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屁理屈  夢物語    改訂第二版




  この世に生きとし生ける人たちは、皆、夢物語を紡いで生きる。

  例外は無い。

  誰でも、だ。

  ロマンチックな夢物語という意味ではない。そうしたものも中にはあろうけれども、多くはもっとずっと味気ない、現実的な、「価値と意味の定義」の物語である。

  どうしてそれを夢物語と呼ぶのかと云えば、夢だからだ。

  人の行動は皆、半分は身体的な経験から得た体験記憶を学習した結果に、半分は自分が判断した価値観を書き連ねた夢幻の物語に基づいて行われる。そしてその二つは、普通ごっちゃにされて感じられている。

  どちらも、本人には等価に「わかっている」「知っている」「きっとそうだ」「正しい」「そうするべき」と思われている、行動の指針となるものだ。もちろん、体験記憶といえども必ずしも正しいとは限らないし、価値観の正しさなどはなにをかいわんやであるが、どうあれ、「正しい」と本人が思っている物差しに基づいて、人は行動や発言を行う。

  一方は身体記憶の体系だが、一方は価値定義の体系、ある意味でのファンタジーである。

  いずれ人の知恵とは解釈のことであるから、俗に知恵が付くというのは解釈の記憶が蓄積され、体系化されることに他ならぬ。この体系化された解釈の総体が、ここで云う物語である。

  それは、ちょうど映画やテレビのドラマに付随して記述される「設定書」のようなものだ。口頭の説明だけで書面は作られない場合もあるそうだが、ドラマに登場する組織や人物の説明をまとめたもののことである。時代背景や社会情勢について細かに書いたものもある。

  我々、人が、身体的な経験から判断した体験記憶や、精神が勝手に決定した価値判断の記憶を体系化して持っている「物差しとしての物語」は、このドラマの設定書と同じ役割を果たす。参照され、判断の根拠として用いられるのである。それらはある事象について行った判断の記憶であり、自然現象に関する判断記憶についても、社会的な人間関係や個人に関する判断を行う価値判断の記憶についても、その前後関係や様々に付随した情報を含めて、一連の、感情を伴った起承転結のあるものとして組み立てられている上に、元来が価値判断というファンタジーを含んでいるので、ここではそれを物語と呼んでいる。人間の、一生という物語を織りなすものだからでもある。

  人は内なる物語を抱えて生き、一生の物語を成す。

  面白いのは、それらすべての人々が信じている自分の価値観、自分の抱える、定義された世界という物語のすべてが、ただの一人の例外もなく、間違っていることだ。間違っているといっておかしければ、「一つも正しいものはない」といっても良い。

  この世に、正しく生きている者はいないのだ。少なくとも、人間に限っては。

  どの人も己の価値観という物語を持ち、己の作った物差しを当ててこの世を計って生きている。そして、その計測結果のすべてが間違っている。わたしを含め、誰一人として、例外は無い。

  人に、生き方など存在しないからである。我々以外の動物たちならば、なぜか生き方を心得ている。たとえ親に教わらなくとも、彼らは、自分たちがどんな事態に直面したらどうすればいいのか、どういうわけか知っている。学習していなくとも行動が可能なことは、オカルティックな、さもなくば我々の未だあずかり知らぬ原理に基づいているのでない限り、あらかじめ選択すべき行動を彼らが知っているという解釈を導く。

  俗に本能というヤツである。動物の子供達は食べられるものと食べられないものをあらかじめ知っている(ように見える)が、一方我々人間の子供達は、毒でも口に入れるまでわからない。我々はそうした行動のパターンを学習によって獲得する。何度も失敗を繰り返したり、教わったりして「これこれこういうときはこう判断し行動するべき」選択基準を、頭の中に書き連ねて生きる。

  身体経験の蓄積は人間の身体構造と無関係ではないからこれは概ね普遍的としても、価値判断の蓄積のほうは、個人個人毎に異なる判断の積み重ねである。人それぞれに書き方も違えば順番も異なり、あげく内容がまるで違う。各人毎に、我々は違う価値観の体系を築き上げてしかも、その内容に起承転結、といっておかしければ因果の理を求めずにはいられない。

  これこれのことがこうだったのは、こういう原因があったに「違いない」。わたしはそれについてこう思うから、これこれこのようにする。そうすればきっとこうなるに「違いない」。おや、巧くいかないぞ?(あるいは、ほらそうなった)

  我々は、あらかじめどんな時にどうすべきかを知らない故に、そのようにして本能を「組み立て」ずには生きてゆかれない。だからこそ、人は、生きるために物語を必要とする。自分を生かすための、自分の物語を必要とする。それなくしては、人として生きることが出来ないような物語を、だ。

