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第六章
陽が落ちた。
江角一刀流本道場の正門を背に背負い、音無川にかかる名も無き太鼓橋の上に端座して、門ノ倉はひたすらに時を待った。
俗称”弩塁”
門ノ倉はその大刀を眼前に供えるように横置きしている。
刃身と柄を合わせて五尺に及ぶ、その肉厚な大太刀には倶利伽藍が刻まれていた。描かれているのは、不動明王の変化たる四肢で剣を掴んだ龍、蓮華、炎。その剣を前に門ノ倉は今、己の愛憎怨怒全てを消し去り、ただの剣鬼となることを欲した。
その剣は式巳のように流麗でも、清景のように巧緻でもない。一刀流を修めつつも、それは古の戦場で用いられた介者剣術のように鎧の効果の及ばぬ急所、眼、喉、右手親指、睾丸を狙ってただひたすらに打ち込むというものだった。術ではなく力を信条とし、体躯と膂力に優れた門ノ倉にとっての最大の武器は、その肉体そのものだった。
門ノ倉雷膳は自分の親の顔を知らない。
物心ついた頃には、彼は既に流斎の元にいた。孤児であった自分がその体躯を買われ拾われたと聞いて以来、その恩義に報いんとなお一層剣一筋に打ち込んで来た。正邪善悪の区別なくただ強くあるための研鑽、それでも沸き起こる己の感情を殺すための仏法による滅我の日々。しかしそうして己の人生を全て捧げて来た江角一刀流は、今や滅ばんとしている。
因果の小車。
残された憎しみは消え去る事は無く、殺すものはいずれ殺される。これはまさに巡って来た因果の輪に他ならない。門ノ倉は松岡の妻、朱美の言葉を思い出してた。
それでもやはり、彼は江角の為に剣を振るう以外の答えを持つことはできなかった。
数日前から続く繰り返しの大雨で音無川の水量が多い。その激しい濁流が奏でる水音を聞きながら、門ノ倉は正面の闇をじっと見つめていた。
その時、遠くでのろしの上がるような細長い音が尾を引きながら天へ上った。
門ノ倉が視線を飛ばす、すると厚い雲のかかった上空に、どん、という音が一度響き紅い大輪の花が広がった。
墨田の淵で打ち上げられたそれは、季節外れの大花火だった。
暗闇に包まれた川淵がその光で煌々と照らし出される。試し打ちなのか、花火はその一発だけで止んだ。
門ノ倉はその僅かなに煌めきに己の生涯を重ね、儚く消え行くその残り火をじっと眺めた。
次の瞬間。
門ノ倉の端座する真下の橋脚にくくりつけられた外道の義手がかちり、とその時を刻んだ。
爆音が轟き、炎が橋を包む。
川面がその衝撃に波立つ。
閃光が夜の闇を裂く。
臭水、ガソリンと火薬を存分に詰められ、その電流により着火した義手の爆発は、周囲の橋梁に仕掛けられていている、同じ物を仕込んだ幾つもの竹筒に連鎖を起こしていく。木材で出来た橋は轟音と共に中程から崩れ落ち、その間に門ノ倉の身体は炎に包まれながら落下していった。
大きく水しぶきが上がり、発破により燃える橋げたが力つきてその輪に次々と加わる。
その様子を背後に見ながら、外道は呼吸の為の竹の筒を口から離して浮上してきた。
火の粉がぱらぱらと舞い、橋はその両端を残して崩壊していた。
