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……舞っている。
僥倖の中を、蝶が舞っている。
一匹や二匹ではない、数え切れぬ無数の銀色蝶が江角新蔵の周囲を軽やかに飛び回っている。
やがて蝶の群れは次第に列をなし、彼を中心に嵐のごとき回転を始める。
新蔵は夢想の中で半眼のまま跪いていた。その女人の様にしなやかな肢体は薄く筋肉を纏い、そしてその股間、一物があるべき場所には大輪の花が咲き赤い花弁が大きく口を開けている。
不意に蝶の群れのなかから、人間の頭ほどもある一際大きなものが新蔵の眼前に躍り出る。曼陀羅模様を羽に描いたそれは、紫の甘いりんぷんを撒きながら羽ばたき、空中で真二つに散華する。
新蔵は恍惚としてその匂いを嗅ぎ、目を閉じて吐息をもらした。
吐息を浴びて、銀色の蝶達はその羽の色をますます輝かせる。 曼陀羅模様の蝶は真二つになってなおも羽ばたきながら、新蔵の股間に咲いた花へと舞い降り、その蜜を吸おうと首を折ってゆく…
「新蔵様」
襖の向こうから呼びかける男の声が、新蔵の夢想を遮った。
「新蔵様」
もう一度、せかす様な調子で声が呼んだ。
「……聞こえて、おる」
部屋の壁にもたれかかったまま、新蔵が表情のない声で言葉を返す。その傍らには竹筒の先に象牙の飾りがついた煙管が落ちており、筒の先からは今も細い紫煙が幽かに立ち上っている。
「浦上様がお着きになりました。講堂の方へお願いします」
新蔵が立ち上がって襖を開けると、廊下では世話役の島田が頭を下げて迎えた。島田が歩くその後を新蔵は進む。だが、その足取りはまだ夢からさめぬようにおぼつかない。その着衣も胸元を大きくはだけさせ、きちりと留められていない腰の物が、進む度にかちゃかちゃと音をたてている。
その島田は新蔵の世話役について一年になる。だが、自分の後ろを夢遊病のように歩いているこの男が何を考えているのかを、今だ全く計りかねていた。こうして歩いている時にも、訳もなく不意に刀を抜かれるのでは無いかと言う恐怖が拭い去れない。島田は今日も動揺を押し殺すようにして勤めを果たしていた。
数十年前に江角流斎がその門を開き、今や音無川北岸に家屋十件超の敷地をもつ江角一刀流本道場。その夜更けの講堂には燭台が置かれ、薄暗い中には何人かの男たちが座して二人を待っている。島田が促して、新蔵はその講堂に足を踏み入れた。
江角一刀流先代当主・江角流斎
江角一刀流当主・江角新蔵
本道場筆頭師範・門ノ倉雷膳
榊道場・榊鹿之助
浦上道場・浦上清景
同、浦上道場・浦上正景
車座に座った男達の中心には二本の刀が重ねて置かれており、その両方共、柄頭に白鷺を模した紋様が刻まれて、目貫きには赤銅金色絵草花の図がある。
”滝落”
”八重”
俗称をそう名付けられたその二本の主達は、もうこの世には、いない。
「最早、皆様方承知の事とは思うが」
最初にそう声をあげたのは門ノ倉雷膳だった。身の丈が異様に高く、練り鍛えられた筋肉の隆起が服の上からも見て取れる。皮膚の色は渋色をしており、唇に色はなく、ただ眼光が鋭い。その仁王像のような外見にたがわず声は地鳴りのように響いた。
「数見双洋殿と松岡長門殿は、黄泉へと下った」
満場の男達の眼は、じっと二本の刀を捉えている。
「流斎様から目録切り紙を受けたものが七人、うち二人が斬られたとなれば、その狙いはおのずと明白」
「次に刃が向くのは、我らのうちの誰かか」
榊が深い皺の刻まれた顔を見回して言った。
「まあ、それもおのずと知れる事だが……」
「悠長な!」
