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屁理屈   飲酒編(酔漢の屁理屈)  誰かに伝えておきたいこと  (増補第二版)




  一度、誰かに伝えたかったことを書いておこうと思う。

  二十代も半ばの頃、ある朝、ふいにわかったことが幾つかある。

  一つはひどくあっさりしたことで、この世のすべての物事が、時間的にも、空間的にも「一つ」なのだ、ということである。

  その朝、わたしはキャンプ中の森の中で水を汲もうと泉に向かって歩いていたのだが、その森と、世界中のすべての場所、街も、砂漠も、海も、空も、そして空の外側の空間も、星も、惑星も、月も、はるか気が遠くなるほどに遠い銀河も、観測できないほど遠い空間も、その一瞬に、同時に存在していることに、わたしはその時初めて気づいた(恥ずかしい話では、ある)。

  初めて実感した、と云ったほうが良いかも知れない。すべての空間にあるモノ、自然、出来事が、わたしの過ごす一瞬一瞬に、すべて同時に存在していることを、わたしはその時初めて実感したのである。

  わたしが水を汲もうとビニール製の携帯用バケツをぶらさげて歩くその瞬間に、どこかでは赤ん坊が生まれているかも知れない。いや、出生率のすごい高さを考えれば、どこかでその瞬間に赤ん坊が生まれていることだろう。そして、その同じ瞬間に、どこかで人が死んでいるかも知れない。いや、死亡率の割合を考えれば、どこかで誰かが死んでいるのだろう(不謹慎な物言いに聞こえたら御勘弁いただきたい)。わたしが一歩踏み出したその瞬間に、どこかで生と死が同時に起こっている。そしてそれらの生死は、いま、この瞬間に、この空間に、同時に起こっているのだ。

  つまりある瞬間に起こる出来事は、すべて、同じ空間に、わたしの呼吸するこの空間に同時に存在しているのだ。

  わたしはその時初めて、自分が「出来事の生起する宇宙」に生きていることを実感した。自分が、その出来事の一つであることにも。

  そしてそれらのすべてが、「繋がっている」ことも。

  そうではないか?

  わたしのあの朝いた森と、子供の産まれたどこかの病院と、誰かの死んだどこかの地が、どうして別の空間であり得るだろうか。はるかかなたの惑星と、あの森とが、どうして別の空間であり得るだろうか。すべて、「同じ場所」だ。ただ実感しにくいだけだ。

  すべての出来事が生起するすべての空間は、同じ「場所」なのである。いま、この瞬間を例にとっても無論よい。いま、この瞬間に起こっているすべての出来事は、同時に、同じ場所で起きている出来事だ。ぼんやりした空間も在るだろう。くつろぐ空間も在るだろう。激しい空間も在るだろう。生も死も在るだろう。泣いている人もいるだろう。幸せな人もいるだろう。苦痛にのたうつ人もいるだろう。懊悩に心の涙を刻む人もいるだろう。いま、この瞬間に。この空間に。

  この瞬間のすべての出来事は、同じ場所で同時に起こっている。

  すべての出来事が起こる、すべての空間は一つなのである。

  この、考えてみればなんでもないことが、その朝わたしの知ったことの一つだ。

  また例えば、すべての出来事の起こる場所が一つである以上、過去に起こった出来事も、これから起こる出来事も、同じ場所で起こる。

  過去に起こった出来事も、いまわたしがいるこの一つの場所で起こった出来事だ。場所が一つしかない以上、起こったのは「ここで」なのだ。これから起きる出来事も、おなじこの場所で起こる。いまでないだけだ。

  どの場所も、同じ一つの場所なのだから。空間が一つしかない以上、すべての出来事が起こる場所は「ここ」一つだけで、過去に起きた出来事も、未来に起きる出来事も、「ここ」にあることだ。

