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江戸、寛政の年。
ごう、と音をたてて柳の木が鳴ると、俄に大粒の雨が激しく降り始めた。墨田川を千住大橋から南岸に渡った辺り一面には広い田地が開け、その合間、合間に寺社仏閣が建ち並んでいる。その中にあって一際高い土塀に囲まれたその大屋敷は、まだ建てられて間が無いにもかかわらず周囲を威圧する重厚な空気を纏っていた。
「江角一刀流兵法 数見道場」
屋敷の正門には、墨字でそう書かれた身の丈程もある樫の看板が掛けられていた。晩秋の頃、六つを過ぎればもうすっかりと夜の帳が降りて、この近辺では人の通りもほとんど途絶えている。そんな中、道場の下男、松造は豪雨の中へと早足で飛び出してきた。この時刻になれば道場の看板を取り外し、正門の閂をかけるのが彼の日課である。松造は背を伸ばして看板を外し、それを小脇に抱えたまま閂をかけようと、たてつけの悪くなった横木をがたがたさせている。すると何時の間にか、門の近くに黒づくめの者が雨に打たれながら立っているのに気付いた。
「おい」
それが麻布を頭から纏った人間だと分かって、松蔵は不愉快そうに声を出した。
「おい!」
もう一度呼び掛けるが返事はない。
……物乞いめ。わざわざ雨ん中、白々しい真似をしやがって。
憮然とした表情で、松造は抱えた看板を地面に下ろした。
松造の出は農家の三男であり、縁あってこの道場に雇われてはいるものの、この不作の昨今は食うにも事欠くような日々を送っている。だからこそか、物乞い達がたまに見せるこうした演技がかった哀れみを誘う行為をひどく嫌っていた。
「よそ行きな。恵んでやるもんなんか、なーんも無えぞ、失せろ」
追い払うように手を払い語気を荒げる。だが黒づくめはただ麻布から覗かせた口元を歪めて笑うと、松造の言葉を無視して閉めかけた門から屋敷の中へとずかずかと足を踏み入れてきた。予想外の行動に、松造は慌ててその後を追った。
「おい、聞っこえねえのか!」
怒気をこめて凄むと同時に、その男のうなじをむんずと掴む。
彼はやや小太りながらその身体は肉厚で、腕力にもいささかの自信があった。これまでも身の程知らずの浮浪者や不埒者を片手で引きずって、門の外へ放り投げたようなことが幾度もある。しかしこの夜はそんな経験が彼に災いした。
「あつっ!」
その掴んだ手に、幾つもの貫くような痛みが走った。反射的に手を離すと、松造の五本の指と手のひらは何条にも裂かれている。
あっという間に血が線条に湧き出して、手のひらをみるみる真っ赤に染めた。
掴んだ布には、剃刀のような薄い刃物が無数仕込んであったのだ。松造がそれに気づくよりも先に、男は素早く身を屈めて腰からぎらりと光る得物を抜いていた。
遠雷が鳴った。
雷光を受けて光る一条の太刀筋が、松造の頭上で尾を引くように走った。
松造は「あ」と声をあげようとしたが、次の瞬間には深い暗闇が彼を包んでいた。
道場主、その名を数見双洋。今しがた一日の稽古を終え三十畳ほどの板間、その上座にて一人瞑座していた彼は、雨音に混じって近づいてくる何者かの足音で目を開けた。足音は道場の玄関近辺で止まり、続いて開き戸ががらがらと音をたてる。
「たのもう」
しわがれた、しかしおそらくは若い男の声だった。
数見が無言でいると、声の主は草鞋を脱いで濡れた足で道場の中に踏み込み、身に纏っていたずぶ濡れの麻布をするすると脱いで小脇に抱えながら言った。
「江角一刀流、数見双洋殿とお見受けします」
数見は不快そうな眼差しを投げ、その男の姿を見やった。
中背ながら痩せこけた体躯、年に似合わず、よじれたざんばらの総白髪、そしてもとは朱であったものが汚れて黒くなっただろう、袖口までがぼろぼろの衣服、野袴。その腰には幅広の木剣と竹の水筒がだらしなく吊り下げられている。
浮浪者か、あるいは野伏のように見えた。しかしその細く切れた両の眼は力に満ち、垂れた白髪の間から獲物を狙う闇猫のように炯々と輝いていた。
「先生のご高名聞き及び、ぜひ立会いを……」
「まずは!名を名乗れ」
男の声を遮って、数見は声を上げた。
「我らはしかるべき周旋もなしに訪れるものには、指南などせぬ。教えを乞うならまず、その無作法を改めて参れ」
「は、か、が、みと申します」
今度は男が言葉を割った。
「失礼ながら、俺は先生にお説教をたまわりにきたのでは、ない」
言いながら男は木剣を腰の帯から外すと右手に持ち、剣先を下げた。
地の構え、片手下段。
見れば左腕には指先まで包帯が幾重にも巻かれている。その為の片手か。
その構えは数見の目にはひどく滑稽に映った。まるで名だたる剣豪の見よう見まねをして、河原で遊んでいる子供のようだ。木刀振りに二年、型の稽古に三年。朝も夕もなく厳しい修練に明け暮れた己の幼少時代を不意に思い返し、数見はその研鑽のはしくれでもこの男に見せてやろうと唇を吊り上げて意地悪く微笑んだ。
