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古屋敷の中は寒々とした空気が流れていた。奥の間、敷かれた布団の枕元では飾り物の無い行灯が伏せる老翁の顔を残酷に照らし出している。
芦花慈円。頭髪は既に無く、生えた白鬚と深い皺はその衰を浮かび上がらせ、ぞっとするほどに乾いていた肌は死人のもののようでさえあった。
慈円はもはや身体を起こす力も失い、意識の混濁している時間も日増しに多くなっている。ここにきて、老いと病が彼の心と身体を容赦なく蝕んでいた。円香がまだ幼いころ、彼女を肩車にして矍鑠と笑っていたあの姿の片鱗も、ここには残っていない。最後に言葉を交わしたのは一体何時の事だっただろうか、と円香は考えた。
思えば道場において、慈円は常に穏やかだった。一刀流を修めた剣力はもとより、その人格を慕って集まった門人も数多い。数年前から弟子達の指導を一子、義心に譲ってからは、ますます道場の和を尊ばんとしたとその風情にも磨きがかかっていた。義心の死さえなければ、彼は悠々たる隠居生活を送っていたはずなのに。
円香は湿らせた綿を慈円の唇に触れさせ、水を吸わせた。
こくり、と小さく喉が鳴る。
「お祖父様」
小さく声をかけた。
ぴくり、と瞼が一度動いたが、返事はない。慈円は今も深いまどろみの中にいるようだった。
「申し訳ありません。我ら芦花流、今宵が剣が峰となりました」
言って円香の瞳がうっすらと濡れた。つとめて弟子達には弱味を見せまいと堪えてきたものが、一人になって心に湧き出してくるようであった。
「私が、もっと……」
その涙こそが憎かった。
この期に及んでも祈る事しかできない円香は、女であるその身を悔やんだ。父の死より二年、円香は女らしい己の生活一切を捨て、身体に無理を強いしての稽古に明け暮れた。白く細やかな手には血豆が潰れ、痣を作っての打稽古にも命をかけた。しかしそれが父、義心をも葬った浦上兄弟に通じる剣であるとは到底思えなかった。
もどかしかった。
自分にできる事は何なのか、何も見出せぬまま時は迫っている。
「道場を、相馬を、お守りください」
慈円はただ眠るように深い息を漏らしている。行灯のあかりを凝らし、涙を拭って赤い眼をごしごしと擦ると円香は慈円に一礼して立ち上がった。
廊下には相馬が控えていた。
今しがた、三千の素振りを終えたその身体からは、湯気が陽炎のように立ち上っている。
「すみません。待たせました」
円香の言葉に相馬はただ頭を下げ、二人はゆっくりと連れ立って道場へ続く廊下を歩き出した。
二人は互いに何かを言わなくてはならないとは思い、しかし何を言えば良いのかが分からずにいた。ただきしきしと、廊下の床板がきしむ音だけが夜に空しく響く。
「……嬢さま」
道場の戸口が近づいてくると、相馬は静かな声で、ただ前方を眺めながら言った。
「先代、先々代より受けた御恩、か、返す時が、きました」
円香はその口調に心を衝かれ、立ち止まった。
「よいか、嬢さま。お、俺が浦上正景を前に、討ち果てる事あれば、道場のもの、そ、総掛かりで、二人を討つのです」
その落ち着いた声は、決して揺るぐ事のない不退転の決意に満ちていた。
「……相馬」
円香は小さく呼びかけた。
「あなたは覚えていますか。この道場へやってきた頃の事」
相馬は再び歩みだそうとして、背を向けたまま円花の声を聞いた。
「私はあの頃、母を失ってとても寂しくて。相馬が我儘を聞いてくれると、兄さまができたようでとても嬉しかった。ふたりで芝浦や洲崎へ、よく潮干狩りに行きましたね」
押さえ込んでいた感情が、堰を切ってあふれだしてきた。言いたい事は、こんな事ではないのに。時間が足りない。あと数歩、道場へ進めばもう仕合が始まってしまう。
円香はただ焦燥した。再び涙がこぼれそうになって、それを必死で堪えた。
「嬢さま」
相馬は振り返り、何事か言おうとしてまた口をつぐんだ。
「お願い、死なないで、相馬」
円香は何年か振りに、本心から自分の言葉を発した。それはただの、少女の様な哀願だった。
だが相馬は答えず、ただ寂しそうに、ふっと微笑んだだけだった。
八幡での騒ぎを聞き付けてか、夕暮れ時にも関わらず芦花道場のまわりには数人の野次馬がたっていた。彼等は口々に何事か雑談に興じていたが、遠くより侍の一群がやってくると慌てて視線を合わさぬようにしながら道をあけた。
浦上正景、清景。そしてその背後には十数名の弟子達が続いている。
提灯持ちの十朗が道場の前に立ち止まり、一群は陣を組むように立ち並んだ。
「手筈通りに。道場には決して何人も立ち入れさせるな」
清景は数人の門下にそう命じると、正景と二人の弟子を連れ立って芦花道場の門をくぐり、敷地に足を踏み入れた。
しかしその道場の中は、今だ不自然なほどに静まり返っている。
「たのもう!」
正景が声をかけ、引き戸を開ける。
そこには既に仕合の用意が整えられていた。
両脇には残った芦花の門下生十人程が刀を腰に差して控えている。正面には相馬が瞑座し、その後ろには当主、円香の姿がある。
「……よくぞおいでなさいました」
円香は深々と頭を下げ、正景達を迎える。言葉とは裏腹に、口調は冷厳だった。
「丁重なるお出迎え、まことに重畳」
正景は視線を外さぬままに頭を下げて答え、かしこまって口上を述べる。
「しかしながらこの度のはかりごと、我が流派の誇りにかけて見過ごすわけにはいかぬ。剣をとりて正邪を問う所存であるが、如何に」