榊の醒めたような弱気な口調に対し、浦上正景が声を荒げた。
「数見と松岡の道場の者も、大半はもう戻るまい。またこの度のこと、すでに市中へもあらぬ噂が広まりつつある。このままでは流派の沽券にもかかわりましょう」
清景が口添える。
「うむ。しかし相手も分からぬことには」
年長者らしく、榊は一応のたしなめを口にする。
「おりからの凶作で江戸市中も今だ無宿人や不逞浪人があふれておる。幼子のかどわかしや押込みの噂も後をたたん。どこぞの物狂いの仕業かもしれんぞ」
「榊殿。何処の烏滸が、押し込みにわざわざ剣の道場を狙うのだ」
正景はなおいきり立って、正面に座る榊に食い付いた。
「疑わしきは、片端から斬り捨ててゆけば良い。まずは芦花、我らに遺恨持つ奴らの事、たとえ見当が外れたとしても世間の道理は許すであろう」
老齢に達しつつある榊は、その勢いに押されて静かにかぶりを振る。
「京次」
突然、誰にいうでもなく呟いた新蔵の言葉を、皆は聞き逃した。
「新蔵様、何と申されましたか」
「京次が黄泉より戻ってきたのだ」
門ノ倉に問われて、新蔵は笑いながら繰り返した。
江角京次。この場にいる全ての者がその名前を知っていた。満場にはざわめきととまどいが流れた。
「失礼ながら、死人が黄泉返るとは、おだやかではありませんな」
皮肉な口調で清景がまぜかえす。
「外道を名乗り、江角に仇なす。まさに奴らしい転業であろうが」
「そのような名前のもの、江角には、おらぬ」
押し黙っていた流斎が低く、しかし反論を許さぬ口調で新蔵の言葉を遮った。
江角流斎。
齡六十を超え、その髪と鬚はすでに幽鬼の様に白く、白鷺の紋様が描かれた黒小袖に包まれたその体躯も痩せ衰えている。それでもなおその眼光は餓えた虎のように鋭く、呪禁のような物言いに言葉を返せる者は、この座にはいなかった。
新蔵もまた、うなだれておし黙る。
「榊」
「は、は」
「座して風が止むのを待つのが、望みか」
「い、いえ、そうようなつもりは毛頭…」
問われた榊はうろたえ、両手を眼前で振った。
「成さねばならぬ事は只一つ」
流斎は満座を眺めながら続けた。
「剣にてうけた汚辱は剣でしか返せん。そうであろう、正景よ」
「……は」
正景はその頑強な体躯に似合ない怯えさえも眼に浮かべ、緊張ぎみに頭を下げて応じた。
「江角一刀流の剣、よもや畜生外道に遅れをとるまいな」
威圧が満場を支配した。
無論、剣の道場が闇討ちにあって世間の許すはずもなく、例え己が斬られずともこのままにいれば彼等には剣人としての実質的な死が待っている。
命にかけて、意趣を返せ。流斎の言葉は満場の者にその覚悟を促していた。
そんな沈黙の中、新蔵は小さく、ごく小さく舌打ちをした。
「……島田、そういえば式巳は戻っておらんのか」
榊が重い沈黙を打ち払うように聞いた。
「は、道場の使いのものによれば、数日前より多摩へ刀研ぎにでて今だ帰らぬとの事。気掛かりではありますが……」
島田は誰からか叱責をうけるのではないかというような困り顔で答えた。
むう、と榊が唸る。
満座の者共は再び押し黙った。
窓から吹き込んだ夜風が、燭台に乗せられた蝋燭の炎を激しく揺さぶっていた。
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その頃、一梃の町駕篭が永代橋を向島へ渡っていた。
辺りはすでに暗く、眼下の隅田川は黒々と流れている。
駕篭に揺られながら、式巳はゆっくりと時間をかけて目を閉じていく。
細く心を保つ。石を穿つ水滴のように。