  それは(個人毎に経験と判断に種類の違いがあるため)十人十色の物語にならざるを得ない。人が人らしく生きるとは、つまるところ、各々の物語を生きることに他ならないのだ。人は、生きているのではなく、各人が己の物語の中を、ファンタジーの中を生きているのである。もし、人が本来の生き物の姿で、つまりあらかじめ本能を持って生まれて生きたなら、そこに、人間らしさは少しも感じられないだろう。

  人間らしさとは、人が、この世を尋常の生き物として生きていないことを示す。それぞれが、各々の価値観に従って各々の物語を構築し、その物語を実践する形で生きることが人らしさである。そしてその物語は(大筋で一致することはあるにしても)どんな人間同士でも細部まで一致することはないから、人間らしく生きることは、つまり別々の物語を生きること、平たく云えば十人十色に生きることに他ならぬのだ。

  すべての人の生き方が、一つも一致しないのは、それが各々に構築された、大筋から細部まで様々に異なる、単純だったり複雑だったりあらゆる意味で多岐に渡る、個人の経験から構築された個人の物語を生きることだからである。

  そして誰一人として、この世を正確に計り、正確に読み解いて自分の生きるべき物語を築くことは出来ない。どのように価値を与えるのであれ、あらゆる価値は「勝手な決めつけ」に過ぎず、この世には元来無いものだからだ。無いものをでっち上げた上に、関連づけて因果を与えるのだから、それがあたっていようはずはない。価値の関連は幻想である。たとえ、論理的ではあるにしても。

  しかしその幻想の価値体系を築かなければ、人は世界に意味を与えられない。意味を与えられないものには、人は対処することが出来ない。

  どうすればいいかわからないからである。

  人は行動するために、意識した対象や経験した対象に「意味」を必要とするのだ。意味を計り、自分の世界観の中に引き込んで、それらを組み込んだ「行動の物語」を編み上げ、対処するために。少しでも自分が安心できて、なおかつなるたけ安楽であるように。

  人が、他の動物と異なる点があるとすれば、それはたぶんここだけである。寡聞にしてわたしは動物がそうするという話を聞いたことがないから、人だけであろう。

    わたしも含めたすべての人々が胸に抱える、一つも当たっちゃいない物語は、各々すべてが勝手に構築された虚構で、それ故に個性そのものであり、その人自身であるとさえ云って良いシロモノだ。そんな十人十色の、あやふやな、どれ一つとして正解のないこんなシロモノこそが、あろうことか、我々個人個人自身なのである。

  我々は、それぞれが「わたし」という物語なのだ。しかもそれは一つとして「正解」ではない。一つ残らず全てが、各々に作り上げられた、同じ物事に対して各々に異なる意味と価値を与えられた定義の体系であり、しかも全部間違っている。

  価値と意味という幻想を与えられたそれらの物語は、それ故にみな夢である。

  現実を生きるための、それは、夢物語なのである。

  それは傍目に見ればはなはだ信用のおけない。あやふやな、勝手な解釈に満ちた物語である(当たり前だ。勝手に意味を与えているのだから)。そしてすべての人の万能で無さ、人間本来の認識力の性質、解釈の妥当性の薄さと身勝手さの故にその夢は、たとえばある人が他人の抱える物語に触れた際に、「世の中には色々な人がいるものだなぁ」と自分のことは棚に上げて思わずにはいられないくらい、多様性に満ちた自分だけの夢となる。

  多様性の故に、それらは真実ではあり得ない。世界の意味が、多様であるはずはないからである(学者風のモノの考え方かも知れないのだが)。もし人々が(人類の一人一人が)世界の意味と価値を正確に捉えているのなら、その体系は誰であれ同じ一つの解釈に収斂されるはずなのだ。世界は一つしかないのだから。

  それが多様にしかなり得ない、ということは、その物語達が、各個人のアタマがひねくりだした、個人毎に意味の通ったそれぞれに論理的な、しかし虚構に他ならぬことを示している。

  こうすると痛いとか、熱いとか、死ぬとかいった身体経験から学習した基礎的な概念は普遍性を持ち得てもおかしくはないが(まったく普遍的だとは云わぬまでも)、価値の体系についてはそれは虚構にしかならざるを得ない。そんなものは無いのだから。