「その言質、誠に不本意ながら」
円香は静かに受けた。
「仇敵に二度剣をとられて背を向けるほど、我ら耄碌しておりませぬ」
円香の言葉に、相馬はゆっくりと両眼を開いてすっくと立ち上がった。
兄と弟子をその場において、正景が一歩、二歩と道場の中央へ歩み寄っていく。
対峙する二人の圧力に、静まり返った道場内には切り裂くような緊張が満ちた。
二人は互いに視線をそらさず、頭だけを下げて礼を交わす。
「いよいよだな、吃り。円香に別れは告げたのか」
正景は小さい声で挑発したが、相馬はそれを無視した。いや、そんな侮蔑の言葉さえも、相馬には聞こえていない様に見えた。
片足を一歩下げると正景は先に抜刀し、手首を絞るように正眼に構える。
”墨流”
その刀は、この日の為に正景が用意させた一点物だった。通常の刀より刃身の反りが少なく細身で、正景が得意手とする突き技に対して特化した形状をしている。
「勝負はどちらかが動けなくなるまでとする、よいな!」
「承知」
受けて相馬も片足を引き、ゆらりと刀を抜く。刀身の長さは三尺余、わずかに正景のものより長い。相馬は右の側頭部にその剣を高く、突き上げて構えた。
「示現流か」
蜻蛉の構え。その独特の構えを一目見て、清景は誰にでもなくぼそりと呟いた。
一の太刀を疑わず、二の太刀は負け。刀は敵をやぶるものにして、自己の防具に非ず。
そう謳われた薩摩の門外不出、示現流の剣には防ぎ太刀がない。立木にむかい、蜻蛉の構えから左右の打ち込みを朝に三千、夕に八千という苦行により鍛えぬかれた一の太刀。相馬はその初太刀に全てを込めて、一歩間合いを詰めた。
対して、正景は正眼からの迎え突きを狙う。
単純に、正眼から相手の喉までの距離は、上段に構えた剣が弧を描いてくる距離よりも短い。剣のおこりさえ押さえ迎撃の突き技を繰り出せば、必ず先に己の剣が先に届く。
しかし対峙して双方不動のまま数十秒、正景は相馬にその道理が通じぬ事を徐々に感じつつあった。
相馬は既に命を捨てていた。
その眼に迷いはない。ただ少しでも深く、太刀を打ち込む。それのみ。相討ちさえもよしとするその覚悟は、たとえ喉を突かれてもなお渾身の振りを止めなずに相手を絶命せしめるものであった。
相馬はただ深く呼吸してその時を待っている。
その呼吸の異様な静けさが、正景の心を揺さぶり、掻き乱した。
足先も凍れる寒さのなか、正景の額を汗がつ、と流れた。動揺が刀に伝わり、正景の剣先が、少し、ほんの少し揺れた。
今!
機を見て、相馬が激しく踏み込む。
「ちぃええええ!」
長く尾をひく掛け声とともに、相馬は渾身の力をこめてその剣を右から振り下ろした。
正景の反射が遅れた。前に出れず、正景は咄嗟に後方へ飛びのく。
その逃げ遅れた剣を、相馬の撃が襲った。正景の刀は真二つに断たれ、折れた剣先が道場の端まで吹き飛んだ。
それは恐るべき剛の剣だった。あと半歩踏み込んでいたら、おそらく正景の両手首は断たれていただろう。断ち割られ、飛ばされた刃がえぐっていったのか、正景の右頬は裂け、おびただしく出血している。半分の寸となった刀を眼にして、正景の背筋をぞくりと何かが這った。
「おのれ……」
汗が頬を伝い、首に落ちるのを妙に冷たく感じる。それは久しく感じた事のない恐怖だった。正景は唸り、怒り、背筋にとりついたそれを消し去ろうと喘いだ。
相馬は再び刀を蜻蛉に立てる。その構えには寸分の油断も慢心も感じられない。
正景は折れた刀を構えたまま後ずさる。相馬はその分だけの間合いをじりじりと詰める。
均衡は崩れていた。
居並んだ芦花の門下達からおお、と感嘆の声が小さく上がる。
「兄者、刀を!」
徐々に背後に道場の羽目板が迫り、堪らずに正景は叫んだ。
しかし、清景は動かない。
相馬が一歩、さらに踏み込む。
「兄者!」
もう一度、呼ぶ。
「死ねぬか、正景」
清景は眼を細め、冷たく答えた。
「まだ未熟よ」
ごく自然に、流れるように清景は刀を抜いた。柄を逆手にもち、刃を自分の足下へ向けながら。
そのまま一歩、二歩。清景はそのままの姿勢でゆっくりと正景の左手より近付いていく。
予想外の事に、道場がざわめいた。
「そして、貴様もな」
どちらから動いたか、それはほぼ同時であったように見えた。
だが満場のものが声をあげた時にはそれは既に終わった後だった。
相馬の剣が袈裟にくる。清景も小手を返して上段より打かかる。相打ちの形で、清景の剣は相馬の剣を鎬ぎ落とした。相馬はすかさず上段に構えを直そうと振りかぶる、それを逃さず打ち下ろした清景の剣が、左小手を捕らえた。
一刀流極意、切り落とし。
相馬の左手の指が何本か吹き飛び、手首より鮮血がしぶいていた。
相馬の刀がその左手から落ちかかる、そこに清景はさらなる斬撃を加える。
「せいい!」
その刃は相馬の脇の下から鎖骨にまで抜け、一瞬遅れて血が爆ぜた。
「!」
円香は声ならぬ悲鳴をあげた。
もし万が一、対等の立会いであれば相馬の剣が遅れをとることはなかったであろう。しかし相馬は、自分から先に仕合の相手ではない清景に斬りかかる事を躊躇した。刀を正景に渡すのか、自らが卑怯承知で斬りかかって来るのか、その動向に気をとられ、結果振り下ろした一の太刀には雑念が混じった。
清景は先程の相打ちの攻防で己の右手甲が斬られているのを見て、蛇のようにその傷口を舐めあげる。
うすれゆく意識のなか、相馬はなおも右片手で宙に舞う剣を捉え、握り直し、高く掲げた。
……死ねぬ!このままでは!