式巳はそうすることで聴覚を冴えさせ、空気や気配の流れを鋭敏に感じとっていった。更に式巳はその呼吸を、呼気、吸気ともに倍の時間をかけて行った。
次第に五感を超えた何かが、蝙蝠のように鋭敏に気配を感じ取っていく。
聞こえてくる駕篭かきの呼吸、草履の足音、後ろには墨田の流れ。やがて太鼓橋を抜け、その足音が変わる。遠くの虫の音が近づいては脇を通り過ぎていく。
……感じる。
研ぎ澄まされている、と式巳は感じた。視力に頼れない式巳にとって、この感覚こそが勝負の生命線である。
不意に、身体に震えが走った。外の気温は低いが、それは寒さからではなかった。式巳はその緊張を懐かしく思った。
……あと半刻。
式巳は三尺三寸の長刀”白波返”を手になじませるように撫でてその時を待った。
その時。
突然、ぱーん、という何かが破裂したような音が闇夜にひびいた。
駕篭は、前のめりに投げ出されて地面に落下する。式巳はその中で咄嗟に受け身を取っていた。
「ひ……や、やめてくれえ!」
駕篭かきの悲鳴、走り逃げる足音、追いかける何者か、そして続けざまに振り下ろされた剣が肉を断つ音。断末魔。すべては一瞬で終わった。
次には駕篭を包囲するように、じゃり、じゃりと何人かの砂を踏む音が近づいてくる。
前、斜め右後ろ、左後ろ、少なくとも三人。やがて足音は止まり、男たちの息遣いがかすかに聞こえてくる。
眼を閉じたまま、式巳はその呼吸の間隔を読んだ。
一人の男が息を大きめに吸った。
……来るか。
式巳は床を蹴り、弾かれたように駕篭を転がり出る。ほぼ同時に駕篭は三人の剣で貫かれていた。
もう一度地を蹴って飛び、式巳は男たちに向き直る。
駕篭かきの死体がぼんやりと目に入った。大の字になって額から血を流している。少し離れた道の先には、もう一人も背中を袈裟に斬られて息絶えている。
男たちは錆の浮いたぼろぼろの剣を駕篭から抜いて、式巳を睨みつける。
色も判らぬほどの薄汚い肩衣、ぼさぼさの髭と髪、垢にまみれ荒れた肌。そのなりは一目で野伏、夜盗のそれと分かった。
男達は式巳に容赦ない害意を向けている。しかし式巳の視線はその三人を通り越し、闇に立つもう一人の男に注がれていた。
「……貴様が外道か」
その男は小柄で、なりも三人に比べて小綺麗だった。だがその手には火縄拳銃を構えており、先ほどの発砲で筒先からは硝煙が揺らめいている。闇に隠れ、その表情は伺い知れない。
「あああ!?」
必要以上の大声で、夜盗三人のうち一人の禿頭が凄んだ。
「ついてねえぜ、見ろ、貧乏浪人だ。ごたいそうに町駕篭なんか使いやがって」
「そうでもねえ。あの着物と刀は良さそうだ」
残りの二人、髭面と猪首も文句を言いながら左右に展開する。
だが式巳はその三人など全く眼中に入らぬように、ずかずかと拳銃の男に向かって歩を進めた。
じりじりと男たちは距離をとりながら包囲を狭める。と、突然、式巳は倒れるように片膝をついた。
「そらあああ!」
すかさず、雄叫びをあげて禿頭が正面から飛び掛かる。
ほぼそれと同時に、式巳はしゃがんだ姿勢のままに”白波返”を抜刀した。
大蛇が獲物を食らう様に、式巳の腕と剣が地から走り、襲う。
一瞬だった。
禿頭は頭頂から顎までを二つに断たれた。割れた頭骨の間から血が噴水のように高く高く吹き出している。
同じく刀をつかんだまま斬られて飛んだ彼の手首が、弧を描いて遠くぼとりと地面におちた。
かきん、と刀を鞘に戻して、式巳は再び歩き出した。
相手の剣を切り上げ、返す刀で脳天へ。その技の名を一刀流居合「夕陽」といった。
「な、なんだあああ!」
禿頭の死体が崩れおちると、今度は夜盗たちが悲鳴を上げる番だった。
……笑っているな、わしの顔は。
