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第五章
「まったく、おっかねえ世の中だよ」
居酒屋にいた客の一人が差し向いの男にそう言って酒を注いだ。
「こころそこらでばたばた人が死にやがる。まったく、田沼恋しきってのはこの事じゃねえのか」
「おい、声がでけえよ」
酒を注がれた男はその猪口を傾け、にしんの煮付けを箸でつまんだ。
「お前見たか、あの焼跡をよ」
「ああ見た。見たよ」
「それにまた匂いがすげえんだ。三日経ってのにまだあの辺りを通ると匂いやがる。お前分かるか、あれは人の焼けた匂いだぜ」
「やめろよ、飯がまずくなら」
男はにしんを摘む手を止め、熱を帯びて話す相手に辟易したように手を振った。
だが相手はかなり泥酔している様子で聞く耳をもたなず、さらに声を大きくする。
「そうそう、そのにしんみてえな塩梅だ。黒焦げがいくつもいくつも、大八車に乗っけられて運ばれてんだ。思い出すだけで吐き気がすらあ」
「おい、こっちはそれを食ってんだぜ」
「おお、わりいわりい」
形だけ謝り、男も手をのばして魚の肉を口に運ぶ。
「それでどうなったと思う。あんだけ肩で風切ってた浦上道場の奴ら、皆殺しだってよ。皆殺し。剣の道場に火いつけるたあ、思いきった事するもんだよ。全く何処のどいつなんだろうなあ、おい」
「さあなあ」
相槌を打って、男は調子を合わせる。
「まあとっ捕まって、火あぶりになっても構わねえってんだからよ。正気の沙汰じゃねえよ。よっぽど浦上を恨んでやがったんだろうなあ」
「ああ、ちげえねえ。ちげえねえよ。それに同じ江角流の数見双洋や松岡長門の道場を襲った奴も、事によると同じ奴だったんじゃねえかって話だしな」
「そりゃ本当かよ。じゃあそいつは何か、一人で剣の道場を幾つもぶっ潰そうとしてやがんのか」
「おお、そういうこった」
「そんなら次に狙われんのは何処なんだろうなあ。確か……」
背後でがたん、と椅子を立つ音が弾む会話を割った。
立ち上がったのはその残った一つの道場主、榊鹿ノ助だった。
「……っ!!」
その腰の刀にある白鷺の紋様を見て、男達は椅子から腰を浮かせて慌てた。
「ひっ!」
「あ、す、すいやせん!……あの……」
必死に弁解をしようと男達は頭を下げる。立ったはずみで徳利が倒れて酒が机から床を濡らす。しかしその様子も眼に入らぬように榊は居酒屋の主人に金を渡すと男達を一瞥してふらふらとした足取りで店を出ていった。
その後ろ姿を見送り、男達は安堵でへなへなと崩れるように椅子に腰を落した。
店の前には落ちかけた夕陽が迫り、江戸の町並みを赤々と染め上げている。
……今、夜道を歩くわけにはいかない、陽が落ちる前に帰らねば。だが、何処に?
浦上はあれだけの取り巻きがいたにもかかわらず、死んだのだ。
ましてや自分には剣を持てぬ家族もいる。妻が、子が、そして孫達もが。
ただの剣鬼となり生死をわける勝負をするには、もはや失うものが多すぎる。年を取り過ぎた。榊は今、自分の老いと衰えを痛切に感じていた。残された少ない選択肢のうちの一つについて、榊はいよいよ真剣に考えながらとぼとぼと歩いていた。
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起き上がって声を出そうとして、それはすぐに激しい咳に変わった。咳に血が混じっているのを見て、相馬は手で口を覆った。控えていた初老の医者はそれを見て相馬の手を拭いてやり、ゆっくりと相馬の身体を横たえさせた。
「喋っては駄目」
円香は落ちた濡れ手ぬぐいを拾い上げて盥の中で絞り、再び相馬の額に当てながらたしなめた。
「もう起きないのかと思いました。あれから三晩も眠っていたのですよ」
芦花道場内の一室で相馬は布団に寝かされていた。喉と胸部そして手のひらにはきつく包帯が巻かれている。その指の何本かはやはりもう、無かった。