全身の隅々、残った力の全てを片手にこめて相馬は再び一の太刀を正景に振り下ろす。
しかし、その時はもう既に、正景は小太刀を手に迎撃の呼吸を調えていた。
「おお!」
相馬の打ち込みを見切った迎え突きが、相馬の喉に突き刺さった。小太刀の剣先は下から突き上げるようにいくつかの筋と血管を裂き、気管にまで達した。
喉を裂かれたまま喀血し、相馬の視界は無念に赤く染まっていく。
「おのれ、浦上!」
座して事を見守っていた芦花の門下生が、一斉に立ち上がって抜刀した。
騒乱の只中、円香は蒼白な顔で相馬に駆け寄り、その身体を抱き寄せた。
まだ息がある。しかし気管から漏れる空気と血液が徐々にその命を奪っていくのがわかる。それは父、義心のいまわの際と全く同じ光景だった。腕の中で逝った父、その血の温かさ思い出して円香は、ああ、と絶望の吐息を漏らした。
「ははは!抜いたな、間抜けども」
殺気を剥き出した芦花の門下を前に、清景は弟子の一人に手で指図を送った。応じて弟子が鋭く小笛を吹く。それを合図に道場の玄関からは次々と浦上の弟子達がなだれ込んできた。
その数、二十余。ゆうに芦花の倍以上の人数だった。
「浦上、生きて返さぬ!」
一瞬、芦花の者はその数に怯んだが、一人の若者が咆哮をあげて正景に斬りかかり、乱戦が始まった。
元同門の剣が数十年を経て斬りあう、凄惨な光景だった。
者共の剣力に差は無く見えたが、次第に統率を欠き数に劣る芦花の劣勢は明らかになった。清景は弟子に逐一、受け攻めの指示を出し、さらに自らも三人の手首を刎ねてそのうちの一人を袈裟に斬って絶命させた。正景は最初に斬りかかってきた若者の剣を奪い、脇腹を抜き胴で裂いた。若者ははみ出る臓腑を押さえながら、呪詛の言葉を吐いて死んだ。
息も絶え絶えに道場に横たわるもの、無くした手首を押さえて呻くもの、道場の床は血に染まり、呪いと嗚咽が満ちた。そのほとんどは芦花門下のものであった。
「もはやこの命、いらぬ」
胴を斬られ息絶えた若者を看取った一人が、正景を憎悪の瞳で睨みつけて立ち上がり、剣を正眼に構えた。
「鎮めなさい!」
突然、円香が声をあげた。
道場がしん、と静まり返る。
「我らが剣をおさめる道は只一つ!」
「我らと参り、自害せよ、芦花円香」
浦上兄弟が声を重ねた。
それがまるで決められていた事のように、円香はゆっくりと相馬の血濡れた首筋から手を離し、立ち上がった。
「な、なりません、円香様!」
剣を構えた男があわてて円花を制する。
「良いのです」
その時、円香の声は自分でも驚くほど静かに、落ち着いていた。
「弟子の不始末は私の責任。その代わり、息のあるものは見逃して頂けますか」
「……よかろう」
「円花様!」
息のある数人の弟子達は慌ててふためき、口々に叫んだ。
「なりません!」
「もはや我らここで果てるが所存、そのような真似、お止めください!」
しかし円香は彼らに首をふり、脇の男へ命じた。
「加藤、皆で怪我人の手当てを……相馬を看てやってください」
そう言って円香は、意識を失って床に伏せり、細い呼吸をしている相馬を見やった。
その指が、無念に床を掻く様にぴくりと動く。
これでいい。
いや、もっと早くにこうしておくべきだったのかもしれない。
……相馬、私は先に父のところへ参ります。
討ち果てた弟子達の無惨な姿を見やり、円香は心の中で静かにそう呟いた。糸のように細い涙が一条、頬を伝って相馬の手に落ちた。
∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽ ∽
五夜を過ぎてなお、浦上道場は酒宴の只なかにあった。男達は道場の板間に二列に向いあって並んで座り、その前には料理をのせた盆と酒がぐちゃぐちゃに入り乱れて置かれている。
「十朗、わずらわしい。樽ごとだ、樽ごと持て!」
上機嫌で正景は命じた。十朗は炊事場から片手だけで酒のつがれた家樽を抱えて、難儀そうによたよた歩いてくる。他にも道場の若い者はにしんや鯖、たこ足などの料理をおのおの道場に運んで肴としている。
血を見た後の酒は、その興奮をさらに煽った。太鼓持ちを真似て、ほっかむりをして艶話しを演じる者もいる。老婆に扮して処女を失った時の様子を語り、七十七の老婆が「錐で突かれたようだった」と言い、八十八も老婆が「傷口に塩をすりこまれたようだ」と続く。最後に九十九の老婆が「そんな昔のことは忘れた」と語るくだりで、正景と弟子達は遊治郎の群れのようにばか笑いした。
杯がいくつも宙を舞って、床に転がる。その傍らでは、着物をはだけた男がその刀傷を仲間に見せて、先程の斬り合いのなかでいかに自分が巧く立ち回ったかを聞かせていた。
「清景様、お見事でした」
そんな中押し黙っていた清景に、弟子の一人が顔を赤くして酒をつぎにくる。
「何を」
「示現流の一の太刀、ああも見事に凌がれるとは」
「世辞は良いわ」
機嫌が良いのか悪いのか、判別しかねる笑みをうかべて清景は答えた。
「ただひとつ、まあ確かな事はな」