  過去は消えてしまったのだろうか。過去に起こった出来事は、「ここ」から別のところへ消えてしまったのだろうか。

  そんなことはない。

  場所は一つしかないのだから、かつてあった「いま、ここ」は「いま、ここ」に変化しただけだ。つまり過去は「いま、ここ」に在る。変化しただけだ。

  未来も同じことで、「いま、ここ」がこれから未来の「いま、ここ」に変化するのだ。

  そして、いまこの瞬間を、いまこの瞬間とわたしが認識しているのは、わたしにそういう形での認識能力しかないからだ。

  わたしが「いま」と切り取らなければ、「いま」は全部繋がって「ここ」に在る。

  「いま、ここ」に、この瞬間のすべての出来事が同時に起こっているように、「いま」と認識しないだけで、「さっき、ここ」に起きたすべての出来事も、「これから、ここ」に起こるだろうすべての出来事も、「ここ」に存在している。

  だって、ものごとの起こる場所は「ここ」しかないのだから。

  過去も、未来も、「ここ」にしか起きない。「ここ」が変化するものが未来で、「ここ」が変化してきた故が過去だ。そしてそれらは、別の出来事なのではないのだ。「ここ」にしか起きていないのだから。過去も未来も、「ここ」が変化したものだ。

  時間は繋がった一体のものだ。われわれの認識のからくりが、現在を切り取って記憶に並べ、過去と未来を作り出している。

「いま、ここ」にすべての出来事が同時に起こっているように、過去の出来事も、未来の出来事も、「ここ」に起こっているのだ。

  だって「ここ」しかないんだから。

  過去に戦争で兵士が死んだ出来事と、いま子供が産まれた出来事と、いま誰かが死んだ出来事と、これから誰かが死ぬ出来事と、これから誰かが生まれる出来事と、かつて誰かが誰かと話をした出来事と、これから誰かがお茶を飲む出来事とは、どこに起こっているのか?

「ここ」だ。

  ならば、「いま」と過去、未来とが、どうして別であり得るだろうか。

  われわれが過去を認識できず、未来を認識できないだけだ。もしも認識できたなら、過去も未来も現在も、起こる出来事のすべてが。「ここ」に一体となって起こっているのが解るだろう。

  過去は「いま」と違う出来事ではない。未来も「いま」と違う出来事ではない。「ここ」で一緒に起きている。われわれがそこに立っていないだけだ。

  すべての出来事は「いま、ここ」に起きている。ここにあるじゃないか。体験はできないけれど。

  過去は終わったことではない。いまも過去に起きている。われわれにとって過去なだけだ。未来はこれから起きることではない。いまも未来に起きている。われわれにとって未来なだけだ。

  すべての出来事が起こる、すべての空間は一つなのである。

  それなら過去はいま起きている。未来もいま起きている。「ここ」に。

  われわれが「いま」と認識できないからといって、それがここに無いわけではないのだ。

  出来事が起きるのは「ここ」しかないのだから。「ここ」で起こっている出来事はすべて、過去も未来も「ここ」に起こっている。

  そしてそれらの出来事は別の物事ではない。それらはみな、「ここ」が変化したものだ。

  モノとは何か?  空間が変化したものだ。

  出来事とは何か?  空間が変化したものと、空間が変化したものが、運動して関係することだ。

  時間とは何か?  変化していく物事と、変化していく物事が、互いに関わって運動する過程を切り取って並べたものだ。切り取らなければ繋がっている。

  それらのすべては何か?  「ここ」だ。

  すべての出来事は、同じ一つの世界に生成する、同じ一つの出来事である。

  過去も未来も、「いま、ここ」に、すべてあるのだ。一繋がりの、ひとつの存在として。

  わたしはその朝まで、そんなこととはついぞ知らなかった。

  過去と現在は一つで、現在と未来は一つである。同じ一つの「ここ」で起こっているのだ。ただその変化の様を、われわれは一瞬しか見られないだけだ。見える範囲も狭いから、すべての場所が一つであることも見えにくい。

