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「十朗、もっと真ん中をお歩きなさい」
川の淵を歩いている我が子を振り返って、母親がたしなめた。
はい、と答えて十朗と呼ばれた少年は母の言葉に従う。
「兄様、また怒られてる」
手をひかれて歩いていた十朗の三つ下の妹が、父に告げ口をするように言った。
「はは、あまりそう十朗をいじめるな」
提灯を持った父にそう言われ、妹はむくれた。
十朗は今年で数えで十になる。そんな仲の良い父や母、妹を時にはうとましくも感じる、難しい年頃だった。なんとなく十朗はひとり、家族から離れて後ろを歩いていた。
この夜、家族四人は投げ込み寺として知られた浄閑寺からの帰り道にいた。父の親戚筋にあたる女が身売りされた吉原にて病に倒れ、無縁仏として寺に投げ込まれたと聞いて立ち寄ったのだが、それがどんな事を意味しているのかは十朗には良く分かりかねた。しかし何かとても、暗い思いを感じて、この帰り道の夜闇が無気味でならなかった。
やがて、うす暗い街道の先から管笠を被った男達が歩いくるのが見えた。一目でそれが腰に二本を差した者達であると分かって、父は歩を止めて道をあけた。
笠に隠され、男達の顔は計れない。しかし今の十朗、外道であればその男達の名がわかったであろう。
江角流斎、江角新蔵、門ノ倉雷膳、榊鹿之助、浦上清景、浦上正景、松岡長門、数見双洋、式巳雨月。
しかし九人の男達は道を開けた父の前を通り過ぎずに、突如としてに四人を取り囲むように立ちふさがった。
「な、なんです、一体……」
問いかけた父親を無視して、間髪入れずに清景と正景は刀を抜く。
「あなた!」
母親は悲鳴をあげて娘を背に隠し、夫の手を引こうとした。
同時に、二人の凶刃が唸った。清景の剣が父を袈裟に断ち、正景の突きが母の胸を刺し貫いていた。
一瞬の事に、十朗は何が起きたのか分からなかった。しかし眼前に倒れ、苦悶にうめく両親を見て、身体が勝手にがくがくと震え出した。
「……十朗……小夜……にげ……」
倒れた母が顔をあげて、二人の子の名を呼んだ。その背中に止めの剣が突き立てられ、さらに横では父が同様にその命を断たれる。
その返り血を浴びて、小夜が割れたような悲鳴をあげた。
「さ、小夜!」
十朗は妹の名を呼び、招くように手を差し出す。小夜は半狂乱になりながら、十朗のもとへ走ろうとしてつまずき、また悲鳴をあげながら立ち上がった。
その向こうで、正景と清景の間を割って一人の男が進み出る。
男はゆっくりと腰の得物を抜き、天高く上段に構えた。
十朗には見えた。
月明かりに照らされたその刀には、奇妙な事に鍔が無かった。
「小夜!」
もう一度、声の限りに十朗は叫んだ。
その眼の前で、走り寄ってくる小夜の身体が脳天から真っ二つに割れた。
十朗の頭のなかがで何かが弾け、視界が真っ白に染まる。
時の流れが遅くなったように、小夜の身体は左右に離れて倒れていった。若々しい身体の断面が曼陀羅のように複雑な模様をさらす。その隙間から稲妻の様に伸びた刃の先が、十朗の鳩尾へと上向きに刺さる。
更に喉の下まで上へ、上へと剣先が走った。一緒に、かざした左手の指が全て飛んだ。
少しでも痛みがあれば、これが現実であるとも思ったかもしれない。しかし生きて臓腑を切り裂かれながらもその感覚はまるで無かった。
……夢。
……夢だ。
……これは夢だ。
十朗はそう思った。日頃父や母、そして妹をうとましく感じた心が、戒めの為にこのような夢を見せているのだ。
十朗が剣圧に吹き飛ばされるように後ろへよろめき仰向けに倒れると、思川の身を斬るように冷たい水がその全身を包んだ。激しい濁流に揉まれ、流されながら十朗の意識は急激に遠のいていった。
