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屁理屈 Kaikou  ワタシは、ワタシのなんなのサ




  ずいぶんと前に「自分探し」というのが流行ったことがある。

  本当の自分を見つけるとかいう、ひどく入り組んで混迷した話だ。

  自分、自分、と言っている内に、自分がなんだかわからなくなった時代だったのだろう。

  自分を意識することはできない。あるのは感覚と認識の作用、つまり外部と内部の反応だけで、強いて言えばそれが「自分」だが、自分を意識したのなら、その瞬間にそれは自分ではなく、認識の上での「他者」になる。

  ややこしい話だが、意識された自分は、認識の上に構築された他者と同列の「他者としての自分」なのである。それは自分ではなく、自分の姿の鏡像である。その上、一般にあまり正確には映っていない。

  人が自分を意識したとき、意識しているのは他人としての自分で、自分なんかではちっともない、ということだ。探しても探しても、意識に映るのは鏡像で、本体が見えることはない。見えない、意識できないことこそ、自分の本質なのだ。そんなものは、もちろん探しようがない。

  自分とは反応だ。外界に「なにか」あって、自分の身体の(たぶん脳みその)奥がそれを情報として知覚し、認識し、なにがしかの反応をする。それは価値定義の判断のような精神内部のみでの反応だったり、手を伸ばしてものを取ったり移動したりしという行動をすることだったりするが、いずれ世界と行うやりとりが自分だ。こう書くと外界と身体内部の間に明確な境界があるように聞こえるが、たぶん世界と身体との間にはっきりした境界はない。皮膚と、そこに触れる空気もまた、同じように分子や原子といった存在には違いないからだ。それは視覚や触覚と言った感覚的な境界に過ぎないと思う。真の意味で、世界と身体との間に境界はない。

  この身体の内側が自分なのではなく、身体の内側と、外界との間で起こる反応こそが、「自分」なのだ。絶え間なくなにがしか行われている、意識も含めた身体の内と外との反応それ自体が、自分の正体である。意識されるものはその氷山の一角であって、それ自身は正体ではない。それは意識することによって生じる像なのだ。

  ただし人間は意識並びに無意識の上に構築した自己像を自分として行動することを行動原理とするので、普段自分、自分、と言っているのはこの自己像のことを指している。これはしかし情報とその吟味の上に造られたものなので、現実の自分、世界との反応としての自分とはあまり関係がない。価値情報のカタマリのようなものである。(自分を裏切る、といった表現は、この価値情報の定義に反する行動を「現実の自分」がしてしまった時に行われる、価値情報の再定義を迫る認識のことを指している)

  これは自分であって自分でないやっかいなものだ。自分が複雑な行動をするために必要なモノなのだが、自分であって自分ではなく、情報に過ぎないため変化することがある上に今ひとつ自分だと言い切れないという、まことにもって面倒な自分様なのだ。

  このやっかいな自分が、普段意識している自分だ。

  ワタシは、ワタシの像なのである。

  あまり信用しきらない方が、おそらく自分のためなのではないかと、最近少し思っている。

  そんなことを言われても、9割の人は困るだろうけれども(笑)。

2002/03/06

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文責:@ Kaikou <木下裕文>