式巳は剣を振るった瞬間から自分のなかに湧き出してくる何かを自覚して、思った。
……哀れな虫けらめ。怯えよ。
それは愉悦だった。そのこぼれてくる感情を堪えられなかった。
式巳は口端を鋭く吊り上げ、凄惨に笑んでいた。
予想外の事に呆然としていた拳銃の男が我に帰ってその銃口を式巳にむける。
しかし時遅く、最早、男は式巳の抜刀間合いに入っていた。
飛ぶように踏み込み、式巳はまず火縄拳銃を持った腕を下から斬りつけ、刀を返して再び斬り下げる。
指の何本かが拳銃とともにふき飛び、斬り下げた刀で肘の腱と動脈がごっそりと断たれた。
「うわあああ!」
襲ってきた激痛に男は悲鳴をあげた。骨が割れ、はみ出し、右腕が腕とも呼べぬ滅茶苦茶な形状に成り果てていた。
「ち、畜生!」
叫び声をあげながら残りの二人が背後より刀を振り上げ、斜太刀に襲い掛かってくる。
式巳は身体を一瞬沈め、反転させながら竜巻のように横薙ぎに刀を振る。
一撃目で、刀を振り上げた鬚面の喉と猪首の額が割れた。
「こっ!」
返しの二撃目で更に猪首の胸、鬚面の腹が真一文字に裂ける。
二人は吹き飛ばされるように倒れ、もがき、はみ出た臓腑を抱えて唸りはじめた。己の内臓が魚のはらわたのように吹き出してくる。想像を絶する苦痛に、呼吸ができない。しかしまだ数刻は死ねない。徐々に迫ってくる死を苦悶の中で待つその様は、まるで地獄で鬼に責め苦を受ける亡者達のようだった。
式巳は二人の男達に背をむけ、再び拳銃の男へ向き直る。
「貴様が外道か」
「いっ……」
出血の止まらぬ右手を抱えて、男が震えた。
構わず式巳は剣先を男の喉に向け、刃が触れるまでに近づけて聞いた。
「どうした。外道、それが貴様の名ではないのか」
「……は……」
「では、問いを変えるか。誰ぞに頼まれて、わしを襲ったのか?」
「……」
男の呼吸はどんどん荒くなっていき、苦しみからか口から言葉がでてこない。
式巳は容赦なく切っ先を喉にほんの少しだけ刺した。
つつ、と鮮血が流れ出す。
「俺は、知らねえ、……おれ……」
「これは貴様の生業か」
男は何度も頷いた。
「運が無かったな」
式巳は刀を下ろすと、一振りして四人分の血と脂を払った。骨を幾度か断ったにもかかわらず、刃文はこぼれ一つせずに、金筋は月明かりを受けてぎらぎらと輝き、地肌にはうっすらと八雲肌が浮かんでいる。
良い研ぎだ。
式巳は満足して刀を鞘に戻した。
名もわからぬの小男の喉からひゅう、という息が漏れ出した。顔色はいよいよ白く、足元にはすでに血溜まりがひろがり、右腕の出血も止まる見込みがない。
もう助かるまい。
式巳は男に背を向けて歩き出した。先程横薙ぎに斬られた二人は、苦悶の張り付いた顔を地面に突っ伏してすでに事切れている。式巳はその骸など眼中に入らぬように悠然と歩きながら、砂村までの道のりを思案し始めた。
堀川から扇橋を渡った砂村の一角、近くに火葬場を持ったその掘割は「穏亡堀」と呼ばれていた。両向かいに柳の木が立ち並び、赤土が盛られた一本道の左右は深い掘となっており、水際には菖蒲が群生している。見るに陰鬱な光景だった。
式巳がその一角に立ち入ると、草蔭より数羽の烏がぎゃあ、ぎゃあ、と鳴いて舞い上がった。
……匂う。血の匂いだ。
冷たい一陣の風が柳を揺らす。式巳は道の先を睨み、その歩を止めた。
呼応するように、烏舞飛ぶ暗闇の中からその男はゆっくりと現れた。
闇に溶け込むような様相ながら、その髪が抜けるように白い。男、外道は数見道場に現れたときの風貌に加えて、さらに背中には一本の卒塔婆を背負っていた。その右手には、既にあの木剣がしかと握られている。