「こういう人はこんなことをする(に違いない)」

「こういうときはこうするほうが良いからこうするべき(に違いない)」

「こういうときにこうするのは(私の考える)礼儀に反するからこうするべきではない(に違いない)」

「こういう行動は(道徳的に)良くないこと(に違いない)」

「こういう発言はいけない(に違いない)」

  どれをとっても、正解などあり得ようもない物語に他ならぬ。個人毎に、勝手に決めるしかない、学んだり共感したり考えたりしてひねりだす虚構に他ならぬ。だがそれこそが、我々個人、それ自身に他ならぬのだ。

  ひねくりだしては例外に遭遇して改めたり、意固地に強引な解釈に固執したり、がらりと違う物語に乗り換えてみたり、生きるにつれて多少の変動はあるにしても(夢だけに、それは、生き方は、かたちを変えることが出来るのだ)、いずれ人間は自分を物語の中に置いて生きる。

  大事なこと、大事でないこと、その由来、自分自身に対する解釈、他人に対する解釈、世の中に対する解釈、行動の選択とその由来、そして実行と試行錯誤。それは生きてゆくために、その舞台となる世界を認識するべく作り出された「世界解釈の物語」であり、自分が生きる舞台の創造である。その意味ですべての人々は各々に舞台演出家であり、ストーリー・テラーなのだ。その作品が、たいていはドラマチックでなかったとしても。

  この物語に於いて、不思議と自分自身は主人公として認識されないものだが、いうまでもなくそれは「社会の一隅にある」と意識された(設定された)自分自身の生きる物語である。

  物語は展開を望んでいる。あるいは、展開することをあらかじめ期待されて作られている。人が、自分自身の物語を生きることは、そこに(できれば幸福な)展開があることを、ちょっとであれ、おおいにであれ、期待しているから出来ることである。

  展開の期待できない物語を生きることはたいていの人にとっては憂鬱で、生きるためのはずの物語が絶望的な物語に転じてしまいやすい。これがもっと絶望的になると、物語はいつのまにか「自殺する自分」の物語に変じ、自殺することが幸福であるような物語にすり替わってしまうことさえある。物語の破綻によって、幸福を求める物語が、「自殺することがより幸福である」物語へとすり替わるのだ。

  そうだ。人が自殺するのは、そうすることが(破綻した物語を生きるよりも)幸福であるとする物語の中に、自分を置く時である。その時、自殺することは幸福を求める物語として機能してしまう。

  その場合(驚くべきことに)、自殺することが自分を生かすことになると、本人には思われているのだ。自殺することで完結する物語の中を生きることが、その人にとっての生きることになってしまうのである。物語の破綻を生きることは、それほどまでに、心にとっては忌避すべきことなのだ。その物語の破綻から逃れるべく、いやさ、より幸福を求めるべく、自殺する物語の中をも生きられるほどに。

  人が生きるとは、価値観とその発展の物語の中を生きること、物語を遂行することに他ならない。でなければ、生き物である人間が自殺する理由など、一つも他にありはしない。

  自分の胸に抱えた物語を展開させることが、(他のどんな生き物とも異なる)人にとっての生きることであるからこそ、人には、人にだけは、「外面上は見あたらない理由」で自殺することが可能になるのだ。「自殺するほうが幸福」だとする物語に拠って。

  当然、それはその自殺する物語が破綻することによって、あるいは自殺する幸福の物語が他の物語にすり替わることによって終わることが出来る。物語なのだから。しかしながら物語は個人が自分の主観のみによって構築するものなので、主観がその気にならなければ変わることはなく、他人がそうと操作できるものではないのだけれども。

  希ではあるにもせよ、そのことは人間が尋常の生き物として生きていないこと、精神的な部分で生きていること、自分を生かそうとする物語の中を(自殺する物語の例は極端に変形した物語であるとしても)生きていることを、迂遠にだが示している。

  自分の期待する価値観の、外界に於いて(自分をくるむように)成立する「かもしれない」物語を展開させるべく生きること。

  それが人の、生きるということである。

  自分自身の登場する、自分の解釈した世界の物語が実現し、望んだとおりに展開すれば吉、自分の解釈した世界の物語が、思った通りの姿を見せず、思うように展開しなければ凶として、人は一喜一憂、不満と満足を代わる代わる得ては、性懲りもなく幾度でも物語の実現と展開を目指す。人の胸の内の「世界と自分の物語」は、その人が生きることと同義であり、一心同体なものなのである。

  ところが、それは、そう巧くいかない。

  自分の身に起こる現実にきちんと対応した価値観の物語を、普通、人は持っていない。それは一つには世界の意味づけ、価値づけという本来虚構にしかなり得ないものだからであり、一つには対象の内に人間と、大小の人間社会という「物差しの違う対象」についての価値判断が含まれるからである。