「身の程知らずが」
言い捨てて立ち上がり、数見はゆっくりと道場の端まで歩むと、自らも枇杷材の木剣を手に取って、両手中段、正眼に構えた。
鋭い剣先を向けられ、男は意を得たように唇を吊り上げて微笑む。
「参れ」
弛緩した空気を払うように、数見は眼力をこめる。殺さぬまでも、四肢をへし折るほどの目にはあわせてやるつもりでいた。
「いざ」
掛け声とともに無造作に間合いを詰め、男は逆袈裟にすり上げる形で打ち込んできた。 数見は剣先をくるりと翻してその一撃を受ける。確かに膂力はあった。
……しかし、これは。
数見はそのまま相手の剣を跳ね上げるように動かし、切り返した剣をすばやく袈裟で男の肩口に打ち下ろした。
男は慌てて身をよじるようにして逃げた。だが一撃を鎖骨にくらい、その衝撃で落した木剣は床を転がった。
相手の太刀を切り落とし、外して己を守り、その一拍子の勢いで相手を打つ。一をもって二とする、ゆえにその剣は一刀流と呼ばれた。
数見が道場にその名を冠した江角一刀流は、二つの名立たる流派に起源を持っている。これより百数十年の昔、念流、中条流を源として伊藤一刀斎景久の興した一刀流。一刀斎の弟子、小野次郎衛門忠明が大太刀五十本を体系立てて引き継いだ小野一刀流。その分流支流の果てに、師、江角流斎を開祖として興された剣がこの江角一刀流だった。
「どうした、拾え」
再び正眼で数見はじりじりと歩をつめる。そして、男が機を見て木剣を拾い上げたところに、容赦なく剣を打ち下ろす。
「ぐ!」
男はかがむようにして剣を頭の上にかかげ、その一撃を受けた。両手にがつん、と重い衝撃が走る。だが男はそのまま片膝を床に突きながらも、数見の剣を跳ね上げて脛にむけて返しの剣を叩きつけた。
「のろい」
吐き捨て、数見は剣先を床に突き立てるようにしてなんなくその撃を受けると、続けざま剣を回して男の顔面を横薙ぎに払った。
男はばっと後ろへ飛びのく。しかしやはりその剣先は躱せずに横っ面をしたたかに打たれ、男はもんどりうって仰向けに倒れた。すぐに飛び起きるも、その口の端は裂け、右頬は見る間に赤黒く腫れてきた。
その様をみて、数見の中にはふつふつと怒りが湧いてきた。
……これは、あまりに未熟すぎる。この程度の剣力で道場破りに挑むなど、己が人生をこれと捧げた剣の道に対する冒涜ではないのか。そんな数見の心中を知ってか知らずか、男は立ち上がりながらく、く、く、と笑った。
「なにが可笑しいか!可笑しいはうぬのその有様!」
数見が吼えた。
「いやなに、江角一刀流に数見ありと謳われた、噂にたがわぬ剛の剣。嬉しうて、楽しうて、つい」
本音なのか、挑発なのか、言葉からその真意は計り知れない。男は口端の血を袖口でぬぐいながら今度は木剣を包帯の左手に渡した。ばちん、とばねが締まる様な音がして木剣は左手に固定され、その上に右手を添えて自らも正眼に構えを変える。
「まだまだ!」
言うなり、男は突き技を繰り出した。喉へ立て続け二発、しかしこれも数見はただ顔をそむけるだけで難なく剣先を躱す。
気合と共に、三発めは数見の肩口に繰り出された。おとりにした前の突き技とは剣勢が違ってはいたが、数見は脇をばっと広げてその剣を抱え込むようにして捕らえた。
男は力をこめて、木剣を引き抜こうとするが、閂をかけたように数見の腕はびくとも動かない。
「覚悟せよ」
制裁を加える様に数見は冷たく言い放った。
刹那、男は口から霧状の何かを数見の両眼めがけてぶっと吹き付けた。
視界が眩む。
「ぬ……お!」
数見は呻いた。それは周到に用意された、粉々にかち割った歯の欠片だった。それを先ほど受けた口内の傷からの血液にまぜて、霧吹きのように噴出させてのだ。不意をつかれて両の視界を失い、それでも数見は小脇の木剣は逃さぬよう更に強くに腕をしぼった。
だが男はその機を見るや、木剣を握った小手を素早くひねり、手前に引いた。木剣の中からはぎらぎらと光る幅広の白刃が現れる。
それは木剣に形を模した、仕込み刀だった。
「しゃあ!」
数見は胸下に強く押されたような衝撃を感じた。
一瞬のことに自分の身に何がおきたのか、把握ができなかった。だが既に、男の裂帛の声とともに放たれた剣は一瞬で数見の肋骨下から肺臓へ向かって一直線に貫かれていた。 剣が骨に当たるのを避けた、それは確実なる殺しの技だった。
「あ、あああ」
数見の口からはその意志とは関係なく音が漏れた。数見は喉を締め付けられたような苦しみから逃れるため、息を吸おうと試みたが、肺はそれを無視して反応を示さなかった。
男はまた、く、く、くと笑い、剣から左手を離して二、三歩と後ろに下がった。
数見はよろけながら腹に刺された剣を見た。肺臓からは酸素が、命が漏れていく。風船がしぼむように命が細っていく。呆然と開かれた口からつ、と一条の血がながれだした。
「卑怯……な……」