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焼けるような喉の乾きで十朗は意識を取り戻した。
ゆっくりと 瞼を開くと辺りは暗く、牛蛙の泣く音だけが不快に響いており、その身体はうつ伏せで川辺の葦と泥のなかにあった。
手を、足を動かそうと試みるが、それらは他人の身体のように命令を聞かず全く反応を示さない。外道は身動きできぬまま呻き声をあげ、顔を半分埋めている泥水を一口すすった。揺れた前髪が眼にかかり、その色が全て抜け、真っ白になっているのが分かった。
身体が燃えるように熱い。胸と腹が万力に締め上げられたように息苦しい。左手が鋸でひかれたように寸断なく痛みを訴える。
地獄の責め苦に、再び気が遠くなっていく。十朗はむしろ、二度と目覚めぬ事望んでゆっくりと眼を閉じた。
陽は高く、烏達が死肉をあさろうと、ぎゃあぎゃあ鳴きわめきながら頭上を旋回していた。
そのなかの数羽はすでに顔の辺りを徘徊し、眼球を突かれそうになって十朗は眼を固く瞑って首を振った。烏たちは口惜しそうにばさばさと羽ばたいて飛び去った。
十朗の身体は更に川下へと押し流されたのか、今度は左を下に横を向いて倒れていた。
顔を傾けて見ると、裂かれた胸の辺りにもぞもぞと蠢くいくつもの白いものが見えた。
蛆だった。
十朗は悲鳴をあげたが、その口からは長く細い息がほとばしっただけだった。意識の糸は三度切れた。
十朗が次に意識を取り戻したのは、激しい雨の夜だった。
大粒の雨滴に打たれながら、十朗は不意に激しい飢えを覚えた。十朗は雨水を舌で受けながら、震える右手で自分の身体にわいた蛆を摘んで、口に運んだ。幸いな事にそれは何の味もしなかった。
止んだのか、と十朗が眼をあけると粗末な板葺きの屋根がそこにはあった。雨は今だその屋根を間断なく叩き、漏れた水滴が時折十朗の額に当たって弾けた。
十朗の身体の下は土間敷で、その上に粗末なござが敷かれている。そこは十畳程の、うす暗いすすけた廃屋のような所だった。
突然むせかえるような獣臭を嗅いで寝たまま周囲の様子を伺うと、胸から腹まで裂けた刀傷の上に得体の知れない獣の死肉が幾重にも重ねられて乗せられていた。輪切りにされた肉はくすんだ牡丹色をしており、その周囲には縮れた黒い毛がおぞましく生え残っている。
十朗は慌ててそれを取り払おうと腕を払い、左腕が血に染まった包帯に巻かれて肘関節の先で切断されて縮められているのを知った。
「うう……」
絶望的な呻きが自然と口から漏れた。
「左の腕は壊疽があったので、落とした」
不意に足下の方から声がした。声の主は立ち上がり、十朗にもその顔が見えた。
その老人は細面で髪が白く、長い鼻と尖った顎をしていた。眉の間には深い皺が刻まれ、その一重で細長い目が十朗を見下ろしていた。しかしその視線はぞっとする程冷たく、まるで腑分けした動物の臓物でも観察する医者のような目つきだった。
「やがて喉が乾くであろう」
言葉を失っている十朗に、構わず老人は話し掛けてきた。
「身体の血を失っているからだ。しかし水を飲めばまた血が流れる」
その口調は、まるでここに二人以外の誰かがいて、その者に症状の説明を聞かせているようだった。
不意に十朗の身体が激しい痙攣を起こした。
「やはり、破傷風か。その痙攣が、二晩続けば最早命は危うい。それでも生きていれば、水と粥をやる」
老人はそう言い残すと、十朗を一人残して家を出ていった。
十朗は再び呻いた。
夢ではなかった。
父は、母は、妹は、死んだのだ。地獄は終わっていない。それどころか、本当の地獄は今、この時より始まるのだ。