相馬は何事か聞きたそうな顔をして口を開け、やがて恥じ入ったように眼を伏せた。喉の傷の為か、かすれて声が出なくなっていた。
それでも円香の瞳はわずかな喜びに濡れていた。
医者がすり鉢より白い粉末を油紙に移し、それを円花に手渡した。円香は相馬の口を明けさせ、水と一緒にその粉末をゆっくり、時間を掛けて飲ませた。
やがて相馬の呼吸が落ち着いてくると、医者は立ち上がって中座を告げた。円香は深々と頭を下げて医者を見送ると、再び相馬に向き直って座った。
「私は、当主失格です」
そう言った円香の顔は三日間の看病と亡くなった弟子達の供養に心を注いでいた為か、少しやせ細って眼下にはくまができていた。
「祖父より預かった、大勢の大切な命を失ってしまいました。だけど残った弟子達、皆はまだ、この未熟な私と芦花流を見捨てないと言ってくれました」
円香はすこしだけ微笑んで、相馬の顔を見つめた。
「でも、師範が誰もいないのでは困りますね。今度は相馬も、もっと皆に指導をしてやってくださいね」
相馬が喋れないのを知ってか、反論のしようがないような口調で円香は言った。
大勢の弟子達の前で偉そうに剣を教えるなど、思いの埒外の事を聞かされて、相馬はそれを何とか断ろうと表情をしかめた。しかしそれさえも円香は見えないふりをしていた。
小さな平穏が、ここにはあった。
相馬が黙って眼を閉じ、その容態が落ち着いて一段落すると、円香は何時の間にか浦上道場の蔵で出会ったあの男の事を思い返していた。
口から血を滴らせ、冥府の底から怨念を抱いて蘇った亡者なようなあの形相。浦上正景を喰い殺したその眼には、一片の後悔も、逡巡も、愉悦さえも見えなかった。
どのような日々を生きれば、あのような眼をすることができるのだろうか。円香にその凄絶な過去を知る術は無かった。
ただ一つだけ、分かる事があった。
……あの男の恨みは、まだ晴れてはいない。恐らく、江角一刀流を根絶やしにするまでは。
遠くに芦花の弟子達が打ち合う竹刀と木剣の音が高らかに響いていた。
父の仇、浦上兄弟は死んだ。円香は相馬の頬に手をあて、いつか自分と、道場の者達の妄執が消え去る事を心より願って自らも眼を閉じた。
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何処か遠くで野良犬が一際甲高い鳴き声を上げた。
榊はその声にさえ一瞬怯えた。だが彼は大切そうに絹の布で包んだ金子が袖の下へ忍ばせてあるのを確認すると、手甲脚絆の出で立ちに蓑と笠を被り、振り分け荷物を肩に掛けて立ち上がった。
肩荷の重さが、沈んだ榊の心をさらに暗くさせる。
榊は廊下を息を殺して歩き、老妻の寝屋を過ぎて一度だけ立ち止まって首を振ると夜更けの道場屋敷をそっと抜け出した。
上空には重い雲が不吉にうごめいている。砂利を踏む音がやけに大きく響き、榊は自然と忍び足になった。門の閂へ手をかけ、止め具を外してゆっくりと横木をずらしていく。ぎ、ぎ、と閂が鳴って榊は辺りを見回した。
道場の中庭には、誰もいない。
安堵して一気に門を開けるとその屋敷の正面には一人の笠を被った男が立っていた。榊はぎょっとして、息を飲んだ。
「これはこれは」
新蔵はそれがまるで偶然でもあるかのように言って編み笠を取った。
「驚いたな。このような夜更けに、何処へ出立なさる」
「おお、し、新蔵様。丁度良い。火急の用件にて、取り急ぎそちらへ伺おうとしていたところよ」
榊は取り繕って自分も笠を外した。外の冷え込みに反して、その額を汗がにじんでいる。
「供もつけずにか。それにしてはその肩の荷は随分と大げさだな」
新蔵は口端を歪ませて笑い、腰の刀を一寸だけ抜いて、かきん、と音を断てて鞘に収めた。
「危ないぞ。浦上が斬られ、道場が焼かれてからまだ三日。ここもいつ外道に襲われるやもしれんのに。なあ」
「新蔵様……」
榊が何事か喋ろうとするのを制するように新蔵はもう一度かきん、と刀から音を立てた。
榊は眼を逸らした。