喀血しながら、しぼりだすように数見は呟く。呪詛の言葉は幾つも浮かんでは消えた。しかしその一言をしぼりだすのが今の数見には精一杯の抵抗だった。
「ひきょう?」
突如、男の声の調子が嘲るように変わった。
「吐いたな?」
男は更に両の口端を吊り上げて凄惨に微笑む。
「卑怯。卑劣。そう、待ちわびていたぞ、その言葉!」
その口中の歯は、前歯から奥歯の全てが鮫の歯のようにヤスリで磨かれて、鋭く尖っていた。そしておもむろに着物を脱ぎ上半身をはだけると、その体の異様さがいよいよ露になった。
死人のようなその肌は青白く、体の前面、その中央には首の下から鳩尾まで深い刀傷が走っている。完全に塞がる事のできないままでいるその無残な傷は、さらに太目の糸で乱暴にジグザグに縫われている。
「さて、まずは一人目、江角一刀流、数見双洋」
言いながら、男は左腕の包帯をくるくると解いた。
作り物の腕が現れた。前腕部は黒金でできた筒のような形状をしており、その五指も全てが鉄で出来ていた。男はその指先を少し離れた数見に向けて、鉄の親指を握る。義手からはがちん、と錠の外れるような音がした。
数見は片膝を床につき、薄ぼんやりした視界でその様子を見ている。その口からは、ぽたぽたと血が垂れて床に奇妙な模様を作っている。
「外道の業、とくと味わえ」
男は冷酷に親指をかちん、と引いて倒した。同時に四本の指先から弾けるように何かの気体と粉塵が噴射された。
「あはあぁあああぁああ!」
吹き付けられた粉塵が顔面を襲い、数見は反射的に悲鳴を上げた。何らかの毒物なのか、眼球を、鼻を、耳を侵すその粉はすさまじい激痛を数見に与えてきた。口から血飛沫が四方に飛び散った。
それはこれまでに味わった事のない、忍耐のできぬ苦痛だった。
……頼む、この命、早く尽きよ!
……いや、違う、尽きるな!
死にたい。生きたい。拷問の最中、そのどちらをも数見は思っていた。
どのくらいの時が経っただろうか。
雨の降りしきる中、地面に伏していた松造は、地面にたまった泥水が口の中に流れ込んできて目を覚ました。
顔がぬるぬるに覆われている。松造はそれが自分の血だと気付いて、呻きながら立ち上がった。頭骨が割れているのか、寸断なく激しく痛む。懐から取り出した手ぬぐいで自らの頭頂部を抑えながら、松造は引き戸をあけてふらふらと道場内へ戻っていく。
道場内はうす暗い。蝋燭がひとつだけ、消し忘れたように炎を揺らしている。
その暗闇に眼が慣れだした頃、松造が見たものは、大の字に横たわった物言わぬ道場主の姿だった。胸下からあふれだした血は胴衣を赤く染め上げ、身体の下にもじわりと広がって死の池を作っていた。
おお、と松造は声をあげて膝をおとした。
「外」
「道」
「来」
数見の顔乗せられてた一枚の半紙。そこに刻まれた三つの血文字は、まるで嬉々として踊っているかのように見えた。
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早朝にもかかわらず、砂利の敷き詰められたその広大な中庭には六十人近い男達が一言も発さずに端座している。その誰もが、鍛え上げられた屈強な肉体と気配を纏っていた。
彼等の視線の先には当主と思しき者が長椅子の上に足を崩して座っている。
江角一刀流の若き当主、江角新蔵。
白地の小袖を纏った身体の線は他の男達に比べてかなり細く見えた。またその若さの美が漲った顔は細面で儚く、整った眉と鼻筋が中性的な美貌をたたえている。だがその両の眼は視線定まらず、夢見ているようにどこか虚ろだった。
だが六十余の男達は、一様に張り詰めた表情で彼を見ている。その顔には、合戦の前のような緊張さえもが見てとれた。
「大伴、川口、森村、今城、前へ!」
当主の右手、斜め前に座った巨躯の師範が声をあげた。応じて者共の中から四人の男がばらばらと立ち上がり、前に進み出てきた。四人はそれぞれが白い道着に襷をかけて流血に備えて鉢巻を巻いており、その顔が殊更に強張っているのがわかる。そして、手には木剣ではなく先端に当て布をした木槍を携えていた。
四人が不均等な間隔で立ち並ぶと、待ちかねたように新蔵は傍らの木剣を手に取ってすっと立ち上がった。
その剣は新蔵に相応しく、刀身の幅が他のものと比べてやけに細く、また軽そうにも見える。新蔵はその剣先を地面の砂利の中を引き摺るようにしながら四人の中心に立ち止まった。筋肉と気配が、明らかに弛緩している様子がその態度にも見える。
「構え!」
四人は各々、声をあげて半身となり、中段の構えをとる。
対して新蔵は構えのないまま、巨躯の師範に向かって軽く首を振る。
「始め!」
開始の声がかかるとほぼ同時に、がん、という鈍い音がして四人のうちの一人が後ろに吹き飛んだ。
仰向けに倒れたその男の顎が割れ、激しく流血していた。音は下顎骨の砕けた音だった。男は後頭部をしたたかに打ちつけ、おぼろげな意識の中で鳩尾押さえて呻きながら地面をのたうっている。