十朗は激しく嗚咽した。涙が幾筋も頬を伝った。
……なぜ俺だけ生き残った。酷い。殺せ、殺してくれ……
叫びたいが、声は出なかった。
その後、激しい全身の痙攣と高熱は二晩を過ぎても止まず、それどころか十日あまりも続いた。
老人は不意にやってきては枕元で十朗の病状を子細に記述し、三日目からは大蒜酒、大麻の実を米と混ぜた粥を十朗に飲ませた。また獣の死肉は狸肉の塩漬けしたものだと、聞いていないのに老人は教えた。やがて発作の間隔が長くなり、痙攣がおさまった頃には十朗の身体はミイラの様に痩せ細り、骨と皮の哀れな姿に変わり果てていた。次に老人は身体の傷を乱暴に麻糸で縫った。これには身体に針が通る度、毒蜂に刺されたような痛みが走ったが、十朗はもはやその感覚も鈍っているのか、術中に眠りに落ちる程の落ち着きと忍耐を見せた。
何十日、天井を眺めていただろうか。
ある日、十朗は遠くで鳴る鐘の音を聞いて目を覚ました。耳を澄ませてみると、かあかあと烏が鳴いていた。
十朗は身体を起こしてみようと試みた。両腕……左は半分程の長さしかないが……をひき、ゆっくりと首をおこす。途端に身体を裂かれるような痛みが胸から腹にかけて走った。
「う……!」
歯を食いしばってその痛みに耐え、前屈みになって上体を起こす。真直ぐに背を張ると痛みがぶり返すと分かり、十朗は背むしのような体勢のまま両膝を引き寄せた。床擦れがそこここにあり、手足を動かすと全身の関節が悲鳴をあげた。十朗は長い時間をかけて、赤子が初めてそうするようにして立ち上がった。だが、すぐに目眩が起き、足ががくんと折れて尻餅をついた。何度かこれを繰り返し、十朗は壁にもたれながら土間に裸足で立ち、その引き戸を開けた。
ほうぼうにすすきが生えた野原に、紅く萌える美しい夕焼けが十朗の視界に飛び込んできた。
ごーん、と鐘の音が再び鳴った。そこは川沿いに広大な敷地をもつ大寺の裏手だった。
橋場総泉寺、十朗は思川のそばにあるこの寺の名前を父から聞いて知っていた。
十朗は頼り無い足取りで一歩、また一歩と歩き出した。左手に墓石と卒塔婆が立ち並んでおり、十朗は誘われるようにそちらへ向かった。その先でひとつの墓に向かい、線香を供えていた老人が十朗に気付いて立ち上がった。
「無理をすれば骨が歪むぞ」
冷たい声で老人は言った。十朗は傍らにあった棒切れを拾って杖にしようと身をかがめたが、そのまま膝から崩れて倒れこんだ。老人は十朗に近付き棒切れを広いあげると、十朗がよろめきながら立ち上がるのを待ち、手渡した。
「立ち上がるのに一月半、歩くのに更に一月半。それでもその身体、元のように操れるとは限らぬ」
十朗はうながされたまま、再び暗く湿った家屋の中に臥せった。ただそれからは、横たわりながらも棒切れを右手で握り、虚空にむけて振り、突くのを日課とした。昼夜問わず、意識のあるうちはそれを繰り返した。老人は相変わらず何日かに一度だけそこに現れ、胸の縫い糸を取り替えて、持参した薬草、山菜や冷えた粥を置いて立ち去った。十朗はその時だけは棒切れをござの下に隠して老人をむかえた。一度だけ、その素振りに熱中しているところを窓の外から不意に覗かれ、咎められるかと慌てたが、老人は何も言わずにただいつもと同じ施しをして去って行った。
三月が経った。
その間老人は何も語ろうとせず、聞こうともしなかった。だがむしろ、十朗はその方が気が休まったので、自分からも何も語らず、聞かなかった。ただ一度だけ、十朗は意を決して老人に自分の名を伝え、彼の名を尋ねたが、老人は首を振って「名はもう無い」と答えただけだった。十朗は歩けるようにまで回復し、今度は立ちあがっての素振りを続けた。左手が無いので全力で斬り掛かると身体の均衡を保つのが難しかったが、何度も何度もそれを繰り返すうちに次第にそのこつを覚えていった。