……狂った出で立ち、ふさわしい。まさに悪鬼。
痩身のその男を見て式見は唇を歪めた。
最初に式巳はそう声をかけた。
外道は言葉を返す代わりに、く、と笑った。
「江角一刀流剣士、式巳雨月」
「墓上……外道」
その距離、十歩あまり。名乗りをあげ、二人は相対した。
「刀を交える前にひとつ、聞いておきたい」
低い声で式巳は外道に問いかけた。
「貴様、何ゆえにわしら江角一刀流を狙う。貴様は、何処の何者だ」
その言葉に外道は顔を伏せ、再び間をおいて面を上げた。
「種を蒔き、水をさし」
雲間が晴れ、月光がかすかに外道の顔を照らした。
「それでてめえは何故、花が咲くのかと問うのか、盲」
その顔は、唇を吊り上げて笑っていた。しかし、式巳にはその表情が伝えるものが嘲笑であると同時に、堪えきれぬ憤怒のようでもあり、激しい慟哭であるようにも見えた。
外道は最後にそう吐き捨てた。
だが、式巳は言葉を返さない。
……やはり問答など無用。ただ、斬るのみ。
鍛え上げられた鉄が身体に潜り、肉を裂き骨を砕く。鮮血がしぶく。式巳の手は先刻の感覚を明確に思い出していた。
返事にかわり、式巳は片足を大きく踏み出し腰に構えた柄を握る。
一刀流居合い、起居の構え。
もともと返事など期待していなかったように、外道も木剣を片手下段に構える。
「抜け」
式巳は静かに言った。
「抜いておけ。さもなくば貴様、白刃をさらすことなく息絶えるぞ」
外道の木剣が仕込みである事、式巳には見えた。
く、く、くと笑って外道は応じた。
一歩、二歩。月を背負うように歩を進めながら、外道は仕込み木剣の柄を握りひねるとゆっくりと抜刀した。刀身が蛇の鱗のようにぬめりとした光を放つ。その身幅は広く、鎬が高い。切れ味を捨て、頑強さだけが取り柄のもののように見える。
式巳は構えのまま微動だにしない。相手の剣のおこりを抑え、先んじて斬る。式巳は先の先を狙い、外道の剣に全意識を集中した。
踏み込んで居合いをうつ間合いにはまだ少し遠い。
……まともに斬りあうつもりでもあるまい。外道、何を狙う?いや、最早考えるまい。
p式巳は沸き上がろうとするその疑問を封じた。あと一歩。これを縮めれば、外道がいかなる外法を使おうとももはや遅い。瞬速の居合い抜きが剣をはね脳天を砕く。
外道は間合いを縮めず、遠ざけず、式巳を中心に円を描くようにじりじりと摺り足を使う。
しかしその背後には、次第に堀淵が近づいている。
烏が再び、高く鳴いて飛び立った。
合わせて外道は一歩踏み込み、左の義手で抜刀した鞘を頭上に振り上げる。
……打つ?投げる?
……遅いわ!
刹那、式巳は抜刀の構えのまま、弾かれたように跳躍した。
逆光に外道の顔は見えない。しかしその眼だけが光り、哂っていた。
次の瞬間、式巳の踏み込んだ足はそのまま地を突き抜け、身体は暗闇に潜った。
天地を失い、口を塞がれたように息が止まる。粘りつく何かが身体の自由を奪う。
落とし穴。いや、それは深い沼だった。
江戸初期に新田開発をされるまで、ここ砂村はもともと海岸の寄り州だった。ところにより草地にも卑湿さがのこり、草履ものめりこむほどに緩い。
外道は何日か前の大雨で沼のように弛みきったこの一角に土を撒き、自分の足取り場所の土だけを固めて式巳を誘い込んだのだ。
何たる事か!
……計られた。いや。斬ることの欲心に、心を奪われてしまった。
……己の剣に、負けたのだ。白刃をさらせぬのが己の方であったとは!
泥土のなかに突き落とされて自失しながら、式巳は自分を激しく叱責した。
……一太刀。
……我が剣を、せめて一太刀!