それを確認すると濁流に身をもまれながらも、外道は岸を目指して必死に泳いだ。義手を失って隻腕なのがもどかしく思うように身体が動かせない上、水の冷たさと奔流がどんどんと体力を奪っていく。それは外道に思川の地獄を思い起こさせた。
両手を闇雲に動かしながら泳ぎ、岸がそこに迫ってくると外道は川の底を確認しようと足で蹴った。跳ね返される感覚が足に伝わる。川底はすぐそこにあった。
……あと、少しだ。
……あそこに、奴がいる。
外道は大きく息継ぎをして再び水中へ身を踊らせようとした。
「!」
突然、その足首を何者かの手が掴んだ。
身体を水中に引きずりこまれながら背後を返り見ると、爆発により全身の皮が焼け爛れた門ノ倉が、残る全ての力を右の手に込めて外道の足首を握っていた。
外道はその顔を見た。
顔面の赤い肉を剥き出して両眼を見開いたその形相に、背を戦慄が走った。
顔を蹴りつけようと外道はもがく。しかし水流が二人の身体を翻弄した。
浮上と潜水が幾度も繰り返される。それでも門ノ倉の手は外道を冥府へ引き摺り込まんとその力を弱める気配を見せない。体中の血を失い、腹からは腸がはみ出し、もはやその思考力はほんの欠片しか残っていないはずであるのに。
酸素を断たれ、水を飲み、外道の意識は薄らいでいく。
その時、水中で喘ぐ外道の視界を横切る物があった。外道は無我夢中でそれを掴み、門ノ倉に向き直ると右手に持ったそれを突き刺すように掲げた。
見覚えがあった。
門ノ倉の網膜に映ったのは、先程まで己の眼前にあった「弩塁」の刃先だった。
外道は渾身の力をこめ、黒い渦の中、自分の臑にむけてその剣を叩き付けた。
門ノ倉の親指と外道の臑、双方の肉が斬れて鮮血が水中に散った。
さらにもう一撃。
深い裂傷が外道の臑に走り、同時に門ノ倉の親指は切断された。
押さえを失い、門ノ倉は右の手を突き出したままにきりもみしながら押し流されていく。その瞳から意識はすでに消え、肺から押し出された空気がごぼっ、と大きな泡を吐き出させた。
「かはあっ!」
外道は水上に顔を出して大きく息を吸い、刀を腰に差すと岸を目指して再び一直線に泳ぎ始めた。
夜半に差し掛かると、急に激しい雨と風がやってきた。
やがて河川は氾濫の兆しを見せ始め、街道にはくるぶしまでも雨水が流れて、人々は一様に洪水への不安を抱えながら家屋に閉じこもっている。
だが新蔵には、それがどこか遠い国の出来事であるかのように感じられていた。
……舞っている。
僥倖の中を蝶が舞っている。
一匹や二匹ではない、数え切れぬ無数の銀色蝶が江角新蔵の周囲を軽やかに飛び回っている。
蝶の群れは次第に列をなし、彼を中心にぐるぐると回転を始める
新蔵はいつものようにその群れの中から特別な一匹が現れるのを待ち続ける…
道場の上座にて一人黙想していた新蔵は、雨音にまじって近づいてくる足音で目をあけた。足音は道場の入り口で止まり、続いて開き戸ががらがらと音をたてる。
その一歩一歩、己の足取りをを確かめるように、外道はゆっくりと道場の板間を進んできた。
泥にまみれた素足だった。全身に纏った布を伝って、裾から雨水がぽたぽたと床に落ちている。
一拍の間をおいて、新蔵は立ち上がった。
「あああぁあぁあああああああ!」
あらん限りに叫び、外道は弾けるように駆け出した。