新蔵の剣はまず男の鳩尾に突きを放ち、その後に顎を下から打ち砕いていた。
満場に、その剣速を見切ることができた者はいなかった。男の蠢き苦しむ様を見て、残る三人の男達は自分達の戦意がじわじわと失なわれていくのを否応なく感じた。
新蔵は突きを放った剣をゆっくりと下ろし、そんな三人の顔を順々に見回していく。
哀れみも、蔑みさえもこもっていないその視線の驚くべき冷淡さに、男達の足は知らず知らずのうちに後退を始めていた。
「待……」
師範はその様子を見て、立会いを止めようと手を上げかける。が、その手を新蔵が鋭く眼で制した。
「構うな、来い」
代わりに新蔵は顎を上げて、強いるように残った三人を誘う。
「……続けよ!」
師範の声を三人は心中で恨んだ。
新蔵は相変わらず剣を構えるでもなく、無造作に男達との距離を詰めていく。
だがその距離で剣よりも明らかに勝る槍を手にしながらも三人は怯み、後ずさりし、それぞれが新蔵を囲むように摺り足で展開を始めた。
新蔵の右手、左手、そして背後。
男達は三方に立ち、同時の突きを降らせるよう身構える。だがその息が少しでも狂い、自分が最初に動いてしまう事を恐れて打ち込みに出れずにいた。もし損じれば、自分も今そこに倒れ苦悶している者と同様の目にあう。知らずのうちに多数であることが他人への依存を生み、躊躇させていた。
「やああ!」
三人のうち今城と呼ばれた長身の男が声をあげて気合いを込めた。しかし三人が気を奮おうとすればするほど、顎の砕けた男の呻き声が耳にまとわりついてその気をそぐ。
膠着の中、背後の男の槍先が一時、揺らいだ。
払捨刀。
新蔵が振るったのは、一刀流開祖、伊藤一刀斎が寝屋にて多数の賊に襲われた時に編み出したと伝えられているその奥義だった。
「ま、参りました!」
一人が木槍を地面に置き、諸手をついたのが最後だった。残る二人も慌ててそれにならった。 新蔵は行き場の無くなった剣先を翻し、ふ、と皮肉な笑いを浮かべると頭を下げた三人を一瞥して、事もなげに再び剣先を砂利に引き摺りながら元の場所へと戻って行く。
夢から醒めたように、座した弟子達の間からためらいがちな拍手が起きた。
師範は近くにいる弟子数人を呼び寄せ、悶絶している男の手当てを細かく命じた。
しかしそのどちらに対しても、新蔵は殆どなんの反応も示さなかった。その視線はここにいる誰でもない、何でもない、どこか遥か遠くに注がれているようだった。
その時だった。
道場の正門を激しく叩く音が三度鳴った。
ざわめきが途切れ、満座が沈黙するとその音はもう一度鳴った。当主から最も離れた場所に座っていた世話役の男が立ち上がって正門に向かい、その閂を外す。すると門を叩いていた男……数見道場の下男、松造は門にもたれ掛かるようにしながら倒れ込んできた。
その頭に巻かれた包帯は赤く染まり、染み出した血が顔面をも濡らしている。
「ど、どうした、何事だ!」
世話役の男がその身体を抱きとめて狼狽した声をかけると、松造は両眼を見開き、答えの代わりにわなわなと震える手を伸ばした。
その手には一枚、血まみれの半紙が握りこまれていた。
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江角一刀流 松岡道場。
その道場主は弟子に導かれて剣道場と一枚壁を隔ててあるこじんまりとした客室へと向かう。そこに招かれて、長火鉢の前でそわそわと落ち着かぬ様子で腰を浮かせている客人を見て、松岡はやっとほっとした顔を見せた。
「これは島田、おぬしだったか。いや、本道場からの客人と聞いて肝を冷やしたぞ」
「松岡様」
島田と呼ばれた男は、呼び掛けにはっと顔をあげて答えた。
「稽古中、お呼び立てして申し訳ありません」
髷を結ったこの男の顔は、真面目だがその反面ひどく臆病そうな、困ったように八の字に眉のまがった表情をしていた。
松岡は島田の前にどっかと座って胡坐をかき、広い顎をなでた。
「半年ぶりかな。随分と疎遠にしてしまった」
「いや、こちらこそ」
決まりごとの挨拶を交わしながら、島田は辺りを見回した。
「お弟子も増え、ますますの御発展をされておるようで何よりでございます」
謙遜して軽く笑い、松岡は松岡は急に声をひそめて聞いた。
「どうだ、そちらでの勤めは」
「いや、まあ、今までと勝手が違い、不馴れな事も多い故……なかなか」
島田は言葉につまりながら、しどろもどろに答えた。その顔が喜怒哀楽どれともつかぬ、複雑な動きをしている。
「浦上の兄弟にしごかれていた方が、幾分はましであったか?」
「いや……」
島田は苦笑いもできずに困り果て、ついには開き直ったように口を開いた。
「しかし正直なところ、私には新蔵様が何をお考えかが、いつも良くわからんのです」
言いながらも、眼がきょろきょろと辺りを伺っている。
「お叱りをうけるならまだしも……いや、このような話、さしあげるつもりではなかったのですが」
