこはそれ人生は荷が重く、生活には困苦が付き物です。学び続ける姿勢が、いつか擦り切れ、摩滅していったとしてもおかしくはありません。それが仕方ないことだと云うのではありません。

  それは負け

  です(厳しい姿勢ですが)。学び、考えるというのは言葉との闘争のようなものですから、負けてしまうことはそりゃああるのでしょうが、負けない方が、いいでしょう?(負けたら悪いとは云いませんけどね)

  学ぶ者が学ぶことに打ち負かされたなら、そこには、抜け殻さえ残らないでしょう。我々は、自分として生きるために、学ぶことを辞めるわけには行かないのです。

  そうでしょう?

  てなところで、疲れたあなたにこの一冊。

  ケンカ、と銘打ってありますから何の本だ?  と思われるかも知れませんが。

  この本は大阪出身のテレビタレント(主に司会業の方のようです)、遙洋子さんがテレビの討論番組で負けまくるのにうんざりして、一気呵成、フェミニズムの論者として有名な東京大学の上野千鶴子教授のゼミに単身突入し、玉砕しまくりつつその「上野ケンカ法」を学ぶ様子をオモシロおかしく書いたエッセイです。

  そりゃ、ソフィストの使うような議論術の本か?  と思いましたか?

  まぁ、そうといえばそうなんですが、これはしかし、「学問のやり方」がわかりやすく書かれている、希有な本なんですわ。

  分野としては社会学ですが、別にどこの分野でも通用する方法論が書かれています。

  著者の遙さんは文献を山ほど読んでのゼミなんぞ出たことがない(私もありませんが)、という方で、討論番組で相手の論者(男性タレントとか)に言い勝てない歯がゆさに必勝法を学ぶべく上野ゼミに入門しますが、その目の前で展開されるのは、上野千鶴子というこれまた希有な個性と、そのゼミの可愛らしい、あるいはもっさりした学生達による、社会学という分野を通した「現象の読み込み方」、「学問がなにをしているのか」、「理論になにができて、なにができないのか」、「学ぶとはどういうことか」という、学問の世界そのものの光景でありました。

  大量の(本当に大量の)学術文献を前に卒倒しかける遙さんですがテレビタレントの仕事、という殺人的な多忙の中できっちりゼミに出、ついてゆけないながらも根性で文献を読み、決して逃げようとしない前向きの姿勢で「日本一怖い(遙さんの表現)」論者の上野さんから、そしてゼミの学生達から「学」を学んで行きます。(そしてちゃっかり、上野式議論法も学んで行きます)


がんばれ遥サン


  タレントの世界(いわゆる芸能界)との凄まじいギャップに晒されつつ、遙さんが学んで行くのは、しかしケンカ必勝法だけではなくて、学ぶこと(=語ること)、そのものなのでした。可哀想というのか、羨ましいというのか、表現に悩むところですが。

  遙さんの学ぼうとする姿勢は、上野教授によって次から次へとぶっとばされ、粉砕され、胸ぐら捕まれ揺すられて(断っておきますが上野教授はヤクザではありません)、アタマがくがく振り回されて(可哀想になってきました)、学ぶことを学んで行くことになります。

  文献を読むのは何のためか、どう読むのか、批判するとはどういうことか、理解するとは「どこまでのもの」なのか・・。

  読み慣れぬ(遙さん曰く「ひらがながない」)文献に悪戦苦闘、おっかない上野さんから怒濤のように押し寄せるプレッシャーに押しつぶされかけながら、そしてゼミの恐怖に打ち勝ち(ときどき負け)ながら、遙さんは正しい姿勢を持ち続けます。理解するために。学ぶために。そして、語るために。

  この本において、もっとも感動すべきは遙さんが語る「理解の感動」でもなく、上野千鶴子という学者の徹底的な学問の姿勢でもなく、遙さん自身の見せる「学ぶ者の姿勢」だと思います。

  潜在的なものを顕在化する作業は、発見の驚きとともに、謙虚をもたらす。ジェンダーでできた自分を謙虚にみつめ、そこからなにを取捨選択していくかで自分のまなざしを問う。(P.133)

  こうした学問の姿勢というものは、普通、誰も教えてくれないものです。学生達が学ぶつもりで日々刻苦し、行き当たってばったりする内にやっと身に付く類の物です。

  そうしたものを、ここまで読みやすく、楽しく、笑えるエッセイにして紹介した本を、私は他に知りません。扱われているフェミニズムという分野はすぐに一定の結論を出せるような分野ではなく、現在でも激しく見解がぶつかり合う生々しい学問ですから、この本で楽しく読みやすく扱われているフェミニズムの各主張も一過性の面があり、そこに書かれていることがすなわち現在の主流であり即座に普遍的な主張だ、などとは云えませんが、それらを扱う上で遙さんが学んで行く問うことと答えること(答えようとすること)の姿勢は、いかなる学問にも通底する揺るぎない姿勢です。

  問うとは?

  考えるとは?

  語るとは?

  およそ自分自身を書き換え、開拓して行く学問の過程において、それを学者自身が語ることはまずありません。オカルトのようなものです。秘して語らず、実践あるのみ。

  そんなことを語ってくれるのは、遙さんくらいのものです。

  だから、この本は極めて希な、「学ぶこと」を語ったエッセイであり、「問うこと」を平易に紹介した思想書であり、驚異的な学者を前に唖然呆然となる学者でない人の爆笑レポートであり、そして、我々に学ぶことの意味をもう一度思い起こさせてくれる貴重な仲間の日記でもあるわけです。

  学ぶこと、考えること、学問であるということ・・。この本はそうしたことを、知らない人には吃驚仰天な新しい地平として教えてくれ、またかつて学生であった者達にははっきりと思い出させるでしょう。そんな本は、なかなか、ないですよ?

  学問ってなんだろう、どういうことなんだろうと思っている方、この本を読んでごらんなさい。

  そしてまた、学生でなくなってン年の方、学問の姿勢を忘れかけたなら、読んでごらんなさい。

  懐かしく、そして嬉しく、幸せに、学ぶことの意味を教え、そして我々の姿を思い出させてくれるでしょう。そうなれば、あなたも私も気づかずにはいられません。我々が、まだ道半ばであることを。いやさ、いつだってそうであることを。

  そしてもちろん、タイトル通りに上野流ケンカのしかた・十箇条も挙げられています。看板に、いつわりはありません。

  読みたくなってきませんか?






  

  2003.09.24

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All Text Written by @ Kaikou. "Hirohumi Kinoshita"

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