新蔵はその場を動かずに、鞘を垂直に立てて刀を抜き放つ。
外道は走りながら自分の左肩に手をかけ、麻布を覆うように引き抜いて広げた。
新蔵の眼前を遮るように麻布が舞う。
外道はその一瞬に身を伏せ、死角から蛙が飛び上がるように隠し持った刀を全体重を乗せて突き上げた。
槍のように長いその刀には倶利伽藍の紋様が刻まれていた。
「は!」
新蔵は笑みを浮かべてその一撃を己の刀で受けた。刀身を削るように外道の剣が新蔵の刃の上を擦り上がっていく。その先には、止めとなる鍔は無い。
新蔵は外道の刃が鍔元まで迫ると、小手を返してその刃を捌いた。
剣を上方に弾かれ、外道の顔面はがら空きとなる。新蔵は刀を翻し、その恐るべき剣速で外道の顔へ一直線に刃を踊らせる。
同時に外道は数見を倒した眼潰しの歯片を新蔵の両眼に吹き付ける。
だがそれが眼球を犯すより一瞬速く、新蔵はその両眼を素早く閉じて目潰しを防いだ。
新蔵は迷わずにそのまま刀を走らせる。
肉の断ち割れる軽い感触がその剣に伝わる。
眼潰しを拭い、新蔵がその眼を開けると、外道は既に遠く跳び退いていた。
しかし新蔵の一振りでその左眼の上下瞼は裂け、どくどくと溢れる血が眼球を濡らしている。
外道は上半身を剥き出しにしていた。
その身体に、義手はもう無い。
「……京次……」
外道の肘までしかない左腕を見て、新蔵は恐慌に捕われ口からその名前を漏らした。
……いや、違う
……京次は死んだ。
……殺した。
……延髄を裂いた。
……見開かれた兄の眼が私を見た。
……兄は優しかった。だが、弱かった。だから死んだ。
……あれは、誰だ。
新蔵は十六にして人を殺めた。それが切り紙の儀に初めて加わった、あの思川での淵での事である。新蔵はその時に腕が覚えた快楽と緊張の入り交じった感情を、今再び蘇らせようとしていた。
しかし巡る思念が、その邪魔をした
新蔵には分かっていた。
そこに立っているのは、新蔵が今までに殺めた者の一人であり、またその全ての者の権化だった。
新蔵はふ、ふ、と漏らすように笑い、狂気を奮い立たせた。
……斬る。
……恐れるな。
……あれは死人だ。
……死ね。
「死ね」
新蔵は刀を片手で握ると剣先を外道に向けた。
「てめえが死ね」
応じて、外道は左目の血を無造作に拭い、右手に持った刀を片手下段に構える。
その時。
布擦れれのような音がかすかに響いた。
新蔵は一度大きく痙攣し、動きを止めていた。
その口端から、つ、と赤いものが流れ落ちてくる。
震えながら新蔵が視線を下に移すと、その胸には背後から突き刺された刃の剣先が見えていた。
「一、刀、即、万、刀」
呪声と同時に、剣先が上へと走った。
驚愕に目を見開いたまま、新蔵の顔は頭頂まで真二つに裂かれた。
新蔵の意識もその時二つに裂かれていた。二つの眼が見る視界が徐々に離れ、沈んでいく。すると足下の床板が崩れ、そこにはどこまでも深く暗い沼が現れた。落ちていく。
沼の中には大勢の人間がいた。榊がいた。京次がいた。名も知らぬ幼子や手にかけた剣人達がいた。彼等は恐ろしい唸り声を上げながらその手を伸ばしていた。新蔵は叫び声を上げたかったが、声は出なかった。
……夢だ!
新蔵はそう叫びたかった。
……これは夢だ。
……何も無い。ここには、何も無い!