「はは、そう窮するな。まあ、おぬしの気苦労、わからんでもないぞ」
助け舟を出して、松岡は島田に苦笑をしてみせた。
「皆伝を受けてはや二年か……ま、先代には先代のお心あって、新蔵様を当主の座に据えたのであろう」
言いながら、松岡の心は段々と島田に同調し始めていた。
「これからは剣力だけのものが頂点に立つ世ではない、とは案じておるがな」
島田が小さく頷く。だがその言葉は、どこか松岡自身の事を弁護しているようにも聞こえた。
「……しかしながら」
突然、新しい声が二人に割って聞こえた。島田はぎょっとして、また腰を浮かす。
「二束一撃の間合いで江角新蔵と向き合うて、無事でおる者もまたおるまい」
障子のむこうからゆらりと現れた男は二人と違い髷を結っていなかった。すらりとした痩身で、肩まで長髪をたらしている。顔は端正に整っているがその色が透けるように青白く唐草柄の入った着物からは香が匂っていた。
「ああ、式巳様」
「道場のうちでそのようなお話。お二方、無用心極まる」
島田の呼び掛けに対してにっと口端をあげて笑い、式巳雨月は部屋に入って隅に立った。島田は深く頭を下げてそれを迎える。
「いつ戻った。またどうせ、柳町のあたりでもほっつき歩いていたのだろうが」
松岡は式巳という男に感じている劣等感を気取られぬよう、顔を向けずに聞いた。
いつも着物からは麝香のにおいをさせ、日がな岡場所へ入り浸っている男。しかし誰もが、自分さえも認めざるを得ないところだが、式巳はこの道場で最も腕がたった。現在松岡がここの道場主の座におさまっているのも、彼にその望みがないからに他ならない。
「何時盲になるかも分からぬ身とあれば、己が煩欲しかと瞳に焼付けておかねばならぬ、と思うてな」
式巳は笑ったままに答える。
松岡はふん、と鼻を鳴らした。
「丁度良い、式巳殿にもお伝えせねばと思うていたのです」
そう言って思い出したように島田は神妙な顔を見せた。
「先日夜半、数見道場が看板を割られました」
「何、まことか」
唐突な島田の言葉に、松岡は色めきたって尋ねた。
「それで、数見の容態は?」
問いかけに島田は無言で答え、松岡は信じられないように呟いた。
「……まさか、逝ったのか」
島田は小さく頷き、畳まれた半紙を懐から取り出して、松岡に手渡した。
赤黒く汚れたその紙を広げて、更に松岡の表情が変わった。更に島田は言葉を重ねる。
「これを顔にかけられて、無念、数見様はすでに事切れてておりました」
「これ……は」
書かれた血文字を眼にして、松岡は唸った。
「何の転業だ、斬奸状のつもりか」
式巳は顔を向けて細い眼をさらに細め、松岡の手元を見やる。数年前より彼は底ひ、白内障を患っており、今やその眼は物の色や形を大体に見る程度の力しか残っていない。
「その刀傷は鳩尾から背中にまで抜け、道場一面は見るも無惨な血の海に」
「信じられん……よもや、数見程の男が」
松岡はいくつかのことを思いやってそう言った。ともに学んだ数見の剣力が、余人の及ぶところではないだろうという事、まだその細かく生真面目な、悪意をもって言えば面白みのない性格より、数見は道場破りの相手等をほとんどしていなかった事。そのような騒ぎが起これば数見は決まって腕のある血気盛んな門弟達に事をおさめさせ、自分では荒事には関わろうとしていなかった。
島田は言葉を失っている松岡を気遣うようにして声をかけた。
「松岡様は、数見様とは……」
「奴とは」
松岡は静かに答える。
「数見と俺は、かつて本道場におった時の同期よ。共に学んだ。共に血反吐を吐いた」
更に言えば、二人が当主の許しを得てそれぞれの名を冠した道場を開いたのもほぼ同じ頃である。松岡の眼には、ともに研鑽した数見の剣がいとも簡単に敗れたという恐れがじわじわと広がっていた。
「心中、お察しします」
島田は恐縮したように言った。
「相手、相手は、何処の誰だ」
だが松岡の問いに、島田はかぶりを振った。
「下男によれば、暮れ六つの門人がおらぬ時を狙って道場に押し入られたとの事。他には誰も、そやつの姿を見た者がおらんので……」
「何たる事……」
松岡は再び黙り込んだ。
「三日後、流斎様の命にて、江戸市中全ての道場主を本道場に集めます。その時まで、松岡様も十分に、お気を」
式巳と松岡二人の顔を交互に見ながら、島田は時をおいてそう言い残し、腰をあげた。
「……承知した」
心無く松岡は答えて、形だけ島田の後ろ姿を見送る。
茶室には二人が残された。
松岡は手に握った半紙を再びじっと眺め、無言で部屋の隅に立っていた式巳にその半紙を手渡した。
「式巳、どう思う」
「……どう、とは」
「お主は数見が尋常の立会いをしたと思うか」
心配そうな声を出した松岡に、式巳はぴくりと眉を動かした。
「数見が道場での立会いに、やおら真剣をもちいたとは俺には思えん。立ち合いが如何様なものであったのか……」