式巳は泥土の中でなお長刀のありかを探り、抜刀せんともがく。
しかし既に、外道は満月を背に負って中空高く飛び上がり、その刃を突き立てんと刀を抱いて落下していた。
脊髄に死神の手のように冷たい鉄先を感じた時、式巳は己が歩んできた道の全てが終わったことを悟った。
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翌朝。
深川の鎮守、砂村元八幡の辻に人だかりはいよいよ黒く、その数を増していた。遠巻きにその人の群れを覗き込む者、仲間内にしたり顔で自説をぶつ者、ざわめきに引かれて次から次へと野次馬が集まってくる。八幡参りの客も皆が足を止めてその騒ぎに見入っていた。
「のけ、のけい!」
叫ぶ声が人並みをかきわけてその中心に進んでいった。
浦上正景だった。
乱暴に押しのけられた人々は不服を口にしようとするが、それが浦上、江角一刀流の道場主とわかると慌ててその場を退いた。
後ろからは清景が続く。
やがて人だかりの中心にたどり着き、浦上はぬうう、と歯をきしらせて唸った。
そこには既に事切れた式巳雨月が、胡坐をかかされて座っていた。死を覚悟して眼を閉じた、静かな死に顔だった。しかしその顔と着物は泥と血にまみれ、合戦場の死体を思い起こさせる程の様相だった。
さらには死体が倒れぬためか、一本の卒塔婆が着物の背中を通って地面に差してあった。
卒塔婆には墨字で何事かが刻まれている。その字面が正景の憤怒をさらにかきたてた。
「江角一刀流剣士 胴慾盲三本指居士」
残忍な、人外の、盲。
それは侮辱と嘲りをこめた、からかいの戒名だった。
「おおのれえええ!」
正景は血管も破れんばかりに顔を赤く染めて叫び、力任せに卒塔婆を引き抜いて、叩き付け、踏み折った。
支えを無くした式巳の死体がゆっくりと横倒しに倒れる。
その様に人の輪がわっと遠ざかり、蜘蛛の子を散らすように散った。
清景はその様子を一歩下がって眺めつつ、しかし内心少なからず衝撃をうけていた。
正直、道場につききりの数見や松岡が不意打ちに斬られたのは、ある程度合点がいく。しかし式巳の剣力は清景も認めるところであり、その力は道場の外でこそ発揮される部類のものであったはずだ。しかし。
一方、正景の怒りは単純だった。その怒りは式巳に対する憐憫ではなく、己の流派への侮辱と次に姿の見えぬ敵への苛立ちと焦りからきている。正景はその結論とはけ口を、今すぐにでも欲しがっていた。
倒れた式巳の懐には”白波返”が抱かれていた。
「島田あ!」
正景が遠巻きにこちらを見ている島田に向かって怒鳴った。
「は、は!」
名を呼ばれ、訳もわからずに慌てて島田は兄弟の下へ駆け寄ってくる。
その横面を正景はいきなり裏拳で殴った。
島田はもんどりうって倒れ、呆然とした顔で正景を見上げる。殴られた頬がみるみるうちに赤く膨れてくる。
「貴様松岡と式巳に何を伝えにいったのだ!わずか三日のうちに二人も死におったわ!」
言いがかりだった。それでも島田はすみません、すみませんと悲鳴のような声で答え頭を地につけて詫びた。
清景は犬の喧嘩でも見る様な冷たい眼でその様子を見ていたが、ふと気配を感じて視線を周囲に走らせた。
その眼が、男女二人の獲物をそこに捕らえた。
「正」
清景が呼びかけ、正景もその視線の先を追う。
元八幡の大鳥居の下、そこには芦花円香と相馬の二人がおり、遠目にこちらをうかがっていた。円香は式巳の死に様を見てか、顔面が蒼白になっている。
「……これはこれは、芦花のお二方」
正景は最早その敵意を隠すのもやめた。傲然と歩み寄る獣のような正景の視線から守るように、相馬は円香を一歩下がらせて、自分の陰においた。
「朝早くからお仲良く、逢引きでもされておったのですかな」
「祖父の容態が思わしくないので、八幡へお参りにきたのです」
震えた声をなんとか隠そうと、円香は気丈に答えた。
「あの、亡くなった方は、江角流の門人なのですか」
「さあ、それはそちらの方がお詳しいのではないですか、なあ、相馬」
正景は言って、相馬の眼を睨みつけた。
「言いがかるな。お、俺はお前らのほかに、え、江角のものなど、知らん」
相馬は真っ向からその視線を受け止め、言葉を返す。
「式巳の居合いはどうであった?手こずったか?手傷を負っておらんところをみると、蚊トンボの太刀はさぞかし速いのだな」