はい、と返事をし、弟子はかしこまった。
「敗れたものに理はないという事よ。名を残し、武勇を語るのは常に勝者。それがいかに虚飾に満ちた嘘偽りであろうともな」
語りながら清景は伊万里焼きの猪口を傾けた。いつになく饒舌だった。弟子ははあ、と返事をして再び清景の空いた猪口に酒を注ぐ。清景は再び満足そうにそれに口をつけた。
「おい」
騒ぎが一段落したところで、正景は席に戻って酔った顔で弟子の一人をこっそりと呼び寄せていた。
「円香は、何処だ」
そう聞かれて弟子は二、三のものに様子を聞きに行かせた。
「くつわをして蔵に寝かせてあるそうです」
聞かれたものが戻って来てそう告げると、正景は頷き、犬を追い払うように弟子に手を振った。
「中座するぞ。兄者に伝えておいてくれ」
含むような目つきをして、言い残すと正景は席をたって道場を出て行った。弟子達は察したように正景の背中を見送り、こそこそと仲間内で耳打ちをしてまた下卑た笑い声をあげた。
「…さて、あとは外道とやらよ」
対面にそんな様子を見ながら、清景は独り言のように喋りはじめた。
「この騒ぎを知ってどう出るか」
「と、申されますと」
驚いた様子で弟子は聞いた。
「清景様は芦花道場の者の誰かが、外道とかという奴であるとは思っておらなかったのですか」
「さあ、どうだろうな。相馬、あの凡百どもの中では、確かに腕はたった。我らに浅からぬ恨みもあろう」
そう答えて、清景は手の甲の傷を見やった。
「何にせよ、しばらくは我ら徒党を組んでおることだな。数があれば外道も、芦花の残党も、おいそれと手はだせまい」
清景は満座を見回した。
江角一刀流の本道場門弟には幕府の諸役人や旗本の子息までがいる。対して浦上の道場には刃傷事に慣れたものが多く、やくざ崩れさえもいた。それだけ荒事には強みがあるが、市中の評判も芳しくない。
しかし、新蔵のような者が新しい当主では、江角も長くはあるまい。数見と松岡の道場が潰えたのも大きな痛手。いよいよの時には我らが新たに流派を立ち上げ、彼等門人らを招き入れて、ゆくゆくは指南番にでも……清景は今後を夢想して微笑した。酩酊を嫌い、常日頃酒はほどほどにしていた清景だが、それでも皮算用をする程に酔いはまわってきているようだった。やはり命をかけた斬り合いに勝利した安堵が少しはあったのかもしれない。
そんな最中、目の前の席で厠に立とうとした者が、蹴躓いたように倒れた。
何人かがその様を見てげらげらと笑った。
「おいおい、何をやっれいる」
隣席のものがその男を起こそうとして、突然、うっ、と口を押さえて痙攣し、膝をついた。
同時に末席のものが数名、激しく嘔吐をしていた。
「どうした!何事か!」
清景が声をあげると、既に道場のそこここで修羅場が始まっていた。ろれつの回らない悲鳴をあげるもの、嘔吐がとまらずのたうちまわるもの、泡をふいてはげしく痙攣しはじめるもの……
清景は慌てて自分の手のひらを広げて見た。指先がしびれ、震えている。
……まさか。
……毒か!
清景の見当通り、酒に混入されていたのは河豚の毒だった。明治に入り、テトロドキシンと名付けられたその毒は骨格筋に作用して意識低下、言語障害、呼吸困難の末生物を絶命させる。その「半数致死量(動物実験でその半数が死に至る分量)」は一ミリグラムの百分の一という猛毒である。
清景が顔をあげると、のたうつ弟子達の中に、何時の間にか下男の十朗が立っていた。
真直ぐに。
曲がったままのはずの腰を、真直ぐに伸ばし。
顔は天井を仰いでいる。包帯に顔を覆われ、その表情は見えない。
だが右手には、頑強そうな幅広の抜き身刀が握られている。そしてその柄はあたかも木剣を模したような形をしていた。
十朗はまず、目の前に倒れているうつ伏せの男の延髄へ勢い良く刀を突き刺した。それはまるで、採集した昆虫に針を刺すように淡々と。男はびくびくと二度大きく痙攣して、動かなくなった。
次には、その横で慌てて刀を抜こうと痙攣しながら悶える弟子の背中をどんと蹴倒し、鋸引く様に首の頸動脈を撫で斬った。
「おあああ!」
絶叫。
噴射された血が盆に残った肴の上に容赦なく飛び散る。
混乱が座を満たした。
もう一人、さらにまた一人。あるものは伏せたまま、あるものは必死の立ち上がりざまを斬られた。その動きは緩慢で、まるで野良仕事でもしているかのようだった。
「ひまよったか!」
ろれつの回らない声で叫んだひとりが、壁に掛けられた木剣を掴み十朗に殴りかかった。十朗は身じろぎせずに、懐から抜いた左手でその一撃を受けた。包帯にまかれた腕からは、かあん、と高い金属の音がした。
「しゃあ!」
猫が威嚇するような声をあげて、十朗は右手の剣で相手の鳩尾を貫いた。
口から吐かれた返り血がばっと、顔の布にかかる。うめきながら弟子は木剣を落とし、伸ばした手で十朗の顔にまかれた包帯を掴んだ。彼が息絶えて前のめりに倒れると、その手に握られた包帯がするすると外れていく。
現れたのは白髪の痩せた若者の顔だった。