  この世のすべての場所で起こるすべての出来事は、同時に同じ世界で起こっている。過去の出来事も未来の出来事も、同じ世界で起きている。

  この世のすべての物事は、時間的にも、空間的にも「一つ」なのである。全部同時に起こっている。過去も、未来も、現在も、宇宙のはしからはしまで続く「ここ」でしか起きていない。いまこの瞬間に起きている宇宙のどの出来事もが「ここ」に同時に起きているように、過去に起きていた、未来に起きる宇宙のどの出来事も「ここ」に起きている。われわれの認識するのが、いまこの瞬間なだけだ。すべては「ここ」が変化したものなのだから。時間の区別に意味はない。せいぜい時間を刻める程度だ。われわれは時間の奴隷だが、世界全体がやはり時間の奴隷であると、いったい誰に言えるのだろうか。世界は時間の主である。

「いま、ここ」に、過去と、未来と、現在の全宇宙が存在している。誕生も死も、安らぎもくつろぎも、悲惨も苦悩も、過去も未来もここに在る。他の何処にもありはせぬ。

  だから、我々はみな、一つの「存在」なのである。どんなことも、どんなものも、どんな他人も、どんなに異質なものも。我々は一体の存在だ。全体で一つの存在なのである。我々の側が、別々にしか認識できないだけだ。   そうしたことを、わたしはその朝知った。現在、過去、未来が、どんなに遠い出来事も、「ここ」に起きている同じ一つの出来事なのだと、初めて知った。

  過去も未来も、同じことなのだ。そしてどんなに空間的に離れていても、それらは同時に存在する、一つの出来事それ自体である。

  この世界は、一つなのだ。

  時間的にも、空間的にも。

  だからわたしは、すべての物事は、一つの「存在」なのだと知った。名詞にすると個別のモノみたいなので、わたしはそれを「在る」と呼んでいる。

  同時に、一カ所にある一連の物事であるのだから、それら物事の間に、区別は存在していない。みんな、同じ「世界」の変化したものだ。誕生も死も、出来事の移り変わりも、過去も未来も。

  世界それ自体が変化した個々の事物と、それらが運動して関係して起こる個々の出来事が、どうして別々のものであり得るだろうか。それらはひとつの「世界」の、変化のうねりのようなものだ。だから、過去も未来も同じ一つのものである。ぜんぶ世界だ。世界に起こるすべての物事は全体が一つで、要するに「存在する」としかいいようがないのだ。過去も、未来も、現在も。どんなに遠く離れていても。

  この世のすべての物事は同じ一つのものである。人間の認識能力がそれを切り分け、言葉を与えて別々のものに仕立て上げているだけだ。だから、切り離すモノである名詞を使って表現するより、「在る」と動詞で呼んだほうがたぶん正しい。

  水を汲みに歩いてゆくその瞬間に誕生と死とすべての出来事が同時に起きていることを知り、過去も未来もここで起こった、あるいは起きることを知ったとき、わたしはふいにこの世界が一つの存在、一つの「在る」だと知ったのだ(名詞の「存在」という言葉は、個々の事物を切り離す意味合いを持つので、ここでは全体がひとつで存在している、それも静的にではなく動的に運動しているものという意味合いで動詞を使っている)。そして、ただ「在る」だけなのだとも。

  そう、世界はただ「在る」だけだ。どのように変化しようとも、それは変化しているだけで、突き詰めれば「在る」だけだ。人間のこねくりまわす、どのような意味の入る余地もそこにはない。われわれは、この世界は、すべては、ただ在る。同時に、ここに。

  あっさりした話だ。何の感想も起きないくらい、それらは、単純な話なのである。


  もう一つはこれもあっさりした話で、わたしはその同じ朝、水を汲みに行く少し前、朽ちて半ばから折れた白い細い木の残骸に、黒い点がたかって動いているのを見た。なんだろうと思って近寄ってみると、それは生まれたばかりらしい羽虫の群で、折れた木を伝って高く上り、飛び上がろうとしているのだった。

  とはいえ成功しているわけではなく、飛ぼうとしては次々に落ちている。落ちては、また登ってくる。飛ぼうとしては、また落ちる。

  見ていると、彼らはそれをずっと繰り返しているのだった。

  気温は低く、小さな羽虫たちに活動の利があるとはと思えなかった。生まれたばかりらしい彼らがそれを続けるのは苦労であろう。それは無心な光景に見えた。朝の光があたって羽虫たちの薄い羽根が光り、たいそう綺麗ではあった。