「誰彼構わず、刃をかざす、お前と、い、一緒にするな」
「我等にも、良い戒名をくれるか」
正景は激情のままに声を荒げ、一歩も譲らずに相馬を挑発した。
「浦上様、このような所業、われらのうちの者ではあるはずがありません。無体が過ぎます!」
「無体?しらじらしいわ」
円香がかばおうと声をあげると、正景は怒声をあげて、告げた。
「芦花道場、相馬迭。卑劣なる姦計にて討ち果てし三人の門人に代わり、江角一刀流、浦上正景が立会いを所望いたす」
「……!」
円香は息を飲んだ。
胴間声は周囲の野次馬達にまで響き、なりゆきを眺めていた彼らはざわめき始める。
「仇討ちだ」という声がそこらからかかる。
「明晩、そちらの道場へむかう。よもや逃げるまいな、犬が」
後ろで清景がふ、と鼻をならして笑った。
相馬は慌てて返す言葉を選んだ。このままでは、自分はもとより芦花道場の存亡が問われる。それは相馬にとって、己の命に代えても守らねばならぬと誓った全てを失うに等しかった。
「き、斬り合いがしたくば、何時でもしてやる。だが道場を名を賭しての、そ、そのような立会い、うける謂れなどな、俺にはない!」
「ならば貴様にかわり、円香殿に剣の御教授でも頂くまでよ」
相馬の拒絶など見越してか、正景はそう言って円香の細い身体を舐めるように見た。その眼が、女の白い襟首や隠された胸を這い回る。
あからさまな情欲にさらされ、円香の眼に怯えの色が浮かぶ。
相馬はぎり、と奥歯を噛んだ。
「島田、式巳の亡骸を連れ帰っておけ」
振りかえって、立ちすくんだままの島田にそう告げると、兄弟はその返事も待たずに歩き出していった。
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
「諸行無常……是生滅法……生威滅已……寂滅為楽……」
読経の音が、板の間に低く響いていた。
主と弟子を失った松岡道場の板間は、ただ無用に広く見えた。板目張りの壁にはこれから誰に握られることもないだろう木剣が、何本か掛けられたままとなっている。
読経の主は門ノ倉雷膳だった。彼は無人の道場に一人立って眼を瞑り、誰もいない上座に手を合わせている。その様相は彼の風貌と相まって、まるで仏閣の立像を思わせた。
彼は数日前にも数見道場に立ち、同様に一人で弔いの経を唱えている。道場も主もまさにこれからという時に、その道はあっさりと断たれた。
……万物が無常とはいえ、あまりに儚い。
だが門ノ倉はそのような雑念を払い、ひたすらに寂滅の境地を目指し経を繰り返した。
「門ノ倉様」
中庭から声がかかり、門ノ倉はゆっくりと目を開けて道場を後にする。外にはさんさんと陽光がさしており、その眩しさに門ノ倉は目を細めた。
中庭には旅支度を済ませた五人の門下生、松岡の妻、朱美と一子、幸、そして当主、江角新蔵が立っている。
五人と朱美が、門ノ倉の姿を見て頭を深々と下げた。
「そろそろ、出立いたします。わざわざ御出でいただき、有難うございました」
「どうしても行くか」
門ノ倉は五人を前に、もう一度だけそれを聞いた。
「榊殿の道場や、我らの所で世話をしてやっても良いのだぞ」
それでも彼らの決意は固かった。五人のうちから一人が進み出て答えた。
「もったいないお言葉です。しかしながら我らの師は、松岡長門と式巳雨月」
「……そうか」
「我らは、師より教わったこの剣を守り続けていきたいのです」
松岡道場の大半の弟子たちは今回の騒動を目の当たりにして、江角一刀流を捨て他流の道場へ移っていった。なかには恐れから剣を取るのをやめてしまった者もいると聞く。
そのような中、師より学んだ剣を鍛える為と諸国修行に出るこの五人を、門ノ倉は惜しむような眼で眺めた。
「道中、気をつけられよ」
は、と返事をすると旅笠をかぶり、五人のものどもは順々に門ノ倉に、朱美に、新蔵にと頭を下げて道場を去っていった。
朱美は我が子の手をしっかりと握り、複雑な心境でその後ろ姿を眺めている。
「武人の妻としては、松岡の剣が彼等を育てたと、喜ぶべきなのでしょうか」
朱美はふ、と眼を伏せて、門ノ倉に問いかけた。
「私には到底、そう思えません」
朱美は松岡よりも十は若い。しかし紅を赤くひいた朱美の横顔は、ここ数日で急に老け込んだように消耗して見えた。目尻の皺は幾重にも重なり、唇は乾きしおれている。