「き、貴様!何のつもりだ!」
清景は呻いた。痺れが手足に回り、なかなか立ち上がる事ができない。そうしている間にも門下十数名は無防備な首や背中を刺され、次々に屍へと姿を変えていく。
虐殺だった。
手をかけ、技を伝え、鍛え育ててきた全てが、その成果を振るう術なく灰燼へと帰する様を清景は一方的に見せつけられていた。
俯けに呻いている最後の一人の背中を踏んで、うなじへ真直ぐ刀を突くと、十朗…外道は清景に向き直った。
「不具である身の貴様を拾い、長きにわたり使ってやった恩、忘れたおったかこの下郎!」
我が弟子達の惨状を前に、片膝を立てた清景は堪えきれずに激情のままに叫んだ。
「長き、長き嘗胆の日々でありました」
外道は慇懃無礼に言って頭を下げた。
「……はき違えるな、辣韮頭。俺はこの日、この刻の為にだけ、心腸九廻の日々を生き長らえてきたのだからな」
一言、一言を噛み締めるように外道は語った。
「覚えはないか。この顔に、この傷痕に。それともてめえらには、俺ら木っ端のごとき町人風情など、食膳の上を飛ぶ蠅のようにしか映らぬか」
外道の胸元から覗いた傷跡を見て、清景の脳裏にはある記憶が蘇っていた。
「だが、俺はてめえらを良く知っているぞ。例えば、江角一刀流の目録切り紙をうけたものが白鷺の刀を戴き、その証として、まず初めに何をするのか」
「貴様……」
呟いて清景は倒れ込むように廊下へと逃げた。しかし足が思うように出ず、もんどりうって倒れる。
その廊下の先には、手傷を負って休んでいたはずの弟子達の屍が累々と横たわっていた。清景は激しい吐き気を覚え、口を塞いで再び膝をつく。
「今年の冬で八年になるか。思川の淵、俺は浄閑寺参りの帰り道にいた」
外道はゆっくりとその後を追いながら続けた。
清景は鞘を杖代わりに再び立ち上がり、どこへともなく逃げる。
「思い出したか、この畜人鬼!浦上清景、てめえの斬ったのが俺の父!てめえの弟の斬ったのが俺の母!そして俺と、妹を斬ったのがあの江角新蔵よ!」
壁際に清景を追い詰め、外道はあらん限りの声をあげた。怒りにその双眼は吊り上り、周囲の空気までもが歪んで見えた。
「そもそもこの体、不具にしたのは誰だ。それを世話とは、はは。笑わせるな」
「……亡者め」
清景は絶え絶えの声で吐き捨て、抜刀した。そしてその切っ先を自らの腿に向け、気合と共に勢いよく突き刺した。
「ぬう……!」
腿を血流が伝う。苦悶し、しかしなおも清景は決死の形相を外道に向けた。
「ただでは……死なんぞ……暗き冥府に、再び叩き戻してくれる!」
啖呵を受けて、外道は清景を真正面より睨み返す。
清景は壁にもたれながら刀の柄を諸手で握り、正眼に構える。
外道は包帯の巻かれた義手に刀をはめるようにして握らせる。さらに手首の腹から細い鋼線を引き出すと、刀身に二重三重に巻き付ける。
その様子が清景に見えていたかどうか、外道がさらに義手の親指をあらぬ方向へ引くと、義手全体がぶうん、と低い唸り声を上げ始めた。
「十」
刀を片手で清景の眼前に突き出し、外道は数を唱えた。
「九」
清景の視界は白くかすんでいた。揺れる様に外道の剣先が映る。
外道は構えとも呼べぬ、鷹揚な様で棒立ちをしている。
「八」
数が進み、清景は焦った。
……何だ。
「七」
……何を数えている。
……あの無形の立ち様は何だ。
「六」
酒の毒が全身に回り、時と共に清景に残された命は細っていく。
外道は構えを動かさない。
「呉」
「四」
「参」
数えが進み、ほとんど無意識に清景は討って出た。剣を払い、手首を刎ね、頭蓋を割る、これが一太刀。考えずとも身体は動いた。
しかし外道の剣先を払おうと、刃と刃が触れた瞬間、清景の頭頂から肛門へと裂くような衝撃が突き抜けた。
清景は意識の線を切られて踊るように倒れた。その白目からは血がにじみ、食いしばった歯の間から泡を吹いている。
やがて外道の義手から音が止まった。清景を貫いたのは、この義手に仕込まれた蓄電器から発せられ、鋼線を伝って刀身に流れていた高電流だった。しかしその蓄電量は僅かで、作動させてからほんの十秒しか作用をしない、という代物でもあった。外道はわざわざとそれを教えるような真似をして清景を誘い、清景は焦りからまんまとその命を縮めた。
清景の身体に押された燭台が倒れ、蝋燭の炎が床にこぼれた酒の上を蛇の舌のように這いずり始めた。燃え上がる炎のなかに、白鷺の刀が柄の布地から黒煙を立てて燃え始める。
「四人」
外道は突っ伏した清景を漫然と見下ろすと、次の獲物を狩るために冷然と道場の廊下を歩み出した。
その数刻前。
正景は蔵の土塀に手をついて、長いこと激しく嘔吐を繰り返していた。飲み食いしたものをあらかた戻してしまうと、急に身体が震え、頬の傷がずきん、と痛んだ。
正景は道場の弟子の前では剛胆にふるまっていたが、その裏では相馬との立ち合いが心に大きく陰をおとしていた。
相馬の剣に恐怖した。
