日本列島ローカルバスの旅 序

 第1章「東京発路線バス乗り継ぎの旅」は、東京駅を起点とし、路線バスだけを乗り継いで、北は北海道、南は九州を目指す旅である。社会人となり家庭を持つようになって、学生の頃のようになかなか遠出できなくなった。鉄道はほぼ乗り尽くし、日帰りで乗車欲を満たせる場所もなくなってしまった。そこで都バスの乗りつぶしを始めたのだが、今ひとつ満足できない思いでいた。そんな中、東京駅発等々力行の"東98"系統を見た時、これを乗り継いでどこまで行けるかやってみようと、ふと思い立った。それがこの旅の始まりである。この手の企画はすでにいくつもあるが、そのルートにおいてはいくらでも独自のものを作れる。また、10年20年と続けられるライフワークともなる。そして何より、国鉄の乗りつぶしを思い立った、あの少年の日の身震いを再び覚えたのだ。これから何年もかけて、少しずつ距離を延ばしていきたい。鉄道と同じ道を辿るとしても、バスからの風景はまた違って見えてくる。そしてより近く風土を感じることができる。それが何よりの魅力だ。

 第2章「各地のバス路線」は、海沿いの絶景路線・狭隘路線・JRバス路線を中心とした乗車記。鉄道で旅をしていて常々思っていたのは、意外と海の見える区間が少ないということである。車窓に海を独占しながらの旅ほど贅沢なものはないだろう。バス路線であれば、まだまだ海沿いの絶景路線は日本国中に眠っているはずである。また、狭隘路線に魅了されたのは、大学生の時ワイド周遊券で乗ったJRバス大栃線の影支線であった。道の狭さ以上に、こんな山奥にも人が生活しているのか、という驚きは人生観の転換を迫られた。同時にその路線が国鉄から引き継いだJRバスであることにもある種の感銘を受けた。国がこうした山の奥の奥の生活を見捨てていないのである。この時、大栃のバス駅にも魅了され、JR(国鉄)バスの虜となった。この章では、今後も魅力ある路線を発掘し掲載していく。

 第3章「古参バスgallery」は、モノコックボディバスを中心とした各地の古株バスの画像集。一部短時間ではあるが走行音を付した。モノコックボディバスは幼い頃の記憶を呼び覚ます。生まれ育った家は、坂道の途中のバス停近くだった。京浜急行バスの路線で、6〜7台のいすゞ車が行き来していた。おそらく70年代は、BA20Nが大半を占めていたと思う。その中にはフロント、前扉が斜めになった富士重工車体の車両も含まれていた。ナロー車のため、後扉の向かいの車両右側の座席が2席分ほどなかった。ロングシート車に乗った記憶もある。前輪にホイールキャップを付けた姿も印象深い。その後、80年代にはK−CJM470、やがてキュービックへと移っていった。それらもみな短尺車で、今思えば珍しいものばかりだった。ギアを切り替えた後の加速の始めに音がうねるCJMのエンジン音は特に印象深い。
 運転手さんの顔も名前も自然と覚えた。Yさんという親切な運転手さんは、子どもからも大人からも人気があった。逆に、料金箱に手を掛けて、右手一本で急カーブを切る乱暴な運転手もいた。この運転手は、始発のターミナル駅で必ず発車時刻から5分遅れて詰め所から出てきた。しかも、のんびりと笑顔で。いらいらしたものである。CJMの時代は小学生で、近所の乗り物好きは、ナンバーをだいたい覚えていた。38-86、38-87、39-83、42-05、42-06、43-20という番号を今でも記憶している。43-20だけはフロントの方向幕が大型だった。その中でもなぜだか42-05が一番好きで、二番が39-83だった。母親が買い物からバスで帰ってくると、何番の車両だった?と聞くのだが、当然そこまで気にして乗ってはいない。
 こうした記憶の中で、特に印象に残っているのは、仲間たちの間で「テンテンロクジュー」と呼ばれ気味悪がられていた車両である。「・・60」というナンバーなのだが、その姿は一台異彩を放っていた。とにかく登り坂でのその轟音はすさまじく、家の中にいてもそれだと分かった。「・・60」という歯の抜けたようなナンバープレートと、行先方向幕のない丸まったリアスタイルは不気味に映った。残念なことに当時の京急電車の写真はあっても、バスの写真は一枚もない。「テンテンロクジュー」はどんな車だったのかと長年思っていたのだが、驚くべきことに、ネット上にその写真が存在していた(「70'BORO−BUSgallery」)。およそ25年ぶりの再会であったが、そのリアスタイルはやはり不気味だ。形式は、1970年製いすゞBA20N(川崎重工車体)と判明。
 こうして思い出してみると、子どもながらに細かいところまでよく見ていたようだ。その後、国鉄の乗りつぶしに明け暮れ、バスへの興味は薄れていった。しかし、乗りつぶしが見えてきて、JR車両に魅力を失い、またバスの世界へと戻ってきてしまった。京浜急行バスの思い出は、電車の記憶よりも何か奥深く刻み込まれている気がする。家族、近所の友だち、おばさん、おばあさん・・・故郷の人々の姿がより鮮明に重なるからであろうか。