「剣が松岡の命を奪い、式巳様の命を奪い、彼等の弟子の剣がまた誰かの命を奪う。どこまでも際限なく続く憎しみと、哀しみの連鎖……これはまさに因果の小車ではありませんか」
言い終わって門ノ倉の視線を感じ、朱美は深く頭をさげた。言い過ぎたかとは思ったが、夫を失った悲しみから自暴自棄になったように言葉があふれ出てしまった。
「申し訳ありません、門ノ倉様にこのようなつまらぬお話。女の戯言と、お聞き流してくださいませ」
「いや」
門ノ倉は朱美に頭をあげさせ、噛み締める様に言った。
「剣を持たぬものに累加及ぶとなれば、これは我らが不徳のいたすところ。朱美殿には苦労をかける」
「……良いのです。いつかこのような日のくる事、覚悟はして参りました」
門ノ倉の言葉に、小さく朱美は微笑んだ。
「私共は家に戻ります。……この子の幸せが、これからの私の生きるよりしろ。ね、幸」
名前を呼ばれて突然母と門ノ倉の注目を浴び、幸は訳も分からずに破顔した。五つになったばかりの無邪気な少女の振る舞いは、門ノ倉の頬を緩ませた。
離れた所に立っていた新蔵が、そんな様子を見て三人に近付いてくる。
その時、一羽の揚羽蝶がどこからか飛んできて、ひらりと幸の前を横切った。
「あ、蝶々」
幸が指差して言う。
「蝶々は好きか?」
「うん」
「とって、やろうか」
言って新蔵は蝶の動きを目で追った。
朱美がたしなめるのも聞かずに、もう一度うん。と幸が無邪気に答える。
新蔵は身体を動かさない。その周りを軽やかに、舞うように飛ぶ蝶が急に彼の右手へと向きを変える。
次の瞬間、蝶は新蔵の刀に胴体を両断されて、刃の上に乗っていた。
剣筋はやはり、誰の眼にも見えなかった。
場が凍りついた。
「ほら、綺麗だろう」
羽を二つにされてひくひくと蠢く蝶を刃に乗せ、恍惚した表情で新蔵はその切っ先を幸に向けた。
剣を突きつけられたまま幸は両の眼を見開いて、呆然と突っ立っている。
「お、お戯れを……」
朱美が慌てて、娘の手をひいた。
幸は口を二度ぱくぱく、とさせて新蔵から眼を逸らせずにいる。
……これが、この男が亡夫が仕えていた江角流の当主なのか。
朱美はこれまでに松岡の道場で二、三度見かけた以外、新蔵を知らなかった。女のような、顔だちの整った美しい男だったが、その眼が虚ろであったのを朧げに覚えている。
邪悪なものの眼に触れさせまいとかばうように、朱美は幸を己の背後に隠し、怯えて後ずさった。
その様子を見て新蔵は剣先を持ち上げてふふ、と笑い、蝶の死骸を手の平に移してその羽を撫でた。
眼の焦点が合っていない。
その異様な光景に門ノ倉は唾を飲み、話す言葉を失っていた。
「なあ、雷膳。奴らはどのような屍をさらすのだろうな」
新蔵はそんな周囲の反応など意に介さぬように、遠く、点のように小さくなった門下生達の姿を見て、一人呟くように言った。
「弱きものがいくら群れたところで、所詮烏合の衆。突かれるか、裂かれるか…」
「新蔵様」
門ノ倉は神妙な口調で控えながらに、たしなめた。
「今しがた、師を斬られた奴等の心中いかばかりか、察する事はできますまいか」
「は!」
新蔵は弾けるように一言、笑った。
「斬られたのは、弱いからよ。弱いから、死んだ。他に何がある?流斎からして、白鷺の紋様奴等に与えたのがそもそもの誤りよ」
言いながら新蔵は蝶の羽ををくしゃくしゃと握りつぶし、己の手にある刀剣をまるで女体のように見入った。
”導亜”
その刀は鎬造りの横手がなく、菖蒲造りとなっていた。身幅は細く、匂い出木に焼かれた刃文は絹のように光っている。柄頭にはやはり白鷺が舞っていた。新蔵は更にこの刀からわざと鍔を外している。それは己の剣が鍔競り合いになど決してならぬという強烈な自負の現れだった。
「さて、浦上のご両人はどうだろうな。奴等が切り紙を受けた時の剣筋は、松岡などよりは幾分ましであったように思うがな」
何かを思い出すように話しながら、新蔵は愉悦の表情を門ノ倉に向けた。
新蔵には何かが欠けていた。
そしてその欠けた部分を補っているものは、どす黒い瞳のなかにとぐろを巻いて、再びその発芽の時を待っているようだった。
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