さらに半年、一年と時が流れた。
相変わらず二人の間に会話らしい会話は何も無かったが、十朗は寺の本堂を覗き込んで住職の説法を聞いたり、自分の食い分をかせぐ為に野山でぜんまいやふきのとうを採ったりして自分の生活を取り戻していった。また時には地鳥や兎を狩って要領もわからずに皮を剥いで生肉を喰らい、その残りを老人に分けた。老人は大抵の場合はただその肉を受け取り、兎であれば小刀で胴体を一周させるように切れ目を入れ、毛皮を捲り、その肛門から喉元までを裂いて内臓を取り出して解体させてみせた。その鮮やかな手付きに、十朗はただただ嘆息した。
今だ雨の日や激しく身体を動かした翌日は胸の傷が激しく痛んだが、それは十朗の棒を振る手にさらなる妄執を呼び起こしていった。
どんな時にも、あの九人の侍の姿が十朗の脳裏から離れることは無かった。三日に一度は眼前で妹が斬られ二つに裂けた光景と鍔の無い剣を構えた男の姿を夢に見て、自分の叫び声で目が覚めた。
激しく冷え込んだある冬の晩、十朗が寒さに耐えかねて焚火を起こしていると、いつものようにやって来た老人は珍しく共に夕餉をとると言った。焚火の前で差し向いに座り、二人ただ無言で粥を口に運んでいると不意に老人は口を開いた。
「忘れられぬか」
十朗は箸を止めた。老人の声は、十朗の胸の内全てを見透かしているように感じられた。
十朗はただ、無言で頷いた。しばらくの沈黙の後、老人は茶腕を床に置いて背後から布につつまれた細長い物を手に取ると十朗に差し出した。
このような事は初めてだった。十朗は困惑しておずおずとそれを受け取り、足下に置いて老人の様子を伺いながら巻かれた布を解いていった。
それは幅広の頑丈そうな木剣だった。
十朗がそれを右手に取ると、ただの枇杷の木ではない、ずしり、とした重みが腕に伝わった。
「……からくり刀よ」
さして面白くも無さそうに老人は言った。更に十朗が柄の境目にある隙間に気付き、左の脇に木剣をはさんで柄を引いたり、押したりしていると不意に柄がくるりと回り、ぎらぎらと輝く刃がそこから覗いた。
「腕も要るな」
その様子を見ていた老人が、呟くようにぼそりと言った。
「あ、あの……俺……」
十朗は顔をあげて老人に声をかけた。しかし老人は十朗には目もくれず、再び食事の続きに没頭していた。
その日から老人は姿を見せなくなった。
いぶかしみながらも、十朗は日々をこれまでのように過ごした。しかし棒切れに代わって木剣を素振りに用い、夜更けには人気がないのを確認してから木の幹に刃をたててその切れ味を試した。十朗は木の幹がそげる度に、心のなかの何かが残酷に研ぎすまされていくように感じた。またある時、木剣の柄尻にある針金に気付き、試しにそれを引き抜いてみると刀身がばらけて鞭のようにその姿を変えた。
食事の簡素さゆえ痩身ではあったが、連日連夜の素振りと立木打ちは十朗の胸に、肩に、腰に、太腿に練り込まれた筋肉を与えていった。その鍛練の成果は同時に十朗はひとつの事を思い当たらせた。
あの九人の男達が、恨みでもなく物取りでもなくなぜ辻斬りに及んだか。おそらくはこうして鍛えた膂力を、技を、剣の切れをただ人を相手に確かめたかったのだ。
相手など誰でも良かった。あまりに理不尽なその論理に、十朗の心は激しく震えた。
それから十朗は包帯を顔に巻き、不具の浮浪者のような格好をして市中の剣道場へ物乞いや覗き見をしに行くのを新たな日課とした。九人の顔は闇に隠れて思い出せず、十朗はただ、鍔の無い剣を彼等の腰に探した。