  物差しの違う対象、すなわち他人についての判断は、その基本原理については判断し得ても、価値や意味をあてがうことは本来出来ない。それはちょうど、一センチの長さがまちまちな物差し同士で、一つの物差しが他の物差しの長さを測ろうとするようなものなのである。

  計ることは出来るが、妥当することはない。

  ほとんど笑い話のようなそれらが、人間の四苦八苦している物語の齟齬の原因である。

  それらの故に、虚構として構築された人の価値観と意味の物語が、そっくりそのまま現実に展開することは、何人たりともあり得ない。

  自分の物語を展開させることこそが生きることである人間に於いて、その展開が順調に行くことの「あり得ない」ことは、悲劇でも、喜劇でもなく、本質である。

  だから、人は、苦しんで、悩んで、嫌がって、時々喜んで、泣いて、笑って、喧嘩する他に道はないのだ。

  価値観の物語を展開させようとする人と、同じく価値観の物語を展開させようとする人とが互いに互いを物語の中に組み込み合い、互いに自分(だけの)物語設定に沿った行動を相手に期待し続けているのだから、その相手が他人であれ、社会であれ、その通りになろうはずもない。なにしろ、十人十色なのだから。

  つまり、この「展開されることがその人の人生である」ところの人間の胸の内の物語は、展開しようとすればするほど(出発点の間違っているが故に)どう展開しても展開に障害がでるように「なっている」のだ。

  夢、なのである。

  人が内に抱えるこの物語は、どれだけ現実的に見えようとも、それが価値観である限り、誰一人として現実的に正しくはなく、それが意味づけである限り、一人の例外もなく間違っている。

  その上、全ての人が異なる間違い方をしている。一人一人、間違い方(勘違いの仕方といってもよい。意味と価値の与え方)が違っており、なおかつ、誰もが自分は正しいと信じて疑っていない。いやさ、疑えない。疑ったら最後、そのように行動することは出来なくなるのだ。つまり、(それまでの自分のようには)生きられなくなる。

  人間の数だけ、独裁者がいるようなものである。(狂信者と云ったら、たぶんお叱りを受けるだろうからこの程度の微笑ましい表現に止めておく)

  百花繚乱の、夢物語だ。

  人はそれぞれの夢物語の中を生きて、死ぬ。

  多くは不満たらたらで、あぁ(物語の展開することが)うまくいかない、うまくいかない、とつぶやいて生き、その内、物語の方を自分を取り巻く現実に合わせて多少作り替え、いわゆる「丸くなって」生きるようになり、大方は諦念の内に死ぬ。中には、あがき苦しんで死ぬ者もいる。ごく希に物語がおだやかに完結して死ぬ者もいる。

  だが誰も、「物語を生きること」を手放して、生きて死ぬことは出来ない。

  生きている限り、人は物語のくびきから逃れることはできない。

「(自分を取り巻く)世界という物語」こそが人間の精神であり、心の実体だからである。(実体、という云い方はナンだが)

  心は、その背景となる物語に沿って駆動される反応の系なのだ。

  心は、肉体を圧倒的に凌駕して主導権を持つことがある。自殺する者が、心の内の「自殺する物語」に沿って肉体を自殺に向け駆動するように。(その逆もあるから、心が肉体の命令系だとまでは断言できない。それらは融通の利く、おそらく互いに対等な相互補完する関係なのだろう)そのような時、人間は肉体的に生きているのではなく、明確に精神的に生きている。

  物語の中を。

  肉体的に生きているだけでは、人は飽き足りぬ。人が生きているとは、心が生きている、すなわち物語が、その自己実現を目指して稼動することをいう。生きているのは、肉体だけではなく、物語なのである。肉体が生の優先権を持つこともあるが、安全な多くの場合、人を生かすのは物語である。いやさ、多くの場合、物語こそが生きているのである。しかも夢だ。人間は、個々人が、実世界を生きる夢物語に他ならぬ。

  人を見たら、あぁ、夢物語の華が咲いている、と思うが良い。

  同じ華の一つとて無い、色とりどりの夢物語の華である。生きようとして戦う華だ。

  生まれて咲いて、散って死ぬ。夢の、幻の華だ。

  わたしもそんな華の一輪である。ずいぶん汚く、みっともない華ではあるが。

  人間社会にあまねくそちこち乱舞する、そんな身勝手な夢物語の華達を、わたしは生き物としていじらしいと思う。

  だからわたしは、人間がちょっとだけ好きである。


2002/12/12

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