「松岡殿」
今度は厳しい口調で、式巳は松岡の言葉を切った。
「もしや貴殿は仕合いを竹刀、木剣、真剣などと得物により分けて考えておられるのではあるまいな」
「いや……」
松岡が言葉を失っていると、さらに式巳は続ける。
「数見殿は殺された。よいか、覚悟を決めておかねばならん。この相手が松岡殿の前に立つ時は、眼前の得物はもとより、目潰し、飛び道具、およそ道場剣法の法外、全てをもちいて襲い来ると心得よ」
式巳の言葉は飄々とした普段とは違った冷厳さを纏っていた。
「尋常であるとか、そうではないとかなどご思案されるな。命取りとなるぞ」
うむ、と返事を返し、松岡は恥いったように項垂れた。そんな様子を見て式巳は半紙を松岡に返し、救うように幾分柔らかく言った。
「まあ、いずれ道場にも噂がひろがる。道場主は動ぜず堂々と威を誇っておらなくてはな」
「……うむ。すまんな、式巳」
式巳の言葉に松岡はようやくはっきりと頷いた。迷いでていた虚勢と怯えが失せ、その瞳には道場主としての威厳が蘇っているように見えた。
「とはいえ、このままでは済ますまい」
独り言のように呟き、式巳は血濡れた半紙を松岡に返した。
「さてわしは、刀を研ぎに行って参ろう。二、三日は留守になるな」
微笑み、式巳は松岡を残して客室を後にする。
だが横顔に光るその眼に、静かな、しかし強い闘気が降りてきているのを松岡は確かに見た。
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三人の男が夕刻の街道を早足で進んでいる。
一人は肩幅が広く剛健肉厚な、雄牛のような身体と顔の持ち主。
一人は恐らくそれより年長で、長めの首と鷲鼻をした中肉の男。
袴姿で腰に二本を差して鷹揚に歩くこの二人の顔には、顎や額にどことなく似た風情があった。
腰を直角に曲げてこの二人の先を行く下男は、火傷でも負っているのか顔にぐるぐると包帯を巻いており、両の眼だけをそこから不安げに覗かせていた。左手は懐に畳んだまま、右手に弓張り提灯を下げている。
道を擦れ違う人々は彼らの剣幕を見て、慌てて道を譲った。
やがて、長い土壁のむこうに剣道場の門構えが見えてくると、二人の男は歩をゆるめて、先を行く下男を止めさせた。
「十朗、お前はここで待て」
十朗と呼ばれた下男はくぐもった声ではい、と答え、提灯を抱え持った。
二人は開かれた門をくぐり乱暴に道場の開き戸を開けると、躊躇することなく玄関に押し入っていった。
「たのもう!」
体躯の良い方の男が、大声を張り上げる。奥から聞こえてくる稽古のかけ声が一瞬静まり、再び鳴り出すと、まだうら若い少年が玄関にやってきた。
「……浦上」
少年は二人の顔を見て、凍りついたような表情を浮かべたまま、そこに突っ立った。
今しがた大声を張り上げたのが弟、正景。もう一人が兄、清景。二人はその姓を浦上と言った。
「どうした、お前。おれらの顔になんぞ可笑しいところでもあるのか」
清景が粘るような陰湿な声でそう言い、片眉を曲げる。
「のけ!」
正景は少年を片手で押しのけると、ずかずかと道場内に踏み込んでいった。
「稽古をやめぃ!」
正景の一喝で、水をうったように道場の掛け声が止んだ。声の主、入り口に立つ二人の男を見て、十数人の門弟達に動揺とざわめきが広がっていく。
「我ら兄弟、火急の用件にて尋ね参った。ご当主、芦花慈円殿は何処におられる」
簡素なたたずまいの道場内を舐めるように見て、正景は大声をあげる。しかし門下生達は誰一人としてその問いに答えようとしない。
「貴様ら、聞こえぬのか!」
「……祖父は労咳を病みました」
もう一度正景が問うと、道場の動揺を制するようにして、上座に座していた師範とおぼしき者が静かにそう答えた。
十七、十八の頃、まだ年若き女だった。眼は切れ長で睫が長く、黒髪を後ろで結わえ白布で鉢巻にとめて、黒木綿の袴をはいている。
凛とした声で女は尋ねた。
「浦上様、我らに何か御用でしょうか」
「おお、円香殿」
正景は蔑んだ様な、色気を含んだ眼でその女を見て近付いていった。
「浦上!」
突然、門下生の一人が堪えきれぬように叫んだ。
「貴様、何人の許しを得て、この道場に足を踏み入れる!」
「ほう」
叫んだ男を横目に睨み、正景はうす笑った。
すかさず道場の入り口をふさぐように立った清景が、腰の得物の鯉口をきる。
道場に殺気が交差する。
「名乗れ」
視線を外そうとしない男に向かって、尊大に正景が言った。門下生はゆっくりと木剣の柄に手を伸ばす。
「加藤、やめなさい!」
間に入るようにして、円香が門下生を鋭く制し、正景に向かい直った。
「正景殿、申し訳ございません。一昨年の事、そちらはもう過ぎたものとお考えかもしれませんが、我らの中にはそうでない者も多いのです」
「ああ。だからこそ我らもここに出向いて参ったのだ」
獲物を逃したのが不愉快というように、正景は大きく首を回した。