そのうえ兄には未熟と呼ばれ、命を救われた。屈辱、羞恥と怒りと怯えがないまぜになって正景の心をかき乱していた。雄度高く剛胆であること、それが正景の誇りだった。だがその誇りは今や地にまみれていた。
正景は今、女の身体を欲した。それは己の傍若なまでの「男」を取り戻す行為であり、この無様な身体の震えを止める方法だった。
胃を空にして大きく息を吐くと、正景は蔵の重い扉を引いて開けた。
埃っぽい、湿った空気が満ちている。蔵の中に明かりはなく、頭上の天窓から漏れるほんの少しの月明かりを頼りに正景は奥へ進む。獣のような荒い呼吸が、蔵の中に響く。
その蔵の一番奥に、円香はくつわを咬まされ、道場着の上から後ろ手に縄をかけられて横にされていた。
「気分はどうだ、芦花円香」
正景は薄闇の中にその姿を見つけ、皮肉な声をかけた。
円香は答えることもできず壁にもたれ、閉じていた眼を細く開いた。
「気丈な事、だがそれも今宵限りよ。明日の日が昇れば、貴様は我ら当主の前に引き出され、腹を割って死ぬのだ」
言いながら、正景の被虐心は自分の言葉によって更に煽られていった。円香の袂を掴んで引きずり、天窓の明かりが届く場所へその身体を放り出す。胴衣の白さが映し出されると、正景の劣情はさらにもよおされた。
投げ出された衝撃で、円香がう、と呻く。正景はその声に色香を感じ、これから犯そうとしている女の声を一言、聞きたくなってくつわを外した。
「さあ、何か言い残せ。聞いてやる」
だがその言葉を聞いて、円香はふっと笑いを浮かべた。
「何が、可笑しい」
「名も実も失い、辞(ことば)など何もありません」
冷めた口調に、ぴくりと正景のこめかみがひきつった。
「命拾いなさいましたね。これからもご兄弟仲良く、覇道をお歩み下さい」
言い終わる前に、正景の平手が円香の頬を激しく打った。乾いた音が蔵の中に残響を残す。
しかしその痛みに反して、円香の心は更に冷めていた。
……相馬は助かっただろうか。それだけが気懸かりだった。死へ、消滅への恐怖が完全に無くなったわけではないが、今この時、自らも相馬と同じ修羅の地獄にいると思うと、少しだけ気が楽になった。
「貴様!」
正景は動じぬ円香の頬を反対からもう一度打った。正景は恐怖に怯えた顔が見たかったが、円香は頑としてその歪んだ情欲を拒否した。
「負け犬が、何をほざく!貴様の態度によっては、残る芦花の者共の命も、危うきものと知れ!」
まるで自らが裁きの座にいるような尊大さで、正景は吼えた。
円香は押し黙ったまま、目を伏せる。
「まあ……良い」
正景は荒い息がやがておさまると、落ち着かせるように円香の身体を眼で追った。
「わかるぞ。貴様、未通女であろう。相馬には抱かれなかったのか」
見透かされて、羞恥と怒りで円香の顔にさっと朱がのぼった。
「芦花義心も、相馬も、俺の打突の前に散った。貴様の花も、散らせてやるわ」
その様を見て正景は下卑た満悦の笑みを顔中に浮かべて、円香の肩に手をかけた。
身を引いて抵抗する円香の胴着の襟を両手で掴み乱暴に押し広げと、さらしに巻かれた胸乳がおもてにこぼれた。円香は屈辱に顔を反らす。だが、正景はその顔を強引に自分の方へ向けさせると、舌を噛み切らせぬように口の中へ手のひらを押し入れる。円香はその指を食いちぎらんばかりに噛んだ。
「ははは、心地良いわ」
指先に血をしたたらせながらも、正景は笑った。その手を押し付けて柔らかく暖かい口腔内を犯しながら円花の身体の自由を奪い、片手はさらにその袴を脱がせにかかる。抵抗する円香の白く細い脚が序々に露になると、正景の興奮はことさらに増した。
「……!」
下袴を剥ぎ取られ、円香は両足をすり寄せた。更に正景は自らも袴をおろし、張り詰めた怒張をさらけだす。
円香はおぞましさに眼を瞑った。
獣欲の呼吸を繰り返しながら、正景は円花の両足を押し広げて割り入り、己の一物をその花弁へ沈めようと腰をすすめていく。
その瞬間。
背後に猛烈な殺気を感じて、正景は咄嗟に頭を下げた。
外道の横薙ぎに振るった一撃が、その頭上寸前を通過する。髷の毛が、何十本かぱらぱらと散った。
「ち!」
外道は激しく舌打ちした。
正景は瞬時にかがんで袴から腰のものを探り、掴むと同時、振り向きざまに刀を抜く。
咄嗟に外道は飛びのいて、仕切り直した。
「芦花の……いや、貴様、十朗か!」
外道の返り血にそまった麻の着物を眼にして、正景は叫んだ。
「何の真似だ、貴様、何の恨みがあってこの俺に剣を向ける!」
「愚鈍な奴には毒の回りも鈍いと見えるな」
毒、そういわれて正景はようやく身体の異変に気づいた。先程から恐怖のためと思っていた震えが一向に止まない。吐いて薄まったとはいえ、その毒は確実に正景の身体を犯しては、いた。
たて続けに外道は腰の竹水筒から底を外して、二本の鉄串を引き抜いた。
鉄串の先は毒に濡れてきらきらと輝いている。
外道は手を返して先端を指先に添わせ、上から直打で叩き付けるように投げ付けた。
「ぬ!」
鉄串が一直線に正景の顔面を襲う。