「それともまさか、江角一刀流を名乗る榊鹿之助ともあろうものが、たかが胡乱者一匹の闇討ち恐れて妻子も捨て置き遯鼠するのではあるまいな」
「いや、そのような……」
弁明しかけて次の言葉を失い、榊は俯いた。
……畜生、何故嗅ぎ付けられた。
榊は焦り、同時に自分の子と大して年が変わらぬ男にいいように小突き回されて、怒りも湧いていた。皺に囲まれた両眼が苦渋に歪んだ。
「良いぞ、逃げても」
見透かしたように新蔵は皮肉をこめて言った。
「ただし、この江角新蔵の剣を凌げれば、の話だがな」
「ご、ご冗談を」
榊は茶化そうと試みたが、新蔵の両眼は獲物に狙いをつけた肉食獣のようにただじっと榊に向けられていた。
うろたえ、榊は身構えた。
「よもや、ど、同門をその刀にかけるおつもりか」
「同門、か」
新蔵はまだ得物に手をかけてはいない。しかしその殺気は堪えきれずに徐々に身体の表へと染み出してきているようだった。
「造作もない。現に一人、私はそのような者を屠っている。剣の手ごたえに、何ら変わったところは無かったな」
「京次様」
距離を取りながら、榊は用心深く言った。
「やはり、京次様は割腹されたのでは無かったのだな」
「そうだ。奴はあれだけの醜態をさらしながら、あまつさえ切腹を拒んで逐電など企みおったのでな。私が引導を渡してやった」
新蔵の冷淡な告白は、榊の脳裏に二年前の御前試合の状景をありありと蘇らせた。
江角京次。
彼は白砂の上に刀剣を杖代わりとして立ち、脂汗の噴出した苦悶の表情でこちらを見ていた。左の腕が皮一枚でぶらさがり、その断面からとめどなく流れる血が白砂を汚している。
仕合相手は体捨流の使い手だった。
彼はすでに右手首と頭を京次に斬られ、その眼下に突っ伏して絶命している。
その際、いまわの一撃が倒れざまに京次の左腕を骨ごとを刎ねたのだ。
その場全ての者が声を発さずに京次を見ていた。その中にあって流斎と新蔵二人の顔はぞっとするほどに冷たく、その表情を盗み見た榊はたまらずに眼を逸らした。
この仕合の結果、どちらの流派にも指南の声はかからなかった。後になって人づてに、京次が自害したと聞きき、その哀れさに深く嘆息したのを榊は覚えている。
……しかし、それが。
「血を分けた手負いの兄を斬り、皆伝を得たか。まさに鬼の所業よ」
「お前ごとき臆病犬に、剣の何がわかる!」
突然声を荒げると、新蔵は榊の顔を睨みつけた。
「いかにそれが数十年前だとて、お前も一度は我が身を捨て鬼たらんとした男だろう。美しく散って見せろ」
もはや、言葉は通じぬ。
だがその眼光に気圧され、榊は当主への抜刀をなおも躊躇していた。
「どうした。決心がつかぬか……ならばこれなら、どうだ」
ばさり、と布の塊が榊の眼前に投げ出された。
見覚えがあった。
それは榊が孫娘の七つの祝いにと仕立てた、薄紅の衣だった。
その衣が鮮血に塗れているのを目にして、榊の呼吸が止まり、全身の血が逆流した。
「新蔵!おのれ……おのれ……まさか!」
「そうだ、それで良い。さあ怨め。抜け。そして死ね」
「ゆ、許せぬ!」
榊は叫び声をあげて肩の荷物をその場に投げ出し、腰を落として己の刀を抜き払って車の構え、脇構えをとった。
新蔵はそれでもまだ刀に手をかけない。
「参る!」
声と共に、榊は体重を乗せて右足を大きく踏み込んだ。
脇の下に狙いをつけ、擦り上げるように剣を叩き付ける。
新蔵は一歩足を引き、体を翻して垂直に剣を抜き、その刀を受ける。
「ぬおお!」
ひるまず、榊は己の体を浴びせるようにして突進する。
その瞬間、新蔵は後方に宙を舞いながら榊の両眼を真横に、身体を頭頂から臍下までを真直ぐに裂いた。
新蔵が着地し、その血塗られた剣先を返すと榊はただの一言も発さずにうつ伏せに倒れた。
爆ぜたように血が当たり一面に飛び散り、新蔵の白い顔にその数滴かが跳ね返って飛んだ。
新蔵の強さ、それは全てその極限まで研ぎすまされた剣の「速さ」にあった。