 第4章「郷愁のバス駅・バスターミナルgallery」には、旅先で出会った趣き深いバスターミナルの画像を集成した。多くは第2章の画像と重複する。国鉄のバス駅の他にも、魅力あるバスターミナルは各地に存在する。特に秋北バス花輪営業所の建物を目にした時、それを再認識した。旅の途中、小さな町の薄暗い待合室で何もせず過ごす時間は、その後不思議と忘れられない場面になることが多い。

 なぜ乗り続けるのか。中学に入る頃から観光地には目もくれず、ひたすら鉄道に乗り続けてきた。京都は何度も通るのに名所をまともに見たことがない。そんな旅を続けてきた。一日中ただ一人、列車のある限りただ乗るだけ。なぜこんなに取り憑かれたように乗ってきたのだろう。国鉄全線乗りつぶしという目的が当初あったにせよ、その目的だけのために乗り続けてきたのではなさそうに思う。齢を重ねれば、旅の形も変わるのかと思っていたが、今もこうして鉄道がバスに変わっても、ひたすら乗り継ぐばかりである。
 鉄道においては、常にボックスシートの窓側に身を沈めた。バスでは、最後部の座席に身を隠すように沈める。切なくなれば、窓枠に頭をもたれる。気だるくなっても、いつまでもいつまでもシートに身を沈めていたい。それを現実逃避という人もあろう。しかし、そこには何とも言えないぬくもりがあることは確かだ。そこに身を浸し続けたからと言って、そこから何かが生まれてくるわけではない。非生産的で時間の浪費と言われるかもしれない。それでも、自分は乗り続け、そのぬくもりを追い続けてきた。それは孤独ではあるが、心地よい揺れの中で車窓の風景に抱かれるような、また何かその時の想いと風景とが一体化したような感覚になる瞬間がある。その時、感覚は研ぎ澄まされ躍動し、一種の恍惚を感じる。そんな時間が忘れられないからこそ、乗り続けてきたのではないか。そして、この世から別れる時、最期に思い出すのは、その時の感覚であるような気がするのだ。
 昨今、ますます無駄なく効率よく生きることを強いられているように思える。そこから逃げるように、また乗り続けよう。

 なぜ旅に出るのだろう。この大きなテーマの答えとして、今のところ最も核心を突いていると思われるのが、巻頭に引用した「旅の醍醐味は、こういった、心ぼそい気持だろう。」という田中小実昌の言である。夕暮れのバスに独り取り残された時の思いは、胸を締め付けられるほどのものだが、なぜだかその思いが懐かしく、また旅に誘われるのである。この「日本列島ローカルバスの旅」が、そんな心細く温かいバス旅への参考資料となれば幸いである。

 なお、各ページの時刻その他はすべて取材時のもの。すでに廃線になっている路線もあり、お出かけの際はご注意いただきたい。また、ご意見、ご感想は、aki-y@fides.dti.ne.jpまで。