しかし正景は刀を翻して柄でその二本を瞬時に弾き飛ばした。鉄串は縛られ、剥かれたままの円花の脇に跳びはね、円香は顔をそむけてそれを避ける。
「血迷ったな」
睨みあい、下半身を剥きだした姿のまま正景は刀を正面に構え直し、外道との間合いを詰めた。
「よかろう、わけは知らぬが、いとまをやるわ!」
外道はじりじりと後ずさる。二度の奇襲をしくじり、その顔には初めて見せる焦燥があった。
対して正景は、襲撃者が自分の道場の下男とみて冷静さを取り戻していた。吸い物に虫が入れば、それを取り除いてまたすする。この勝負は正景にとって、その程度の軽事にしかすぎなかった。幸いにも毒の痺れはまだ、その手足の自由を奪うには至っていない。正景は大きく息を吐いた。
外道は左の義手を突き出して構え、その親指を握ろうとした。
その手と手の間を、正景の剣が針に糸を通す正確さで下から上へと走った。
義手の親指が吹き飛び、遠くに金属音をたてて落下した。
かつて数見双洋を葬った義手の仕込みは、これで使えない。
「ああ!」
動静を見守っていた円香が、反射的に悲鳴をあげた。
同時に外道の背中、右肩から斜めに裂ける様な痛みが襲った。
「!」
傷は深くはなかった。しかし骨や腱には届かなかったが、肉を確かに裂いていた。悲鳴を堪え、外道が振り払うようにして背後へ義手を振るうと、そこには清景の姿があった。
その両眼からは血を流し、膝は今にも折れそうに震えている。
「兄者!」
正景がその姿を見て悲痛な声をあげた。
「……正」
最早眼前さえまともに見えていないのか、探るような口調で清景は声をかける。
「どうした、兄者!」
「ぬかったわ、そやつが、外道よ」
絞り出すような声で清景が答える。
外道は二人に挟まれた形で、その顔を交互に見て歯軋りした。その額からにじんだ汗が頬を流れる。
「正、俺はもう、助からん。いよいよとなれば、俺もろともに貫け」
清景は最後の力を振り絞ってそう言い残すと、剣を左諸手上段から左手を胸に、右手を口元におろし、八相に構えた。
袈裟斬り一撃。清景には巧みな鎬技を振るえる余力も既にない。ただ一撃、身体に残る全てをかけて、その技を打ち込もうとしている。
「……心得た」
一拍の間をおいて、正景は静かに答えた。その声にはつい先程までには無かった、背筋を凍らせるような凄みが備わっていた。
正景は剣先を外道の喉先にむけて、更に両の手を絞り迎え突きの体勢をとる。
一歩の何十分の一、という距離を兄弟は詰めはじめる。
一秒が遅く流れる。
このままではやがて、前後同時の剣撃が襲いくる。正面の正景、背後の清景、その圧力に外道の顔が歪む。外道はゆっくりと後ずさり、木剣の柄尻にあたる部分から一本の針金を抜いて義手に剣を握らせた。
その時、道場から大きく火の手があがり、轟音が蔵の中にまで響いた。
「おお!」
機を見て正景が雄叫びをあげ、同時に清景も踏み込んだ。
外道は振り返りざま、清景の首の高さに剣を振るう。
清景の剣がその一撃を受け止める、と、その瞬間、外道の剣は蛇のようにしなって清景の刀ごと首筋に巻き付いた。
剣の中心には巻いた鋼線が走り、刀身は何分割にもされて伸びている。針金のトメを外されて外道の剣は百足の如き鞭へと姿を変えていた。
「しゃああ!」
渾身の力を込めて、外道はその剣を引き抜く。幾重にも巻かれ、突き刺さった刃が清景の頸動脈を次々に裂いた。
清景の身体は曲芸独楽のように回り、力を失って倒れていく。その虚ろな瞳が最期に映したのは、外道に猛然と追い突きを仕掛けた弟の姿だった。
突きの切先は既に外道の白い喉へ迫っていた。
仕留めた、正景がそう思った瞬間、にぶい衝撃がその剣先を飲み込んで遮った。
それは外道の右腕だった。
剣先は右腕上腕部の二本の骨、上腕骨と撓骨の間を貫通した上、外道の歯に噛まれて止まっていた。
「がああぁああああ!」
狂気の雄叫びをあげて、外道は更に深く自らの腕を刃に貫かせた。
意識を根こそぎ奪うような激痛が外道を襲い、血潮が容赦なく二人の顔に飛び散る。外道はさらに梃子のように腕をねじあげ、刀の動きを封じていく。白目を剥き、口端に泡を吹きながら外道はなおもひねる腕に力をこめる。
「き、狂人が!」
胆に押され、正景は咄嗟に剣を離して床に落ちている脇差しへ手を伸ばした。
外道はその瞬間、口を限界にまで広げて尖った歯を剥き出すと、肉食獣のように跳躍して正景の喉笛に喰らいついた。
正景の喉から、鮮血がしぶいた。
血流があふれ、鉄錆のような人血の味が口内に充満する。外道はさらなる力をこめて、喉の肉を喰い破らんと両頬に力をこめた。
「ごお……あ……あ!」
正景の口から声ならぬ悲鳴がほとばしる。
それはこの世のものとは思えぬ凄惨な光景だった。円香は血の雨を降らせながら頭上で展開する地獄絵図に眩暈を覚えた。
壁にもたれかかるように悶えながら、正景は必死に脇差を探る。
しかし外道は刀に刺し貫かれたままの右の手で、正景の股間に手を伸ばし、剥き出された正景の陰のうを渾身の力を込めて握り潰した。