手の脈四回半を分と言い、その八分の一を秒と言う。さらにその一万分の一の太刀の速さ、それは俗に堅い板の上に薄紙一枚を置き、それを錐で貫く速さであるとうたわれている。それが新蔵の見えぬ太刀筋だった。
「ははは、死んだ。榊鹿之助が脇構え、何の事はあらん」
鰻のような榊の屍を見下ろしたその顔は満面の笑みを浮かべていた。新蔵は刀の血を振って払い、背後の頭上を振り返る。
「……見たか、外道」
呼びかけに応じて、土塀の上に蹲っていた黒い影が立ち上がった。麻布を取り払ったその双眼は、打ち貫くように真直ぐ新蔵を見ていた。
無言だった。
無言のまま、視線だけが闇に交差する。
「何時でも来い。解体、してやる」
新蔵は細い眼を更に細めてそう吐き捨てると、傲然と外道に背を向けて歩み去った。
全盛時に百を数えた江角一刀流の本道場にいる弟子達の数は、今や両手で足りるほどにまで落ち込んでいた。
真昼の講堂でただ一人、流斎は瞑座していた。その眼前には主を失った五本の刀が並び置かれている。加えられた浦上兄弟の”墨流”と”虎一足”はともに柄が焼け、鉄は黒く変色して無惨な姿を晒していた。
流斎は、焼け落ちて梁だけの残った浦上道場に累々と横たわる無惨な焼死体を思い返していた。それは幾十年をかけて作り上げた江角一刀流のまごうことなき凋落の証として流斎の脳裏に刻み込まれていた。
流斎はその数十年前に思いを馳せた。
柳生新陰流と並び、将軍家御流儀とされた一刀流。
しかし今、それを伝える大半の道場は、生身木剣ではなく篭手胴を身につけての竹刀稽古を主流としていた。同時に剣術それ自体も型稽古の繰り返しによる形骸化、芸道化が進み、平易であるはずの理合を難解な言葉で権威付ける風潮さえもある。
かつて流斎と芦花慈円はそういった道場の一つで小野一刀流を学び、目録を得て袂を分けた。しかし師の教えを継いで剣の意義を専ら自己の鍛練の為とした慈円とは逆に、流斎が興さんと欲したのは、ただの実践的な殺法としての剣術だった。
その為になさなければ成らないのは何か。
それは全て差し置いても「人を斬り殺す」という実践だと流斎は考えた。時ならばそれは剣人として至る当然の帰結だったかもしれない。
しかし戦乱なき世にあっても流斎はそれを断行した。乞食を、夜鷹を、あるいは町民を選ばずに斬り、目録切り紙を与えた一部の弟子達にもその辻斬りを課した。血塗られた白鷺の剣を掲げ、その強さと狂気を背後に流斎は他の剣道場を押し退け、流派をここまで育て上げてきた。
やがて多くの門人を抱え、江角一刀流は幕藩からも眼をかけられる存在にまで成長をみせた。
その矢先に。
今やその全てが砂上の城のように崩れ去ろうとしている。
背後に立つ人の気配を感じ、流斎は眼を開けた。
新蔵は一本の刀を抜き身のまま、流斎の眼前へ肩越しに放り投げてよこす。
白鷺の刀が、音を立てて転がり、その数は六本となった。
それは流斎が榊に与えた一刀”車戟”だった。その刀身には赤黒い血液が拭かれもせずにこびりついている。
「……榊を斬ったか」
新蔵の着物から立ち上る血の匂いを感じ、流斎は静かに聞いた。
「まさか、お咎めなさるのではないでしょうな」
新蔵は強い口調で答えた。
そこには明らかな強い興奮が見てとれた。
「ただ道場での役に溺れ、安穏と日々を過ごして来た者を一掃する。私は、これが江角の剣が再びその生を迎える好機と考えておりますゆえ」
新蔵は講堂の上段に歩み、その刀台に置かれている大刀を無造作に手にとった。
鞘に凡字の刻まれたその刀は恐ろしく重い。新蔵はその手ごたえを確かめながら再び流斎の周りを円を描くように歩く。
「当主としての決断であれば、それも良かろう」
背後に新蔵の声を聞きながら、流斎の眼は以前として六本の刀を見ていた。
「だが、それだけで流派は保てぬぞ」
「流派を保つ?妙な事をおっしゃいますな。一人が一流派、そもそも剣術とはそのようなものでありましょう」