「昨夜、恥ずかしながら我ら同門の数見道場が破られ、道場主の数見が討ち果てた。だがその剣を振るった相手が誰なのかが皆目わからぬ。何ぞ見聞きした者がここにおらぬかと思って尋ねて参ったのだ」
「それは」
さっと円香の顔が青ざめた。
「我らを、お疑いという事ですか」
「得心するところも、あろうが」
正景はさも、当然といった風情で言葉を続ける。
「義心殿のこと、まこと不幸ではあった。しかしあれは江角と芦花、互いの剣技をふるったうえでの、やむを得ざる事。もし万一、その道理もわからずに我らが流派に恨みを抱き、仇討ち気取りの剣をふるう不逞ものがおったとなっては、慈円殿もさぞお嘆きなさるだろう」
正景の態度は尊大だった。その声、その姿。円香の脳裏に眼の前の男、浦上正景と父、義心の立会いが蘇える。
芦花義心は、喉を竹刀で突かれて気管裂で絶命した。
防具篭手をつけての竹刀仕合と聞いての油断があったかもしれない。したたかながら正景は勝負の一本目二本目を義心にとらせ、三本目で隠し持った牙を猛然とむいた。剣術の流れより芦花の防具には喉あてがなく、そこを正景は渾身の突技で突いた。同時に竹刀先端のあて布が裂け、衝突の衝撃で折れた孟宗竹は義心の喉に突き刺さり気管を破った。いまわの言葉も残せず、父は逝った。激昂した門下生の一人が真剣を手に取ったが、兄、清景は即座にその者を斬り捨てた。
当主である芦花慈円は我が子の死を嘆き、同時に平安の世に道場にての修練に終始していた己の剣法を始めて悔いた。その死が引き金となったのか彼は身体を病み、剣を再びとることのできぬまま床に伏せている。義心と亡妻との間にできた一人娘、円香には道場とその当主としての重責だけが残った。
その全ての不幸の根源が今、円香の目の前に立っている。
「そもそも先代の我らが当主、江角流斎と芦花慈円殿は一刀流の奥義を同門にて学びし兄弟弟子であろう。この度のこと、慈円殿には是が非でもご助力を願わねばならん」
円香には正景の魂胆が計りかね、返事を躊躇した。しかし道場主としての誇りと、祖父への恩情から何としてもこの要求を拒まねばならない、という決意は揺るがなかった。
「……申し上げたように、祖父は病床におります。用件がおありならば江角の道場には、いずれ、改めてこちらからおうかがいします」
円香は胸中の動揺を悟られまいと、毅然として断った。
途端に正景の眼には不快の色が浮かんだ。
「わざわざ我ら二人が参った訳がわからぬ様子。事は火急を要す……どうも事を穏便に運ばれようという気がないようだな」
「それは……そちらが、そうお考えだからそう見えるのでしょう」
体躯の幅、倍ほどの差がある二人は、対峙しまま言葉を発せず睨みあった。
正景の眼はまさに理不尽な怒りと情欲の混じった征服者の瞳だった。
円香は怒りと、恐れと、困惑とをごちゃごちゃに抱えながら、その獣の眼を睨み返す。
「正!」
その時、清景が声をあげた。
次の瞬間円香の背後から、木剣の小刀が唸りを上げて猛然と回転しながら正景を襲った。
「ふ!」
正景はすばやく腰の得物を鞘ごと引き抜き、柄を立てて寸前で木剣を受けた。弾かれた剣はからからと音をたてて木板の床を転がっていく。
「そ、そろそろ、口をつ、つぐめ」
円香の背後より不意に現れた男は正景の言葉を待たずに言った。言葉にはどもりがあったが、語気は強かった。精悍な顔立ちで顎に不精髭を生やし、髪を短く刈り込んである。その腰の得物はやや長く、男はすでにその柄をしっかりと握り締めている。
「……相馬とかいったか、貴様」
円香をかばうように進んでくる男に対し、正景は挑発を投げた。
「まだこのようなところに居ついていたおったのか、犬コロが」
「た、たとえ犬の牙であろうとも、望みとあらばお前の喉笛、ひ、ひき裂いてみせるぞ」
男は答え、跳ねるように二歩下がった。
「やめい!」
清景が再び怒りで冷静さを失いかけている弟に呼びかけた。
清景は相馬という男の剣が、この道場のものではないのを以前垣間見ている。それは防ぎ太刀のない、攻めるだけの捨身の剣であった。正景がもしこの男を討ち果たすとも、手傷を負うのは痛い。地の利そして数の利、斬り合いになれば兄弟の不利は目に見えている。
「日も落ちた、今日はもう良い。また改めてご助力願いに参ろう」
慇懃無礼に言って清景は頭を下げ、渋る弟を眼で促した。
「……貴様はいずれ俺が殺す。必ず殺す」
正景は小さいが鋭く、相馬にそう吐き捨てるとその手元を用心深く睨みながら後ずさりした。
ここぞとばかり、道場内の敵意の視線が、兄弟二人にそそがれる。正景は何事か口の中で彼らへ侮辱の言葉を漏らし、清景の後を追って道場を後にした。
「さあ、稽古を」
二人の姿が見えなくなると、円香は平静を保つように門下生にそう告げた。
「続けるぞ!」
門下生の一人、加藤と呼ばれた男がそう声をかけ、道場には稽古の掛け声が戻る。
「相馬、助かりました」