苦悶に正景の眼球が裏返る。それと同時に外道の牙がその喉笛に走る動脈を食い破った。
正景は激しく血を吐き散らし、二、三度身体を痙攣させると支え手を失った浄瑠璃人形のようにその場へ崩れ落ちた。
口から血を滴らせながら、やがて外道はゆっくりと立ち上がる。その姿は円香に震えを走らせた。外道の剥かれた瞳は円香を捕らえ、円香もまた外道から眼を逸らせずにいた。
火事だ、と叫ぶ何人もの声が屋敷の外から聞こえてくる。火の手はどうやら木造の道場全てに回ったらしく、蔵のなかにまでその熱気と炎が放つ光が差し込んできていた。
円香はその明かりに外道の姿をはっきりと見た。突然に現れ、自分の仇敵を屠ったその男は腕に深手を負い、背中から血を流して荒い呼吸を繰り返している。
外道は右腕を心臓より高く掲げると、その脇の下を絞りながら義手を使って正景の刀をゆっくりと引き抜いた。途端に栓を外されたように血液が腕を伝って流れ出してくる。
あまりに痛々しい光景に、円香は眉を寄せて眼を細めた。しかし、やはりどうしても眼は逸らせなかった。
外道は義手に持ったその刀を頭上高く振り上げた。しかし躊躇した後、外道は円香の足元に刀を投げ捨て、正景の袴から腰紐を抜き取るとからくりの刀を手にして身を翻し、走り去った。
浦上兄弟の骸と血の海が広がるさなか、円香は一人残されてただ呆然としていた。火の手が遂には蔵にも回り、黒煙もうもうとがたち始めている。それでも暫くの間円香は動けずにいた。
円香は遠くから自分の名を呼ぶ声を聞いた気がした。
幻聴か、とも思ったが、それが白装束に身を包み鉢がねを巻いた芦花道場の門下生数名のものであると見て取れたとき、円香の意識はふ、と遠くなった。
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右腕へ血止めの袴紐をぎゅうぎゅうに巻き、外道はひたすら闇夜を駆けていた。道すがら、全身を血に塗れたその形相を見た男が、ひい、とひきつったような悲鳴をあげて尻餅をついた。
外道は逃げた。正体を隠して仮の住まいとしていた浦上道場を焼き払った今、追っ手のかかる前にどこかへひたすら隠れねばならなかった。
大川端から墨田川辺を下流へと進むと、以前の洪水で捨てられた集落がある。辿り着いた廃屋の脇にある枯れ井戸へ、外道はつるに義手をからめてとその身を躍らせた。
雨水が膝までたまった井戸底に着地すると、頭上に人一人かがんで潜るほどの横穴が開いている。外道は飛びつき、腹ばいになってその坑内へと進んだ。
だがその空間の天井は頭すれすれに低く、三畳程の広さしかない。岩肌は湿気に濡れ、百足やいもりが巣食い、不快なじっとりとした空気が澱んでいる。およそ人の住まいと呼べるような場所ではなかった。
外道は肩で息をしながら、真っ暗闇のなか手探りで浦上道場から奪って来た蝋燭を取り出し、火打ちを使って灯りをつけた。
ともし灯りに照らされ、外道は割れた鏡のなかに己の姿を見た。
腕は骨の間が裂けて惨たらしい傷口をさらしており、口から胸にかけては返り血が滴り、さらに顔色が失血のため紙のように白かった。それを目にした途端、外道の全身は激しく震え、寒気が這い回るようにして身体を巡った。
その震えは血を失った事にによるものであると同時に、極限の恐怖から開放された事による生理反応でもあった。
外道は壁にもたれかかるように座り込んで、自分を落ち着かせるように周囲を見回した。
大量の包帯、半紙、小刀、獣肉、様々な植物の葉と実、壺…… ぼんやりと映し出される坑道内には、相変わらずそんなものが所構わず散らばっている。
見慣れた光景を眼にして、心にほんの少しだけ安堵の火が灯った。
外道はやがて右腕を胡座をかいた足の上に乗せた。その患部はえぐられた木の幹のように無残に、内面の赤い肉が露出している。外道は震える義手で焼酎の入った壺を引き寄せ、犬のように口を使ってその液体を含むと、意を決して右腕の患部に噴射した。
「あぁああ!」
絶叫が狭い岩間にこだました。
痛みは頭蓋を割るように脳の中まで響き、背中の傷と共鳴を起こした。
外道は必死に痛みを堪えて同じ事を三度繰り返し、最後に傷口の上へ牡丹色の獣肉を重ねていった。その上に口を使って包帯を巻き終えると肘に巻いた止血の紐をゆるめ、背中の傷が地面に触れぬよう横向きに倒れこむ。
岩肌が冷たく身体を抱いた。再び震えがやってくる前に、外道は纏っていた麻布を引き寄せて被った。
一息おいて試しに、と右手の指を動かしてみる。激痛とともに小指と薬指、そしてかろうじて親指だけが少し動いたが、他二本はぴくりとも反応を示さない。
……問題ない。
剣だけは握れる、と頭の中で誰かが囁いた。
義手もついに壊された。もう、残された時間は少ない。
恢復しなければ。
軽く眼を瞑ると解き放たれたように意識が抜け、外道は深い澱みに落ちて行った。
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