新蔵は自分を縛っている何かに反発するように、語気をさらに強めて言った。
「剣の強さこそが全てと、私はあなたに教わった。教えに従い幾人もの剣人を斬り、幼子を斬り、兄さえも斬った。無駄に肥大した流派などこの際、崩し去ってやりましょう」
「……弧介となるがうぬの望みか。だが…」
一拍の間をおいて、流斎は罪人に咎を申し付けるような口調で続けた。
「……その匂い、津軽だな」
見透かされて、新蔵は息を飲んだ。
「言葉は強いが、その裏、殺してきたものの亡霊が怖いか」
流斎は挑発的な言葉を投げながらも、全くその顔を新蔵に向けようとはしなかった。
新蔵はその背中を睨みながらぶるぶると拳を震るわせた。
「阿片を吸って快楽にふければ、その怖さはまぎれるか」
「お気に召されぬのならば、流斎、この私を斬ってみろ」
流斎の言葉を遮るように新蔵は低く唸り、足音を立てて講堂を出て行った。
流斎は再び眼を閉じ、深い暗闇にその思念を投じた。
「ぬああ!」
獅子吼とともに振り下ろした一撃が受けた木剣ごと額を打ち据え、その男は昏倒するように倒れた。
「次をだせ!」
道場破りは意気揚々と胸を張る。髭面に粗末な衣服を身に纏った、いかにも粗野、頑健な男だった。
「……平松」
門ノ倉は居並ぶ数人の弟子のうち、一人を促して立たせた。
平松と呼ばれた男は、は、と返事をして頭を下げ、木剣をさげて男の前に進む。
その構えに緊張を見るや否や、「始め」の声がかかるかという寸前に男は打って出た。
強引な上段からの面打ち。平松はそれを払うように受け、間合いを明けようと足を引いた。男は逃さずその足を踏み、体を当てて平松を思い切り突き飛ばした。
「ははは!」
板の間に受身もとれず、平松は尻から倒れる。その様子を見て男は弾けたように大笑いした。 平松は怒りに顔を赤く染めて立ち上がり、再び木剣を正眼に構えるや追い突きを放った。だが男は上体を反らすように身を低くしてその突きを躱し、平松の脛に返しの剣を思いきり叩き込んだ。
「うあっ!」
激痛に思わず悲鳴を上げ、平松は剣を落として脛をかかえて転げまわった。
弟子達がその身体をおさえ受け止めると、打たれた脛は顔程の大きさまで無残に膨れあがり、切れた傷口からは白い骨が覗いて見えていた。
「どうした、これが噂に聞こえた江角一刀流か!これでは道場が焼き討ちの憂き目にあうのも詮無き事よ」
男は再び声をあげて笑った。
「さあ、当主を、江角新蔵を出せ!その化けの皮剥いでやるわ」
「言わせておけば」
から笑いに挑発されて、道場の上座に座っていた師範代のうち、一人が立ち上がろうと腰を浮かせた。
門ノ倉はそれを手で止め、鮪のように肉厚な素振り木剣を手にとってすっくと立ち上がった。
描き出されたその巨大な影が、男を包んだ。
天を突く巨躯に、道場破りは一瞬たじろいだ様子を見せる。
「印南殿と申されたな」
道場破りはおお、と答えて気圧されぬように門ノ倉を睨みつける。
「門ノ倉様!」
立ち上がろうとした師範は異を唱えたがそれを諌め、門ノ倉は男の正面に立って名乗りをあげた。
「江角一刀流、師範。この門ノ倉雷膳がお相手いたす」
道場の者共からざわめきが起こった。
門ノ倉は木剣を正眼に構え、弓を引き絞るようにゆっくりとその両腕を上げて行く。
印南という男の眼には、門ノ倉の巨躯がその上段構えでさらに巨大に見えた。
「始め!」
声がかかり、しかし印南は踏み込めずに窮した。
門ノ倉は眉一つ動かさず、じりじりと間合いを詰めてくる。
上段を許したのが印南の不覚だった。全てを跳ね返す壁が眼前に迫ってくるように感じた。
「おうりゃあ!」
印南は己に気合を入れて声をあげると、右斜めに踏み込んで門ノ倉の脛へ向けて袈裟斬りに剣を振った。
木剣はその脛を確かに捉えたが、その感触は岩を木で打ったように硬く、逆に己の手に痺れが走った。
は、と印南が顔を上げると門ノ倉の剣が既に脳天から一直線に打ち下ろされていた。
一刀流、金翅鳥王剣。