しかし心中の叫びも空しく亡者の手が恐ろしい現実感を伴って新蔵の足を掴み、沼の中に引きずり込んだ。新蔵は絶望の中で意識の最後の欠片を手放した。遂に安息は訪れなかった。新蔵の意識の全ては黒く黒く塗りつぶされていった。
愛した刀をその右手に握ったまま、新蔵の身体がゆっくりと前のめりに倒れていく。床に頭を打ち付け、噴出した血がとぐろを巻くように渦をつくり始める。
外道はその渦が描く煉獄模様をただ呆然と眺めていた。
八年前眼前で妹を失い、全てを捨てて追い求めた仇を今また同じように失った。そのあまりの喪失の大きさに外道は立っていられないほどの眩暈を覚えた。
「鬼を斬り、仏を斬り」
我が子の屍を越えて、江角流斎は闇の中から外道の前に歩み出てくる。その顔肌は能面のように蒼白で冷たく、その半眼は何の感情も抱いていない作り物のように見えた。
流斎は血塗られた仕込み杖を眼前で水平に構え、峰を人指し指で愛でる様になぞった。
「遂にこの世で最も斬り難きものを斬った」
その抑揚のない声が静まり返った道場に響く。
「……もはや我に、斬れぬものは無い」
流斎は刀を舞うように翻して逆手に持ち替える。
外道は今だ新蔵の屍を見下ろし、魂が抜けたように放心していた。だがやがてく、く、くと笑いを漏らしながら面をあげ、流斎の顔を哀れむような眼で見た。
血涙が、その両眼からは夥しい程の血涙が溢れ出ていた。
「てめえの子を殺し、何ぞ悟りでも開いたか」
自棄したようにおもむろに刀を投げ捨て、外道は流斎に向かって一歩を踏み出した。
「塵芥には分かるまい」
流斎は逆手の剣を水平に軽く振り抜いた。
その剣圧でなのか、道場隅の蝋燭の炎が揺れ、外道の瞼の血が四方に飛び散った。
「これぞまさに、無想の境地」
「無想だと?」
眼に入った血にひるみもせず、外道は吐き捨てるように流斎の言葉を繰り返して更に一歩を踏み出した。
「病だ」
外道は無手のまま、抱きかかえるように両腕を大きく広げる。
流斎は刀を持った腕を弛緩させ、半身の構えをとる。
「てめえはただ、人が斬りてえだけの哀れな病人だ」
「失せい!」
外道が間合いに入った瞬間、流斎の突きが唸りをあげて伸びた。剣先が上をむいた形で、外道の鳩尾を容赦なくえぐる。更に流斎は一歩踏み込んで、刀を担ぐように体を翻し剣先を走らせ外道の身体を切り裂こうとする。
しかし刃は鳩尾より動かず、急激な負荷をうけて刀身が剣先でぱきん、と折れた。
鉄だった。
外道は身体に走る傷のなかに、からくり刀の刀身を埋め込み、縫いこんでいた。その刃と刃の隙間が流斎の剣先を捕らえ、締め上げた腹筋の動きが刃を食い折っていた。
「……哀れ、流斎」
外道はゆっくりと顔を近付け、
「見ろ、我が子を手にかけてまで得たてめえの無想の剣は」
その万感の思いを込めて、
「その実、八年前の莫迦息子のそれと何ら変わらぬ」
最高の歪んだ笑顔を流斎に突き付けた。
「てめえの、
長き長き、
六十余年に渡る研鑽は、
今この時、
全てが、
ただの徒労に、
費えた」
外道は稚児に囁くように、言葉を短く切って流斎に耳打ちする。
折れた刀を見つめていた流斎の顔が瞬く間に紅潮し、怒りと屈辱に震えだした。
「うぬが……」
震えは全身を伝い、刀を握ったその手までがわななき始める。
「うぬがああ!」
獣の断末魔のような咆哮をあげて、流斎は剣を振り上げた。
同時に外道は倒れ込むようにして仰向けに寝転がると、流れる動作で新蔵の手から刀を奪い、刃先を流斎の股間に向けて垂直に突き上げた。
それは偶然にも、橋場総泉寺裏の廃屋で身動き出来ぬまま床に臥せり幾度も鍛えたあの剣の動きだった。
かつて我が子に与えたの刀の刃先が、
”導亜”の刃が一瞬で流斎の肉を裂いて深く潜った。更に刃は、会陰から喉までを一気に貫いていく。
流斎の剣は倒れ込んだ外道の右頬を横に切って、主人を失い床板に転がっていた。
外道が剣から手を離すと、流斎は一歩、二歩とよろめき虚空を掴もうともがきながら、爆ぜるように喀血して膝から崩れ落ち、絶命した。
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