一人、道場から出ようと上座に戻る相馬に対して、相手にだけ聞こえるような小さな声で円香はそう呟いた。
相馬は何事か答えようと口を動かし、声の出ない代わりに顔を赤くして、顔を伏せる。 円香はその慌てたような様を見て、ほっとしたように微笑んだ。
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三日の後、夕刻。
奥多摩の方より式巳は松岡の道場へと戻ってきた。その腰元には研ぎを終えたばかりの刀が二つ差して見える。
しかし、稽古日にもかかわらず道場より物音がしない。訝しがりながら門をくぐると、その姿を見て門下生の一人が慌てふためきながら式巳に駆け寄ってきた。
「し、式巳様!」
門下生は声をかけるなり膝に手をつき、頭を垂れて息を吐いた。
「どうした、何事か」
引き戸に手をかけたまま式巳は尋ねた。
「せ、先生が……!」
それ以上は聞かず、式巳は戸を閉めると廊下に上がった。
「……何時だ」
「ほ、本日の午の頃です。稽古中に道場をはずされて、半刻ほどしてもお戻りにならないので探しに出てみたところ、廊下に突っ伏して既に事切れておったのです」
何度も同じ事を尋ねられたのか、門下生は早口でそう説明して歩き出す。
式巳は早足で道場脇の廊下を進む。その先には何人かの門下生が所在なさげにたむろしており、式巳を見て慌てたように通り道をあけた。
「こちらに」
後ろを付き添っていた門下生が廊下、奥部屋の襖をあけると、松岡は静かに横たわっていた。その部屋はつい三日前に、島田と三人でおちあったその茶室だった。
松岡の身体から染み出したであろう血液は敷き布団を赤黒く染め、さらに周囲の畳をどす黒く変色させている。そしてその顔にはそれが決別の印であるように、一枚の白い布がかけられていた。
式巳はその場に膝をついた。
「……肩口を斬られております」
付き添った門下生がそう口添えした。
式巳は松岡の遺骸のそばに寄り、顔の白布をそっとはずした。
その瞳は閉じられていたが、口元は歪み、歯も欠けんばかりにくいしばられている。苦悶と、無念がこびりついた死に顔だった。喉は横一文字に裂けて赤い肉が覗きおぞましい痕をさらしている。
「なにが起きたのか分からず、皆、動揺しております。江角の本道場には既に使いをやりましたが……」
門下生の説明に頷き、式巳は松岡の顔をじっと見つめながら聞いた。
「斬った者を、誰か見てはおらんのか」
「はい」
「声もか」
「……はい」
……白昼堂々、何たる事か。
式巳は呻いた。
「ならばもうよい。お前は女房殿とお子をここに呼んでやれ」
はい、と返事をして門下生は足早に去っていった。
式巳は後ろ手に襖を閉める。
そして松岡の死に顔に一礼すると、血糊にまみれた着衣を剥がすようにはだけていった。ぞっとするほど冷たく、硬くなりはじめている身体をそっと反転させ、背中をのぞき込むとその背中には斬撃のあとが口を空けている。特に無残なのは右の肩口だった。頭上から幅広い刀をえぐりこませたような深い傷があり、そこから斜めに傷口が尾をひいている。肩の白い骨が折れて肉の中からはみ出している。
その傷口を見て、式巳はその時に何が起こったかを推量し始めた。
……傷の角が高く、深すぎる。相手は頭上から松岡を襲ったのだ。廊下の天井か、あるいは厠あたりか。道場に忍び込んで息を殺して時を待ち、松岡が来るのを見計らって飛び降りざま刀を突き立て、止めに喉を裂いた。
……これはもう剣人の戦いでは、無い。
式巳は俯いたまま首を振った。
松岡の身体を仰向けに戻しながら着衣を正す。と、その時、式巳はその歯間に白い紙片が挟まっているのに不意に気づいた。
「御免」
式巳は呟いてそっと松岡の顎に手のひらをのせ、下に向かって力を込めた。顎に強い抵抗がありその作業にはかなりの力を要したが、やがて松岡の口が貝のように開くと、中には丸められた半紙が無造作に突っ込んであった。
式巳は眉をしかめ、その唾液と血にまみれた紙片を取り出して広げた。
「外 道 来」
やはりその、血文字があった。式巳が目を細めてさらに半紙をひろげると、そこにはもう一枚、丸められた書状がそこには重ねられていた。
「果たし状
式巳雨月殿
今夜半、砂村穏亡堀にて待つ。
墓上外道」
たどたどしく書かれた血の字をたどり終わると、式巳はただ静かにその半紙を握りつぶした。
天井裏にひそんだ悪鬼。その姿を思い描きながら式巳は傍らにある三尺三寸の長物を掴み、ゆっくりと刀を立てて鍔を目の高さに構える。
「金、打」
唱え、鞘から刀をほんの少しだけ抜き再び、かきん、と音を立てて戻す。それは決して破ることのできぬ死者との誓いだった。
血が振る。
殺し合いが始まる。
誓いは式巳のなかに久方ぶりの静かな怒りと、緊張と、そして残虐を思い起こさせた。
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