  わたしはその場を離れて水を汲みに赴いたが、その途中で気が付いた。

  彼らは、生きようとしているのだった。

  すべての生き物は生きようとする。生きようとするのが生き物なのだ。すべての生き物は、生きようとして行動する。

  逆に、生き物のすべての行動は生きようとするために行われるといえる。遊ぶことも含めて、それは生きようとして行われるのだ。

  たとえそれが、人間の、争ったりいがみ合ったり好いたり嫌ったり、はなはだしきは死のうとすることであったとしても。

  すべての生き物の行動は、生きるために行われると、わたしはその朝初めて知った。だから、人間の行動も、たとえどんなに生きることから離れているように見えようとも、それらはすべて生きるために選択された行動なのだと、考えるべきなのだ。

  それはわたしの人間理解の強固な解釈方針となって現在に至る。人間の場合は、つまらぬ理由で殺し合ったり自殺するなど、とうてい生きるために必要とは思えない行動をするが、それもまた、生きるために行われているはずなのだと解釈するとき、「なにが生きるために」それらの行動は選択されたのか、と考えることで解決を見る。そう解釈してみると(これについては別に述べる)、やはり人間もまた、生きようとして行動するのだということがわかる。

  すべての生き物は生きようとすることを、その朝わたしは初めて知った。そんな単純な、当たり前のことを、その朝までわたしは知らなかった。

  そして、生きようとするだけである。それが実るかどうかは、関係がない。

  生きようとする、だけなのだ、生き物というヤツは。巧く生きられるかどうかは、生き物の関知するところではない。生きようとして、早くに失敗するか、遅くに失敗するか、寿命を迎えてとうとう失敗するか、そのいずれかしかない。それが、生き物のあり方なのだ。

  つまるところが、生きて死ぬだけである。すべての生き物は、ただ生きて死ぬ。その過程でどのようなことをしようとも、それは生きて、結果死ぬ以外の何事でもない。どのように生きようとも、生き物は、生きて死ぬだけなのである。

  人間とてその例外ではない。人間は他のいかなる生き物とも違って、火を使い、自然現象を発生させ、変化させ、作り替えて自分たちの用に足し、ときに自然を圧倒するようなモノを作り出したりする。

  しかし、そのすることは、個々に言っても、全体に言っても、生きて死ぬだけのことである。

  例えばどのような偉業を成し遂げた人でも、その人は、つまるところ生きて死んだのである。存命中にいかに偉大な業績を残そうとも、たとえ自然に長く残るような建造物を築いたとしても、その人は生きて死んだだけである。

  いかなることを成そうとも、その人は単に「生きた」のであり、そして死んだのだ。その人が成したことは、ただ生きようとしたことだけである。

  そのようにして、すべての人の行動は、偉大であれ、平凡であれ、生きたというだけのことに還元される。すべての人の行為は、ただ「生きている」だけである。そしてやがて死ぬ。

  だから、すべての人の行為は、なんであれ「生きようとすること」であり、生きることであり、生きただけである。中身は関係ない。

  どのように偉大なことを成し遂げたのであれ、われわれは他のすべての生き物と同様、ただ生きて死ぬだけなのである。

  だからといって人の成したことにまったく価値を認めぬではないが、それは人間の価値観にとっての話である。人間の価値観を離れて観察したとき、それらの行為に差異はない。個々の行為の差異はもちろん、他の生き物のいかなる行為と較べても差異はない。生きただけだ。

  この生物観はバランス感覚をとるのが難しい考え方だが、たぶんまったく正しいので、忘れるべきでない考え方だと思う。

  あっさりした話だ。こんなことさえ、その朝までわたしは実感していなかったのだ(間抜けな話では、ある)。とはいえ、学べなかったよりはマシだろう。これが、ふたつ目(ふたつしかねぇじゃんか)。

  これらが、わたしの死ぬまでに、誰かに伝えておきたかったことである。

  生のままの情報で、脈絡のある文章に加工していないのだが、せっかくだから、心に留めていただけると嬉しい。

2002/09/06  (2002/09/07増補)

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文責:@ Kaikou <木下裕文>