一つの道場に五日ほど張り付き、次の道場へと移る。途方もない作業は全くの徒労に終わるかとも思われたが、半年程経ったある日、大川端で「江角一刀流 浦上道場」と看板の掛けられた屋敷の門前にござをひいていると、道場のなかから現れた何人かの侍の一人の腰に「それ」を見つけた。
心臓が肋骨を裏から叩いた。身体がぶるぶるとわななき、全身の血が逆流した。しかし十朗はゆっくりと立ち上がり、立ち去り際にその男の顔を瞳に焼きつけるように覗き見た。男はまだ若く、端正な顔だちをしていた。十朗のく、く、と口から勝手に笑いが漏れた。
……ああ、俺は狂人になった。
何年ぶりかの笑いが、これか。そう思った十朗の瞳に止め処も無く涙が溢れた。それでも笑いは止まらなかった。
橋場総泉寺の裏手に流れ着いて、ちょうど三年目の秋の事だった。
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その日の夕刻、遂に十朗は塒を離れる決意を固めた。
あの道場になんとしてでも入り込み、仇を討つ機会を待つ。十郎はその為にはどんな厭われ仕事もこなし、従属を装い、その機会を何年でも待つつもりでいた。
十朗の荷物は殆ど何も無かった。そのわずかな荷物さえも、ここに置いていくつもりでいた。
麻布を身体に纏って木剣をその中に隠し、住み慣れたその廃屋を眺める。ここには常に布団代わりのござと、寺の住職から貰いうけた擦り切れた書物と、木の食器程度のものしか置かれていなかった。それでもここで過ごした三年の歳月を思うと、ふつふつと寂寥が胸にわいてきた。
振り切るように首を振り、十朗は立ち上がった。
「行くのか」
背後の戸口から小さく声がかかった。声の主は一年半の間姿を見せなかったあの老人だった。
「はい」
驚きながらも答えて、十朗は老人に向かって正座をし、諸手をついた。
途端に胸が熱くなってきた。
「……御恩は、忘れません」
これから始まる修羅の日々を思ってか、ほとんど言葉を交わす事のなかった老人との不思議な共同生活を惜しんでか、十朗の声は震えていた。老人は土間に立ったままその顔をあげさせ、持参していた箱を開けて奇妙なからくりを無造作に十朗に見せた。
それは筒のような形状をした黒金の義手だった。
「冥府に落ちた者を引き上げ、再び冥府に叩き落す。この老い耄れの何と、業深き事よ」
老人は眼を細めて呟いた。
「お前は弱い。お前が生き延びる為には、人の道を外れる覚悟が要る」
老人の言葉を十朗は無言で聞いた。
「外道。己が復讐を果たすその日まで、お前は外道と名乗るが良い」
十朗は義手をしばらく食い入るように眺め、大事そうに抱え込むと立ち上がって再び深く頭を下げた。その口からは、わななくように嗚咽がもれた。老人はただ静かに戸口をあけてそんな十朗を促した。
十朗はすすきの原を駆けた。
溢れる涙を堪えて橋場総泉寺を立ち去り際、十朗はいつも老人が手を合わせていた墓に刻まれた戒名を見た。
智見霊雄
そこにはそう刻まれていた。
老人は「名はもう無い」と言った。彼はもう、死んだとされている人間だった。
老人は自分の墓に手を合わせていたのだった。不可解な刃傷沙汰を問われて捕われ、安永八年に獄中にて破傷風で死んだ、とされているその男の生前の名を知らぬものは江戸にはおそらくいまい。投獄後の彼がどのような道を歩んだか、十朗にそれを知る術は無かったが、人を遠ざけ言葉を捨てた彼の態度が、その道程がいかなるものであったかを静かに物語っていたのではなかったのか。
智見霊雄。医学、本草学、機械学、電気学に通じた不世出の天才。その生前の名を、平賀源内といった。
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