その剛撃に印南は慌てて身を引く。だが脳天の代わりに、木剣を握っていた右手の親指がその打ち下ろしの餌食となった。
親指は激痛とともに潰れた。
「……っ!」
悲鳴を堪え、印南は背を向けるように反転して逃げた。
指はその寸が半分ほどに縮まり、あらぬ方向へとへし曲がっている。それでも印南は両手で剣を再び握り、門ノ倉へ向き直る。
そこに二度目の打ち下ろしが印南の右の肩へ落ちた。
鎖骨が粉砕されて、肩が陥没した。
「がああ!」
堪らず、印南は声をあげて倒れこんだ。からん、と音をたてて木剣が床に転がる。
門ノ倉はゆっくりと印南に歩み寄り、再び天高く剣を構えた。
「ま、まいっ……」
口惜しそうに降伏の言葉を吐き、印南は倒れたまま親指の潰れた手を開いて門ノ倉に突き出した。
しかし門ノ倉は剣を下ろさず、微動だにしない。
「参った!」
印南は焦ってもう一度繰り返し、周囲を見回し、怯えた視線を門ノ倉に向けた。
……斬れ、雷膳。
門ノ倉の頭の中に流斎の声が響いた。
その状景は門ノ倉の脳裏で、十数年前のある記憶と重なって揺らいでいた。
夜深く辺りに人影はない。
門ノ倉の眼前に倒れているのは、丸めたござを小脇に抱えた、年老いた夜鷹だった。
老婦は、門ノ倉が止めの剣を高く掲げると悲鳴をあげ、拝むように命乞いを始めた。
「おたすけを、おたすけを……おたすけを!」
声は呪文のように渦を巻いて響き、門ノ倉は己の行いに恐怖と眩暈を感じて、剣先は躊躇を始めた。
「斬れ」
門ノ倉の背後から流斎の声が命じた。
その間も老婦の命乞いは切れ目無く続いている。
門ノ倉はその身体を見た。
赤い斑点が首のあたりにうかび、肌は老人のように乾いている。それは病に犯され、なおも身体をひさぐ夜鷹の姿だった。
……死ぬ事もできす、生きるも苦界。
……ならばこれは。
門ノ倉はかっと眼を見開き、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。
老婦は首元から脇の下までを一息に断たれ、命乞いは止まった。
「!」
息を飲む音が道場に大きく響いた。
印南が瞑っていた眼を開くと、門ノ倉の木剣は額寸前で止まっていた。
放心したようにへたり込む印南に一礼すると、門ノ倉は剣を収め背をむけて歩き出した。
張り詰めた空気が緩み、感嘆の声と拍手がぱらぱらと上がる。門ノ倉は上座に戻って木剣を師範の一人に手渡すと何事か指図をして道場を後にした。
簡単に殺せた。
脳天が割れ、脳漿が飛び散る。男は痙攣しながら絶命する。それは、手を伸ばせば簡単に味わうことの出来る所にあった。
そう考えると両手が震えていた。
「殺してしまえば良いものを」
門ノ倉が顔を上げると、廊下の先には新蔵が立っていた。
苦々しげに新蔵は眉をしかめた。
「それがお前の慈悲か」
「殺めるも未熟な相手と、見えました故」
両の手の怯えを瞬時に握り潰し、門ノ倉は答えた。
「やがてあの様な愚物が徒党を組み、江角の剣など恐れるにたらずと市中に流布して回る。その時、お前は如何にしてその責をとる?」
「二度は、いたしません」
重ねられた新蔵の叱責に対し、門ノ倉は頭を深々と下げて詫びた。
だが浦上道場の崩壊を期に江角一刀流に対する卑語は既に市中を飛び交っており、今更道場破りの一人を殺したとて何の変わりも無いことも事実だった。
「まあ、そのような事、最早どうでも良いのだがな」
そう言って新蔵は冷めた微笑を門ノ倉に向けた。
「雷膳、お前ら師範も含め、今日をもって本道場の者全て破門とする」
「新蔵様!それは!」
突然突きつけられた新蔵の言葉に、門ノ倉はそれ以上言葉を発することが出来なかった。
「江角一刀流は、今をもって解散する。いずれふさわしき者達を集め、私は私の流派を新たに興す」
新蔵は講堂から持ってきた大刀を門ノ倉に投げて渡した。
その大刀は、流斎が門ノ倉に与えた白鷺の一刀だった。
「雷膳。お前はどうする?腹でも斬って江角一刀流と心中するか」
「……新蔵様」
からからと笑う新蔵の声に、門ノ倉の刀を握りしめる手が激しく震え血を失って白くなっていた。
「この門ノ倉雷膳、幼少の頃より江角一刀流に仕えその剣を磨き、忠烈つかまつってきたつもりでおります。いや、某だけではない。今この道場におる者は皆、流派の窮地を救わんと集った者共ではありませぬか。それでも我ら門下は新蔵様にとって無能の邪魔者、と申されますか」
「仕えるだけならば、駄犬にもできるわ」
新蔵はその整った顔を憎悪に歪め、吐き捨てた。
「雷膳、お前は何の為に剣を振るう?誰の為に弔いの経を唱えている?」
新蔵の問いに、門ノ倉は答える事ができなかった。
……何の為に。
……江角一刀流の為に。
では役が解かれた今、自分は何の為に剣を振るえば良いのか。
考えれば考える程に、門ノ倉の思考はぐるぐると同じところを巡っていた。
「外道が来るぞ」
突然声を潜めて、新蔵は囁くように言った。
門ノ倉はその眼に計り知れぬ狂気の色を感じてたじろいだ。その表情はまるで、嵐がやってくるのを理由も良くわからずに心待ちにしている幼子のようだった。
「愉悦よ。奴の眼はそう、まるで死人のようであった。これまでに数多くの者を屠ってきたが、私も死人の肉はまだ、その味を知らぬ」
新蔵は言い残して背を向けた。
そこに、刻まれているものは何なのか。
門ノ倉は新蔵が幼い頃から何度となく試みたようにその背を凝視したが、やはりそれを計り知ることは出来なかった。
何者をも拒絶する深い闇。そこには、ただそれだけが茫漠と広がっていた。
門ノ倉はただ新蔵の背中に向けて一礼すると、道場の廊下を反対側へと歩み出していった。
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陽が暮れかかると、海の中にいるような蒼い光が墨田の川辺を染めた。
外道は周囲の様子を油断なく伺いながら、枯れ井戸のつたを伝って外に降り立った。その身を隠すように麻布を纏い、そして無手だった。
外道はしばらくの間、闇に濁った地の底を眺め、そして纏った麻布を左右に広げた。
そこには幾つもの竹筒が鈴生りに縫い付けられている。
昼夜を問わず暗く、寒く、不快に湿った井戸の底。虫や小動物の跋扈する人外の地。思えば、八年もの長き間外道に取っての安息の場所はここひとつだけだった。人の眼を離れ、毒を練り、剣を研いだ。また、泥土にまみれ死骸のように包まって眠る時だけは、復讐の妄念からも解き放たれていた。
だがもう、ここに戻る事はない。
たとえ命が長らえようとも、そしてまた死すとも。
外道は竹筒の一つを手に取り、その内側から伸びている紙縒りを小指と薬指で更によりながら、まっすぐに伸ばして井戸の縁にそっと置いた。
そして左手の義手を外気にさらす。
その義手からは全ての指が取り外されていた。かつて親指があったその場所には、かわりに垂直に曲がった鉄製の取っ手が取り付けられている。
外道は右の手の動く指でその取っ手を握り何度か回した。取っ手が回る度にかちり、かちり、と歯車の噛み合うような音が義手の内部から聞こえてくる。
準備を終えると外道は手首をそらし、そこから伸びている鋼線を慎重に竹筒の紙縒りに近付けていく。
ぱしゅっ、と花火のような音をたてて紙縒りに火が閃いた。
火花は刹那のきらめきを放ちながら、瞬く間に紙縒りを伝って竹筒に迫って行く。外道は時が至るのを待ち、その竹筒を義手で井戸の底へと押して落下させた。
裾を翻し、外道は井戸に背を向けると迫りくる夕闇の中へ歩み出す。
数秒の後、地の底でくぐもった爆音が響き、音をたてて井戸の石壁が崩れ始めた。隠れ家はゆっくりと岩壁におしつぶされ、その痕跡を全て消していく。
だが外道は振り向かず、その足を止める事もしなかった。
わずかに残った井戸の口からは、のろしのような燻った煙が細く立ち上っていた。
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